平成23年度  6月定例勉強会
七夕と交野
 
  講師: 上田 修氏(交野市文化財事業団)

青年の家 学びの館 午前10時〜12時 25名の参加
 2011.6.25(土)午前10時より、梅雨の晴れ間真夏のような暑さの中、熱心な25名の方々が参加され6月定例勉強会が開催されました。

 高尾副部長の司会で始まり、平田副会長より上田修氏のプロフィールの紹介と開会の挨拶があり、交野市文化財事業団の事務局長の上田修氏からテーマ「七夕と交野」について、パワーポイントを使ってご講演を頂きました。

 今年は交野市市制40周年を記念して、8月6日・7日、天野川周辺で盛大に七夕祭りが開催されます。
 お祭りに先立ち、現在行われている七夕祭りについて、歴史的に何時頃まで遡れるのか、日頃疑問に思っていることなどを、上田さんに大変わかりやすくお話し頂いた。

 本来の七夕とは?本場中国では?歴史的にどういう経過があったのか?日本に何時頃伝わり、どのような祭りがおこなわれていたのか?宮廷では?庶民の祭りとして何時頃定着したのか?交野では、何時頃からどのような形で七夕が祭りとして行われていたのだろうか? 町おこしとしての「七夕伝説と七夕祭り」など・・・。

 町おこしとして、「七夕祭り」を実行することは大いに結構なことだけれども、七夕と交野の関係など歴史的な事実をきっちりと押さえて置くことが肝心である。後になって土台が崩れたのでは、本当の意味での「町おこし」とならないのでは、との提言が印象に残りました。
 
 講師のご厚意で当日配布されたマニュアルやパワーポイントの画像などを提供頂きましたこと、記して感謝申し上げます。
研修 風景

平田副会長の開会の挨拶

大変わかりやすくご講演頂きました、講師の上田 修氏

講演の後、6月11日の和歌山バス旅行のDVD
「稲むらの火と棚田・あらぎ島」をご覧いただきました。

1)七夕とは
元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日 (旧暦)である。中国暦において7月は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。二十四節気では立秋前後の時期に相当する。

2)織女と牽牛
@初出・・・・織女星・牽牛星は春秋戦国時代の『詩経』
織女と牽牛の伝説は『文選』の中の後漢の時代に編纂された「古詩十九首」。

A7月7日・・南北朝時代(5世紀)の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(裁縫の上達を願う儀式)と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。
 
Bお話・・・・六朝・梁代(6世紀前半)の殷芸(いんうん)が著した『小説』には、「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」とある。

3)日本への伝来
@初出・・・・日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機=オトタチバナ)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。

A宮中・・・・日本では奈良時代に節気の行事として宮中にて行われていた。また、『萬葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

 A広がり・・・宮中行事であったが、織姫が織物などの女子の手習い事等に長けていたため、江戸時代に手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。

 B日本の七夕・日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもあり、笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代(よりしろ)である。故人をお迎えするための精霊棚とその棚に安置する幡を拵える日であり、その行為を7日の夕方より勤めたために棚幡がいつしか七夕に転じたともいう。7日の夕刻から精霊棚や笹、幡などをご安置する。 なお、お盆期間中、僧侶に読経してもらい報恩することを棚経(たなぎょう)参りというが、これは精霊棚で読むお経が転じて棚経というようになった。

4)交野と七夕
 @朝廷と交野のつながり=桓武天皇と交野
桓武天皇が延暦6年(787)、樟葉に郊祀壇(コウシダン、祭祀のための土壇)を設けて父・光仁天皇(770〜81)を天神(アマツカミ)として祀った。これは中国の皇帝が、毎年の冬至に天壇を設けて天神を祀った例にならったもので、この郊祀壇が交野天神社の起源とされる。

A渚院
渚院(御殿山駅北北東)=文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう)の別荘
平安歌人・在原業平(ありわらのなりひら)が渚院の桜を見て詠んだ歌、「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」(世の中にもし桜がなかったら、春の人の心はのんびりするであろうに)は、伊勢物語や古今和歌集にも収められ、桜の花のはかなさを詠んだ名歌として親しまれてきた。

B交野が原
 禁野(枚方警察署付近)=皇室の猟場として一般の狩猟を禁じた原野。
 平安時代には皇室・貴族の狩場として禁野付近が有名となる。そこに天の川が流れていた。
 『伊勢物語』
右馬の頭(在原業平)「狩りくらし たなばたつめに 宿からむ 天の河原にわれは来にけり」
(一日狩りをして天の河の畔に来てしまった。今夜は織女の星の宮に宿を借りることにしよう)

  紀有常「ひととせに ひとたび来ます君待てば 宿かす人もあらじとぞ思ふ」
(一年に一度やって来る牽牛星を待っているのだから、他の人には宿は貸さないでしょう)
 ※『河内名所図会』に「交野原=禁野、中宮、片鉾の総名也」

5)江戸時代の七夕と交野
 @金丸又左衛門役地図(17世紀末)
  倉治に「織女」(機物神社)、星田に「牽牛」(星田神社の位置?)

 A『河内名所図会』(1801年)
  機物神祠・・・倉治村にあり。此所の生土神とす。例祭、七月七日。祭礼の時、童男壱人を選んで祭主とし、甚、汚穢不浄を禁ずる事を専要とす。
  妙見神祠・・・妙見山にあり。神体巨石三箇、鼎の如く峙ちて、丘の如し。前に石の鳥井、拝殿、玉垣、石階等あり。土人、織女石とも妙見石とも呼ぶ。

6)全国の七夕祭り
7月7日・・・平塚市(湘南ひらつか七夕まつり)
8月7日・・・湯沢市(七夕絵どうろう祭り)、仙台市(仙台たなばた)、安城市(安城七夕まつり)
       島根県雲南市(大東七夕まつり)

7)現代の七夕と交野
 @交野・・・・・機物神社、星田妙見宮、天の川七夕まつり
 A枚方・・・・・宮之阪七夕まつり

当日、上田 修史氏が講演されたパワーポイント画像を
紹介いたしますので、参考にご覧ください
七夕と交野

天の川を挟んで織女星と牽牛星



南北朝時代(5世紀)の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、
さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて
針仕事の上達を祈ったと書かれており、7月7日に行われた乞巧奠(裁縫の上達を願う儀式)と
織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。


交野と七夕
 @朝廷と交野のつながり=桓武天皇と交野
桓武天皇が延暦6年(787)、樟葉に郊祀壇(コウシダン、祭祀のための土壇)を設けて
父・光仁天皇(770〜81)を天神(アマツカミ)として祀った。

これは中国の皇帝が、毎年の冬至に天壇を設けて天神を祀った
例にならったもので、この郊祀壇が交野天神社の起源とされる。


A渚院  渚院(御殿山駅北北東)=文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう)の別荘
平安歌人・在原業平(ありわらのなりひら)が渚院の桜を見て詠んだ歌、
「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」
(世の中にもし桜がなかったら、春の人の心はのんびりするであろうに)は、
伊勢物語や古今和歌集にも収められ、桜の花のはかなさを詠んだ名歌として親しまれてきた。

『河内名所図会』(1801年)
  機物神祠・・・倉治村にあり。此所の生土神とす。例祭、七月七日。
祭礼の時、童男壱人を選んで祭主とし、甚、汚穢不浄を禁ずる事を専要とす。

  
妙見神祠・・・妙見山にあり。神体巨石三箇、鼎の如く峙ちて、丘の如し。
前に石の鳥井、拝殿、玉垣、石階等あり。土人、織女石とも妙見石とも呼ぶ。




金丸又左衛門役地図(17世紀末)
  倉治に「織女」(機物神社)、星田に「牽牛」(星田神社の位置?)

これが文献として確認できる一番古いものである



最後までご覧頂き有難うございます!


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