平成26年 9月定例勉強会 講師:毛利 信二氏 (淀屋研究会代表) 淀屋研究会のホームページ 淀屋闕所310年(大阪日日新聞) 閉塞した時代に活路 豪商が残した「教訓」 会場:青年の家・学びの館 午前10時~12時 31名(会員27名)の参加 |
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2014.9.27(土)午前10時、9月定例勉強会に31名(会員27名)が参加されました。 立花会長の挨拶、高尾企画事業部長の講演会の日程紹介に続いて、毛利 信二氏より、「豪商淀屋の歴史」について詳細なレジメと資料・写真集など、パワーポイントを使って解りやすくご講演いただきました。 毛利さんご自身が代表を務められ研究されている「淀屋研究会」のことから始まり、淀川水系、淀屋は何をしたのか?前期淀屋(秀吉・徳川時代)、闕所とは、倉吉淀屋、後期淀屋、淀屋から学ぶ魅力と凄さ、北河内地方に残る淀屋の足跡など、「豪商淀屋の歴史」全般を詳細に解説いただきました。 また、今回の講演会に先立ち、昨年の5月と11月の2回に亘り、交野歴史健康ウォーク「淀屋の史跡シリーズ」では、天満橋から淀屋橋・中之島周辺と八幡市内・神應寺から松花堂周辺を毛利信二さんの案内で淀屋の歴史と史跡探訪を実施致しました。 講演会後、毛利さんが、淀屋の歴史の中で一番興味を持たれて研究されていることは何ですか?とお聞きしたところ、一番興味を持って研究したいことではないのですが・・・、「江戸時代の各藩の記録やVOC(東インド会社)や朝鮮通信使などの資料から、淀屋の記事を掘り起しをしていきたい。時間がかかると思いますが・・・」とのご返事をいただきました。 最後の質疑応答でも話題になりましたが、淀屋に関係する資料や情報(墓石等)などがございましたら毛利さんまでご連絡下さいますようお願いいたします。 |
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※ 当日頂いたレジメ集及び毛利信二さん作成のパワーポイントの資料・写真集など、HPの掲載にあたり、毛利さんの快諾を戴きましたこと深く感謝申し上げます。有難うございました! | |
講師 : 毛利 信二氏 (淀屋研究会代表) |
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淀屋とは、江戸時代に大坂で繁栄を極めた豪商である。全国の米相場の基準となる淀屋の米市(北浜の米市)を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。 米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事により、幕府より闕所(けっしょ=財産没収・所払い)処分にされた。 しかし、闕所処分に先立ち伯耆国久米郡倉吉に暖簾分けした店を開き、後の世代に元の大坂の地に再興した。幕末になり殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じたと言われているが定かではない。 淀屋を創業した岡本家による前期淀屋、倉吉の牧田家は倉吉淀屋、闕所後に牧田家(淀屋清兵衛)により再興されたものを後期淀屋、と呼び分類している。 淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島4丁目~6丁目)があつた。 また現在も中之島に架かる淀屋橋や常安橋にその名が残る。 (毛利 信二さんに概略纏めていただきました) |
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毛利 信二氏 (淀屋研究会代表) |
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平成17年(2005年)5月16日・・淀屋闕所300年記念「淀屋サミット」を開催し発足 大阪の地形と京都の巨椋池 京都中部以南・滋賀・奈良中部以北.三重西部.大阪東部を流域とする(大和川は1704年) (前期淀屋①・・初代 与三郎常安・2代目 言当) (1)初代与三郎の出身地 ・城州岡本荘説 ・枚方岡本郷説? (2)信長の安土城造営の時の説も有る ・巨石の処理(石ころがしの与三郎) (3)秀吉の伏見城造営の時
①大坂に移り材木商を営む。 (5)家康・秀忠の徳川時代初期の大坂
(1)枚方御坊(枚方市蔵の谷) 石山本願寺記「私心記」・・・實従上人の日記 ・實従上人(幼名 九々丸):(1498~1564)蓮如上人の27番目の末子(13男) ・永禄3年(1560)~永禄4年(1561)に登場する淀屋の名前 淀屋・淀屋五郎・淀屋五郎兵衛・淀屋五郎衛門・淀屋次郎五郎・与三郎 (2)文禄堤(守口) 文禄5年(1596)2月に毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の三家に 命じて淀川左岸の堤防を改修整備。淀屋も一部に参画した。 (3)佐太天神宮(守口市佐太) ・慶安元年9月吉日 (1648年)拝殿と棟札(参照:表2)・三十六歌仙画乗圓作 ・慶安2年2月25日(1649年)連歌台『慶安天台』・・乗圓作 ・慶安3年2月25日(1650年)手水鉢と石井筒・・淀屋右衛門(重当) ・明暦2年正月25日(1656年)賦何人連歌・・尚政・正盛・重当・仙甫 (4)久修園院(枚方市楠葉) 行基が建立した四十九院の1つ、「淀屋」の墓が3基ある ・享保14年9月12日 (1729年)淀住 片岡祐次郎槍正孝建立 ・宝暦11年2月15日(1761年)大阪 片岡十右衛門政冬建立・・正英の墓 ・寛政10年8月 8日(1798年)大坂 片岡十右衛門政美建立・・正冬の墓 (5)お願い:淀屋に関係する資料や情報(墓石等)などがあれば、ご連絡下さい。 |
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表2:没収された淀屋の財産 ( 残された各種の資料・写しによると内容が異なるが、主なものを抜粋した)
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棟札を複製して、奉納しました。
桧の板は毛利 信二が、書は生田碧雲さんです。
・箇斎は、慶安元年(1648)7月12日に死亡(43歳) ・重当は、慶安元年(1648)9月吉日の棟札 (14歳) *言当の娘・妙恵(箇斎は婿養子)の影響力が大 ・永井信濃守尚政は、淀城主(10万石)・・宇治の興聖寺も建立 |
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① ~ ④ 日本経済新聞社・大阪本社 文化担当 毛糠 秀樹氏 |
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水都・大阪を代表する橋にその名をとどめる豪商「淀屋」。その本家は豊臣秀吉の天下統一の時期に大坂に入り、江戸幕府の初期にかけて、莫大な身代を築き上げた。しかし、わずか5代、100年を経て、財産はすべて幕府に没収され、ついえてしまう。 天賦の才、大阪の礎築く ① 中之島の開発や米市場設立など、「天下の台所」の礎を打ち立てた一族の光陰矢のごとき盛衰の跡を追った。 最盛期の淀屋はどれだけ広い屋敷を構えていたのか。歴史ファンらでつくる民間の団体「淀屋研究会」の副代表、蒲田建三さんの協力を得て、古地図などを基に現代と比較し、富裕ぶりを体感した。 まず東端は淀屋橋南詰に立つみずほ銀行大阪中央支店の入るビル。西端は御堂筋を渡り、土佐堀通り沿いに住友ビルまで約250メートル。南北も50メートルはあり、ショッピングモールがすっぽり入りそうだ。 江戸初期の元禄から正徳年間の記録「元正間記」は淀屋4代目、三郎右衛門(隠居後は古安)の豪華な暮らしぶりを記す。「夏座敷と称して天井にビードロ(ガラス)を張り、そこへ清水をたたえ、金魚を泳がせた」。あるいは、「大名へ金を貸すことが面白く、千両の無心なのに、千五百両も用立てた」。 淀屋本家は1705年、5代目辰五郎の時に幕府からの財産没収の刑である「闕所」の処分を受けた。その際の財産目録が各地に伝わる。商家などが筆写したようだ。 金銀製のスズメ16羽、黄金仏30体、100両以上の価値のある掛け軸230など豪華な物品がずらりと並ぶ。蒲田さんは「自分で買い集めた、というより、大名などに金を貸した際に、担保やお礼として差し入れられたのでは」と推測する。その説を裏付けるように、諸大名への貸付金は現在価値で100兆円、徳川家に同800億円と目録にはある。100兆円といえば、現代の国の一般歳出規模だ。 これだけの財を築いた一家の創業者は、いったいどんな才覚の持ち主だったのだろう。豊臣家から徳川家への政権交代にともなう動乱期、巧みに風を読み、覇者らの間を遊弋(ゆうよく)した姿が浮かぶ。 淀屋の初代は常安((じょうあん)。通称、与三郎といい、山城国の岡本荘(現在の京都府宇治市)の出身だった。まず材木商として身を起こした。新しい都市の創建には不可欠の商売である。大坂の陣(1614?15年)では徳川方につき、陣屋(拠点)づくりに協力。その功で山林を得たうえ、堺に上がる肥料、干鰯(ほしか)を独占的に扱う権利を手に入れた。常安はさらに、当時アシの生い茂る砂州だった中之島6000坪の開発を自ら願い出た。水運の利便性に着目してのことだ。やがて、諸藩がコメを貯蔵する蔵屋敷をこの地に建て始め、淀屋本家は「お家繁盛」の階段を駆け足で上ってゆく。 コメ取引 先べんをつける ② 全国各地の大名が大坂にコメを集中させ始めたのは豊臣秀吉の時代からとされている。淀屋は早くもこのころ、加賀藩から10万石ものコメを琵琶湖経由で大坂に運び、売りさばいた。 江戸時代にかけ、日本の経済はコメを中心に回り始める。各藩は蔵役人を大坂に置き、国元の貢租米を売っては現金に換え、江戸表や国元へ送った。蔵元の役割は次第に町人が務めるようになった。 淀屋は当時の「基軸通貨」たるコメの正当な評価と円滑な取引のため市を立てた。「市中の米商人は多くが淀屋に集まり、米を売買した。自然と米価の高低を競うようになり、米相場が成立した」と記録にある。「淀屋の米市」だ。 各藩の蔵屋敷が建ち始めた中之島と米市の立つ淀屋との往来に便利なように、長さ24間(約43.6メートル)の「淀屋橋」を私費でかけたのが本家の2代目、言当(げんとう)。1630年前後だろうか。 米市では次第に米手形や米切手も使われるようになって取引も発展。西鶴の「日本永代蔵」では「一日の米の取引量は240石」と記す。正式な記録はないが、淀屋は蔵元として、大名のコメを売って、手数料を取ったほか、米市の参加者から市の運営費のようなものも得ていた可能性もある。 米市はやがて新しく開発された堂島に移るが、それでも正月最初の取引は旧淀屋本家前で行われていた。この慣習は明治初期まで続いた。 商都へ脱皮 さなかの制裁 ③ 淀屋本家内にあった火伏の小社「若永神社」は、大阪城内に移築されている。 米市場に加え、青物市場や海産物市場も開き、天下の台所のインフラ整備を仕遂げた淀屋本家。「淀屋研究会」副代表の蒲田健三さんは「江戸幕府は、秀吉シンパの多かった大坂を徹底的に商都に変えようとした」と話す。 幕府の意に沿い、様々な特権で成長した淀屋にとって、1705年に下された闕所と呼ばれる財産没収のの処分は苛烈だった。何が原因か。 町人に禁じられた白無垢(むく)の着用など度を超えたぜいたくといった罪状に加え、貸し付け証文の偽造が理由に挙げられている。 5代目辰五郎は遊女を2千両で身請けしようとしたが、道楽が過ぎて金が自由に使えない。そこで、取り巻き連中が、事情を知らない薬種商の名義とニセの印で両替商から金を借りたのだ。現代なら有印私文書偽造・同行使と詐欺の容疑か。金は取り巻きが山分けしたとの説もある。 関与した10人中5人が千日前で獄門。辰五郎は京、大坂など5カ所の所払いとなり、京都・八幡に隠棲したが、その後、江戸へ出て蹴鞠(けまり)の興行に参加したとの記録が残る。伝説だが、江戸へ出た辰五郎の懐中には「黒田18万両、細川15万両」と書かれた貸し付け古証文があったとも。取り立てようとしたのだろうか。 「浅野内匠頭の殿中の刃傷が1701年、大石内蔵助らの討ち入りが2年後。幕府も豪商を滅ぼし、町人の受けを狙ったのでは」と蒲田さんは話す。 浪費の戒め 現代に残す ④ 「淀屋本家は時とともに、幕府にとって不気味な存在になった」と指摘するのは日本近世史が専門の佛教大学の渡辺忠司教授だ。 現在価値に直して諸大名に計100兆円を貸し付けた淀屋。厳しい取り立てをした記録などはないとはいえ、その差配一つで、藩や国の存在は揺るぎかねない。度を超えた富裕ぶりは、確立途上の幕藩体制の枠には納まりきれなくなっていた。巨大な「影の銀行」のようなものだろうか。 「換金作物であるコメを中心とした経済には、淀屋のような大名への貸し付けを行う豪商が不可欠だった」(渡辺教授)。大名にとって、収穫期が来る前に蔵のコメを全て売り切って金に換えてしまえば、どうしても「つなぎ」の資金が必要になる。 淀屋本家はなくなったが、コメ本位制ともいえる不安定な経済は変わらない。幕府は貨幣改鋳で財政難を乗り切ろうとしたり、新田開発を奨励し収穫量を増やすなど、様々な政策を繰り出した。商人に「株仲間」を作らせ、そこから上納金を得るなど流通段階への課税に腐心した時期もあったが、結局、農政の腰は定まらず、幕末を迎える。 「初期特権商人ともいえる淀屋本家の没落を教訓に、住友、鴻池の新興町人は家訓などで浪費を戒め、学問・文化にも精を出す町人像が生まれた」と渡辺教授。現代まで続くスタイルだろう。 京都妙心寺にある経蔵(重要文化財)は1673年、淀屋本家の4代目が寄進した |
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当日、講演会で使用されたパワーポイント 豪商「淀屋の歴史」から 毛利さんの了解を得て一部を掲載させていただきます。 |
京都妙心寺にある経蔵(重要文化財)は1673年、淀屋本家の4代目が寄進した |
1760(宝暦10)年建築の倉吉市に現存する最古の町屋建物です。 「淀屋」の屋号をもつ牧田家は倉吉を代表する商家で、淀屋橋で有名な大阪の豪商「淀屋 牧田家に縁のある倉吉市の大蓮寺には、代々の淀屋清兵衛の墓がまつられています。 また、豊田家住宅では歴史講談『淀屋の光と影』を開催しています。 |
YouTubeで倉吉淀屋をご覧ください! |
次回の講演会は、平成26年10月25日(土)学びの館にて 「百人一首の世界」 講師:中西久幸氏 10時~12時です。 |