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平成28年6月定例勉強会

伊勢神宮の成立と内向花文鏡
  講師:南 光弘 (東大阪文化財を学ぶ会代表)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 36名の参加
 2016.6.25(土)午前10時、6月定例勉強会に36名(会員31名)が参加されました。

  立花会長の挨拶の後、講師の南 光弘氏から「伊勢神宮の成立と内向花文鏡
をテーマで、
 詳細なレジメとプロジェクターで沢山の資料・画像を映し乍ら大変詳しくお話しいただきました。
  講師の南 光弘さんが調査研究された内容をご講演くださいました。

  このたび、南様には大変興味深いお話をお聞かせ下さり誠に有難うございました。
  今回の勉強会の内容を取りまとめるに当たり、南氏の著作「内向花文鏡とアマテラスの誕生。
  そして、伊勢神宮成立の謎」(あしたづ 第18号)を参考にさせていただきました。
   
  
伊勢神宮の成立と内向花文鏡講演概要

    1.はじめに
      ・内向花文鏡との出会い
       伊勢神宮の神宝が八咫鏡と呼ばれる仿製内向花文鏡であること、
       元伊勢籠神社、日前神社・国懸神社の神宝も内向花文鏡
      ・副葬品として国内で140面出土している
       平原遺跡の大型内向花文鏡ほか、古墳遺跡から多数出土
    
2.神社のご神体、神宝と内向花文鏡・八咫鏡
        ①宗像大社と八咫鏡  ②伊勢神宮と八咫鏡 
        ③元伊勢籠神社と内向花文鏡 ④日前神社・国懸神社
     3.内向花文鏡の特質を考える上で重要な古墳副葬品
        ・平原遺跡について
         ①弥生後期(約1800年前)方形周溝墓 
         ②国内最大の径46.5cm、重さ約8kgの
          国産の大型内向花文鏡4枚出土  
         ③原田大六氏(発掘を担当)「実在した神話」で、

          大型内向花文八葉鏡を「八咫鏡」とした
     4.天武・持統朝と伊勢神宮の成立
        皇祖神、天照大神を祀る伊勢神宮が成立したとされる
        天武・持統朝の動きについて
     5.まとめ
    
   ①内向花文鏡の特質について
          内行花文鏡と太陽信仰との関わり
       ②持統天皇と天照大神との関連について

          『日本書紀』は持統天皇を天照大神という国の最高神に化身させる一方で、
         伊勢神宮の成立に大きな役割を果たした夫、天武天皇を素戔嗚男尊として
         高天原から下界に追放することを意図するものであったようだ。


      <参考文献>
        『日本書紀』坂本太郎、井上光貞、家永三郎、大野晋 校注 岩波文庫
         『古事記』倉野 憲司校注 岩波文庫
         『考古学に学ぶ』所収「首長霊による内行花文鏡の特質」
                   森 浩一、松藤和人編 同志社大学
         『実在した神話』原田 大六 学生社
         『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭』石野博信、西川寿勝
                  など 新泉社
         『アマテラスの誕生』筑紫 申真 講談社学術文庫
         『天武天皇論』大和 岩雄 大和書房
         『伊勢神官の謎を解く』武澤 秀一 筑摩新書

       

 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメと「内向花文鏡とアマテラスの誕生
    そして、伊勢神宮成立の謎」(あしたづ第18号)の資料など及び、諸WEB記事を参照させて
    頂き、記して感謝申し上げます。


講師:南 光弘 (東大阪文化財を学ぶ会代表)
勉強会 風景

立花会長の挨拶

南 光弘様

平原遺跡の内向花文鏡の出土状況

伊勢神宮の成立と内向花文鏡
講師: 南 光弘氏(東大阪文化財を学ぶ会代表)
内向花文鏡とアマテラスの誕生 
そして、伊勢神宮成立の謎
 PDF
 参照
<はじめに>

 東大阪文化財を学ぶ会の歴史探訪会は、式年遷宮祭の伊勢神宮に正式参拝した後、丹後一宮の元伊勢籠神社(もといせこのじんじゃ)、そして、紀伊国一宮の日前神社(ひのくまじんじゃ)、国懸神社(くにかかすじんじゃ)を参拝見学した。伊勢神宮の神宝が八咫鏡(やたのかがみ)と呼ばれる傍製内行花文鏡(ほうせいないこうかもんきょう)であること、籠神社の神宝が息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる前漢、後漢時代の鏡、日光鏡系と呼ばれる連弧文鏡、後漢時代の長宜子孫銘内行花文鏡であること、また、日前神社、国懸神社の神宝は、日像鏡(ひがたのかがみ)、日矛鏡(ひぼこのかがみ)と呼ばれる内行花文鏡であることを知った。

 そして、更に『魏志倭人伝』に記載されている伊都国(糸島市)の平原遺跡(ひらばるいせき)を見学した。その平原王墓一号墳出土の四面の傍製内行花文鏡は、実に大きく径四十六.五cm、重さ約八kgであるという。発掘を担当された原田大六氏は自著『実在した神話』で「八咫鏡」とされている。非常に興味深い話で、邪馬台国、卑弥呼ともつながる伊都国ということもあったが、伊勢神宮の成立とも関連があるのではと、調べることにした。
1.神社のご神体、神宝と内向花文鏡・と八咫鏡

(一)宗像大社(宗像三社)と八咫鏡

 宗像大社の神宝として、青瓊(あおに)の玉を奥津宮の、八尺瓊の紫玉を中津宮の、そして、八咫鏡を辺津宮のしるし表とし、三女命の玉鏡を神宝にして祀っている。この三神の體(み)の形と成して身形(みなかた)。身形が社名を「宗像」と称するという。(神社むなかた電子博物館紀要第二号より)

(二)伊勢神宮と八咫鏡、別名真経津鏡(まふつのかがみ)
 伊勢神宮の八咫鏡について(『神宮儀式帳』延暦二十三年・八0四)に内行花文鏡とあり、『御鎮座伝記』(新道五部書、奈良時代の作?)に「八頭八崎八葉形也」とある。また、八咫鏡は、御樋代という凡そ五十cm円筒形の容器に納められているという。御樋代の寸法から、八咫鏡の大きさは自ずと類推され、平原王墓の大型内行花文鏡と同じ大きさと考えられる。

 この鏡について、「天の安の河の河上の天の堅石を取り、天の金山の鐵(まがね)を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて、伊斯許理度賣命に科せて鏡を作らしめ」と『古事記』では述べられている。また、御神体となるのは、「これの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拜くが如き拜き奉れ。」「この二柱の神は、さくくしろ、五十鈴の宮に拜き祭る。」と記述されている。また、「吾が児、此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くしおほとの殿を共にして、 斎(いはひ)の鏡とすべし」とのたまふ。と、「記紀」でご神体になった由縁が説明されている。




 伊勢神宮は三重県伊勢市にある皇室の宗廟(そうびょう)で、正称、神宮である。皇大神宮[内宮(ないぐう)」と豊受(とようけ)大神宮[外宮(げぐう)]との総称である。皇大神宮の祭神は天照大神、御霊代(みたましろ)は八咫鏡(やたのかがみ)で、豊受大神宮の祭神は大神である。20年ごとに社殿を造り加える式年遷宮の制を遺し、正殿の様式は唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)と称す。
 
       

 谷川健一郎編『日本の神々 神社と聖地(6)伊勢・志摩・伊賀・紀伊』(白水社 1986年刊)に八咫鏡について、下記の記事がある。
「内宮の御神体の八咫鏡(やたのかがみ)は、御樋代(みひろしろ)という小箱に入れたうえで、いろいろな衣と裳(も)・比礼(ひれ)・帯・おすひ・履(くつ)・鏡・御衾(おふすま)・櫛筥(くしはこ)・枕などとともに「御船代(みふなしろ)」という大きな櫃(ひつ)のなかに納め、正殿(本殿)の神座の床の上に置かれていた。南北朝時代の『貞和御餝記(じょうわおかざりき)』にある御船代の形状は、古墳時代前期に盛行した舟形石棺に似ており、たとえば、その時期にこそ御船代とさらには神宮が成立したのではないかと推定する説もある。」

「御船代」というのは、つぎのようなものである。
まず、「霊代(たましろ)」ということばがある。
「霊代」というのは、神や人の霊の代りとして祭るもので、「八咫(やた)の鏡」は、天照大御神の「御霊代(みたましろ)」である。
伊勢の皇大神宮は、天照大御神の「御霊代」である「八咫の鏡」をまつる。

つぎに、「樋代(ひしろ)」ということばがある。
「樋代」というのは、「霊代」をいれる容器のことである。伊勢の皇大神宮のものは、「御樋代(みひしろ)」とよばれ、円筒型をしている。

◎ 内行花文鏡説
 福岡県前原市大字有田の平原遺跡から直径46.5cmの巨大な内行花文鏡が、5面出土している。日本最大のものである。八咫の鏡は、この種のものとする説がある。(原田大六著「平原弥生古墳」〔葦書房刊〕による。)

巨大内行花文鏡も、考えられる。
鏡が小さいのに、無用に大きな樋代(ひしろ)をつくることはないであろう。
「樋代」の外径60センチ内径50センチ近く(49センチ)といえば、かなりな大きさである。 日本神話にあらわれる八咫の鏡を内行花文鏡であろうとする見解を、最初に強く主張したのは、北九州の平原遺跡の発掘で著名な、原田大六(1917~1985)である。

原田大六は、その著、『実在した神話』(学生社、1966年刊)のなかで、およそつぎのようにのべる。

「『延喜式』の『伊勢大神宮式』でも、『皇太神宮儀式帳』でも、容器の内のりが一尺六寸三分(約49センチ)の径を持つと明記している。平原弥生古墳に副葬されていた八咫ある鏡は、径46.5センチであるから、2.5センチの手で持って納める余裕まで持っている。ということは伊勢神宮の『樋代(ひしろ)』の中にすっぽり納まる大きさであるといえる。

(三)元伊勢籠神社(宮津市字大垣)と内行花文鏡
・日本最古の国宝海部氏系図(こくほうあましけいず)で有名な籠神社に二枚の伝世鏡を所蔵している。
 辺津鏡(左)径九.五cm「日而月内而」「明而光」銘の前漢鏡と息津鏡(右)径十七.五cm「長宜子孫」銘の後漢鏡である。
 元伊勢籠神社は、天武天皇の時代に与謝宮から籠神社と改め彦火火出見命を主祭神として祀り、養老三年(七一九)に本宮を奥宮真名井神社の地から、現今の本宮に遷し海部氏(あまし)の祖神、彦火明命(ひこほあかりのみこと)(別称、天火明命(あめのほあかりのみこと)、天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命)を主祭神として相殿に豊受大神、天照大神及び海神(わたつみ)を祀っている。ここで注目したいのは、祭神の「天火明命が天照大神と高木大神から授けられたと言われる息都鏡、邊都鏡などの十種(とくさ)の神宝を将来していることである。




      
                        
                        海部(あまべ)氏の伝世の鏡
     
(四)紀伊国一之宮、日前神宮・國懸神宮と日像鏡、日矛鏡
 日前神宮の祭神は伊勢神宮の宝鏡、天照大神と同体の鏡、日像鏡を神体とし日前大神を祀っている。また、國懸神宮は、日矛鏡を神体とし、國懸大神を祀るという。
 日像鏡、日矛鏡の鏡は、神武東征の後の神武天皇二年、紀国造家(紀氏)の祖神である天道根命(あまのみちねのみこと)が、八咫鏡に先立って鋳造された鏡である日像鏡、日矛鏡を賜り、日像鏡を日前宮の、日矛鏡を國懸宮の神体としたとしている。(由緒書より)また、『日本書紀』神代上宝鏡開始第一の一書にも「石凝姥命(いしこりどめ)を以て冶工(たくみ)と為し、天香山之金を採りて、日矛を作らしむ。また真名鹿の皮を全剥ぎて以て天羽ぶきに作る。此を用て造り奉る神は、是即ち紀伊国に坐します日前神なり。」とある。
三.内行花文鏡の特質を考える上で重要な古代祭祀、古墳副葬品

 国内で古墳などから出土した内行花文鏡は舶載鏡、国産鏡・傍製鏡合わせて百四十枚ほど現存している。
 当時の祭祀についての意識、内行花文鏡の意義が推測される主な出土例をあげてみる。
(一)伊都国、平原遺跡(ひらばるいせき)(福岡県糸島市)

 弥生後期(約千八百年前)の方形周溝墓。墓墳から鉄素環頭太刀、装身具など大量の副葬品が出土。銅鏡四十二枚の内、前述の国産鏡である大型内行花文八葉鏡が四面、また内行花文鏡一面が打ち割って重ねられた状態で出土していた。また、内行花文鏡の特質を表す遺跡が発掘されている。

 一号墓の墓墳周辺に十二本の柱穴跡があり、上から見て、このうちの十本を結ぶと平行四辺形の形が浮き上がる。短辺の中央の柱穴を結んだ線の延長には、それぞれ短辺の中央の柱穴から一メートルほど離れた場所に柱穴跡がある。この四本の柱穴を結んだ線の延長上の東南約十五mに『前原市報告書』が「大柱跡」とした穴があり、その延長線上に日向峠がある。

 原田大六氏は、「モガリノミヤあるいは埋葬後の棺の内外に、鏡面を外にしてめぐらせ立てかけたというのは、その被葬者が、生前に日迎えの行事をおこなった誇示でもあり、日子・日女の姿を具現しているともいえよう。そして、八咫鏡は、この日の祭礼のために鋳造されたものであったろう。」と『実在した神話』で述べている



当時の銅鏡は中国から伝わった漢鏡(かんきょう)が多く、直径10センチ程度の手鏡サイズで、おもに魔よけとして埋葬されています。

しかし内向花紋鏡は直径46.5センチの大型鏡で、実用品とは思えず、これ自体が祭器として使われたようです。また中国や朝鮮には出土例がなく、日本列島で生産されたものです。

発掘者の原田氏は、この大きさに注目しました。

46.5センチは漢代の単位で2尺(しゃく)。
また円周の長さの4分の1を咫(あた)という。
直径×円周率=円周=4咫(あた)となるので、
直径1尺の銅鏡の円周は4咫(あた)
直径2尺(46.5cm)の銅鏡の円周は8咫(あた)
「8咫(やあた)の鏡」→「八咫(やた)の鏡」
これこそ伊勢神宮のご神体、三種の神器と同じものである、と。
(二)下池山古墳(天理市成願寺町)
 前方後円墳、全長百二十m、古墳時代前期前半・四世紀初~中頃。埋葬施設は爽紺棺(きょうちょかん)で高野槙材の割竹形木棺が発見された。出土遺物は、径三十七.六mの内行花文鏡・四葉座八花文鏡、勾玉、管玉、ガラス玉など。
 石室は安山岩の板石を用いており壁面には赤色顔料が塗られていた。内行花文鏡は、五十cm四方の小石室から発見されているが、縞模様に染められた絹織物等から作られた巾着袋に入れられ木箱に納められていた。
また、この木箱も羅を使った漆塗の箱で当時の最高の素材と技術を駆使したものと言われている。


  
(三)柳本大塚古墳、(四)雪野山古墳、ほか以下省略。
内向花文鏡とアマテラスの誕生 そして、伊勢神宮成立の謎 PDF を参照ください。
四.天武・持統朝と伊勢神宮の成立

 次に、皇祖神、天照大神を祀る伊勢神宮が成立したとされる天武・持統朝の動きをみたい。

(一)天武元年(六百七十二年)六月二十四日、大海人皇子が吉野宮を出立し壬申の乱が起こる。そして二十六日、「朝明郡の述太川の辺にして、天照大神を望拝みたまふ。」とある。この望拝の地は、伊勢多氏の舟木氏の本拠地である。この舟木氏は、日神を祀る氏族だから、この地での天照大神の望拝とは、舟木氏の祭祀といえる。
 そして、天武二年(六七三年)四月、大来皇女、制度上最初の斎王として「天照太神宮に遣侍さむとして、泊瀬の斎宮に居らし」伊勢に向かっている。

 この頃、聖なるライン「太陽の道」と南北ライン「新羅の道」の交点に斎宮(宮殿・三重県多気郡。国史跡指定二km×七百m)造立されている。
 聖なるライン「太陽の道」とは、北緯三十四度三十二分上の東西約二百kmの長さに太陽神を祀る神社、遺跡が並んでいることを小川光三氏が発見されている。淡路の舟木石上神社、伊勢久留麻神社、長谷寺、三輪山、箸墓古墳、田原本の多神社、広陵の百済神社、斎宮・祓戸、神島の八代神社が並ぶ。

 「新羅の道」とは、(東経百三十六度三十七分)新羅の神、菊理媛を祀る白山比呼社、美濃国安八麿評(湯沐邑令・多臣品治)赤鉄鉱の鉱脈。金生山、素戔嗚男尊を祀る津島牛頭社が並ぶ。この交点に意図的に斎宮を造立したのは、正しく日神信仰と天武天皇の政治的にも経済、軍事的な支持基盤、そして、日神を祀る海人族、尾張氏などを意識したものといえる。



        

 朱鳥元年(六八六年)に、天武の病気回復を祈願して、「伊勢」ではなく紀伊国国懸神、飛鳥の四社、住吉大社六社に奉幣している。紀伊国国懸神とは神格の一である「紀伊國に坐す大神」と見るのが素直な見方。日の神、風の神、木の神か。また、この年に天武天皇が崩御し大津皇子が殺され、大来皇女が斎王を解任されている。

(二)持統三年(六八九年)四月に草壁皇子が薨去され、柿本人麻呂は挽歌に「天照す日女の尊」「神の尊」「高照らす日の皇子は飛鳥の浄の宮に神ながら太しきまして天皇……」を詠み込んでいる。(万葉集・巻二・一六七)
天照らす日女尊は、天照大神。神の尊は、天照大神の孫・瓊瓊杵尊。日の皇子は、草壁皇子か。
 『古事記』は、天皇の正統性の物語。天照大神の孫神が正統な支配者としている。持統天皇の子は、草壁皇子。孫は文武天皇である。
 持統はこの年に、伊勢に新たに「日の神」を祀ることを決め、持統四年(六九〇年)正月に即位し大嘗祭が執り行われている。「物部連麻呂朝臣、大盾を樹つ。中臣朝臣大嶋、天神寿詞読む。神宝は剣と鏡」と述べられている。また、皇大神宮の式年遷宮がこの時初めて行われている。持統六年には豊受大神宮の式年遷宮。

 この式年遷宮には色々な意味を見いだされているが一つは、老朽化は気枯れ。神の生命力を衰えさせることとして忌み嫌われた。二つには、弥生建築の保存と神社建築技術の伝承。三つは、日神祭祀の東西軸の世界観にもとづく古殿地への永遠の往復運動であり古殿地の心御柱は必ず保存され新たな遷宮とともに永遠に継承されている。そして、天壌無窮の神勅、天照大神の孫として瓊瓊杵尊の天孫降臨を再現しているのが式年遷宮という。正に、至当というべき。

 式年遷宮
2013年は20年ごとに行われる神殿の建て替え――式年遷宮(しきねんせんぐう)の年。8年がかり、総工費550億円という大事業です。本殿が建っている隣の敷地に、まったく同じものを再建するのです(右側が、20年前に建てられた旧本殿)。
       

 持統六年(六九二年)持統天皇は伊勢行幸を強行しているが、参宮していない。このことに三輪朝臣高市麻呂が抗議しているが、神郡(度会多気)等の国造に冠位を賜っている。五月に、伊勢、大倭、住吉、紀伊の四カ所の神に幣吊をささげ、新益宮(藤原宮)のとを報告している。そして、新羅の調を伊勢、住吉、紀伊、大倭、菟名足に奉っている。ここで、「伊勢」が重要な存在として登場している。伊勢とは、皇祖神となった多気大神宮で祀る天照大神のことか。また、紀伊の神とは国懸神から天照大神とした日前神かと考えられる。

 持統十一年(六九七年)、持統天皇が崩御。文武二年(六九八年)に当耆皇女(天武天皇の皇女)を遣わして斎官とし、伊勢の神宮に仕えさせている。伊勢(皇大神宮)の「齋宮。齋王」の確実な例としては最初といわれている。次に重要な史実が、さらつと書かれている。それは、十二月二十九日に「多気大神宮を度会郡に遷す。」である。多気大神宮とは度会郡大宮町滝原、宮川上流に御鎮座している滝原宮説が有力だが、宮域は約四百四十八㎡の広大さを誇る。元々は川の神水戸の神を祀っていたが、持統四年頃に天照大神を祀ることになったのではと考えられる。
五.まとめ

(一)はじめに、副葬の状態などからみた内行花文鏡のもつ特質を考えてみたい。

①地域の首長墳、中心主体でない被葬者(女性が多い)に仿製内行花文鏡が伴う場合が多い。
②頭部優位で被葬者を照写する形態は、弥生時代後期に北部九州にみられる。また、首長の威信財として副葬された前漢式連弧文鏡は、下位の有力者が支配の道具として鏡所有を実現するためと、巫女が帯びるシンボルとしての小型仿製鏡の製作が想定される。
③内行花文鏡は、太陽信仰を首長が司った儀礼に使用された鏡という解釈から、前漢鏡の銘文にみられる「見日之光、天下大明」の意味から、あるいは小型鏡が前漢の日光鏡系の模倣に始まっていることから、内行花文鏡と太陽信仰との関わりが指摘されてきた。この「太陽信仰」は、共同体をまもる精霊が衰えるときに、それを鼓舞する儀礼のなかで機能したものであったと考えられる。広義には「衰えるすべての霊力」、「首長霊」をも鼓舞するものとして、首長の支配構造の中に取り込まれていったと考えられる。
④共同体の守護霊を鼓舞しえるのは共同体出自の女性、男性首長の血縁者と考えられている。ただ、次第に女性の担う役割は変化し、初期の古墳祭祀も崩れていく中で男性首長層にも内行花文鏡副葬が広がったと考えられる。
⑤初期の政治システム確立期に占めた内行花文鏡の位置は変化し、前期後半には、大型仿製内行花文鏡も次第に姿を消していく。

(二)次に持統天皇と天照大神(あまてらすおおみかみ)との
   関連を考えてみると、


①古代ヤマトは、聖樹として「槻木。ケヤキ」を神の依り代としていた。日神の子孫の神武天皇は、高皇産霊尊(たかむすびのみこと)を皇祖神としていた。『神武天皇即位前紀』に「今高御産巣日神を以て、朕親ら顕斎、此をば…」と。また、『古事記神武天皇東征』の段では、「ここにまた、高木大神の命もちて覚し白しけらく、天つ神の御子をこれより奥つ方にな入りい幸でまさしめそ。荒ぶる神
甚多なり。」とある。

 持統天皇は、天壌無窮の神勅において、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨の司令神として高皇産霊尊(高木大神)から、アマテラスを絶対の至高の神として位置づけ皇位継承を「神授の神権」一系相続とした。
 持統天皇の和風諡号「高天原廣野姫天皇」(日本書紀)また、「大倭根子天之広野日女尊」二つの諡号を合わせて″天照大神″になる。

②日本の古代社会の根底には、精霊に始まり八百万の神と首長霊、そして天皇霊へと続く日本独自の祭祀的支配形態の源流が流れているようである。『日本書紀』にある天照大神には原型があり、その原名称と鏡については、天照大神以前から神宮や全国の古社に祀られていて鏡との関係が深い男性の太陽神(『紀』の天照国照火明命)で、女性神の新名称と性格としては『紀』が天照大神の別名とする「大日靈貴神(おおひるめむちのかみ)」=巫女の神に拠ったものだと考えられる。

 モチーフとしての太陽信仰、巫女との関係性が持統天皇のなかで最大限利用され、やがて権力機構から分離されていく過程として含まれていると読みとることができる。天照大神に擬えたい持統天皇にとって、内行花文鏡のもつ特質は日子、日女天照大神に相応しいといえる。

③『日本書紀』は持統天皇を天照大神という国の最高神に化身させる一方で、伊勢神宮の成立に大きな役割を果たした夫、天武天皇を素戔嗚男尊として高天原から下界に追放することを意図するものであったようだ。
<参考文献>
        『日本書紀』坂本太郎、井上光貞、家永三郎、大野晋 校注 岩波文庫
         『古事記』倉野 憲司校注 岩波文庫
         『考古学に学ぶ』所収「首長霊による内行花文鏡の特質」
                   森 浩一、松藤和人編 同志社大学
         『実在した神話』原田 大六 学生社
         『三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭』石野博信、西川寿勝
                  など 新泉社
         『アマテラスの誕生』筑紫 申真 講談社学術文庫
         『天武天皇論』大和 岩雄 大和書房
         『伊勢神官の謎を解く』武澤 秀一 筑摩新書
       


伊勢神宮の成立と内向花文鏡
当日頂いたレジメ
「伊勢神宮の成立と内向花文鏡」 PDF文書
最後までご覧いただきありがとうございました

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