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平成29年11月定例勉強会

 淀屋が始めた米市場と旗振り山
  
大江 昭夫氏(淀屋研究会事務局長)

青年の家・学びの館 午前10時~12時
 30名(会員23名)の参加
2017.11.25(土)午前10時、11月定例勉強会に30名が参加されました。

  高尾部長の司会で始まり、立花会長の挨拶の後、講師の大江昭夫氏より「淀屋が始めた米市場と旗振り山」をテーマで、淀屋とは、米市場と旗振り山について、沢山の資料を基に、プロジェクターで映写しながら詳しく解説されました。

  今回の講演会、「江戸時代中期、淀屋が始めた大坂の「堂島米会所」は、世界に先駆けた本格的な先物市場であったこと、現在のデリバティブ(金融派生商品=先物・オプション・CFDなど)市場の発祥の地であること」を、講師の大江氏ご自身も厳しい証券業界に身を置かれた経験を踏まえながら熱く語っていただきました。

 JPX 日本取引所グループ(東京証券取引所・大阪取引所)のホームページ「堂島米会所で先物取引を学ぼう」をご参照ください。

 堂島川の北岸、御堂筋と四つ橋筋のちょうど中間あたりに「堂島米市場跡記念碑」がある。⇒
 この記念碑には「先物取引発祥の地とされている」と記しているが、現在、世界最大の先物取引市場であるシカゴ商品取引所でも「私たちの市場は世界で最初に整備された日本の先物取引市場を参考に開設されました」と紹介している。

   (講演会の概要)

   「淀屋が始めた米市場と旗振り山」
    1.淀屋とは
        ① 前期淀屋  後期淀屋
        ② 淀屋の行動と功績
        ③ 堂島米市場を支えた金融の仕組み
        ④ 淀屋系図
        ⑤ 牧田・淀屋清兵衛略系図
    2.淀屋が始めた米市場と旗振り山
        ① 淀屋とは
        ② 淀屋米市→堂島米市場→堂島米会所への変遷
        ③ 御用米会所 取引期間 取引時間など
        ④ 交野の旗振り山
        ⑤ 旗振り通信について
        ⑥ 交野旗振り山は、旗振り通信の伏見ルートの中継基地
        ⑦ 旗振り通信の京都・伏見・大津ルートと中継点
        ⑧ 終わりに
     
 大江さんのご講演で、「交野の旗振山」が、旗振り通信の堂島から伏見ルートの中継点であり、次の京田辺市の千鉾山から「天王山」を経由して伏見へのルートが解明できましたこと、感謝申し上げます。

 ※ 今回、HPに掲載するにあたり、講師の先生のご厚意により当日配布された「レジメ」及び、
    「旗振り山」ナカニシヤ出版 柴田昭彦著、WEB記事などを参考にさせていただきました。
    記して感謝申し上げます。

    また、興味のある方は柴田明彦氏のホームページ、
               「旗振り通信ものがたり」をご参照ください。
当日、配布された「レジメ2冊」と「月間島民 中之島」を
PDFにて添付します。ご参照ください!
   1.レジメ 淀屋とは?
  2.レジメ 淀屋が始めた米市場と旗振り山
   3.月間島民 中之島 「米の堂島史」ほか


講師  大江 昭夫氏(淀屋研究会 事務局長)


立花会長の挨拶


高尾部長より大江氏の紹介・挨拶
講演会 レジメ  「淀屋とは」
<前期 淀屋>
初代 淀量常安(じょうあん)=岡本三郎右衛門常安→ 京都山城国の豪族 武士の息子として生まれる
二代 淀屋言當(げんとう)=く个庵(こあん)》  「淀屋」を名乗るのは、秀吉から淀川堤の普請を請け負うようになってからだと言われている。
三代 淀屋箇斎(かさい)
四代 淀屋重當(じゅうとう)・・・天和2年(1682年)番頭牧田仁右衛門に暖簾分け
五代 淀屋廣當(こうとう)・・・宝永2年(1705年)闕所(けつしょ)処分→「淀屋」消滅!(強制閉店)

<後期 淀屋>
初代 牧田仁右衛門(じんえもん)<倉吉>牧田淀屋開店
三代 牧田五郎右衛門(ごろうえもん)の四男が大坂淀屋橋で“淀屋"(大坂淀屋)開店
                                  淀屋清兵衛を名乗る
                                    ↓
                                 五代淀屋清兵衛<大坂>
                                    “淀屋(大坂)"
↓ 安政6年(1859年)
八代 牧田孫三郎(まごさぶろう)<倉吉>
   “牧田(倉吉)淀屋"

                 く同時・自主閉店>
淀屋の行動と功績

●品質・価格安定のための米市場設立と運営(淀屋米市→堂島米市場)
●中之島の開拓(物流の構築)
●淀川堤防の大改修(文禄堤など)
●青物・海産物市場の再開と運営
●行政への参画と地域への貢献
●北前船→北方交易の先鞭
●糸割符の導入
●神社仏闇への膨大の寄進
●文化人としての支援と貢献
●淀屋橋の架橋
●銀座設立に参画
●西国大名に融資(最終的に幕府が闕所へ追い込む原因?となつた)
平成26年9月27日(土)午前10時、9月定例勉強会に 講師の毛利信二氏より「豪商淀屋の歴史」でご講演をいただき、「石鏃」159号に次のように、淀屋について講演概要が記載されているので紹介します。

 淀屋とは、江戸時代に大坂で繁栄を極めた豪商である。淀屋の初代は常安(じょうあん)通称、与三郎といい、山城国の岡本荘(現在の京都府宇治市)の出身だった。
 まず材木商として身を起こした。新しい都市の創建には不可欠の商売である。大坂の陣(1614〜15年)では徳川方につき、陣屋(拠点)づくりに協力。その功で山林を得たうえ、堺に上がる肥料、干鰯(ほしか)を独占的に扱う権利を手に入れた。常安はさらに、当時アシの生い茂る砂州だった中之島6000坪の開発を自ら願い出た。水運の利便性に着日してのことだ。

 やがて、諸藩がコメを貯蔵する蔵屋敷をこの地に建て始め、淀屋本家は「お家繁盛」の階段を駆け足で上っていく。全国の米相場の基準となる淀屋の米市(北浜の米市)を設立し、大坂が「天下の台所」と呼ばれる商都へ発展する事に大きく寄与した。
 米市以外にも様々な事業を手掛け莫大な財産を築くが、その財力が武家社会にも影響する事により、幕府より閥所(けっしょ=財産没収。所払い)処分にされた。

 しかし、閉所処分に先立ち伯者国久米郡倉吉に暖簾分けした店(倉吉淀屋。牧田家)を開き、後の世代に元の大坂の地に再興した。幕末になり殆どの財産を自ら朝廷に献上して幕を閉じたと言われているが定かではない。
 淀屋を創業した岡本家による前期淀屋。閉所後に倉吉牧田家(淀屋清兵衛)により再興されたものを後期淀屋と呼び分類している。

 淀屋が開拓した中之島には、かつて常安町と常安裏町(現在の中之島4 丁目〜6 丁目)があつた。
また、現在も中之島に架かる淀屋橋や常安橋にその名が残る。

講師の毛利信二氏より「豪商淀屋の歴史」でご講演をいただいた「石鏃」159号3P
レジメ  淀屋が始めた米市場と旗振り山
前期淀屋
・初代 淀屋常安(じょうあん)=日本三郎右衛門常安(おかもとさぶろうえもんじょうあん)(1650年生まれ?)
・二代 淀屋言當(げんとう)=个庵(こあん)
・三代 淀屋箇斎(かさい)
・四代 淀屋重當(じゅうとう)
・五代 淀屋言當(こうとう)・闕所(けつしょ)宝永2年(1705年)
      ※ 淀屋……強制閉店 宝永2年(1705年)
      ※“淀屋"を名乗るのは、秀吉から淀川堤の普請を請け負うようになってからだと言われる

後期淀屋(倉吉と大坂)
・初代 牧田仁右衛門(じんえもん)
↓ 天和2年(1682年)牧田淀屋(倉吉)開店
↓     ・大坂淀屋清兵衛 宝暦13年(1763年)大坂淀屋開店
↓ ↓
・八代 牧田孫三郎(まごさぶろう)       ・五代淀屋清兵衛
        ※ 牧田淀屋(倉吉)・大坂淀屋同時閉店…"… 自主開店 安政6年(1859年)
く淀屋米市(淀屋屋敷庭先)(1620~ 30頃?)―→ 堂島米市場(堂島浜 1697~)→ 堂島米会所(堂島浜)(1730~ )>

 大坂の陣が終わり、世の中が落ち着きを取り戻すと、常安(初代淀屋)が予測した通り流通経済が発展して行つた。米本位制であった経済は、いち早くその中心となり大坂と京都を挟む大都市である近畿地方は、当時、町人や公家、僧侶など米の消費者が70万人もいた。しかし、人口に対して米が毎年60万石以上も不足していた上、当時は船で米を運ぶにも、大きな港のある大坂はうってつけの場所であった。

 この頃、全国で年間、2700万石程度の米の収穫があり、自家消費や年貢などで消費された残りの500万石程度が市場に出回っていた。そのうちの約4割(200万石)が大坂だけで取引されていたのではないかといわれており、まさに米の大市場だつたといえる。この200万石に目をつけたのが淀屋で、秀吉の時代、加賀百万石の前田家から、10万石の米の売り捌きを請け負っていた実績もあり自分の屋敷の庭先で米市を創設したのである。これを淀屋米市と言う。勿論、私設市場→プライベートマーケットである。

 当初、大坂登米を士豪的商人(徳川氏に近い特権階級の商人)と呼ばれるブローカーに丸投げし任せていたが、メリットも少なく、信頼性にも欠けていた。そこで蔵屋敷を設置し、新しい商人から蔵元、掛屋を登用し、自主流通ルートを確立するようになる。各藩はそれを習い蔵屋敷が急激的に増えた。取引量が増えれば、現物の米を、その度に蔵屋敷からあちこちに動かしているわけにはいかず、そこで考えだされたのが“米手形”である。(当初は“先渡し取引"(Forward)が主流であったと考えられる)

 この“米手形”、丸代金の1/3を払えば発行され、これが1日のうちに10人以上の人に転売されるなど、投機の対象となつて行く。そして次第に大坂未着の米どころか、刈り取り前の米にまで“米手形”が発行されるようにエスカレートして行つた。

 「淀屋米市」は順調に実績を積み上げ、賑わいをみせますが、大坂の米市場を決定的に全面的に牛耳るようになったのは、後に「兵庫の北風か北風の兵庫」かと噂された“北前船”で有名な神戸の回船間屋“北風彦太郎”との業務提携である。この“北前船”で米を搬入し、淀屋の米市で捌く・・・このシステムが市場を圧巻した。
「淀屋米市」の取引量は急激に拡大して行つた。特に帳合米(先塑=Futures)取引の拡大は目覚しく、手狭になったため元禄10年(1697年)土佐堀川を渡つた堂島浜に“市場”を移す。これが堂島米市場である。これにより「堂島米市場」は更に繁栄を極めて行く。
 しかし、宝永2年5月(1705年)「百万石の大名を凌ぐ」と称され、栄耀栄華を極める淀屋は、幕府から「町人の分限を超えた奢侈(しゃし)は不届き」であると“闕所”(けっしよ)を命じられた。この裏には西国大名への“大名貸し"の貸付額が膨大(100兆円超)になり淀屋の力を恐れた幕府が強権を発動したのはないかとの憶測もある。

 淀屋闕所以後、約25年間リスクベッジを含め、広義な意味で価格安定に寄与した先物市場の「堂島米市場Jは閉鎖となる。その間、現物の相対取引は継続されたが、流動性に乏しく市場性を失なつた米価格は、急騰急落の乱高下を繰り返す事となる。

 淀屋の「堂島米市場Jが閉鎖された以降は、荻原重秀(勘定奉行)の貨幣改鋳によるインフレ政策や、新井白石による財政緊縮のデフレ政策が次々に打ち出され混乱を極めた。合わせて富士山の大噴火(宝永の大噴火)や淀川の大水害など、自然災害も重なり米価は乱高下し、幕府・武士階級・庶民に至るまで巻き込んで経済意的混乱に陥れた。

 そんな中、大坂商人は様々な困難、試練を乗り越え、紆余曲折の末、ようやく、“米将軍"と言われた八代将軍吉宗から、念願の米市再開の公許を取り付け、享保15年8月13日(1730年9月24日)「堂島米市場」跡に幕府公認の堂島米会所を開設する運びとなる。

く御用米会所> 大坂堂島・京都・大津

 江戸時代の幕府公認の米取引所は(御用米会所)、大阪・堂島、京都、大津の3ヶ所。幕府米蔵のある浅草・蔵前(“幕府米蔵”の前に由来)が半公認。その他、桑名、酒田、鶴岡、新潟、尾道、赤間関(下関)などの米市は米集散地により地元大名公認の米市場(現物)が存在した。

 幕府公認の大阪ヨ堂島米市場は「堂島米会所」と呼ばれ、規模、取引量に於いて他の追随を許さなかった。ここで立った相場(価格)が全国の米市場の基準とされ指標となった。 → 
旗振り通信の発達
<堂島米会所 取引期間  三期(三季)商内(あきない)
 〇 正米取引 (現物)
・第1季春物 1月 8日~ 4月28日
・第2季夏物 5月 7日~10月9日
・第3季冬物 10月17日~12月24日

 〇帳合米取引(先物)
・第1季春物 1月8日~ 4月27日(限市)
・第2季夏物 5月7日~10月8日〔限市)
・第3季冬物 10月17日~12月23日(限市)


〇石建米取引(小□先物)
・第1季春物  1月8日~ 4月26日(限市〕
 ・第2季夏物  5月7日~10月7日(限市〕
 ・第3季冬物  10月17日-12月22日(限市)
   *限市(きりいち)=最終決済日


<取引時間と取引きの流れ>
○正米取引(現物)   ※現物の米は蔵屋敷に収納したまま、“米切手"(証券)を用いての商い。
    取引は、朝四つ時(午前10時)から昼九つ時(正午)まで。
O帳合い米取引(先物)  ※決められた期日(限市)(きりいち)までの売り買いによる差金決済。
    取引は朝五つ時(午前8時)から昼八つ時(午後2時)まで。(昼九つ時(正午)には休憩があり)
    ※昼八う時(午後2時)になると、一寸(約30om)程度の縄に火を付け、この火が燃え尽きた
    時点で取引終了となる。
    この間の時間を“火縄時間"と言つた。


<交野三山> 神宿る山として、葛城修験の聖地

 交野市内から一望される旗振山は、交野山、竜王山とあわせて交野三山と称され、旗振山は名前が示すよう:この山の山頂て旗が振られた事に由来する。

 江戸時代中期(享保年間以降)大坂の堂島米会所から発信される米価格の情翻を知らせるため中継点を設け、晴れた日には白旗、曇りの時には黒旗を振ってその様子を知らせる“旗振り通信"があった。
く旗振り通信>
 江戸時代中期(享保年間以降)から、明治後期頃まで大坂の堂島米会所の米相場を各地に伝えるのに“旗振り通信"が行われた。見通しの良い丘や山の上に設けた中継点を次々に連絡し、手旗信号によつて伝えて行った。その中継所となつた山が“旗振り山”である。

 江戸時代の半ばには堂島米会所の米価格は全国の基準となっていた。当時は“米本位制”であり米価は諸物価の基本(中心)となっており商人たちは、競つて米相場(価格)をいち早く知ろうとしていた。

 米相場(価格)は一日3回~4回程度伝えられ、熟練した手旗信号士が通信にあたっていた。中継所の間隔は各地域によって様々ですが、現在とは違い望遠鏡を用いれば、約24Km先まで見通せたと言われている。

晴れた日は、白旗を

曇りの日は、黒旗

夜間は、提灯
交野旗振山は、大坂「堂島米会所」からの「旗振り通信」
        伏見ルー卜の中継基地>


  旗振り山 その他の呼び名
   ・旗振山(はたふりやま)
   ・相場振山(そばふりやま)
   ・相場取山(そばとりやま)
   ・相場山(そばやま)
   ・旗山(はたやま)
   ・高旗山にかはたやま)
   ・相場ヶ裏山(そばがうらやま)
   ・相場の峰(そばのみね)
      旗が畑に転じて
   ・畑山(はたやま)
   ・高畑山(たかはたやま)

「堂島米会所」情報発信⇒ 到達時間
   ・和歌山  3分
   ・京都   4分
   ・大 津   5分
   ・神 戸   7分
   ・桑名  10分
   ・岡山   15分
   ・広島   27分
 その他四国・九州にも即日速報された。
 江戸には箱根の山に飛脚を用いるため、約8時間を要したと言われる。
旗振り通信   京都・伏見・大津ルートと中継地点
講演会終了後、大江さんにご教授頂いた、
「旗振り山」ナカニシヤ出版 柴田昭彦著をアマゾンで購入。
 以下は、伏見ルートについて、参照させていただきました。
記して、感謝申し上げます。
京田辺・笠置ルート 
   千鉾山(せんぼこやま)(京田辺市)と旗振山(交野市)
千鉾山(せんぼこやま)(京田辺市) 311.3m
  
京都新聞社編著『京・近江の峠』の中の「三国峠」には、次のような記述がある。
「土地の古老によれば、戦いに敗れた落武者は、逃げる途中、千鉾山付近で、刀ややりなどの武器を埋め、敵の追及を免れたという。千鉾山の名の起こりだそうだ。『昔、この村で一番高い千鉾山の頂上から、村人が旗かノロシで大阪の北浜や伏見のコメ相場の上がり、下がりの動きを伝えた。村人たちは、この合図を見て、きょうは北浜へ、あすは伏見へと相場の高い方ヘコメを出したそうだ』。と高船の古老、岡田平造さんは語っている。」

この千鉾山は、京都府京田辺市高船集落の西、生駒市境にある311.3m三角点である。この旗振り場の存在は、従来、ほとんど知られていないようである。『田辺町郷土史 社寺篇』の、字高船の石船神社の解説に、「櫂峰(千鉾ことある。つまり、千鉾山は「かじがみね」または「せんぽこ」と呼ばれているわけである。
 京田辺市教育委員会の鷹野一太郎氏によれば、「せんぼこやま」と呼んでいるという。岡田平造さんはだいぶ前に亡くなられたとのことで、もう地元でも「小さい頃、聞いたことがある」「ガラス製の遠メガネを使っていた」という程度で、ほとんどの人は知らない、あるいは忘れてしまっているというのが現実だという。通信の方向については、岡田さんの話以外のことは全く不明という。なお、三角点の点名は「高船」であり、「笠神山」の山名もあるようだ(慶佐次盛一『近畿周辺三角点山名』大阪低山跛渉会、平成八年)。
 千鉾山の北に蒼神社(笠上神社ともいう)があり、痘蒼平癒の信仰があり、昔は訪れる人も多かったそうである(京・近江の峠)。その北方に山城・河内。大和の国境があり、その近くの峠を三国峠と呼んだという。戦国時代、南方の打田と北方の尊延寺との間で合戦があったと「『普賢寺変遷史略』に記されている。

 千鉾山から直接、大阪堂島と連絡することはできない立地にあるが、この近くに旗振り場がある。それは交野の旗振山である。伏見とも直接の連絡はできないので、天王山を経由したのであろう。
 したがって、「大阪堂島、旗振山(交野)、千鉾山、天王山、伏見」という京田辺ルートが作られて、高船では千鉾山の山頂から、堂島方面と伏見方面との間で相場通信を行ったということになる。
 平成17年には「京田辺尾根筋ハイキングコース」が開通し、千鉾山の山頂には、筆者の「京都新聞賢平成15年12月5日付)の通信ルート地図の引用が見られる。
 
旗振山(交野市)  345m

 『交野町史』の「第八章交通と通信」の「8その他の通信方法」には原田英二氏が執筆した次のような旗振信号の項目がある。
 「旗振信号に依るものが行なわれており、傍示集落(奈良県境の山間に所在し人家所在地の標高約300米の地域)に旗振所があった。同所は大阪城まで見通せる場所に在って、(中略)堂島の米相場が即日判明したとのことである。」
 信号所の具体的な場所は、この文では、はっきりしないが、『交野市史』自然編I(昭和61年)には中光司氏(当時磯島高校教諭)が執筆した次の一文で明確となる。

 「交野の旗振山は西は断層崖で大坂の方が一望できる立地の良さがあり、東の山城、大和へも次の中継地点が独立した山であれば、信号を送るにふさわしい場所である。旗振り通信が行われていたのは明治の初めまでで、電信が利用されるようになるとこの仕事も姿を消した。」「交野の人々もこの山で振られた旗の様子でいちはやく米の相場を知って米の売り買いの決断をした。」

 旗振山は大阪府交野市傍示の最北端に位置しているので、集落部でなく山頂で旗振りが行われたわけである。
旗振山は標高345mで、交野山より少し高く、交野市内の最高峰であるが、あまり知られていないようである。しかし、旗振山のインターネット検索を行っでみると、須磨の旗振山の出現頻度は第一位で、交野の旗振山の出現頻度はその十分の一ではあるが第二位である。してみると、案外、知る人ぞ知る山なのかもしれない。

 ちなみに、交野山の標高は、地形図には341mとあるが、交野市発行の地図を見ると、344mとなっている。交野山は都市名と混同して「かたのやま」と呼び間違える人がいるが、もともとは「神の山」で、神体山であり、地元では「こうのさん」と呼ばれて親しまれている。

 旗振り山である千鉾山の存在がわかるまでは、交野の旗振山がどのような役割のために設置されたのか、よくわからなかった。なるほど、交野の地元に知らせればよいのだから、それはわかる。しかし、その東方に中継地点が存在するのかどうかわからなかったのだから、無理もないことであった。千鉾山が中継所であることによって、役割が明確になったといえるのではないだろうか。

コースガイド

 自動車を利用して、高船の千鉾山、交野市の旗振山を巡ってみたので紹介する。
 高船の笠上神社の麓に自動車を駐車させて、神社の石段を上る。広場に出ると、東側の展望が大きく開ける。すぐに不動明王の像があり、その横から忠実に尾根伝いの踏み跡をたどる(あまりよい道ではないので、やぶ慣れた人にしかおすすめできない)。ほどなく、千鉾山の山頂に着く。四等三角点(点名は高船)の石標と「歓喜天拝所」と刻んだ石碑があるが、周囲は竹林で視界は全くない。昔はここでも展望が開けていたのであろう。南方への踏み跡があるが不明瞭なので、元の道を引き返した。

 交野の旗振山へは、交野いきものふれあいの里の南端の駐車場(旗振山の北東麓。午後四時半に閉鎖される)に自動車を置く。すぐ南の野外活動センターヘの入り口(午後四時半に閉まるゲートがある)から上がり、道が下りになると、すぐ右手の道標が旗振山まで往復10分と案内している。鉄塔のすぐ上が三等三角点(点名は蓮花石)で、横の一番高くなった所に旗振山と記した標柱がある。
なぜ伏見?
 江戸時代、伏見は政治・経済・流通の要の地であり、経済においては禁裏・公家方の御用米、伏見奉行御用米などの米を扱う米問屋が多く存在し、情報を一早く収集し、利ザヤを稼いでいたものと考えられる。
終わりに

 活況を見せる「堂島米会所」は、両替商などの金融機関の発達を促し、大坂は世界に冠たる金融商業部市でした。しかし、時代は変化し、米本位制の変化による米会所の衰退、幕末から維新にかけて「銀目廃止」「藩札処分」など、大坂商人(両替商)には手痛い状況が重なり大坂経済は賑わいを失う原因ともなった。

 合わせて、明治維新の際、薩長土佐の武士には、この素晴らしい先物理論が理解出来ず歴史の舞台から消え去った。しかし、堂島米会所の先物取引のシステムは、現代の大阪取引所や米国のCME(シカゴ・マーカンタイル取引所)やCBOT(シカゴ商品取引所)などに代表される、世界各地の組織化された商品・証券・金融先物取引(デリバティブ)の先駆けをなすものであり、「堂島米会所Jが世界の先物取引発祥の地として大いに誇るべきもである。

 今や世界中で、やれ金融工学だ、リスクヘッジだ、レパレッジだとか申しますが、そもそもの元祖がここ大坂堂島の米市場だつた。この頃の大坂は名実共に、世界一で、かつ世界最先端の金融商業都市だつたのである。

 『堂島米会所』の帳合米(先物)取引は、先物取引で最も重要とされるクリアリング(清算)システムを導入するなど、現在の金融派生商品(デリバティブ)取引の先鞭を成すものであり、現在に於いてもほぼ完壁なシステムである。
現在においては、だが、百年余の時を経て、“先物の地"→大阪(大坂)に“日経平均"先物・オプションなどの金融派生商品(デリバティブ)の取引が開始され、“先物の街"大阪に再び灯りがともり、賑わいを取り戻している。まさに300年前のDNAが蘇つた思いで感慨深い。
<参考文献>

「大坂堂島米会所物話」   時事通信社 島実蔵著
「歴史に学ぶお米の先物取引」  原書房 島実蔵著
「旗振り山」      ナカニシヤ出版   柴田昭彦著
「金融先物の世界」    時事通信社   可児滋 著
「日本両替金融史論」  文芸春秋社  松好貞夫著
「大江戸経済学」    堂島米会所貨幣改鋳と管理通貨制度 両編
「日本永代蔵」現代語訳付き 角川ソフィア文庫 堀切 実著
日本最大の河川港湾伏見港の生成と衰退  日本土木史研究発表会 論文集より

最後までご覧いただきまして有難うございます。

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