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平成26年2月定例勉強会

交野地域の古代氏族
=新選姓氏禄から考える=

  講師:真鍋 成史氏 (交野市教育委員会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 31名(会員28名)の参加
 2014.2.22(土)午前10時、11月定例勉強会に31名(会員28名)が参加されました。
村田広報部長の挨拶に続いて、高尾副部長より講師の真鍋成史氏の紹介があり、真鍋成史氏より「交野地域の古代氏族=新選姓氏禄=」について、肩野物部氏、守部氏、漢人に関連する詳細な資料を基にわかりやすくご講演いただきました。

 
肩野物部氏については天野川をキーワードに、物部氏の祖、饒速日命を祀る磐船神社、意賀美神社のこと、天野川流域には森古墳群、そして郡津丸山、藤田山、禁野車塚、万年寺山古墳などの前期古墳が集中し、古来、肩野物部氏がこの地に勢力を張っていたこと、また、肩野物部氏の末裔が主鷹司の官人、鷹狩の名人であったこと、岡山県津山周辺に残る肩野物部氏の氏族の伝承と製鉄遺跡など興味深い。

 守部氏については倭鍛冶をキーワードに、守部氏が鉄・鉄器生産に関わっていたことが古墳時代の鍛冶遺跡の森遺跡、私部南遺跡、上私部遺跡などで確認されている。古墳時代の終焉とともに交野郡にいた鍛冶造氏は中央官営工房の下級技術官僚の伴部として採用され、その後奈良時代を境に中級律令官人へ転じ、守部氏への改姓も行われたと考えられる。また中央での官人化こそが、守部氏の本貫である交野郡においても三宅山の荘園化の基礎を果たし、平安時代には交野郡南部の三宅郷付近一帯を自身の荘園とし、また郡司職(交野郡擬大領)になった有力氏族であった。

 漢人については渡来系工人(韓鍛冶)をキーワードに、竪穴系横穴式と呼ぶ特異なタイプの倉治古墳群や近接する清水谷古墳は半島系の渡来人との関連が指摘されてきたが、慶州や大伽耶の王都であった高霊に多く見られること、「古事記」には茨田堤と茨田三宅の造営のために秦人を使役したことや、「日本書紀」には田屯倉を設置した時に新羅人を使役したことなどが記されているが、秦人は秦氏のことではなく、楽浪郡にいた、秦からの逃亡者で、後に新羅に移ったものといえよう。
 漢人の漢を韓と解釈し、朝鮮半島南部からの渡来人と考えてきたが、『新選姓氏録』の説明のとおり、中国系の可能性が高くなってきた。
 最後に、天野川や牽牛・織姫が壁画に描かれた徳興里古墳が紹介され、七夕の風習も鍛冶技術と同様に漢人が倭に持ち込んだ可能性を指摘された。交野の七夕伝説との関連もあり大変印象に残った。

 なお、講演の中で、郡津の丸山古墳が同志社大学により測量調査が実施中だとの情報があり、天野川周辺古墳とのかかわりなどが明らかになることが期待されている。

 また、本日の講演内容を受けて来月3月8日(土)には真鍋氏の案内で、肩野物部氏の祖先が祀られている磐船神社周辺を探訪する予定で多くの方の参加が望めそうです。

 <世界大百科事典 第2版の解説>
しんせんしょうじろく【新撰姓氏録】


 古代日本の氏族の系譜書。30巻と目録1巻。815年(弘仁6)7月に成立。本書の編纂は,799年(延暦18)12月の本系帳の提出命令に端を発し,諸氏族が提出した本系帳にもとづいて万多(まんだ)親王らがまとめあげた。収録氏族の数は,京畿内の1182氏。皇別(天皇家から分かれた氏族),神別(神々から分かれた氏族),諸蕃(渡来系の氏族)に分類し,当時の氏族の優劣にもとづいて配列されている。本書編纂の意図は出自の明確化と冒名冒蔭の防止にあった。

<三省堂 大辞林>
しんせんしょうじろく 【新撰姓氏録】


 古代の諸氏族の系譜。三〇巻、目録一巻。嵯峨天皇の命により、万多親王らが編纂(へんさん)。815年成立。京畿の氏族一一八二氏を家柄・出自によって神別・皇別・諸蕃に類別し、それぞれの系譜を記したもの。現存本は抄録本。
 ※ 当日頂いたレジメ集及びパワーポイントでの映像写真集の掲載にあたり、
   真鍋先生の快諾を戴き御礼申し上げます。 記して感謝申し上げます。
 

講師:真鍋 成史氏 (交野市教育委員会)
講演のレジメ集
交野地域の古代氏族
=新選姓氏禄から考える=
講師   交野市教育委員会 真鍋成史氏
 古代、枚方市と交野市が交野郡と呼ばれていた。この交野郡は古来、様々な氏族がいたことが『新選姓氏録』の記事から読みとれる。『新選姓氏録』とは平安京および畿内に住む1182 氏について記している記録書である。
氏族の内訳は神武天皇以降、天皇より分かれた氏族の「皇別」が335 氏である。
 次に神武天皇以前の神代に別れ、あるいは生じた氏族の「神別」が402 氏で、さらに3区分され、瓊瓊杵尊が天孫降臨した際に付き随った神々の子孫を「天神」とし、瓊瓊杵尊から3 代の間に分かれた子孫を「天孫」とし、天孫降臨以前から土着していた神々の子孫を「地祇」としている。
 「諸蕃」とは、渡来人系の氏族で、326 氏が挙げられている。諸蕃氏族は、さらに5分類され、「漢」として163 氏、「百済」として104 氏、「高麗」(高句麗を指す)として41 氏、「新羅」として9 氏、「任那」として9 氏が挙げられる。これらのどこにも属さない氏族として、117 氏が挙げられている。
 今回は『新選姓氏録』に記された交野郡、中でも南部地域と関係の深い、物部氏、守部氏、漢人について取り上げたい。

①肩野物部氏
 『新撰姓氏録』右京神別・天神。「肩野連。饒速日命 六世孫伊香我色男命之後也」
          左京神別・天神「物部肩野連。伊香我色乎命之後也。」

キーワード: 天野川

 この2氏族の呼称が、交野郡の「カタノ」と同音であり、『先代旧事本紀』の記述によれば天野川上流の大和との境には肩野物部が物部氏の祖、饒速日尊と一緒に天降ったと伝える哮が峰と、その時乗ってきた天磐船が、御神体の巨石と伝える磐船神社の所在している。またこの天野川が淀川と合流する地点には意賀美神社があり、いずれも饒速日尊を祀る。天野川流域には森古墳群、そして郡津丸山、藤田山、禁野車塚、万年寺山古墳などの前期古墳が集中し、古来、肩野物部氏がこの地に勢力を張っていたと推測されている。

 『先代旧事本紀』天孫本紀には、物部尾輿の子の物部大市御狩連の弟に物部臣竹連という名がみえ、「肩野連。宇遅部連等祖」とされている。この肩野連に関しては良棟宿禰系図にも詳述され、臣竹連の子の牛古が片野連を名乗り、その後10世代の肩野連道生が良棟宿禰に改姓されている。その間、主(放)鷹司の官人として補任されている。(5世代粟麻呂、6世代福藤、8世代益緒、9世代夏香、10世代道生)

 また道生の子は相衝で鷹狩名人とされ、彼の甥が『落窪物語』『枕草子』『源氏物語』などにみえるプレイボーイの交野少将である季綱と系図には記される。以上のように本貫を都(京都)に移してからも、肩野連、交野少将など「かたの」の名が示すとおり、交野郡との交流は続いていたようである。
 また、百済王氏が居を構えた禁野との関係も注目されよう。この主鷹司の行った鷹狩が朝鮮半島とのつながり、特に百済の伝統に基づくものである。百済王の禁野で肩野物部の末裔により鷹狩が行われたことになろう。

このほか、肩野連については、行基と関連のある大野寺土塔の瓦より片野連足嶋と刻名のある瓦が出土している。行基と交野郡との関連は神亀2 年(725 年)9 月に楠葉に久修園院を建て、山崎橋を淀川に架橋したほか、報恩院も建立したと『行基年普』には載せ、行基と交野郡とのつながり確認される。

 そのほか、岡山県津山市周辺にも肩野物部を名乗る氏族の伝承が残されている。岡山県の肩野物部伝承地の付近には製鉄遺跡が点在しており、彼らが製鉄集団を掌握していたと推定されている。



②守部氏
 『新撰姓氏録』河内国神別・天神「守部連、振魂命之後也」

キーワード:倭鍛冶

 守部連大隅は『続日本紀』によれば神亀5 年(728)2 月に鍛冶造大隅が守部連に改姓される記事がのり、守部氏と鉄・鉄器生産に関係していたことが分かる。この守部氏は延久4 年(1072)の『太政官牒』が引く延喜17 年(917)の「河内国交野郡解」により、平安時代には交野郡南部の三宅郷付近一帯を自身の荘園とし、また郡司職(交野郡擬大領)になった有力氏族であった。

 交野市教育委員会の発掘調査の結果、古墳時代の鍛冶遺跡がこの森遺跡、さらには近年の大阪文化財センターが実施した第2京阪道路建設に伴う調査により私部南・上私部遺跡などでも確認されている。

 守部連大隅は改姓される前の氏族名に、守部平麻呂・広道は彼らが庄園化した土地にそれぞれ鍛冶工であった痕跡が認められる。古墳時代の終焉とともに交野郡にいた鍛冶造氏は中央官営工房の下級技術官僚の伴部として採用され、その後奈良時代を境に中級律令官人へ転じ、守部氏への改姓も行われたと考えられる。また中央での官人化こそが、守部氏の本貫である交野郡においても三宅山の庄園化の基礎を果たし、引いては平安時代において交野郡擬大領への道を開いたのであろう。

 守部氏は、郡司の補佐役の擬大領であったが、交野郡大領としては宮道氏が挙げられる。「紫明抄」に「交野大領弥益」とされ、『尊卑分脈』「公卿補任」では「宮道弥益」と記されている。平安時代後期には大領のほかに、在地の有力氏族を郡の行政に取り込みを行うため、擬大領などとして大領の補佐官が多数補任されている。
 『風葉和歌集』にはかたのの大領女の歌として「かつきゆる うき身の沫と成ぬとも 誰かはとはん 跡の白浪」という和歌が紹介されていることも興味深い。推定地として郡津の長淵付近がある。大領は郡衙推定地の郡津(もしくは枚方市中宮)に、擬大領はその基盤とした森遺跡一帯に住んでいたと思われる。

③漢 人
 『新撰姓氏録』河内国諸蕃・漢「秦人。秦忌寸同祖。弓月王之後也。」
 『新撰姓氏録』河内国諸蕃・漢「交野忌寸。出自漢人庄員也。」
キーワード:渡来系工人

 これら氏族については、交野市倉治にある倉治古墳群や近接する清水谷古墳との半島系の渡来人との関連が指摘されてきた。古墳は横穴式石室墳でなく、竪穴系横穴式石室とよぶ特異なタイプのためである。これら古墳は6世紀以降、慶州や大伽耶の王都であった高霊に多く見られる。

 『古事記』仁徳天皇段は、茨田堤と茨田三宅の造営のために秦人を使役したと記している。『日本書紀』仁徳天皇11 年10 月条には、茨田堤の築堤説話が記され、同じく仁徳天皇13 年9 月条には茨田屯倉を設置したことがみえ、新羅人を使役したことが記されている。『古事記』『日本書紀』の記事は内容が似ており、秦人と新羅人は同一として扱われているが、秦氏の祖、弓月君は応神天皇14 年に百済から渡来したと伝え、出身地に齟齬がある。これはまさに「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。」(『北史』「新羅伝」)が記すように、秦人とは秦氏のことではなく、楽浪郡(滅亡後には百済に併合)にいた、秦からの逃亡者で、後に新羅に移った者を指しているといえよう。

 漢人の漢を韓と解釈し、朝鮮半島南部からの渡来人と考えてきたが、『新選姓氏録』の説明のとおり、中国系の可能性が高くなってきた。
 茨田屯倉については、交野郡三宅郷をその比定地とする説が有力である。第2京阪道路で調査が行われた上私部遺跡からは新羅系土器も出土していることから、考古学側からも積極的に交野市域に茨田屯倉を比定するようになっている。そのほか、古代より交野市寺村が「はたやま」、倉治村が「はたもの」、枚方市津田村が「はただ」と呼ばれ、そのそれぞれの「はた」が「秦」と関連していると以前より考えられてきたように、山麓部においても秦氏(秦人)との関連が伺える。

 朝鮮民主主義人民共和国平安南道大安市徳興里にある徳興里古墳は1976年12月に発掘調査され、被葬者や年代がわかる稀有な墳墓として脚光を浴びた。この古墳の壁画に天野川や牽牛・織姫が描かれている。墓誌銘に408年に築造されたこと、「鎮」某という人物を埋葬したことが記されている。この被葬者も広開土王配下の漢人であったと考えられる。石室に墓誌銘を残す風習は中国人独自のもので、そのこと自体が、壁画古墳は漢人が持ち込んだ埋葬文化だったと思われ、七夕の風習も鍛冶技術と同様にこの楽浪郡のあった現在の平壌周辺を経由して、漢人が倭に持ち込んだ可能性が考えられる。
講演記録 パワーポイント 映像集
 この2氏族の呼称が、交野郡の「カタノ」と同音であり、『先代旧事本紀』の記述によれば天野川上流の大和との境には肩野物部が物部氏の祖、饒速日尊と一緒に天降ったと伝える哮が峰と、その時乗ってきた天磐船が、御神体の巨石と伝える磐船神社の所在している。またこの天野川が淀川と合流する地点には意賀美神社があり、いずれも饒速日尊を祀る。天野川流域には森古墳群、そして郡津丸山、藤田山、禁野車塚、万年寺山古墳などの前期古墳が集中し、古来、肩野物部氏がこの地に勢力を張っていたと推測されている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 また、本日の講演内容を受けて来月3月8日(土)には真鍋氏の案内で、肩野物部氏の祖先が祀られている磐船神社周辺を探訪する予定で多くの方の参加が期待できそうです。
  『先代旧事本紀』天孫本紀には、物部尾輿の子の物部大市御狩連の弟に物部臣竹連という名がみえ、「肩野連。宇遅部連等祖」とされている。この肩野連に関しては良棟宿禰系図にも詳述され、臣竹連の子の牛古が片野連を名乗り、その後10世代の肩野連道生が良棟宿禰に改姓されている。その間、主(放)鷹司の官人として補任されている。(5世代粟麻呂、6世代福藤、8世代益緒、9世代夏香、10世代道生)
 また道生の子は相衝で鷹狩名人とされ、彼の甥が『落窪物語』『枕草子』『源氏物語』などにみえるプレイボーイの交野少将である季綱と系図には記される。以上のように本貫を都(京都)に移してからも、肩野連、交野少将など「かたの」の名が示すとおり、交野郡との交流は続いていたようである。
 岡山県津山市周辺にも肩野物部を名乗る氏族の伝承が残されている。岡山県の肩野物部伝承地の付近には製鉄遺跡が点在しており、彼らが製鉄集団を掌握していたと推定されている。
 一昨年の12月8日、「肩野物部氏の足跡を訪ねて」 岡山県津山市方面へ講師:真鍋成史氏(交野市教育委員会)
の案内で、津山市周辺の製鉄遺跡など探訪しました。
 
 
 
 守部連大隅は『続日本紀』によれば神亀5 年(728)2 月に鍛冶造大隅が守部連に改姓される記事がのり、守部氏と鉄・鉄器生産に関係していたことが分かる。この守部氏は延久4 年(1072)の『太政官牒』が引く延喜17 年(917)の「河内国交野郡解」により、平安時代には交野郡南部の三宅郷付近一帯を自身の荘園とし、また郡司職(交野郡擬大領)になった有力氏族であった。
 
 交野市教育委員会の発掘調査の結果、古墳時代の鍛冶遺跡がこの森遺跡、さらには近年の大阪文化財センターが実施した第2京阪道路建設に伴う調査により私部南・上私部遺跡などでも確認されている。

 守部連大隅は改姓される前の氏族名に、守部平麻呂・広道は彼らが庄園化した土地にそれぞれ鍛冶工であった痕跡が認められる。古墳時代の終焉とともに交野郡にいた鍛冶造氏は中央官営工房の下級技術官僚の伴部として採用され、その後奈良時代を境に中級律令官人へ転じ、守部氏への改姓も行われたと考えられる。また中央での官人化こそが、守部氏の本貫である交野郡においても三宅山の庄園化の基礎を果たし、引いては平安時代において交野郡擬大領への道を開いたのであろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 『古事記』仁徳天皇段は、茨田堤と茨田三宅の造営のために秦人を使役したと記している。『日本書紀』仁徳天皇11 年10 月条には、茨田堤の築堤説話が記され、同じく仁徳天皇13 年9 月条には茨田屯倉を設置したことがみえ、新羅人を使役したことが記されている。『古事記』『日本書紀』の記事は内容が似ており、秦人と新羅人は同一として扱われているが、秦氏の祖、弓月君は応神天皇14 年に百済から渡来したと伝え、出身地に齟齬がある。これはまさに「新羅者、其先本辰韓種也。地在高麗東南、居漢時樂浪地。辰韓亦曰秦韓。相傳言秦世亡人避役來適、馬韓割其東界居之、以秦人、故名之曰秦韓。其言語名物、有似中國人。」(『北史』「新羅伝」)が記すように、秦人とは秦氏のことではなく、楽浪郡(滅亡後には百済に併合)にいた、秦からの逃亡者で、後に新羅に移った者を指しているといえよう。
 
 漢人の漢を韓と解釈し、朝鮮半島南部からの渡来人と考えてきたが、『新選姓氏録』の説明のとおり、中国系の可能性が高くなってきた。
 茨田屯倉については、交野郡三宅郷をその比定地とする説が有力である。第2京阪道路で調査が行われた上私部遺跡からは新羅系土器も出土していることから、考古学側からも積極的に交野市域に茨田屯倉を比定するようになっている。そのほか、古代より交野市寺村が「はたやま」、倉治村が「はたもの」、枚方市津田村が「はただ」と呼ばれ、そのそれぞれの「はた」が「秦」と関連していると以前より考えられてきたように、山麓部においても秦氏(秦人)との関連が伺える。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 これら氏族については、交野市倉治にある倉治古墳群や近接する清水谷古墳との半島系の渡来人との関連が指摘されてきた。古墳は横穴式石室墳でなく、竪穴系横穴式石室とよぶ特異なタイプのためである。これら古墳は6世紀以降、慶州や大伽耶の王都であった高霊に多く見られる。
 
 
 
  『播磨国風土記』の枚方里の説話の中に、茨田郡枚方里の漢人によって鋤を立てる祭祀を行ったことが記されている。この枚方とはまさにこの枚方市駅周辺のことで、交野郡に接している。このほか、樟葉東遺跡では鋤が立てられた状態で確認されており、乾元大宝(958 年)を入れた水瓶が横に置かれていた。交野郡もしくはその周辺において鋤を立てる祭祀が行われていたようである。漢人の風習が後世まで残っていたことは興味深い。
 
 朝鮮民主主義人民共和国平安南道大安市徳興里にある徳興里古墳は1976年12月に発掘調査され、被葬者や年代がわかる稀有な墳墓として脚光を浴びた。この古墳の壁画に天野川や牽牛・織姫が描かれている。墓誌銘に408年に築造されたこと、「鎮」某という人物を埋葬したことが記されている。この被葬者も広開土王配下の漢人であったと考えられる。石室に墓誌銘を残す風習は中国人独自のもので、そのこと自体が、壁画古墳は漢人が持ち込んだ埋葬文化だったと思われ、七夕の風習も鍛冶技術と同様にこの楽浪郡のあった現在の平壌周辺を経由して、漢人が倭に持ち込んだ可能性が考えられる。
 
徳興里古墳の壁画
 
次回の勉強会は、平成26年3月22日(土)学びの館 午前10時~12時
「大塩平八郎と交野」  =大塩平八郎の乱とは=
 講師:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)です。
 


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