平成25年10月定例勉強会 講師:大屋 喜代治氏 (交野古文化同好会) 青年の家・学びの館 午前10時~12時 34名の参加 |
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2013.10.26(土)午前10時、10月定例勉強会に34名(会員27名)が参加されました。 高尾秀司副部長の司会で始まり、大屋喜代治氏より、「明治初期の実測絵地図(堺県星田邨萬分之六図)で星田の山を歩く=ポケットGPSで現存する道をたどる=をテーマに、長年、星田の山を我が庭の様に愛され探訪し集積された膨大な映像写真やデータを基に、「星田の山の総集編」として詳細にわたり解説・説明いただきました。 を簡単に紹介させていただきます。(石鏃130号など参照) 昭和40年後半に星田に住まわれ、星田山から北山師岳を経て磐船神社までよく歩かれたそうです。また、古文化同好会企画の「国境を歩く」(昭和53年)に参加、交野市の市境を3日かけて歩かれた。 その後、仕事の関係で一時、山への足は遠のいたものの思いは熱く、退職を機に友人の堀江氏ともに再び山に入り「明治初期の古絵地図から見た星田の山の地名・名所・旧跡と古道ハイキングマップ&ガイド」小冊子を作成された。 その後、平成15年(2003)7月に交野歴史健康ウォークで、「なすび石の滝を訪ねて」をご案内頂きました。次いで、平成16年(2004)4月の総会後の講演会で「星田の山と古道」をテーマで、「星田の山」の時代と環境変遷や小松・北山師岳ルート、星田山ルート、日高山・西谷ルートなど「星田の古道ハイキング」の詳細なマップなどを解説・紹介していただきました。 同時に、「星田古道を歩く会」の活動として、星田の山の池や滝など豊かな自然や小松寺に関わる遺跡やロマン、西谷の沢歩きなど魅力たっぷりのルート、地名、名所、旧跡などを分かりやすく案内できる、案内板・表示標識などを40数ヵ所設置されました。 そして、4~5年前までは毎日星田の山を歩いておられたが、歩く人がほとんどない山中での緊急事態があると大変ということでドクターから勧められ、最近では平地散歩に切り替え、地元星田山手住民を中心に南星台、妙見東などの住民も加わった「奥山を歩く会」に毎週月曜日参加され活動されている。 なお、詳細は、大屋さんの下記のホームページを参照してください。 星田里山古道探索 http://www.eonet.ne.jp/~k-oya/index.htm ※今回の勉強会の報告に当たって、当日プロジェクターで映写された写真・データ関係資料を 大屋さんのお許しを得て、掲載させていただきました。 記して感謝申し上げます。 来年2月8日(土)、交野歴史健康ウォークで、大屋さんにご案内していただき星田の山を歩きます。 今回の詳細な説明をもとに今度は現地に足を伸ばして、明治初期の実測絵地図と現存するルートや歴史的な史跡・遺跡などを探訪したいと企画しています。 |
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今回、ホームページに掲載するに当たり、講師の大屋さんに講演内容について取り纏めをお願いいたしました。 講演内容概要は次の通りです。 |
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正式名称を堺県管下河内国第3大区第9番組萬分之六図といって1萬分の1の実測絵地図である。 この地図の原図の状態では合印(現在の地図の凡例のこと)は、耕地、宅地などのほかに特に山岳部分では山林、藪地、砂山等が記号で記載されている。 これで見ると地図は、星田妙見山と現在の府民の森のピトンの小屋の北西の若林の地名のところは、山林一色で標示されていて、それと比較すると星田の山は、全般的に樹木が少なく、特に星田山や小松などの中央部で禿山が進んでいることがわかる。 星田妙見は、昔から縄文の森といはれ、樹木が多いのは当然であるが、 江戸中期に星田出身の吉田屋藤七が治山治水に植林の必要をとき、江戸後期から植林がはじまったとされているが、若林の名称と付近に杉、檜などの植林種がおおいことからここは江戸か明治の初期の植樹地帯であろう。 次に原図からこの山林、藪など環境標示を全て抹消すると、現在3D表示といわれているように全般的には南上位で写真で写したような立体表示となり(普通の地図は山の高さは高低図で客観表示であるがこの場合は山の形で相対的な高さであらわしている。)、これは、村、字の境界が境界尾根である場合は正確に表示されるが、境界が川筋の場合など低地で、影の部分ができる場合は、正確には表現できない。 哮峯周辺や星田妙見など天の川や妙見川など川が境界の場合は、前者は、西上位、後者は、東上位で描くなど工夫がされている。また廃小松寺のあった小松山は北面にあった懸崖の石垣や南の大門口の遺跡などの都合で部分的に北上位に描かれている。 炊事、風呂などの燃料は薪が中心で、食材を含めて自給のウエイトが高く、また徒歩交通の時代で山越えは最短のルートであり、その分だけ山は、日常生活に欠かせない存在であった。その分、地図記載のルートや地名などの情報量が多く、また明治43年築造の星田新池がなく、なすび石の滝のなすび石やクライミングウオールの前身の岩内道などの記載があるなど歴史的価値のある情報も多い。 星田の山を大きくは府民の森と星田の里山にわける。 なすび石の谷とぼって谷が三つに分断しており、里山の中央は、割林、早刈など薪取りや肥料用草刈をした小字名をもつ地域であり、「生活の山 星田山と星田新池」として、里山東部は、「廃小松寺を中心にその参道であったルート」が中心であり、里山西部は、ぼって谷の西の日高山山系は、山全体が寝屋川市(打上)の飛び地である久保池の流入圏に属し、事情が少し異なり、30~40年ほとんど人が入らない地域が多く、タイムカプセルを開く魅力もある山である。 もともと小字の地名で大谷と南谷に分かれており、前者は磐船神社口から天の川に雨水を放出する排水系統域であり、後者はピトンの小屋付近から天の川に放出する排水系統域のことであるが、具体的には磐船神社側の入口からやまびこ広場に通ずる管理道付近を境界として園地を2分している。 以上の区分に従ってルートの概要、地名、名所旧跡などを述べるとともにポケットPGSで歩いたトラックを2500分の1の現在の詳細地図に落とし、対比できるようにした。 |
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明治初期の実測絵地図(堺県星田邨萬分之六図) 明治初期の地図とは正式名称を 堺県管下河内国第3大区第9番組萬分之六図といって 1萬分の1の実測絵地図である。 |
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司会は高尾秀司氏 |
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講師:大屋 喜代治氏 |
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講師:大屋 喜代治氏 |
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講演 レジメ集 |
この地図の原図の状態では合印(現在の地図の凡例のこと)は、耕地、宅地などのほかに 特に山岳部分では山林、藪地、砂山等が記号で記載されている。 これで見ると地図は、星田妙見山と現在の府民の森のピトンの小屋の 北西の若林の地名のところは、山林一色で標示されていて、 それと比較すると星田の山は、全般的に樹木が少なく、 特に星田山や小松などの中央部で禿山が進んでいることがわかる。 星田妙見は、昔から縄文の森といはれ、樹木が多いのは当然であるが、 若林は、江戸中期に星田出身の吉田屋藤七が治山治水に植林の必要をとき、 江戸後期から植林がはじまったとされているが、 若林の名称と付近に杉、檜などの植林種がおおいことから ここは江戸か明治の初期の植樹地帯であろう。 |
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次に原図からこの山林、藪など環境標示を全て抹消すると、 現在3D表示といわれているように 全般的には南上位で写真で写したような立体表示となり (普通の地図は山の高さは高低図で客観表示であるが この場合は山の形で相対的な高さであらわしている。)、 これは、村、字の境界が境界尾根である場合は正確に表示されるが、 境界が川筋の場合など低地で、影の部分ができる場合は、正確には表現できない。 哮峯周辺や星田妙見など天の川や妙見川など川が境界の場合は、 前者は、西上位、後者は、東上位で描くなど工夫がされている。 また廃小松寺のあった小松山は北面にあった懸崖の石垣や 南の大門口の遺跡などの都合で部分的に北上位に描かれている。 |
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明治の初期は、炊事、風呂などの燃料は薪が中心で、食材を含めて自給のウエイトが高く、 また徒歩交通の時代で山越えは最短のルートであり、その分だけ山は、日常生活に欠かせない存在であった。 その分、地図記載のルートや地名などの情報量が多く、また明治43年築造の星田新池がなく、 なすび石の滝のなすび石やクライミングウオールの前身の岩内道などの記載があるなど歴史的価値ある情報も多い。 |
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星田の山を大きくは府民の森と星田の里山にわけ。 小分類として星田の里山部分はなすび石の谷とぼって谷が三つに分断しており、 里山の中央は、割林、早刈など薪取りや肥料用草刈をした小字名をもつ地域であり、 「生活の山 星田山と星田新池」として、 里山東部は、「廃小松寺を中心にその参道であったルート」が中心であり、 里山西部は、ぼって谷の西の日高山山系は、山全体が寝屋川市(打上)の 飛び地である久保池の流入圏に属し、事情が少し異なり、 30~40年ほとんど人が入らない地域が多く、タイムカプセルを開く魅力もある山である。 |
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府民の森星田園地は、もともと小字の地名で大谷と南谷に分かれており 、前者は磐船神社口から天の川に雨水を放出する排水系統域であり、 後者はピトンの小屋付近から天の川に放出する排水系統域のことであるが、 具体的には磐船神社側の入口からやまびこ広場に通ずる管理道付近を境界として園地を2分している。 以上の区分に従ってルートの概要、地名、名所旧跡などを述べるとともに ポケットPGSで歩いたトラックを2500分の1の現在の詳細地図に落とし、対比できるようにした。 |
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