平成24年  10月定例勉強会

私部城跡の歴史と現状について

  講師: 吉田 知史氏 (交野市教育委員会)

青年の家 201号 午前10時〜12時
 42名の参加
 2012.10.27(土)午前10時、10月定例勉強会に42名の方々が参加されました。
参加された方の内訳は会員28名に加えて、「広報かたの」催しページなどを見られて参加された方が14名であった。

 高尾副部長の司会で始まり、平田副会長の挨拶の後、講師の吉田知史氏から私部城跡の歴史と現状について」文献等の調査研究から読み取れる私部城のこと、また最近の発掘調査より分かって来たことなどを2時間にわたり、たっぷりとお話し頂きました。

 まず冒頭、「私部城跡の概要と私部城をとりまく時代背景と主な出来事」について説明されたあと、調査研究史と発掘調査からみた私部城を詳細にわたり分かりやすく解説頂いた。
 T、調査研究史からみた私部城について
   @郷土史家の研究から城郭研究へ
   A安見氏研究から明らかにされた織田配下の城としての重要性
 U、発掘調査成果からみた私部城について
   @安見右近・新七郎段階の私部城
   A安見右近以前の私部城の謎

 最後に次のようにまとめられた。
   @織田配下の安見右近・新七郎の城郭として重要
     「信長により北河内へ打ち込まれたクサビ」
   A発掘調査成果からは織田配下の安見氏の城郭として完成される過程が
     明らかになりつつある。

  <私部城の見どころとして>
   @大坂城などの近世城郭へと発展していく過程にある平城 
   Aそれを間近でみれるのは、大阪では私部だけ、
    本郭、二郭、本丸池、郵便局付近の土塁、
    光通寺付近の複雑な通路などにも城の名残 
   B戦国期の河内で活躍した安見氏の城、織田信長、松永久秀といった
    名だたる武将とも関わりが深い。

 現在、国史跡に向けて、交野市教育委員会を中心に精力的に発掘調査が続けられており、今後この貴重な歴史遺産をどのように保護・活用して行くことが出来るかが問われている。

 HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメなどを提供頂きましたこと、記して感謝申し上げます。
勉強会 風景


吉田 知史氏 (交野市教育委員会)

当日配布されたレジメ
クリック →  私部城(交野城)のレジメ (PDF)
私部城(交野城)

                        交野市教育委員会  吉田知史
 はじめに

 私部城(交野城)は、大阪府の北東部、交野市の私部に位置する平城である。私部城という呼称は、江戸時代の河内名所図会に記されており、現在も地元で定着し、市の遺跡名になっている。戦国期の史料では、「交野城」として記されており、文献史研究や城郭研究においてはこの呼称の方が一般的になっている。現在も私部には、本郭をはじめとして戦国期の「土の城」の姿が断片的ながらも維持されている。平城の多くがその姿を消した大阪府内で、現在も戦国期の平城跡を地上で確認できるのは、私部城以外では本丸が陵墓とされたことにより維持されている高屋城のみであり、この遺存状況は奇跡的とも評価されている。
 また、単に残りが良いだけではなく、大阪府内の戦国期を考える上でも重要な城郭である。北河内は三好氏の強い影響下にあり、山城が割拠した地域である。それに対して私部城は、河内国守護であった畠山氏配下の安見氏によって築かれた反三好の平城として評価されてきた(中井1982ほか)。府内でめずらしい複数の郭を並列させる連郭式(群郭・列郭)の構造をとることから、異色の中世城郭とされる。近年も進展しつつある調査研究史の整理と、発掘成果をふまえて、私部城の歴史を追ってみよう。

 

T 調査研究史

(1)郷土史家の研究から城郭研究へ

 北河内の郷土史家の研究によるところが大きい。平尾兵吾氏は、『北河内史蹟史話』で畠山氏配下の安見氏が築いた城とし、『信長公記』にもとづき、高屋城・若江城に次いで、織田配下の反三好の城として記されていることを紹介している。片山長三氏は『交野町史』において、『安見家系譜』などの地域に残る文書をもとに、南北朝期に安見氏が私部城を築き、畠山氏配下として活躍したとしている。また、私部城築城以前の居館の可能性がある場として、私部の南部に位置するでがしろ遺跡をあげている(片山1981)。
 日本城郭体系では中井氏作成の縄張り図が掲載され、本郭から三郭を取り囲む土塁や堀の跡など、これまで知られていなかった城の構造が明らかにされた(田代ほか編1981)。また中井均氏は大坂・京都・奈良を結ぶ街道の近隣に位置する戦国期の要衝に位置することを指摘している(中井1982)。中西裕樹氏は、安見宗房段階の城として公的性格を備えていた可能性を指摘した(中西2004)。こうした研究において、私部城は、畠山氏配下の安見氏の城郭として注目されてきた。

(2)安見氏研究から明らかにされた織田配下の城としての重要性

 小谷利明氏や弓倉弘年氏らにより、戦国期畿内の守護の研究が進められる中で、安見氏の実態も明らかにされた(小谷2003、弓倉2006)。私部城を考える上で重要だったのは、軍記にあらわれる「安見直政」の記述から混同されることの多かった河内国上郡代「安見宗房」と、文献で確認できる最初の交野城主「安見右近」が別人物であることが判明したことだった。

  

 馬部氏は、この成果に加えて戦国期前後の私部の様相を整理したうえで、私部城が織田配下となった安見右近により築かれたものであり、それ以前の安見氏が私部に居城を構えていた可能性が低いとしている。その根拠として、@戦国期以前の私部城築城の根拠であった『安見家系譜』が偽文書であること、A安見右近の交野城が確認される以前の私部では有力な禅宗寺院であった光通寺が全盛期にあることが知られる一方で、安見氏の居城に関する記録が確認できないこと、B織田配下となる以前の安見右近がむしろ交野の星田に拠点を置いているとみられること、C昭和29年の航空写真から私部城の形態に織豊系城郭からの影響がうかがえることなどをあげている(馬部2009)。
 また、馬部氏は、天正9年の信長の馬揃において、安見右近死後の交野城主である安見新七郎が、「取次者」として召集されたことを明らかにしている。安見氏が織田政権の末期まで、北河内の領主層を束ねる要職にあったとみられることから、織田配下の城郭としての私部城の重要性が明瞭にされた。
 以上のように、安見右近以前の城の実態について再検討の必要が生じる一方で、織田配下の安見右近と新七郎の城としての重要性が明らかにされつつある。なお、ここで十分に述べることのできなかった私部城の調査研究史と課題については、別稿で整理しているのでご参照いただければ幸いである(吉田2012)。

 

 

2 発掘調査成果からみた私部城

(1)安見右近・新七郎段階の私部城

 先にみた調査研究史をふまえ、私部城の範囲については平成24年度・25年度に発掘調査を実施し、詳細を明らかにする予定である。ここでは、これまでの発掘調査成果からみた私部城の姿を示しておきたい。
 米軍撮影の昭和23年航空写真を下敷きにして、これまでの発掘調査と現地踏査の成果をふまえて推定した城の姿を図4に示した。ここで確認される城の痕跡は、廃城時に改変を受けている可能性はあるものの、基本的には、安見右近から安見新七郎の段階の姿を示すものとみられる。馬部氏はこの段階の私部城の構造の中で、本郭東にみられる外枡形虎口状の張り出しなどに織豊系城郭からの影響がうかがえることを指摘し、現在の光通寺付近にみられる道の屈折に計画的なプランを読み取った。ただ、本郭東の外枡形虎口状の張り出しは認められず、四郭東の虎口とされた部分は、現地踏査もふまえると、四郭には付属せずむしろ独立した郭の可能性が考えられる。千田嘉博氏による虎口形態からみた織豊系城郭の編年によれば、馬部氏が想定したような外枡形虎口が発達するのは、1576年から1581年のこととされる(千田2000)。これは織田信長による大坂平定が達成され、私部城の重要性も低下したとみられる1575年よりも後のことである。発展過程の織豊系城郭の影響下にあるとみる場合、私部城に外枡形虎口が認められないことは妥当であろう。
 また、私部城の形成過程を考える上で重要なこととして、織田配下の安見右近により光通寺が破壊されたと記した寛文4年(1664年)の光通寺棟札に関連する成果が本郭の発掘調査によって得られている(交野市教委1995)。ここでは、被熱した石造物のほか多量の石、中世瓦などが集積された土坑が検出されている。これは本郭付近に寺院が存在したことと、私部城の本郭構築時にその寺院が破壊されたことを示すものと評価できる。また、三郭や、現在の光通寺境内の調査などでも中世寺院の存在を示す資料が得られている。この成果からは、光通寺棟札の記載が裏付けられるのみでなく、私部城域の完成時に、同地域で隆盛していた光通寺の範囲が取り込まれたこともわかる。織田政権下の大坂では、平野部を中心として既存の寺内町や地域の拠点的城館を利用して配下の城郭が置かれていったことが中西裕樹氏によって明らかにされており(中西2008)、その分類の中では私部城は寺内一体型に位置づけられる。
 こうした調査成果からは、中世の私部を象徴する寺院である光通寺をとりこみながら、馬部氏も指摘するように、織豊系城郭からの影響を限定的に受けつつ私部城が築かれたことがうかがえる。馬部氏はここに安見氏の限界をみてとるが、発展段階の織豊系城郭の影響を受けたためともみられる。織田配下の安見右近・新七郎段階の私部城の構造について不明な点も多いものの、近世城郭へと発展していく過程にある織豊系城郭の影響が、大坂の城郭へどのように及んだのかという点を考える上で、私部城は重要な事例といえるだろう。

 

 

(2)安見右近以前の私部城の謎

 織田配下となった安見右近以前の私部城の存在に対して、馬部氏による文献史研究によって否定的な見解が示されたのは先に述べたとおりである。現状の発掘調査成果から、馬部氏の見解に対する答えを用意することはできないが、考証するための材料は得られつつある。
 注目しておきたいのは、先にみた私部城以前の光通寺の存在を示すとみられる中世瓦や、石造物の分布状況である(図4)。これをみると、光通寺域の破壊と取り込みを示す寺院関連遺物が私部城域の東半に集中するのに対して、西半には二郭の盛土中の瓦片と街道沿いの石造物のみと、きわめて希薄であることがわかる。その一方で、二郭周辺などの私部城域西半では寺院関連遺物は認められないものの、中世前後の遺物は一定数確認されており、この周辺の高台が、安見右近による私部城構築以前から利用されていたことはうかがえる。今後の調査研究の進展によっては、この私部城の西半域に私部城の前身となる城館が確認される可能性は残されている。また、片山長三氏が私部城以前の安見氏の拠点の候補としたでがしろ遺跡などのように、私部城域の周辺に居館が存在した可能性は否定できない。
 ただし、仮に私部城以前の城館の存在を確認できたとしても、これが安見氏のものであったか否かという点については、さらなる検証が必要となる。現状では、織田配下の安見氏が築城あるいは改修する以前の私部城の姿についてはあまりにも不明な点が多い。

まとめ

 従来、私部城は畠山氏配下の安見氏の居城とみられていたが、近年の安見氏研究の成果はそのイメージを大きく変えつつある。織田信長によって北河内に打ち込まれたクサビとして馬部氏が評価するように、織田配下の安見右近と新七郎の城としての意義が明らかにされつつあることを調査研究史の整理から示した。次に、発掘調査成果をふまえて、中世私部の象徴であった光通寺域を取り込むと同時に、発展過程にあった織豊系城郭の影響を受けながら私部城が築かれた可能性を示した。
 北河内地域は、三好氏配下の山城が多く立地する地域として知られてきた。織田信長は大坂進出にあたって、山地部の城郭を中心とした三好三人衆などの勢力に対して、平野部の寺内や拠点的城郭をその配下におき、大坂の掌握を実現していった過程が明らかにされている(中西2008)。私部城は、この織田信長の大坂進出の実態を示す可能性がある城郭として、極めて良好な遺存状況を維持しているという点で重要である。また、織田配下の安見右近以前の城の実態など、不明な点も多い。今後の調査によってその意義を明らかにしていくとともに普及と活用につとめることとしたい。

  

当日の講演会会場で、パワーポイントを映しながら説明を受けました資料の一部を紹介します。講師の吉田さんのご厚意で掲載を許可いただきました。
私部城跡の発掘現場及び関連写真

高尾秀司氏より提供頂きました

平成23年の発掘調査により弥生時代の竪穴住居跡が見つかる

発掘風景
私部城跡の遺物
最後までご覧頂き有難うございました!


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