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平成26年 6月定例勉強会

中山道 西から東へ

  講師:村田 健一氏 (かたのこらん会代表)

会場:青年の家・学びの館   午前10時~12時

37名(会員33名)の参加
 2014.6.28(土)午前10時、6月定例勉強会に37名(会員33名)が参加されました。
立花会長の挨拶、高尾企画事業部長の講演会の日程紹介に続いて、村田健一氏より、先月に引き続き、「中山道 西から東への後編・総集編」をテーマに、中山道を歩かれた日程、中山道のあらまし・略図の説明など、今回は中山道の最大の難所と言われる和田峠と碓氷峠を中心に、詳細な写真集を上映しながらわかりやすくご講演いただきました。
 
 休憩を挟んで第2部では、「小田井宿」をスタートして、「坂本宿」までの26kmを歩かれた様子を45分間のビデオで詳しくご紹介いただきました。

  険しく狭いアップダウンのルートを、ビデオカメラを片手に、案内しながら撮影された素晴らしい内容でした。
 歩かれたルートの地図を確認しながら、もう一度ゆっくりと鑑賞したいと思いました。
 ※ 当日頂いたレジメ集及び村田健一さん作成のブログ「中山道 西から東へ」のレポートと写真集など、
 HPの掲載にあたり、村田さんの快諾を戴きましたこと深く感謝申し上げます。 
 


 先月に引き続き、本日も2時間たっぷりと中山道・西から東への後編・総集編をご講演いただき誠に有難うございました。中山道を西から東へ歩く方が少なく、いろいろと資料収集も難しい中、良くぞ、歩き通されました。
本当に心から敬意を表します。若い頃からゴルフで鍛えられた足腰と粘りがあってこそでしょう。
 
 雨の日も、暑い日も、寒い日もあった。特に和田峠での靴擦れと擦過傷で足が痛む中、日が暮れて真っ暗な中、宿へ連絡するも位置が掴めず、やっと出た国道では大型トラックに跳ねられないかとひやひやしながら歩いた恐ろしい経験、街道筋での親切なご夫婦のお話や嬉しい出来事など、お聞きしていて感動の連続でした!有難うございました!
 村田健一さん作成のブログ
「中山道 西から東へ!」
をじっくりとご覧ください!

 http://nakasendo-wtoe.blogspot.jp/

第1日目、「京都三条から大津へ(瀬田唐橋)」     

第29日目、「浦和宿~蕨宿~日本橋」


講師 : 村田 健一氏 (かたのこらん会代表)
 
 
    video 鑑賞
休憩を挟んで第2部では、「小田井宿」をスタートして、「坂本宿」までの26kmを
歩かれた様子をビデオで詳しくご紹介いただきました。
「中山道 西から東へ」 中山道24日目、追分~坂本まで
24年5月16日から18日のHPを参照してください!

1日目 御代田駅~追分   2時間50分 歩数16579 歩
2日目 追分~沓掛~軽井沢 5時間40分 歩数26162 歩   
3日目 軽井沢~坂本        7時間56分 歩数32434
初日5月16日(水)

今回のスタートは、前回(昨年12月10日)見事に道を間違えた小田井宿~追分宿間の正しい中山道を歩くことであった。
御代田駅には15時1分に着いた。前回親切な大海さんに車で送って頂いた駅である。あの日はまだ雪も道端に残っていた時節であったが、5ヶ月の間、寒さの通り過ぎるのを我慢して待った。そして今日、このあたりもすっかり春の気配であった。

御代田駅のプラットホームに立看板有り「標高820,43m」とある。今回歩く碓氷峠は標高1200mと聞いており今回のルートが中山道でも最も標高が高く、かつ、もっとも北にある。



ここから400m近く登ることになるんだなあと思いながらこの駅看板を見ていた。
今夜泊まる追分宿まではゆっくり歩いても2時間もあれば充分だ。ゆったりした気分で歩き出すと直ぐに郵便局があった。久し振りの中山道貯金千円也。
直ぐ目の前に「御代田町交通記念館」と書かれて蒸気機関車「D51-787」が展示されてある。  ・・・・・続く

中山道 西から東へ
              かたのこらん会代表  村田 健一氏
 前回は中山道街道の「木曽路」を中心にお話ししました。地理的には木曽路は「馬篭」から「妻籠」そして有名な「寝覚めの床」のある「上松」を越え、皆様よくご存知の「奈良井の宿」から関所の厳しさで名高い「贄川」までの、ほぼ76,2kmと言うことになります。
 確かに藤村の言うように「木曽路はすべて山の中」ですが、山の中だけに中山道533kmの中でも一番楽しい街道でした。

 今回は中山道の最大の難所と言われる和田峠と碓氷峠のうち碓氷峠の山越えを中心にお話させて頂きたいと思います。
 和田峠は温泉地と丸太のご神木落としで知られる「下諏訪宿」から「和田宿」までの登り11km、下り11km、上り下りで22kmの峠越えであります。
 碓氷峠は避暑地で有名な軽井沢から「峠の釜飯」の本拠坂本宿までの11kmの峠越えです。

 お江戸から来る人の多くは碓氷峠の方が和田峠より厳しいと言い、京都から行く旅人は和田峠の方が厳しいと言う人が多いようです。江戸からの旅人には峠の登り道が碓氷峠の方が和田峠よりも厳しく、京都からの旅人は和田峠の登りが碓氷峠の登りよりも厳しくなるからでしょう。

 実際に歩いたのは前回にもお話しましたとおり
平成22年6月22日から平成25年1月19日まで、74歳11ヶ月から76歳5ヶ月にかけて、
回数にして29回、日数にして延41日。
 最初の15回は日帰りで、第16回目の御嵩宿から1泊2日、第21回目の薮原から塩尻までが2泊3日の行程。第22回目の塩尻から下諏訪を経て(和田峠越え)望月までの行程だけが3泊4日で行きました。

①中山道(別紙経路図)で紙上踏破

前回は「三留野宿」(駅名では南木曽駅)まで。
今回は「三留野宿」から先を辿ります。おてもとの「中山道全図」参照下さい。



                       中山道 高低差


中山道 宿場 説明(260628)

42 三留野   桃介橋。木造吊り橋 福沢桃介  雨の日
          
   (9,7km)   桃介橋

41 野尻   石見寺(清水寺に似ている) 七由り  寛攻3年(1791)大火
          
  (4,3km)     石見寺
40 須原  「水舟の里」米、野菜、食器洗い。桜の花漬け。常勝時(本堂
(13,6km)      庫裏、山門は国の重要文化財) 幸田露伴「風流仏」の舞台。 
           須原宿

39 上松  「寝覚ノ床」。臨川寺。寿命そば越前屋。小野の滝
(9,8km)        小野の滝
38 福島   関所跡(入り鉄砲に出女)。蕎麦屋「車や」蕎麦売り切れ。足湯。
(6,9km)        木曽の桟(国道19号の下、本曽川に架かる)
              関所跡
37 宮ノ越  中間点(京へ266km67里28町)木曽義仲旗揚げの地
(7,2km)         巴御前。木曽川との別れ。「ともえ庵」の寛ぎ。
             中山道中間地点
36 薮原    ヒノキの丸太・檜一本首一つ。お六櫛。
(5,3km)        「熊に注意を」。鳥居峠に入る。11人に会う。ヤングオーストリアン他。
             
35 奈良井  和宮がいない。宿は「江島や」アマゴの塩焼き。漆器店が並ぶ
(5,8kIIl)         JR駅は宿の北はずれ。 塩尻まで22,2 km 47860歩。
             
34 贄川    宿屋なし。関所で有名。
(7,8kln)        
33 本山    ここも宿屋なし。ひつそりした宿場。蕎麦の本場。
(3,3km)       
32 洗馬    ここも静かな宿場。善光寺道との「分去れ」。ブドウ園。
(5,3kIIl)       
31 塩尻    雨。4人の男性に会う。塩尻峠。やっと和宮と明治天皇休息場所。
(11,lkm)         雨の登り坂から山王閣へ.
            
30 下諏訪  山王閣。道端のクーラの水は熱い湯。「御柱木落とし坂」
(21,5km)         寅と申年6年毎。昨年若者が2人死んだ。 「万治の石仏」
             万治の石仏
29 和田     「一路」靴擦れ ここは何処?山王閣の役人上がりの話。53300歩。
(7,8km)          「本亭」
            
28 長久保   「笠取峠」単独行の3人の男性。
(5,7km)        
27 芦田     造り酒屋 静かな宿場
(4,8km)         芦田宿 常夜灯
26 望月      1回目10月足故障引き返す。12月、望月から再スタート。 .雪
(3,6km)         瓜生坂へ
25 八幡     篠ノ井~小諸(しなの鉄道) アメリカ女性に会う。
(2,9km)        
24 塩名田    街中で消防車から金属製ノズル落下。
(5,lkm)          雄大な浅間山
23 岩村田   「相生の松」 雪の中冠雪した雄大な浅間山と歩む。
(4,6km          相生の松
22 小田井    ここから坂本までこのあとビデオ上映。
(5,9km)           
21 追分      「堀辰雄文学記念館」
(4,2km)        
20 沓掛      「沓掛時次郎」(長谷川伸「騒人」の主人公。その生地)
(4,4km)        
19 軽井沢    「テニスコート」「万平ホテル」「碓氷峠への入り目」
(11,5km)
18 坂本      鉄道文化村(アプト式鉄道廃止記念)
(9,4km)             鉄道文化村
17 松井田    「中山道はそちらではありませんよ」。2度間違い。安中市へ報告。
(9,5kIIl)             中山道への道
16 安中      新島襄の旧宅(46歳の人生、40歳の時弟子らとともに中山道を使つて
(3,3km)           帰省した。 安政の遠足。(1週間前実施された)I一路]にも登場
                  新島襄の旧宅
15 板鼻      台風4号、雨の日。板鼻宿本陣跡には公民館。
(7,2km)            板鼻宿
14 高崎       Route17 標識多い 
(5,9km)           だるまの石碑
13 倉賀野    倉賀野郵便局お茶ボトルのサービス。日光例幣使街道との分去れ。
(5,8km)          「東京まであと98 km」の表示
               東京まで98km
12 新町      「神流川の戦い」の碑。滝川一蓋・北条氏。
(7,8km)          神流川の戦い
11 本庄      「まるやのあやちゃん」。95歳のおじいちゃん。「清心寺」平忠度の墓。
(10,5kln)         本庄まつり
10 深谷      深谷駅は東京駅をモチーフ、渋沢栄一像。
(10,7km)        
9 熊谷       今回から東京廻り。駅前木村屋(蕎麦屋)のおばさん。
(16,3km)         
8 鴻巣      「畑仕事のおばさんに、柿,大根、下仁田ねぎ、玉ねぎの苗頂戴する」
(7.2km)          「ひな人形の町」
             
7 桶川       「武村旅館」は団体客で満員。宿泊は第一ホテル。
(3,3km)        
6 上尾       街は明日実施の「シティマラソン」一色。朝、道を間違え修正する。
(7,8km)        
5 大宮       ここまで来れば中山道雰囲気なし。石碑「一本杉」親の仇討ち。
(4,9kln)         いかのおすし
4 浦和       最終回。寒い、残雪。街中がJ1浦和レッズー色。
(5,4km)         中山道浦和宿
3 蕨          道路の40 cm中山道69宿の陶板絵。広重と栄泉作。
(8,7km)         富士山
2 板橋       とげぬき地蔵・巣鳴商店街おばあちゃんの原宿・東大安田講堂・ふき入替
(8,7km)        
1 日本橋       秋葉原・神田・三越。日本橋 今夜は東京泊。
               

 つい最近インターネットで中山道を東から歩いてきた人が、533km踏破の最後の数十歩を残した地点(京都三條大橋の手前、高山彦九朗の坐像の下)で、一挙に三條大橋に到着するのが惜しくって、暫く心を落ち着かせ長かった道のりに思いをはせてから大橋にタッチしたと言う話を読みました。

 私も日本橋の手前の三越に入り、トイレに行き、ワイフに記念の贈り物を買ってから一息入れて日本橋の欄干にタッチ致しました。


★前回申し上げたように、中山道の街道記を書いた本など何冊かあるにはあるのですが、そのどれもが何故か東京日本橋から京都三条大橋までの東から西へのものばかり。西から東は私の知った限り一冊もない。

 ただ中山道を西から東への街道記ではないが、この街道を辿った関連書物を三冊見つけたとお話しました。
①有吉佐和子著「和宮様御留」 ふき 
②昨年よく読まれた浅田次郎作品「一路」 
③210年ほど前、赴任地の大阪南本町から任明けて江戸の国元への帰郷ルートに中山道を利用した蜀山人「太田南畝」の「壬申(ジンシン)紀行」
 享和元年2月(1801)から翌年2月まで支配勘定として大阪銅座勤務。任明けのその帰途を中山道を選んだ。3月21日(大阪)から4月7日(江戸帰着)15泊16日。3冊の中でも中山道道中記としては描写が細かい。

費やした日数
  和宮(ふき)は25日 一路は12日  蜀山人は18日

5 (その他。参考)

 ★五街道 東海道(490km) 中山道(533km) 日光街道(江戸~日光140km)
  奥州街道(江戸~福島白河市199km)甲州街道(江戸~下諏訪225km)

   
 
VIDEO(観賞の手引)   前半は登り、後半は下りの26km
           
● 本日見ていただくVIDEOのルートは「中山道・各宿場間の距離と最寄り駅」表の「22」の「小田井宿」をスタートした地点から「18」の「坂本宿」までの26,0kmです。本編45分と「めがね橋とアプト鉄道」9分間です。
今回の旅程は2泊3日。最初の夜は追分宿、二日目は軽井沢宿泊。

● アプト式鉄道
「スイスのアプト氏の発明した歯車式鉄道。急勾配の登山鉄道などに利用される。帯鋼板にのこぎり状の歯を刻んだもの2、,3枚を歯の位置が交互にずれるように組み合わせて駆動力を得るものである。普通の鉄道では滑ってしまうような急勾配でも上降が可能。日本では信越線本線の横川~軽井沢間約8kmで1893年~1963年までの70年間用いられていた。

 なお、現在このアプト式は大井川鉄道いちしろ駅~長島ダム駅(25,5km)で(1990年から)走っている」

●鉄道唱歌 大和田建樹作歌 

  ① 汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 
         愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として

  ⑲ これより音にききいたる 碓氷峠のアプト式
         歯車つけておりのぼる 仕掛けは外にたぐひなし(軽井沢~横川間)

  ⑰ 鉾か剣か鋸か 獅子か猛虎か荒鷲か 
            虚空に立てる岩のさま 石門たかく雲をつく(妙義山)
 
★おわりに
 中山道ウオークでは、ついつい先ばかり急いでしまったが、後日振り返れば、途中の名所旧跡でもう少し時間を使っても良かったと思っています。

★中山道完歩の後、今は伊勢街道と高野街道を別々の友人と二人で歩いています。
 高野街道は現在最後の行程「九度山から高野山」の21kmを残すのみです。
 その後は「しまなみ街道」を歩きます。
 また伊勢街道は、今月22日牛峠まで到達し年内に伊勢神宮に到着の予定です。

★三條大橋から東京日本橋まで、41日間、29回の歩行記をブログに掲載しています。
インターネット「中山道西から東へ」または「星の町に住む村田のホームページにようこそ」で
ご検索ください。  
      http://nakasendo-wtoe.blogspot.jp/
 
 
 
中山道 宿場地図

中山道 高低差
 村田健一さん作成のブログ
「中山道 西から東へ!」
をじっくりとご覧ください!


ここでは、第一日目と最終29日目を抜粋して掲載させていただきました!

第1日目、「京都三条から大津へ(瀬田唐橋)」  

第29日目、「浦和宿~蕨宿~日本橋」   
京都三条から大津へ   22・9・18
 622日草津からスタートした「中山道」。同伴者N君が既に東海道歩きの時に三条~草津をクリアしているので、草津を基点としてスタートしたが、私は未だ三条~草津間は未知のコースなので、山歩きの大好きなYさんと一緒にこの区間の穴埋めをすることにした。




 最寄駅を8:31に乗って三条まで行き、高山彦九郎正行先生と書かれた駅前の像を横目に見て東へ向って歩き出した。

やや暑い日であったが天候は申し分なし。都ホテル(旧称)前の緩やかな上り坂を上がり、青竜山
安養寺日向大神宮を左に見て進む。
 暫く行くと国道から右に逸れる細い道があるが、これが中山道(ただし草津までは東海道と中山道が共有道で、草津までは一般的に東海道の名前で呼ばれているようだ)である。   

 三井寺観音道の分かれ道に大きな石柱が建っている。逢坂山には走井の井戸で知られている「月心寺」。(写真参照)今は無人の様子。井戸の言われが書かれた説明看板を読んで先に進む。

 坂の頂上辺りに「逢坂山関址」の大きな石碑。常夜灯を過ぎ蝉丸神社を過ぎれば浜大津は目の前。
          
実はここで引き返すか瀬田の唐橋まで歩くか迷った。2日間で草津まで行く予定なので今日はここを終点としても良かったのだが、大津に着いた時、未だ陽は高く午後3時になっていなかったので、瀬田の唐橋まで歩くことにした。これがやや判断違い。思ったより距離があって時間がかかり瀬田の唐橋に到着した時には周囲はやや暗くなっていた。考えていたようには食事どころが無い駅前だ。

やっと見つけた唐橋近くの外食「ココス」で夕飯を摂った。
この日はここで引き上げる。第一日終了。

 ・・・・・・・・・・・・・続く。
 中山道第22日目 「塩尻~下諏訪~和田~長久保~芦田~望月」
23105()8() 所要時間 
初日
 塩尻~下諏訪 6時間55 歩数31,882
       2日目 下諏訪~和田 10時間40分 歩数47,860
   3日目 和田~長久保~芦田~望月 8時間40分 歩数24,476
 初日10月5日(水)

3泊4日の日程は中山道を歩き始めて今回が初めて。宿場と最寄鉄道駅とのアクセスの関係でどうしてもこの行程にならざるを得なかった。

初日塩尻峠、二日目和田峠、三日目笠取峠。今回は大小合わせて3つの峠を越えることになった。しかし厳しいとは聞いていたが中でも和田峠は、悪条件が重なったことにもよるが予想していたよりきつかった。山道の厳しさもさることながら、最後の道程になった真っ暗で、歩道の無い(白線だけ)国道142号線が恐怖の2時間であった。物凄いスピードで走る大型トラックが来るたびに、ガードレールの外へ身を寄せ、背中のリュックサックを引っかけられないように注意しながら真っ黒な怪物の過ぎ去るのを待つ。やり過ごしたら足早に何歩か歩いてまたトラックを避ける。私ごとで言えば足の指の付け根が、我慢しきれないぐらいに痛む。テープで補強したいのだが治療する場所がない。

足のトラブルの原因は、履き慣れたキャラバンシューズが駄目になり、新しいシューズを履いて行ったがこの靴が合わなかったことによる。両足に靴擦れが起こり、痛みを我慢して無理をしたことから傷が広がって親指付け根が裂けて膿をもち大事に至ってしまった。
    ・・・・ 続く
 第29日目、「浦和宿~蕨宿~日本橋」   25117()19()
  寒い。やはり寒い。それでも元気に最後の中山道に向かって歩き出した。浦和駅をスタートしたのは135分であった。幸い天気は良かった。最初のチェックポイントは「調神社」、「つきじんじゃ」と読む。この「調」という字は「租庸調」の「調」の意味だということは説明文ですぐに解った。参道両側に寄せられた雪を見てまずは旅の無事を祈る。「さいたま市立南浦和小学校」を過ぎま「六辻」の信号を渡る。しばらく歩くと平成3年に開園したという「六辻水辺公園」。入り口から続く道の左側に添って、自然石で仕切られた幅1メートルほどの水路が作られてある。
ここで最初の小休止を10分間とることにした。

実はこの水辺公園から歩き出して間もなく、本日第一回目の道の間違いを仕出かした。センターラインに沿って行けばなんという事はなかったのに、V字型の右の道がなんとなく中山道のような気がしてそちらに機嫌よく歩いてしまった。幸いこの時は300メートルほど先で、親切なご婦人に指摘され正道に戻った。それほど大きなロスにはならなかったのは幸いであった。
「旧中山道一里塚の跡」と言う比較的新しい石柱を道路の左側に見る。「蕨宿」に入った。錦町6丁目3番地の道路際に「中山道蕨宿一番地」の木製縦型の標識。その足元には20センチぐらいの高さで雪がかき寄せられてある。「境橋」を渡る。渡るといっても長さ2メートル半。渡ったという感覚は全くない。錦町5丁目に来ると「一六橋」がある。一と六のつく日に「市」が開かれたことがこの名の由来だとわかる。長久山宝蔵寺の前を過ぎる。「中山道蕨宿」の石柱で記念撮影。この宿内の両サイドの歩道には、40センチ角で中山道69宿場の、歌川広重と渓斎英泉の陶板絵が埋め込まれてある。錦町1丁目の信号を過ぎると「戸田橋」「巣鴨」の文字が交通標識に現れてきた。もう目的地も近い。実は今日は蕨宿内ではなく少し板橋よりの西川口に宿をとってある。     ………続く
 中山道 西から東へを歩き終えて
村田健一氏は、2年と6ヶ月かけて中山道を踏破されたあと、
次のようにブログに感想を書かれています! (
転載させていただきました)
 75歳にひと月を残す6月に京の三条大橋をスタートした足は、満76歳を6ヶ月過ぎた1月に江戸日本橋を踏んだ。
 2年と6ヶ月、回数にして29回、日数計算では41日かけて533kmを歩いたことになる。
実際は、間違ったルートを歩いてしまい、次回に正しい中山道を歩き直したり、歩行途中で間違いに気がついて正しいルートへ引き返したことは数度ではきかず、実際は550km以上歩いているように思う。

 雨の日もあった。暑い日もあった。寒い日もあった。そして私にとっては、新しいキャラバンシューズが足に合わず、靴擦れと、足の擦過傷に悩まされた「和田峠」の一番辛かった苦しい思い出がある。それが中山道で一番厳しい20kmの峠道で起こったのは不運であった。


登り10km、下り10kmの和田峠がアクシデントも重なった私には最もきつい難所であった。
それでもその翌日は和田宿から18,3km先の望月宿まで歯を食いしばって歩いたが、一夜明けた次の日の朝、足首から先が大きく腫れ上がり、無念にも次の日の予定を中止して引き返さざるを得なかった。足の痛みに加えこの夜はもっと恐ろしい目に会った。峠道を降りきった所で山中の国道142号線に出た。この頃はもう辺りは真っ暗闇、自分の居る場所さえわからない。やむなく宿泊予定の旅館「本亭」へ電話を入れたが「今どちらに居ますか?」言われても、自分の居る場所が真っ暗闇の山の中では言い様がない。とにかく下り道を辿りさえすればなんとかなるだろうと142号線を歩き出した。
しかし夜の国道の恐ろしさをすぐに思い知ることになる。100キロレベルの猛スピードで大型トラックがひっきりなしに走る。歩道は車道に引いたガードレールとの間隔が僅か80センチほどの幅。トラックが来る度に、背中のリュックを引っ掛けられないようにガードレールの外へ身を避ける。自分の体と走るトラックの車輪は1メートルほどしか空いていない。もちろん運転手からはこちらの姿は見えるはずはない。トラックが走り去る度に素早く先を急ぐ。トラックのヘッドライトが見えたらまたガードレールの外へ身を避ける。こんなことを1時間以上繰り返して先に進んだ。後日振り返ってみてもあの夜の行動は無謀であったと思う。よく事故にならずに済んだと思う。国道が142号線だったのも縁起が悪かった。一番に死ななかったのは幸運だった。
 太平洋を友として歩く東海道とは対照的に、中山道は日本の山々を友達として歩く事になる。まず三条から大津への峠は逢坂山、草津から暫らくは、伊吹山の雄姿に疲れを忘れさせてもらいながら歩いた。伊吹山と別れたら次に会ったのは鈴鹿山系。大きくはないが姿や形のいい恵那山も印象的だった。まさに木曽路からの眺めであったこともその印象を強くしたのだろう。次に現れ出たのは3067m西日本最高峰の御嶽山。御岳山、みたけさん、など読み方や文字の同じような山の名前が東京都や秋田県など日本にはいくつかある。

次に出会った浅間山は季節が冬であったので冠雪した壮大なスケールで見ることになった。
雄大さという意味ではこの浅間山が最も印象に残った。連合赤軍によって引き起こされた昭和47年の浅間山荘事件。あの時連日テレビにかじり付き、大きな鉄球が河合楽器の山荘の壁面に叩きつけられるのを、ハラハラしながら見ていたのを思い出しながら、銀色の雪に覆われた雄大な峰を眺めながら歩いた。

雄大ではないが碓氷峠を降りた時に目の前に現れたなんとも言えぬ奇妙な形の山には度肝を抜かれた。これが妙義山であった。長い道中で度肝を抜かれた光景は2つあったが妙義山はそのうちの一つ。
その後に現れるのは、標高1828mの赤城山や上毛三山の一つ榛名山があるが、中山道もあの奇妙な形をした妙義山を最後に、坂本宿辺りからは山とはおさらばして平地になる。山を身近なお友達として歩くのは峠の釜飯でお馴染みの坂本宿、駅名では横川が最後になった。

大和田建樹さんの作になる有名な「鉄道唱歌」北陸地方編第17節に妙義山を詠んだ歌詞がある。言い得て実に妙である。

「鉾か剣か鋸か、獅子か猛虎か荒鷲か、虚空に立てる岩のさま、石門高く雲をつく」

もう一つの度肝を抜かれた光景は、安中市の駅を過ぎて広い通りを歩き出した時だ。右の山肌にそそり立つ異様な光景。何かの本で読んだが「悪の巣窟のよう」と表現されていた。思わず「あれは何だ!」と指差したくなる光景だ。これは安中市中宿に建つ東邦亜鉛安中精錬所だということはあとで知った。

街道筋で郵便局を見かけたら、1000円貯金をすることにしていた。休祭日は記念スタンプがもらえないためパスしたが、草津矢倉郵便局で始めた1000円貯金が、最後の日本橋郵便局の1000円できっちり50,000円になった。わずか数十センチの一歩が、その小さな積み重ねで55万メートルの彼方にまで移動できるように、1000円の積み重ねが5万円になる。

多くの人に出会った。一人で峠の下り道を「蛇が出た!」と叫んで降りてきた50歳絡みのご婦人が居た。山小屋で大の字に寝ていたオーストリアからの若者が居た。畑仕事のおばさんは柿をもぎ取リ,大根を抜き、その上大仁田ネギの苗までプレゼントしてくれた。
「ここは中山道ではありませんよ」と教えてくれた人は一人や二人ではなかった。小田井宿から追分宿の道すがら、畑仕事中の農夫に間違っていると指摘された時には、既に引き返すにはあまりにも距離があり過ぎるので日を改めて正しいルートに再挑戦したこともあった。

550kmを超える道中を歩く間には多くの人たちに助けてもらった。こちらが尋ねなくても声をかけて頂いて助かったことも数知れずある。人間世界では一人では生きて行けない。助けあい手を差し伸べ合いながら生きてゆく。中山道行脚も人生の縮図といえる。
多くの人たちの親切に助けて頂いたからこそ、完歩出来たと思う。このブログ上で改めて御礼を言わせていただきます。
次回の講演会は、平成26年9月27日(土)学びの館にて
「豪商淀屋の歴史」 講師:毛利 信二氏 10時~12時です。
 

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