定例勉強会 青年の家 学びの館 11/27 午前10時 (31名の参加) 徳川家康伊賀越え逃走記 |
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講師 : 高尾 秀司氏 |
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家康の伊賀越えについて、堺から本国三河へどのルートを通って帰還できたかは諸説いろいろとあるが、定説はない。交野・星田の伝承では、星田妙見宮の参道の入口の北に「伝家康ひそみの藪」があり、家康が堺から逃げ帰る途次、一時この藪に潜んでいたと言い伝えられている。 今回、高尾秀司氏はこの難問に挑戦され、堺から三河までを沢山の文献とあらゆる手段を使って広域に亘り踏査され、見事そのルートを解き明かされました。 |
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中会長の挨拶 |
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当日講演会のレジュメ | ||||||||||
高尾さんのご厚意により、当日講演に使われた資料を 説明された順序に従い掲載させて頂きました |
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交野市歴史民俗資料展示室では「徳川家康と交野」と題して11月末まで特別展が開催されていました。 1615年5月5日大阪夏の陣の時、徳川家康は大坂城を攻める為、星田の平井邸に来て陣を張り、翌日大坂城ヘ攻め入り7日に城を落とし豊臣家は滅亡しました。その時の「いきさつ」を彫った石碑がこの度交野市の指定文化財になり、これを記念して特別展が開かれ、当時の色々な資料が展示されました。 |
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大坂夏の陣から184年後の寛政11年(1799年)、市橋長勝の子孫、市橋長昭は星田村を訪れ、神祖(家康)が、宿営したことの詳しい話を聞き、長勝の功績を広く世間に知らせるため、石碑を建てることを思いつきました。 このことを平井清貞の子孫、平井貞豊に命じ、建てられたのが神祖営趾之碑です。 碑には、長勝が、家康を迎え入れるために、星田村の守りを固めたことで、村が大坂方(豊臣方)の焼き討ちを免れたことや、真田幸村の軍勢に、徳川軍の多くが動揺するなか、長勝の隊は乱れずに戦ったこと、長昭が碑を作るに至った経緯などが刻まれています。 |
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実はこの「大阪夏の陣」の33年前にも家康は星田の平井邸に来ております。天正15年(1582)6月2日の本能寺の変で織田信長が明智光秀の謀反で死亡した時、徳川家康はわずかな供を連れて堺に滞在していました。身の危険を感じた家康は直ちに三河に帰ることにしました。その時かっての知り合いの星田の平井邸にやって来て、三河に帰る道案内を頼み、お陰で無事帰還したと云われております。これが有名な家康伊賀越え逃走記といわれるものです。今日はこの家康の伊賀越えについて少し詳しくふれてみたいと思います。 |
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天正10年(1582)3月、信長・家康連合軍は武田領の甲斐・信濃を攻めて武田勝頼を滅ぼす。信長は論功行賞として家康に駿河15万石を与える。これで家康は三河29万石、遠江25万5千石と合わせ70万石の大大名となる。この時信長は家康に一度安土へくるよう誘う。家康は不安を感ずるが駿河をもらった御礼に安土を訪れる。その時せっかくだから、京、堺を訪ねるよう信長に勧められて行くことにする。この時武田一族の穴山信君も同行する。 |
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徳川家康が本能寺の変に際して堺から本国三河の国へ脱出逃走は、家康の生涯における最大の危難と言われております。天正10年(1582)6月2日早暁明智光秀は本能寺に泊まっていた織田信長を攻め自刃においこみました。この時信長の長男、信忠は妙覚寺に宿泊していたが異変に気付いて二条城に移るも攻められ落城し、死亡する。 現在の位置と当時の位置関係を地図で見る。 |
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家康は安土で信長から歓待を受けた後信長の勧めもあり京見物の後、堺に滞在していました。この時突如として本能寺という大事件が起きたのである。家康は安土で光秀に警備の手薄さを見られていたので、非常に危険を感じ直ちに陸路柏原へ向かいここから船で河内湖を渡り、飯盛山の麓に上陸、数年前、石山本願寺の合戦に出陣した折休憩した住吉平田神社宮司三牧家に立ち寄る。 |
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ここで本題とは離れますが交野、枚方地方にとってこの合戦は見逃すことが出来ない事件でありますので少し触れたいと思います。それは本願寺八世蓮如上人と当地方の関係であります。枚方出口光善寺、招堤元町敬応寺、交野の善林寺そして無量光寺、善通寺の石山本願寺の合戦への参加であります。経緯について簡単に触れます。 |
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住吉平田神社では神主の三牧家から星田妙見宮神主の和久田家にここまでの道案内と紹介がなされたといわれる。家康一行は神社の近くの竹藪にひそみ、かって知り合いの村長平井氏に連絡して山城方面に出る間道に精通する農民を道案内人として依頼した。平井家では握り飯を沢山作り鶴の絵を描いた皿の盛って出し、けんしき、沙彌安を選出して田辺の飯の岡まで無事送り届けたという。 |
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神祖営趾の碑 |
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・別行動の穴山信君はこの地で殺されたという。 ・ここから地侍の小山佐太郎左衛門が草内の渡しを経て宇治田原まで送ったといわれる。 ・小山氏はこの時家康から短刀を贈られ、家宝として飯の岡の旧宅に保存されているという。 ・宇治田原の入り口の郷之口に山口城跡がある。この城は信長の命で建てたもの。当時の城主山口甚助秀康は、家康がこちらに向かっていることを知り配下を迎えに行かせた。一行はこの城で昼食をとる。 ・昼食後、馬を換えて出発し信楽街道(今の307号線の山側)の湯屋谷を抜け、奥山田の遍照寺で休憩、裏白峠を越えて信楽朝宮に入り、そこから家康一行は多羅尾氏の小川城に入り仮眠したという。(小川城主多羅尾光俊の六男が山口城主の山口秀康である) 翌日、多羅尾城を出発、伊賀、関、亀山、白子港、海路三河大浜、岡崎へと無事帰還したのである。 なおこの伊賀越えに同行した京都の政商、茶屋四郎次郎は惜しげもなく巨額の資金を使ってその危機を救った。家康の将来に自分の運命を賭けたのであった。その功により後、徳川家の御用商人として取り立てられ巨万の富を得たといわれる。 最後に、奇しくも白子地方の伊勢型紙と交野の関係が出て参ります。この問題を少し取り上げて終わりといたします。 |
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天正10年(1582)の「本能寺の変」の際、徳川家康が三河へ逃げ帰る途中、 信楽で一夜を明かしたのは、本城であったと伝えられている。 |
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近世城郭として上野城が築かれたのは、家康の伊賀越えの後、 天正13年(1585)大和郡山から移封された筒井定次による。 その後、慶長13年(1608)8月、徳川家康は信任厚い 藤堂高虎に、 伊賀の国10萬石・伊勢の内10萬石 、伊予の内2万石合わせて22萬石を与えた。 高虎が伊賀、伊勢に移封されたのは、家康の信任が厚かったのと、築城の名手でもあり、 来るべく大坂との決戦に備えたもので、筒井定次の城は、大坂城の出城として 大坂を守る形をとっていたのに対し、 高虎の城は、大坂を攻撃するための城と全 く逆の立場の城として、 慶長16年(1611)正月、 上野城を有事の根城として本丸を西に拡張、 高さ 約30メートルという高石垣をめぐらして南を大手と した。 (伊賀文化産業協会のHPを参照) |
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亀山市関町 | ||||||||||
当河上山瑞光寺中興開山豊屋永隆和尚は、 三河国宝飯郡に生ま、幼少のころ徳川家康と親交があった。 天正のころ家康上洛に際し、当時和尚を訪ね庭先の柿を 賞味したことから後世この柿を権現柿と呼ぶようになったという。 |
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白子港、海路三河大浜、岡崎へと無事帰還した | ||||||||||
昨年、交野市民から寄贈された伊勢型紙を紹介する展示会が、今年7月〜8月に交野市歴史民俗資料室で開かれ、沢山の市民の方々が見学に訪れました。伊勢型紙(いせかたがみ)とは、名前通り伊勢で作られた型紙をさします。柿渋を塗った和紙を何重にも重ねた型紙に、彫刻刀で丹念に模様が切り抜かれ、主に着物などの文様を染めるのに使用されます。 この染の技法は型染と呼ばれ、型紙は主に三重県・鈴鹿市の白子・寺家地域で盛んに生産されました。 |
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鈴鹿市伝統産業会館 |
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