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平成27年6月定例勉強会

河内木綿と機織り教室

  講師:小川 暢子氏 (交野市教育委員会)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 28名の参加
 2015.6.27(土)午前10時、6月定例勉強会に28名(会員21名)の方々が参加されました。

 高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の小川暢子氏から「河内木綿と機織り教室」をテーマで詳しくお話しいただきました。詳細な資料とプロジェクターによる映像を駆使してたっぷりとお話し頂きました。

 昭和50年代から収集されてきた沢山の民具の中、交野地方で使われてきた紡織具の一部が見つかりそれをもとに下機を復元し、河内木綿の復興を目指して、機織り教室が開かれ、続いて学校・地域の協力で「交野和わたプロジェクト」が立ち上げられました。機織り教室生をはじめ、学校、地域や保護者の方々の「綿づくり協力隊」の協力を得ながら地道な活動が続けられています。
 
(講演の概要)

 <河内木綿と機織り教室>
   1.河内木綿とは
     ・綿の栽培 木綿の特色
     ・木綿の歴史 綿の品種
     ・木綿糸を作る
   2.織機について
     ・原始機(腰機) 下機  高機
     ・織機の付属品
   3.交野機織り教室のあゆみ
     ・交野地方の紡織具の発見
     ・織機の復元
     ・和わたプロジェクトの立ち上げ
     ・現在の活動  
       古布の再現作業
       伝承作業
       普及啓発(総合学習・動く展示)
     ・今後のめざすもの


  <参考資料>
   1.平成13年度企画展示 はたおり 織姫伝説の里から情報発信
         交野市立教育文化会館「民具のへや」
   2.ちょっと昔の民具たち  交野市教育委員会
   3.機織り教室作品展&和わたプロジェクト成果展  交野市文化財事業団
   4.機織り教室活動の記録  
       交野市民俗文化調査報告2006-1 交野市教育委員会

 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ及び上記の資料などを参考にさせて
   頂きましたこと、記して感謝申し上げます。

 尚、当日、地元ケーブルテレビK_opti.com(ケイ・オプティコム)の取材があり、立花昇会長と講師の小川暢子さんが古文化同好会の活動や河内木綿と機織り教室の活動について、インタビューを受けました。

 TVの放映は、6月30日(火) 午前11時30分~
   再放送は、平日  13:45  16:15  17:45  19:15  21:00  23:30
   <週末版> 土曜日は 12:15  23:00   日曜日  16:00

  河内木綿(かわちもめん)   
            ちょっと昔の民具たち   交野市教育委員会

 糸が太く丈夫で、洗えば洗うほどしっくり落ち着く色や肌触り・・・・。これが河内木綿の特徴です。その特徴を生かして主に普段着や作業着、布団などに仕立てられました。
 かって河内地方は、木綿の一大産地でした。東大阪や八尾など中河内が有名ですが、北河内でも綿畑がひろがり、農家の副業として綿繰りが日常的に行われていました。
 「中河内郡誌」には、河内国における著名な綿布の一つに交野場木綿があげられており、長さ6丈(約18m)、重さ400匁内外(約1.5kg)の縞木綿が多く生産されていたようです。
 このように隆盛を極めた河内木綿も、明治時代に入り外国からの綿の輸入や織機の近代化によって次第に姿を消して行きました。
 河内木綿とは、江戸時代を中心に河内国において織られた木綿布及び河内国産の綿を意味する。特徴は、糸が太くて粗く、染色も美しいとはいえないが丈夫で長持ちするという点では普段着、仕事着として重宝され、着れば着るほど、洗えば洗うほど軟らかく肌触りがよくなる布である。起源は、應仁の乱の頃河内国渋川郡久宝寺城主渋川五郎満貞によって、明よ|り持ち帰られ領地内で栽培されたという言い伝えもあるが (布施町誌)、江戸初期には河内国においては盛んに木綿の栽培されていたことが『毛吹草』『南遊紀行』などからうかがえる。

 特に生駒山西麓の山の根のあたりは、山根木綿として有名であった。宝永元年(1704)の大和川の付け替え工事により、一千町歩以上の新田が開発されると、木綿生産は勢いを増し、綿布のみならず実綿・繰綿までもが商品として、大阪商人の手で売買されるようになった。明治初期には隆盛を極めた河内木綿であったが、その後近代化の波が押し寄せると、紡績会社や織物会社の進出、安価な輸入綿の増カロなどによって、徐々に衰退の道を辿っていった。

 河内木綿の生産地は、山根木綿や久宝寺木綿、三宅木綿など中河内地域が一人産地として名高いが、『中河内郡誌』によれば、明治10年代においては中河内のみならず、各産地場で商品取引が行われていた。産地には出口場、交野場、高野場、高安場、三ヶ場の五場があ|り、特に交野場は白木綿より縞物が多かった。『商業習慣調』には、北河内地域の木綿集荷、流通に関して「枚方木綿仲買商」の記載があり、讚良・茨田・交野郡は、東大阪地域と関連し大阪上町組木綿仲買仲間の支配下にあったことがわかる。さらに北河内においては、元来織工というものがなく、農業の合間に織り出した布を仲買が買い集め、大阪で売り捌いていたという。
  

   参照   平成13年度企画展示 はたおり 織姫伝説の里から情報発信
            交野市立教育文化会館「民具のへや」
 


講師:小川 暢子氏 (交野市教育委員会)


司会は高尾企画事業部長


立花会長の挨拶
勉強会 風景


紡錘車(ぼうすいしゃ) 糸に撚りをかけるときに使う円盤状の道具のこと。
 撚りをかけずに紡いだ糸は非常に弱いことから、
糸を紡ぐことは撚りをかけることであり、世界中で紡錘車は使われていた。
 

綿打ち弓
綿繰り機で種取した綿を綿弓で綿打ちします。
指で弦を弾き、綿を弾き繊維をほぐします。
綿をほぐすと同時に、綿の外殻などの不純物も分別できます。
 

綿繰機(わたくりき)の実演
綿の実から種を取り出すために考案されたものです。
ローラーの間に綿の実を差し込むと、ローラーの先から綿だけが伸び出し
いとも簡単に真っ白い綿と種に分けることが出来ます。
 

地元ケーブルテレビ K_opti.com(ケイ・オプティコム)の
インタビューを受ける講師の小川暢子さん


TVの放映は、6月30日(火)午前11時30分~
再放送は、 13:45  16:15  17:45  19:15  21:00  23:30
<週末版> 土曜日は 12:15  23:00   日曜日  16:00

 

当日、パワーポイントで上映されたレジメ
「河内木綿と機織り教室」


機織り教室の活動には現在9名の方々が参加されている。

糸へんの木綿と分けるために、木へんの綿は植物の棉。
実からふわふわの綿となり、製品になるまでのものを糸へんの綿と使い分けています。


日本原産のワタが和綿なのではなく、外来種(インドや熱帯アジアなどの綿など)が
この地に根付いて和綿と呼ばれるようになったということです。
一方、米綿と呼ばれる綿は熱帯アメリカや中央アメリカ原産の綿のように毛足の長い綿をさしています。


写真の3枚の花は何かお分かりでしょうか?
和わたと呼んでいるアジア綿が左、真ん中は米綿、右の写真はハイビスカスです。


左がオクラの花、右がアジア綿です。
少し白っぽく映っていますがどちらも大変よく似ています。

  左上、これが綿繰りをして取り出した種です。1つの房にだいたい8個から9個の種が入っています。ちょうど八十八夜の頃、5月にこれを撒きます。半月もすれば上段3枚めの状態。2か月もすればほっておけば70から80cmにもなってしまいます。そこで丈が40cmぐらいになったときに、摘芯といって、綿の木の一番先端部分をぽきっと折ってやるのです。それからは枝が横へ張り出して来ますので、たくさんの花を咲かせることが出来るのです。

 下段左は花の様子。下段真ん中は実ができている状態です。実は朔(もも)ともいい、花が咲いてからだいたい40日~60日ぐらいでコットンボールになります。収穫した綿はざるなどに入れて2,3日天日干しにします。水分をしっかり抜く必要があるからです。1つ1つの綿をそっとつまんで取りますが、さくのまま獲るところもあるようです。雨が続きそう、または気温が下がってきたらは早めに茎ごと引いてしまってドライフラワーに使います。
 日本へは8世紀の終わりに三河国にもたらされました。紀伊、淡路をはじめ四国や九州で栽培されましたが、綿の生育は、気温が高く、日照時間が長い所にしか適さないことから失敗に終わりました。15世紀の後半に朝鮮から綿布が大量に輸入されるようになり、16世紀には明からの綿布(唐木綿)の輸入が加わって、上流階級では木綿の着用が流行しました。さらに南蛮貿易によって東南アジア諸国から縞(しま)木綿がもたらされました。
 国内で木綿の栽培が始まるのは16世紀初め頃です。木綿は丈夫で耐久性にすぐれているため、戦国時代の武士たちは幕や旗差物、袴などの衣料に用いられました。需要の増加に伴って三河などで木綿栽培が始まり、またたく間に近畿・関東地方でも栽培されるようになりました。江戸初期には農民の着物も麻から木綿へと転換し、江戸中期になりますと、日本各地で特色のある銘柄木綿が産出されるようになりました。
 今から400年前、大坂夏の陣、1615年(慶長20年)5月6日、徳川方は中村正教宅(東大阪市枚岡・豊浦町)に宿泊した。正教が菖蒲(しょうぶ)の節句にちなんで木綿を献上したところ、家康は「勝布」と言い、大いに喜んだという。
 さらに、18世紀のはじめ、1704年(宝永元年)に大和川が付け替えられると、それまでの川床は畑として生まれかわり、綿作りがますます盛んになり、木綿織りはさらに発展しました。

 交野で最も多く綿の作られていたのは、星田村であり、次いで多かったのは郡津であった。綿は星田村に出荷して機に織られた。
 また、明治時代になると、交野においても篤農家が現れ、倉治地区の新庄武一郎は蜜柑・桃の栽培を始め、綿の種子を改良し、これを農家に広めて収穫を倍増させた功績により、明治29年に緑綬褒章を賜っている。実際に市内の各所においても木綿の栽培から機織りに至るまでの過程が細々ながらも昭和初期頃までは見られたものである。


綿繰り機、綿打ち弓、紡錘車、糸車など


  下機(しもばた)とは河内地方の呼び方で、当時のある書物では「木綿機(もめんばた)」とも書かれています。
伝統的な日本の手織り機には、大きく二つの種類があり、経糸(たていと)を機自体で固定する形式の「高機(たかばた)」と、織り手が経糸の腰につける形式の「地機(じばた)」にわけられます。

 下機は、後者の地機に属する織機です。
織り手が腰板で経糸とつながっています。この腰板の使い方、及び招き木と呼ぶ部品を足でうまく操作して、経糸を上下させたり、糸を張ったり、緩めたりして、横糸を入れていきます。
高機に比べて、熟練の技が必要ですが、織り手の個性がよくでる織機といわれています。

 なお、横糸を入れるのは、刀杼(とうじょ)と呼ぶ道具を使います。この道具で、横糸を通す作業と、打ち込みの作業がともにできます。


昭和50年代より収集を行ってきた民具資料の中、
上記の機台などが見つかり、下機(しもはた)が復元された
 下機(しもばた)(天秤腰機=てんびんこしばた)

 下機とは、上機(かみばた)(高機=たかばた)に対する言い方で、機能的分類からは天秤腰機と呼ばれる。腰機とは腰当によって経糸(たていと)の手前を引っ張って織る織機の総称で、招木(まねき)と呼ばれる天秤機構を導入した機を天秤腰機という。
 招木の一方の腕木(うでぎ)には、足引き用の紐が取り付けられ、 この紐を手前に引くと反対側の腕木が持ち上がり、 この腕木に繋がった糸綜続(そうこう)が引き上げられて連鎖的に下糸が上糸の上に持ち上げられる状態(綜絖開口=そうこうかいこう)になる。一方、足を戻すと中筒(なかつつ)によって交互に1本づつ上下に分けられた経糸の水平が保たれ(中筒開口)、 この両開口の間に緯糸を交互に通すことによって平組織の織物が織り上がっていくのである。


 この天秤腰機は、東アジアの「限られた地域でしか使用されていない特殊な機であるが、日本の中近世における一般的な織機であり、単に「はた」と呼ばれてきた。わが国におけるこの種の織機の形態を実際に確認できる最古の資料には、十世紀頃といわれている宗像大社神宝の金銅模型があり、その後中世末の『七十一番職人歌合』や近世の『職人尽絵』などにも天秤腰機が描かれている。現在でも、結城紬(ゆうきつむぎ)はこの機を使って織られている。

下機の部分名称について

※ 招 木(まねき)   天秤機構。腕木の一方に足紐をつけ、 これを引くともう一方の腕木が上がり、招木紐によって連結された綜続が上がる仕組みとなっている。

※ 中 筒(なかつつ)   経糸の開口を保持するための道具。下機には、三角柱状で支持粋をもたないタイプと二本棒を梯子状に組んだ粋を支持枠にはめ込んで上下にスライドさせるタイプがある。
    開口とは、 経糸が上下に分かれて緯糸を入れる隙間をあけること

※ 千 切(ちきり)(経巻具=たてまきぐ)  経糸を巻きとる道具。

※ 布巻具(ぬのまきぐ)  猪足ともいう。織った布を巻き取る道具。

※ 綜 絖(そうこう)   開口具のこと。経糸を1本おきに上下する操作を一度に完了させる仕掛け。下機の場合は1枚綜絖である。

※ 筬(おさ)  緯糸(よこいと)を通す際に、織り幅を一定に保つために作られた幅出し緯打ち具のこと。

※ 刀 抒(とうじょ)  緯糸を入れる作業と緯糸を打ち込む作業を共に行える道具。

※ 綾棒(あやぼう)  畦棒(あぜぼう)ともいう。2本の細い竹棒で経糸を交互に上下に交差させた、経糸を整えるための道具。

(※ ここで使用した名称は、山田和夫「河内の下機の復元製作と機織りの実践的研究」『八尾市立歴史民俗資料館研究紀要』9号  前田亮『図説手織機の研究』及び『続・図説手織機の研究』を参考)
 
 栃木県下野市国分寺の甲塚古墳(かぶとづか、6世紀後半)で、機織りをしている女性の埴輪(はにわ)2体が見つかり、同市教育委員会が5日、発表した。市教委によると、機織り姿の埴輪の出土は全国初。
   ( nikkeiWEB 2014/3/5 )

 甲塚古墳は、墳丘1段目に幅の広い平坦面を持つ全長約80mの帆立貝形前方後円墳で、6世紀後半に築造されたと考えられます。墳丘1段目の幅約14mある平坦面の中心部付近に円筒埴輪が一列に廻ることが確認されました。この埴輪列の墳丘西側括れ部付近からは、形象埴輪が復元できるもので24基出土していますが、この形象埴輪列中心から機織形埴輪が人物を伴い、2基出土しました。 
 河内木綿とは、江戸時代中頃以降、河内特に中河内の新田開発地域を中心とした綿作、手紡ぎ、手織りによつて出来上がった河内の特産品で、糸が太く布は厚手でずっしりと重く、暖簾や浴衣、布団地等に利用されました。

 交野も北河内郡に属し、明治期及び大正時期にかけて河内木綿の著名な産地の一つ「交野場木綿」として知1られていました。織物の特徴は、布目がぎっしり詰まった長さ約23m、重さ約1.5kgg程の布地で、真っ白よりは縞柄の織物が多かったようです。ただこのような特産品も近代化の波には勝てず次第に衰退していきました。
 交野機織り教室は、平成14年11月より活動を始め、平成24年には10周年記念展を開催しました。当初は糸を作ることに精一杯であった教室生も、今では糸を機に掛け、昔織られた河内木綿に少しでも近づこうと奮闘して、古布の再現作業・伝承作業・普及啓発活動が精力的に行われています。
 平成20年暮れからは「交野和わたプロジェクト」として、河内(交野)木綿の復興を目指し、市内で河内木綿の栽培が始まりました。
かたの和わたプロジェクト

 かたの和わたプロジェクトとは、河内木綿栽培事業のことで、河内木綿織(交野木綿)の復活をめざし、生涯学習の一環として綿栽培を通じ、学校や地域の人々との世代間交流を図ることを目的としています。綿我培から布製品を仕上げるには、長い歳月をかけてじっくりと取り組まねばなりません。

 まず綿の栽培地の選定から始まり、星田の旭小 学校隣地に栽培に適した市の用地があり、学校側と協議した結果、4年生が郷土学習(総合学習)授業の一環として栽培を行うことになりました。同時に星田山手地区の自治会でもこのプロジェクトに賛同して、和みの広場の畑に綿を植えていただけることになりました。
 5月の連休明けに種をまき、水遣りや草取りをして2学期になり収穫した綿は総重量約6kgで初年度にしては上々の出来でした。3学期になり、綿繰り、綿打ち、糸紡ぎの作業を行い、手作りのコースター作りに挑戦。翌年、機織り教室と和わたプロジェクト成果展で、生徒の作品やあゆみが写真やパネルで立派に展示されました。
 こうして機織り教室生をはじめ、学校、地域や保護者の方々の「綿づくり協力隊」の協力を得ながら地道な活動が続けられています。
 交野市会議員のさらがいふみさんのブログにも紹介されています。



古布の再現に向けて


平成28年の星田妙見宮創建1200年祭に
奉納する白木綿糸を製作中だそうです。
 交野市私部にあった「原田繊維会社」 
現在の交野市役所・青年の家
 私が子どもの頃、星田から私部の方を見ると、いつも黒い煙を出す煙突が見えて、あれが私部のぼうせきだと言っていた。毎朝早く工場の汽笛がボーと聞こえて母に起こされた。村のむすめや若い衆はくらがりから起きてしたくをし、3人、5人とむらがって工場通いをする。それが原田繊維会社であった。その頃は日清戦争後で、どうかしてこの国力をさかんにしたいとねがったわが国にはあちこちに工場が興った。しかし当時交野地方では原田織機が唯一のものだった。
  (交野市史 復興版 566P)

 昭和26年製の原田式タオル織機について

トヨタ産業技術記念館(名古屋市)の繊維機械館の一角に旧式のタオル織機が展示されている。
大阪府出身の原田元治郎が1903年に開発した「原田式力織機」を改良し、
タオル特有のループ状のパイルをつくる工程が加えてある。
同館の成田年秀副館長は「機械的にうまく動かす仕組みに感心する」と話す。

 日露戦争以降に全国の織物産地で急速に力織機の導入が進んだ。
泉州地域では「原田式」が豊田佐吉の「豊田式」より普及していたという。
51年製で、大阪タオル工業組合(泉佐野市)が動くように修復し、昨年秋に寄贈した。




トヨタテクノミュージアム 産業技術記念館では、
「タオルとタオル織機展」が開催されました。
 綿織物用の機械織機もまた在来の織物産業と結びついて発展しました。したがってその開発は、綿織物産業が盛んに行われていた大阪、愛知、静岡などの地域が中心となりました。綿織物用で初めての動力織機は、明治29年に愛知県の豊田佐吉が発明した蒸気による力織機でしたが、大阪では明治36年、原田元治郎(1859―1945)が、綿織物用の力織機を発明しました。

 原田元治郎は、明治26年頃から開発に着手し、足かけ10年、私財を投じて発明を成功させました。原田式力織機は全国的にも珍しい全鉄製の力織機でした。これは、輸入物の外国製力織機に触れる機会が多い大阪では鉄製機械が当然のものとされ、地元の機械工業もそれを可能とするほど発達していたためと考えられます。原田はさらに工夫を加え、木製と鉄製の混製にすることで力織機の低価格化を実現させ、原田式は泉州(大阪南西部)では豊田式を上回る普及をみせました。原田はその後も織物業の発展に対応して織機の改良を行い、タオル用織機の開発を進めました。

機織り教室の活動写真集
高尾秀司氏 提供
 平成24年 機織り教室 10周年記念展より
 
 
 
 
 
 平成25年 機織り教室  NHK取材風景
最後までご覧いただきまして有難うございます。

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