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平成25年5月定例勉強会

継体大王と樟葉宮

  講師:三宅 俊隆 (枚方歴史を楽しむ会代表)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 37名の参加
 2013.5.25(土)午前10時、5月定例勉強会に37名(会員34名)の方々が参加されました。

 高尾副部長の司会で始まり、中会長の挨拶の後、講師の三宅俊隆氏から「継体大王と樟葉宮」をテーマで、日本書紀の記述と詳細な関係地図などを使いながら継体大王の皇位継承と樟葉宮について、詳しくお話しいただきました。

 ※今回の勉強会の報告に当たって、
 中光司会長と高尾秀司様に講演内容を纏めていただきました。 記して感謝申し上げます。
 三宅 俊隆氏 略歴
 元財団法人枚方市文化財研究調査会勤務、枚方市の埋蔵文化財の発掘調査、研究をされてまいりました。
在職中万年寺山古墳,禁野車塚古墳,九頭廃寺、百済寺跡の調査などで多くの貢献をされました。退職後は枚方歴史を楽しむ会の代表として活躍されております。

司会 高尾秀司さん

 高尾さんと中光司会長の挨拶
 
講師 三宅俊隆氏
 
 
 勉強会のレジメ集
 
 
 
 
 
大和の豪族分布図・・大伴氏、物部氏の本貫地である奈良盆地東部と巨勢氏、
葛城氏の西・南の勢力地と天皇陵との関係をみる。飛鳥地方の蘇我氏が台頭する前の勢力地図である。

 
・継体関係要図・・継体天皇を支持する地方の豪族たち。
それを示す古墳群、越前の六呂瀬山古墳・尾張の断夫山古墳・味美二子山古墳、
東近江の息長氏と山津照神社、高島の鴨稲荷山古墳、宇治二子塚など。
そして継体陵とされる茨木の太田茶臼山古墳と高槻の今城塚古墳等を示す。

 
継体天皇関係図・・越前三国湊と坂井・丸岡の母親振姫の里。
角賀(敦賀)・気比大社から琵琶湖に出て海津・高島・大津を経由して大和へ、
また尾張・熱田神宮からとうかいどうで大和へ、息長氏の東近江は東山道を経由して大和へ。
継体天皇の支持勢力地が大和との繋がりを示す。また筒城をへて樟葉宮に繋がる。

 

古墳時代の南山城・・樟葉宮、筒城宮、弟国宮の3地域は
淀川・木津川・巨椋池・桂川と河川交通で繋がり、
その地域の豪族(五ケ庄、物集女、河内馬飼など)との結びつきがみられる。
 三宅俊隆氏は、 「継体大王と樟葉宮」と題して継体天皇の王位継承と王宮がどこにあったかを中心に講演されました。
まず本題に入るまえに枚方について詳しく語られました。
 「枚方とは」
  かつて淀川はこの付近で川岸が非常に平な潟が続いていたことから「ひら潟(かた)」と呼ばれたのではないか、あるいは東側が山地でその西側が平地であったことから片方に平地がひらけていたことから、「ひら片」とよばれるようになったのではないかと説明されました。
 次ぎにこの付近の昔の地勢について説明がありました。縄文時代中頃この付近(後の河内と呼ばれる所)は海水が一番深く浸入していて湾であったらしく、その後水が引き海水が淡水に変わり陸地が出現するようになり、門真あたりでは島が沢山出現するようになった。萱島(寝屋川)、上島,三島など島とつく場所が沢山残っておるがこれらを結ぶ水路は地層軟弱でレンコンとか守口大根(すごく長いのが特徴)が育ち名産になったりしている。
 また東大阪市布市ではクジラの骨が見つかっており、ここまでクジラがやってきていたことが分かります。クジラは河内湾の入口が出入り出来なくなりこのあたりで死亡したのではないか。又牧野、星田牧、特に四条畷の牧などでは馬の飼育がおこなわれていたのではないかとの指摘がありました。
 特に継体天皇が即位のとき四条畷の牧に君臨していた河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)が活躍した話もされておりました。本論の継体天皇の皇位継承の詳細はレジメの記述をご覧頂きたいと思いますが天皇の宮の所在地については三宅氏の考古学者として、この付近の発掘調査、地勢状況から従来の交野天神社辺りではなく、淀川よりの「町楠葉」を比定されており、地元の研究者としての卓見ではないかと思われます。   (高尾秀司さん)
 継体大王と樟葉宮 講演要旨    
   中光司会長に纏めと関係資料の解説をお願いしました。
 「枚方の歴史を楽しむ会」の代表をされておられる三宅俊隆氏をお招きして「継体大王と樟葉宮」についてご講演を戴きました。

 地名「枚方」は「平潟」「平肩」ではないか。淀川流域の後背地・湿地帯に発達した町。また、潟から東は交野原の台地の広がる地域に位置する場所である。
 「交野」も片野・片埜、生駒山地の北部山地から派生した交野台地。片方が野原。「肩野・肩埜」肩のようにつき出た台地が広がる地域であろう。

 記紀によると第25代武烈天皇は24代仁賢天皇の皇子であるが、傍寂無人な行いの天皇であったとされている。後継ぎがなかったため、皇位継承をめぐって大和の有力豪族である大伴金村、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)、巨勢男人らが応神天皇の5世の孫、男大迹王(おおどのおう)をお迎えして507年、樟葉宮に即位した。この地に招いたのは河内馬飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)の勢力地であったこと。樟葉の地は古代から中世にかけては馬の放牧地であった。その中心にいたのが河内馬飼首荒籠であり、大伴金村や物部麁鹿火らと結びついていた。 

 男大迹王は近江高島で生まれ,母振姫の里、越前で大きくなる。日本列島の山陰・北陸は今では裏日本と呼ばれるが、当時は文化・技術の先進地域である朝鮮半島と対峙するこの地域は正に表日本である。船運の発達による交流や渡来系の知識、技術を導入したこれら地域の豪族たちを配下にして中央に勢力を伸ばした大伴氏、物部氏、巨勢氏らと結びついたと考えられる。日本海、琵琶湖、淀川水系と船運との結びつきも大きいものがある。

 樟葉宮はどこか?楠葉交野天神社境内にある「旧樟葉宮跡」とされるが、もっと規模の大きいものであったと思われるので、現在の町楠葉を含む地域ではないかと考えられる。交野台地から離れて湿地帯の中での微高地で集落を形成し、対岸の山崎との渡船の場所でもあり、樟葉の駅家の場所でもあった。そして淀川の船運の中心地でもある。

 大伴金村は朝鮮半島の経営で伽耶(任那)4県を百済に割譲している。百済との結びつきを強めるためである。一方新羅は百済・伽耶に勢力を広げるため、また百済と大和の関係を断つため筑紫国造磐井ら北九州の諸豪族と手を結ぶ。527年近江臣毛野ら割譲地の奪還に出たところ筑紫国造磐井が反乱をおこしたため、翌528年物部麁鹿火率いる大和軍が筑紫の磐井の反乱を制圧する。継体天皇を擁立した彼らが大和の中心勢力であったことを示している。

 男大迹王は皇后に仁賢天皇の皇女・手白香皇女(たしらかのひめみこ)を、そして29代欽明天皇を生んでいる。他に后には尾張の豪族の娘、目子媛(めのこひめ)。後の27代安閑天皇、28代宣化天皇の母である。次妃(つぎのみめ)、近江国坂田郡の豪族の娘、息長真手王女麻積娘子(おきながのまてのおほきみのむすめをみのいらつめ)、茨田連の娘、三尾君の娘、和邇臣の娘など多くの媛を得ている。これは皆、地方の有力豪族との結びつきを強固なものにして、その勢力を利用して継体朝が成り立っていることが理解できる。
 

 継体天皇が直接大和に入らないで樟葉宮に落ち着き、次いで筒城宮、弟国宮と渡り歩いてやっと大和に入る。応神天皇5世の孫、本当に皇位継承者であるのか、また支持する中央勢力の力加減など諸要素が絡んでいるように見える。
 あと、質疑応答があって12時過ぎに講演は終わりました。


<地図の説明>
・古墳時代の南山城・・樟葉宮、筒城宮、弟国宮の3地域は淀川・木津川・巨椋池・桂川と河川交通で繋がり、その地域の豪族(五ケ庄、物集女、河内馬飼など)との結びつきがみられる。

・大和の豪族分布図・・大伴氏、物部氏の本貫地である奈良盆地東部と巨勢氏、葛城氏の西・南の勢力地と天皇陵との関係をみる。飛鳥地方の蘇我氏が台頭する前の勢力地図である。

・継体天皇関係図・・越前三国湊と坂井・丸岡の母親振姫の里。角賀(敦賀)・気比大社から琵琶湖に出て海津・高島・大津を経由して大和へ、また尾張・熱田神宮からとうかいどうで大和へ、息長氏の東近江は東山道を経由して大和へ。継体天皇の支持勢力地が大和との繋がりを示す。また筒城をへて樟葉宮に繋がる。

・継体関係要図・・継体天皇を支持する地方の豪族たち。それを示す古墳群、越前の六呂瀬山古墳・尾張の断夫山古墳・味美二子山古墳、東近江の息長氏と山津照神社、高島の鴨稲荷山古墳、宇治二子塚など。そして継体陵とされる茨木の太田茶臼山古墳と高槻の今城塚古墳等を示す。

任那の割譲・武寧王の関係資料の解説
 任那4県の割譲

 中国東北部から興った高句麗は朝鮮半島に勢力を広げていった。一方朝鮮半島中・南部には馬韓・弁韓・辰韓が形成されていた。
 そのなかで、4Cに馬韓から百済(346)が、辰韓から新羅(356)が国家を形成していった。4C後半、高句麗が南下してくる。朝鮮半島南部の鉄資源の確保のため、早くからかって弁韓の地にあった伽那諸国(日本書紀では「任那」)と密接な関係をもっていた倭国(ヤマト政権)は高句麗と争うこととなった。 {高句麗好太王碑文に391年倭軍が百済と連合して好太王軍と戦闘し、好太王軍が倭軍を破った等の記述あり(4C末~5C始め)}
 この戦乱を逃れた多くの渡来人が海を渡って、さまざまな技術や文化を日本に伝えた。「記紀」には西文氏(かわちのあやし)・東漢氏(やまとのあやし)・秦氏らの祖先とされる王仁・阿知使主(あちのおみ)・弓月君らの渡来の説話が伝わる。
 6Cには百済から渡来した五経博士により儒教が伝えられたほか、医・易・暦等も伝わった。この時期が大伴金村の時代で、武烈天皇・継体天皇の時代である。

 512年 金村は任那の経営と新羅を牽制するため、百済に対し任那のうち4県の割譲をする。
      継体天皇が507年樟葉宮を営んでいるとき、大和に入っていない(20年かかっている)。
 527年 近江毛野ら割譲地奪還に出発。筑紫国造磐井の乱
 528年 物部麁鹿火率いる大和軍が筑紫連合軍を破る。朝鮮半島では新羅・百済の争いと
      伽那諸国への勢力低下で倭の拠点を失っていった。
 538年 百済の聖明王、仏教をつたえる。(上宮聖徳法王帝説や元興寺縁起)
 540年 大伴金村、伽那問題で失脚する。物部尾輿の弾劾を受け
 552年 百済の聖明王、仏教をつたえる。(日本書紀)

武寧王
 武烈天皇4年、百済末多王が道に外れ民を虐待したため、王の地位を退け、変わって嶋王を立てた。これが武寧王である。
 武烈天皇7年、百済王が日本に遣いを出し、貢物をする。その日法師君が朝廷につかえ、これが倭君の祖になる。この倭君が武寧王の子の純陀太子の子孫であるとする。その子孫に高野新笠がでて、彼女が光仁天皇の夫人となって(白壁王の時代)、山辺親王(桓武天皇)、早良親王(さわらしんのう)らを設ける。781年桓武天皇即位により皇太夫人の尊号を受ける。
 平成天皇が皇室に朝鮮半島の血が入っていることで、韓国とのゆかりがあると言及されたのは、このように渡来系の子孫と皇室が繋がりがあることを言われたのではないでしょうか。その一つの例が高野新笠と光仁天皇との繋がりで、桓武天皇が誕生したことにありそうです。

< 参考>  【2001.12.23毎日新聞 天皇陛下御誕生日の合同インタビュー記事】
 「日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招聘された人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。
  私自身としては,桓武天皇(在位781-806年)の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀(しょくにほんぎ)に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。
 しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が、それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。」

 
最後までご覧頂き有難うございました!


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