平成28年5月定例勉強会
講師:平田 政信氏 (交野古文化同好会)
青年の家・学びの館 午前10時~12時 28名の参加2016.5.18(水)午前10時、5月定例勉強会に28名(会員25名)が参加されました。
高尾事業部長の司会で始まり、村田事務局長の挨拶の後、講師の平田政信氏から
「交野の仏たち」をテーマで「交野の歴史・風土記と仏たち」などについて
プロジェクターで沢山の画像を映し乍ら大変詳しくお話しいただきました。
参加の皆さんからも次から次へと質問が飛び出し、大変有意義な勉強会となりました。
平成28年度からスタートした、古文化同好会特別企画「交野の仏たち」、今回はウォークに先立ち
交野の歴史・風土記・仏たちの概要をお話しいただきました。
来月からは、地域を分けて交野歴史健康ウォークとして実施いたします。
① 6月9日(木) 石仏の道を訪ねる
② 7月20日(水) かいがけの道の石仏
③ 9月21日(水) 妙見山麓の仏
10月以降も計画いたしております。
「交野の仏たち」講演概要
1.素朴な質問
①交野山 → なぜ こうのさんと呼ぶか
②交野山 △344m → 331mに何故 そのとき 旗振山は竜王山は
③月の輪の滝と呼ぶのは何故
④郷土史かるた 「秀吉も およばぬ 舟形巨石」 かるた札 訂正もしくは差し替えか?
2.交野三山 交野山 旗振山 竜王山
3. 国宝・獅子窟寺の薬師如来像 弘安地蔵 地蔵菩薩(岡山へ)
4.私が選んだ「ふるさと交野ベストⅢ」
山、川、道、地名、遺跡、古墳、建物、仏像、石仏、廃寺、滝、 ・・・・ 窪み石
5.仏の世界のヒエラルキー 如来、菩薩、明王、天
獅子窟寺は中品上生 金剛力士 仁王・獅子窟寺 十二神将(獅子窟寺など)
6.熊本地震 → 慶長伏見地震 痕跡 有池遺跡発掘調査で発見!
元・愛染律寺地蔵菩薩像の寄板裏の銘文 宝永4年の大地震のこと
7.七条仏所跡(しちじょうぶっしょあと) 運慶・快慶など仏師の居住跡
8.その他 歴史と風土記と仏について
<参考>
※ 交野の地名の由来
この地方は、昔から「かたの」と言われていました。「かたの」の「の」とは、もちろん「野」、
すなわち平坦な低地のことであり「かた」は「潟」で、水が差したり引いたりする所という意味です。
「交野」の名称は、和名称に「加多乃」と読み、その名称の起源については、丘陵と平地が
交迭(かたがた)に存すると言い、また、淀川流域の低地から見ると丘陵上の平地とも見えるので
「肩野」と称されたとも言う。
また交野三山の向こう側は奈良県であり京都府であることから、片方に開けた「野」すなわち
片野ともいわれていますが、いずれも明らかではない。
※日本の立派な寺の中に獅子窟寺はあるのか?日本九品浄土事の中に日本ノ九品トハ何レヤ。・上品上生→高野山・上品中生→天王寺・上品下生→賀峯山・忍頂寺(大阪・茨木)・中品上生→師子岩屋・中品中生→金峯山(奈良・吉野)・中品下生→大安寺・下品上生→熊野山・下品中生→東寺・下品下生→東大寺よって、獅子窟寺は日本の立派な寺の中にある。
※七条仏所(しちじょうぶっしょ)
平安時代中期に活躍した仏師(仏像彫刻家)定朝(じょうちょう)をはじめ、
その一族・子弟・子孫がながく居住して彫刻にはげんだ「仏所」のあったところで
「七条仏所」「七条大仏所」と呼ばれていた。
鎌倉時代に入って、この仏所から運慶(うんけい)・湛慶(たんけい)・
快慶(かいけい)らが相ついであらわれ、多くの名作を世におくった。
※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメ及び
プロジェクターの映像資料などを参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。
講師:平田政信氏(交野古文化同好会)
司会は、高尾企画事業部長
「交野の仏たち」レジメ 平成28年5月18日
於 交野市青年の家
獅子窟寺 国宝「薬師如来坐像」 |
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私市 弘安地蔵 |
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地蔵菩薩立像 岡山県・高山寺 |
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重文 阿弥陀如来立像 蓮華寺 |
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足柄に「巧匠アン(梵字)阿弥陀仏」と墨書き |
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交野山 |
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聖観音(サ) |
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大日如来(ア) |
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三宝荒神(ウン) |
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鮎返しの滝 |
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賓頭盧さん |
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江戸時代の絵図に「交野尾山」 |
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磐船神社の御神体(舟形巨石) |
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磐船神社 河内名所図会 |
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天の磐船に彫られた加藤肥後守の拓本 |
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四社明神(鎌倉時代) 幅2メートル20センチ、高さ1メートル5センチの彫り込み内に 線刻の光背を背にして四神が並んでいる。 |
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三百年前 大阪にも地震と津波 地蔵菩薩立像 岡山県・高山寺 井上 富貴子氏(松塚) 交野古文化同好会 40周年記念誌より |
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平成四年五月、奥野平次先生と古文化同好会の方達十四名がマイクロバスで、岡山県の高山寺へお参りさせて頂きました。 その目的は、昔星田の愛染律院で星田の人たちが拝まれた地蔵菩薩さまが岡山におられるので、拝ませて頂くためでした。 このバス旅行のきっかけは、妙見坂にお住まいの故越膳光子さんが、岡山県で岡山文庫発刊の「岡山の仏たち」を入手され、交野にご縁のある仏さまなので、奥野先生にお話しされたことがご縁での旅行でした。 明治五年に星田から移座された地蔵菩薩さまは、桜材一木造、像高一、五四米。頭、体を通して一木から刻み、背より内刳を入れて蓋板を当ててありました。昭和二十九年に仏像の解体修理をされた時、その胎内より長文の墨書が発見されました。このお地蔵さまの胎内から発見された古文書に書かれていた内容は、大地震と津波により大阪・四国・中国で亡くなられた方々の慰霊文でした。 当時、慰霊文を読ませて頂いた私は、遠い昔に大変な災害が有ったのだなあと思っていましたが、今年三月十一日東北大震災があってからは、三百年昔の地震は人事でないと気付きました。 古文化同好会の皆様にも知って頂けたらと思いました。「岡山の仏たち」の中の地蔵菩薩の項を其の侭書きますのでお読みください。 この三百年昔の地震は宝永大地震(宝永4年・1707年)のことで、今年6月古文化同好会のバス旅行で訪れた「稲むらの火の大地震・津波(安政元年・1854年)」より遡ること150年も前のことです。 「地蔵菩薩」岡山県井原市 高さ一・五五㍍の寄木造り。木彫は藤原時代の頃からほとんど全部桧になるのであるが、この材質は桜らしい。納衣の正面全面にわたって麻の葉・網目・籠目・卍つなぎ・七宝つなぎ等の切金文様がすこぶる鮮明であるが、大形で趣に乏しく江戸時代(おそらくは宝永四年)の新補である。古い様式を模した跡もみられるが完全に形式化して硬く、製作年代は室町時代と思われる。光背、台座は後補である。昭和二十九年修理の際、胸部から五穀が現われ、なお背面下部の寄板裏の銘文が発見された。 そしてその内容は宝永四年十月四日の大地震による近畿地方を初め中・四国の災害を付記した死没者のための慰霊文、および同年十一月二十三日の富士山の爆発それによる小富士すなわち宝永山の出現情況を記したもので珍しい記録の一つといえる。ただしこの像はもと河内国交野郡星田村愛染寺にあったのを明治五年に高山寺へ移座したものだから、書かれたのは大阪の東北約二〇キロの星田においてである。 銘文は次のとおり 当年大阪四国中国にて失たる者悉皆成仏」十方法界悉皆成仏」地蔵菩薩天下太平天長地久」聖徳太子時代とり仏師作也」宝永四年十二月日」当寺安全長久願主安全」(上部)。当年十月四日大じしん大阪にて家国中九分くづれ一分のこる。大地しん昼四つ時つなみ晩の八つ時也」つなみになかれたる橋二十五くづれ方々の入船出船百そうくづれ船山に上る大阪にて人六万人しする其外はしれず」あはぢにて船三十そう人一万人しするきのくににて船五十そうつなみ地しんにて人三万しする」其外中国四国にて三十万程しする十月より十二月まて小地しんゆる事百度也」同十一月ふじの山やくる事よるひる十五日が間江戸するがにすなふり小石ふる事二十日間なり」あるいは砂五寸三寸五尺八尺一丈二丈つもる事所によりて大小ありこれみなふし山のやけ」石すなふり里家みなふりうめる所大分大分に入しするふし山三里四方やけやるなり」其時にふし山の下に小ふじといふ山夜の間に出来するこれすなふき付てつもりたる山なり」ふし山にあなあくそれよりすな石ふき上て山となる」(下部)。 ただし、これは災害の恐怖まだ消えやらぬ頃、風評をそのまま書いたものだが、文露叢(慊堂日歴所引)には、「大坂圧戸一万六百、圧死三千廿口、(中略)自廿二日午時至明日辰半、地震三十次、富士郡民屋大頽、巳時富士山鳴動、自樹林處、烟雲噴出如晦、昼惟見烟、夜間皆火」と見える。 (重文) 参考:ふるさと交野を歩く ひろい話(三)に「愛染律院の地蔵菩薩像(星田)に掲載されています。 |
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最近の発掘調査から~有池遺跡(ありけいせき) より地震の傷跡を発見! 慶長(伏見)地震(けいちょう(ふしみ)じしん) 1596(文禄5・慶長元)年9月5日の午前零時頃、突如として起こった大地震は京都盆地や大阪平野に甚大な被害を引き起こしました。京都では完成したばかりの伏見城が壊滅的な被害を被り、大阪でも多くの建物が倒壊し多数の死傷者が出ました。特に震源地に近い八幡や山崎では家屋の大部分が倒壊したと記録に残っています。この地震のエネルギ-規模は、先の阪神・淡路大震災の10倍以上程度であったと推定されています。この地震は当時の交野の村々にも甚大な影響を及ぼしたと想像されますが、残念ながら何一つ記録には残されていません。 しかしながら、土地所有者(田中孝氏)の協力を得て、7月16日から8月10日の間にかけて事業団が実施した有池遺跡(ありけいせき)の発掘調査において、この地震による痕跡と推定される噴砂(ふんさ 激しい地震によって液状化した砂が噴きだしたもの)の跡を確認しました。場所は青山3丁目432番地 倉治と私部の境を流れる免除川の南側で、すぐそばを第2京阪道路が通る予定です。 今回、発見された噴砂は、地震当時の地表面から70㎝以上深い位置に堆積していた、礫(小石)を多量に含む砂層が地下水によって液状化し、鎌倉時代の遺構や遺物を含む地層と、その上の水田耕作土層を引き裂いて地面に流れ出たものでした。地面に噴き出した際の割れ目の幅は50㎝以上にも達していました。また、砂脈の一部が後世の免除川の決壊(1769年)による影響を受けていたことから、この地震は、14世紀から1769年までに起こったと推定されました。 |
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石仏調査隊の活動記録 「石は語る」 交野石造物全数調査報告書 平田 政信氏 (石仏編)完成(2002年9月) 交野古文化同好会 40周年記念誌より |
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「はじめに」 交野は歴史的に古い所なんですなぁ。 地蔵さんもたくさん、いやはると聞いてますが。 いったい何体くらいいやはりまんねん? そうでんなぁ、よおけいやはりまんねん 何体くらい、数百体、それとも・・・・・。 こんなやり取りがきっかけとなり「石仏調査隊」(隊長:平田政信、隊員:中角甫・村田義朗)を 結成し全数調査に踏み切った。 私達の生まれ育ったところに、素朴な生活を営んでいた人がいた。遠い祖先たちが石仏に 託した祈りや、想いを、いま石仏に向かう私たち自身の姿を見つめ直す良い機会でもあり、 出会いでもありました。 「石は語る」 交野古文化同好会 感動できる者は幸せだ。 あぁ美しい。 あぁありがたいと心から言える者は幸せだ。 人間はいつの頃からひねくれてしまったのだろう。 こんな些細な、当たり前のことにひどく心をつき動かされる。 ひたむきな心を失わないで。 そっと写真の前に立てば何かを教えてくれているのでは ないでしょうか? 感じたら、四季折々に変化する「交野の里」に出てみませんか? 自然と石仏との調和が心を豊かにしてくれます。 |
最後までご覧いただきありがとうございました |