交野歴史健康ウォーク 第202回 2023年(令和5年)9月9日 参加者34名(会員20名) 案内:毛利 信二氏(古文化同好会) |
〈行程〉 JR河内磐船駅・・北新地駅⇒1.大阪市道路元標⇒2.曽根崎川跡碑⇒3.堂島薬師堂⇒4.国産ビール発祥地碑⇒5.堂島米市場跡⇒6.中之島ガーデンブリッチ⇒7.京阪電車・中之島線⇒8.米市場大坂蔵屋敷跡⇒ 9.日本銀行大阪支店 ⇒10.大阪市役所⇒11.駅逓司大阪郵便局跡⇒12.御堂筋⇒13.大江橋・淀屋橋⇒14.淀屋橋ツインタワー予定地⇒15.淀屋の屋敷跡(淀屋の碑)⇒16.林市蔵知事像⇒17.三井住友銀行大阪本店ビル⇒18.西横堀川⇒ 19.大同生命保険ビル⇒20.中之島フェスティバルタワー・ウエスト⇒21.水上瀧太郎「大阪の宿」文学碑⇒22.国立国際美術館・大阪市立科学館・大阪市立科学館プラネタリウム⇒23.公園(昼食) 午後は、12時30分過ぎ出発。⇒24.常安橋⇒25.高松藩大坂屋敷跡 ⇒26.明治天皇聖躅・大阪紙砂糖製造所址 ⇒27.広島藩大坂屋敷跡⇒28.ほたるまち⇒29.福澤諭吉誕生地・・豊前国中津藩蔵屋店舗之跡⇒30.朝日放送テレビ・ABCホール・ABC リバーデッキ ⇒31.蛸の松⇒32.雙松岡塾跡 ⇒33.大村藩大坂屋敷跡⇒34.明治天皇聖躅碑⇒35.五代友厚製藍所・西朝陽館跡⇒36.(大村藩蔵屋敷跡の碑)⇒ 徒歩 約6km <解散> 中之島フェスティバルタワー前⇒京阪・渡辺橋・淀屋橋駅 又は JR北新地駅(西改札口) ※イレの場所 JR北新地駅東改札口内、大阪市立科学館地下1階、リーガロイヤルホテル1階 |
2023.9.9(土)午前9時、JR河内磐船駅に22名が集合。9時16分発の快速に乗車、星田から6名が乗車され、事前に参加を希望されていた6名は北新地駅で待合せて総勢34名の参加となった。当日は、好天に恵まれ前日とは打って変わり、猛暑日となった。 午前中は、先ず北新地駅で参加人数を確認後、大阪第3ビルへ地下街を歩き、梅新の交差点の北西角に設置されている「大阪市道路原票」を皮切りに、朝の曽根崎新地を彼方此方と案内頂き、曽根崎川の跡地や堂島薬師堂に立ち寄り参拝。 堂島米市場では、大きな米粒のオブジェ(安藤忠雄作)⇒に驚き、米の相場を当時の通信手段の旗振り信号などで交野の旗振り山を経由して遠く伏見などまで通信していたことなど、米市場の様子をお聞きした。京阪電車・大江橋駅の地下25m、「天保時代の米蔵屋敷の絵図の前では、皆さん、当時の大坂の様子を聞き出そうと真剣に耳を傾けた。 御堂筋のツインタワーが建設中で、大きなクレーンが沢山稼働していた。土佐堀川と堂島川付近にこんなにたくさんのビルが、ドンドンと建てられて地盤沈下など起きないのだろうかと心配する声が聞こえた。大同生命の大金庫や太閤ゆかりの井戸などに驚き、加島屋・広岡浅子など朝ドラを思い出すことしきり。昼食は、大阪市立科学館南側に新しく出来た公園でゆっくりとすませた。 午後は、各藩の蔵屋敷跡を訪ねて石碑や史跡を巡った。皆さんのご協力により、予定よりも早目に廻り終えて、渡辺橋付近で解散。皆さん、大変お疲れ様でした! 今回の歴史ウォークに先立ち、案内役の毛利信二様⇒が、案内ルートの設定からトイレ休憩や昼食場所など事前に十分に準備していただいたお陰で、当日はうだるような酷暑の中でしたが、参加者の故障もなく安全に終えることが出来ました。 また、全行程を隈なく分かりやすく熱心に解説していただき、参加された皆さんより、「本当に楽しい1日でした!」「いつも訪れた中之島がこんなに歴史があり、楽しい場所とは思いませんでした!」「たくさん新しいことが学べて良かったです!」と大好評でした。 本当に有難うございました。心から感謝申し上げます。 皆さんのご協力により予定より早く、午後1時30分頃解散。参加された皆さん、大変お疲れ様でした。 ※散策当日、頂戴しましたレジメ「江戸時代の米蔵屋敷跡めぐり」やパンフレット、Webなど各種の資料を参考に、案内ルートに沿って記載しました。 記して、感謝申し上げます。 |
中津藩蔵屋敷跡にて記念撮影 |
中之島ガーデンブリッジで記念撮影 |
当日の散策マップと中之島周辺地図 地図内の番号は、レジメの案内番号に符合 |
|||||||||||||||
地図内の番号は、レジメの案内番号に符合 |
|||||||||||||||
〇淀川と大和川は、現在の天満橋のところで合流して堂島川のところを本流として流れていた。 大和川は1704年に付け替えされ堺の北へ西流した。新淀川は、1910年に運河掘削して完成。 〇豊臣時代は、葦が生え水鳥が住む、堂島川と土佐堀川に挟まれた低湿地帯(中州)でした。 東西に細長く、約3km、面積73.6ha。 東の端は、当初は灘波橋まで、後に天満橋のところまで埋め立てた。 〇江戸時代の初期に、淀屋常安が開拓して江戸幕府に提供した (その内、淀屋常安は6000坪を譲渡されて、常安町としてそこに住む) 〇江戸時代の中期に、中之島とその周辺に各藩の米蔵屋敷が出来た(MAXの数135)、 〇明治5年(1872年)の廃藩置県で蔵屋敷は払い下げられ、学校等が出来た。 〇現在では、政治や経済の中心地になった。 日本銀行大阪支店・国立国際美術館・大阪府立中之島図書館、・大阪市役所 ・大阪市中央公会堂・リーガロイヤルホテル・大阪国際会議所・朝日新聞社・関西電力本店、等 |
|||||||||||||||
江戸時代諸街道の起終点は、高麗橋であった。その後、道路法の制定で国道ルートの整備がされ、1922年(T11年)には現大阪市役所前に設置された。さらに1952年(S27年)新道路法が成立(このとき、東京−大阪間国道2号が1号になった)、道路元標も現在位置に移設された。 ・国道1号線(東京日本橋 641.9km) ・国道25号線(四日市市 189.8km) ・国道2号線(北九州門司区 596.2km) ・国道26号線(和歌山市 52.4km) ・国道163号線(伊賀・津市 116.8km) ・国道176号線(宮津市 115.4km) ・国道165号線(名張・津市 119.9km) 大江橋上流部で北西へ堂島川から分流し、堂島一丁目と曽根崎新地一丁目の境界道路北側をほぼ西方回へ弧を描きながら流れ、船津橋付近で再び堂島川に合流する川があった。これが曽根崎川で、蜆川、梅田川、下流では福島川ともいった。元禄初期、河村瑞賢(かわむらずいけん)により埋め立てられて、曽根崎新地や堂島新地がひらかれ、茶屋がならび賑わった。 1909年(M42年)北の大火後、焼跡の瓦礫の捨場となり、上流部が埋めたてられ、1924年(T13年)にはすべて姿を消した。川には上流部から難波小橋、蜆(しじみ)橋、曽根崎橋、桜橋、緑橋、梅田橋などが架かっていた。近松の名作「心中天網島(てんのあみじま)」の道行き「名残りの橋づくし」によみ込まれ、有名であった。 堂島アバンザの北東側にあり、モダンなデザインで一見するとオブジェかモニュニュメントのよう 古文書に、聖徳太子が四天王寺を建立する際、船が難破し用材がこの地に流れ着いたためお堂を建立したとあります。近隣を行きかう船からこのお堂が良く見え目印となった為、やがてこの島を「堂島」と呼ぶようになったといわれています。推古天皇の頃、「東は玉造に四天王寺を作り、西の方洲の中に御堂を建立」との記録があるという歴史深い場所。 日本初のビール醸造所が作られたのは横浜ですが、日本人によってビール醸造・販売が初めて行われたのは大阪です。1872年、渋谷庄三郎が、北区堂島中9番地にあった土地と土蔵などを利用し、「渋谷ビール」の醸造所を作りました。材料は、国内産の大麦と輸入品のホップ、外国人用のパン屋さんから仕入れたイーストを使用しました。日本人にまだビールがなじんでいなかったのいで881年に「渋谷ビール」は廃業しましたが、その後、大阪麦酒会社(現在のアサヒビール)が、1891年に吹田工場をオープンしました。 江戸時代の初め、各地から運ばれた米の取引は、土佐堀川沿いの北浜の路上で行われていた。この「北浜米市」は、中心となっていたのが当時の豪商淀屋であったため「淀屋の米市」とも称された。その後、1697年(元禄 10年)頃、交通の妨害になることや、当時開発されたばかりの堂島新地の振興策として、米市は堂島に移されることになった。1730年(享保15年)、江戸幕府は、ここで行われる正米商(米切手を売買する現物市場)と帳合米商(帳面上で売買する先物市場)を公認し、堂島米市場の相場は、全国の米相場の基準となった。堂島米市場は「浜方」、「大坂米市」とも呼ばれ、日本における取引所の起源とされるとともに、世界における組織的な先物取引所の先駆けとして広く知られている。 ・ 西側の像:「稲に遊ぶ子供の像」は、横江嘉純の制作、1955年に寄贈されて設置。堂島米市場の絵図。 ・東側の像など:米粒のオブジェ「一粒の米」は、安藤忠雄の作、2018年10月24日に除幕式が盛大に行われた。堂島米市場の跡の説明板(安藤広重画「堂島米市場の図(浪花名所図会) 1990年に完成した歩行者専用の新しい橋。堂島側に江戸時代の心斎橋、高麗橋、安治川橋、 新町鉄橋、玉江橋の絵図や大阪全図が掲げられている。ANAクラウンプラサホテル゙前の川岸。 幅員は20m広めになっているので、くつろげる空間が確保されている。夜間LED証明。 「そよかぜの像」の台座には、東西南北の世界の主要都市名が記載されています。 中之島駅(地下20m)から天満橋駅まで。2008年10月開通。約3km。 5駅 中之島駅が2031年度に開業する予定のなにわ筋線との乗換駅になる計画。 江戸時代、諸藩は年貢米の換金や産物の売りさばきのため、水運の便のよい中之島周辺に蔵屋敷を建てそこへ搬入、一時その管理にあたった。 この絵図は、天保期(1830〜1843)のものです。 庁舎は1899年に江之子島にあり、1921年に中之島に移転完成、新庁舎は1986年に完成した。 8階建て、1階に「大阪市聴の旧表札が」展示。職員数は35220人、大阪市の人口 269.1万人(2015年、横浜市に次いで 全国2位)、 参加:大阪府の人数 877.5万人 1903年(明治36年)に辰野金吾の設計で建立された。中央にドーム型の屋根をのせ、両脇に三角屋根(四角すい)を組み合わせた形はベルギー国立銀行をモデルにしたもの。屋根が薄緑色に見えるのは、塗装ではなく銅板が酸化し緑青(ろくしょう)が出たため。外装は花崗岩。 わが国最初の郵便制度が設けられたのは、1871(M4年)3月。まず大阪−京都・東京間の開設があり、ここにその郵便役所がおかれた。さしずめ今日の中央郵便局にあたるものであった。ポストも設置されたが、最初の3日間で53通が投かんされ、東京までの所要時間は約75時間であった。 江戸時代は、現在の御堂筋の北側は淀屋橋筋、南側は御堂筋でした。長堀川には橋はありませんでした。市電は淀屋橋から堺筋を通っていました。全長4km(阪急前から難波西口まで) 1937年(S12年)5月11日に竣工。地下には電線を埋設し、大阪市初の市営地下鉄御堂筋線も開通して、大江橋と淀屋橋は現在の橋に架け替えられ、新橋(長堀川)と道頓堀橋(道頓堀川)が初めて架橋された。淀屋橋以南の街路樹はイチョウで、軌道がない一直線の目抜き通りとなった。そして、以前の淡路町通の屈折も無くなり、梅田新道・淀屋橋筋を合わせて全線御堂筋となった。 この2つの橋は、全国からデザインを募集して、1935年に完成しました。その後に金属類撤去などがありましたが、御堂筋完成50周年記念として1987年に復元された。 大阪万博の2025年12月竣工を目指して工事中。東側150m、西側135m(29F、B2) 以前は、東側には京阪ビル、西側には石原時計店、尚美堂、美津濃などのビルがあった。 (淀屋小路は、残念ながら消滅することになった) 淀屋常安(じょうあん)は、淀周辺(巨椋池など)の出身。 豊臣時代に、伏見城の巨石の処理や太閤堤の請負いなどで名前を上げる 徳川時代に、淀屋常安と2代目淀屋言当が大坂夏の陣で徳川の陣屋を提供した。 中之島を自費で開拓し幕府に提供。その返礼として6千坪も貰い受け常安町として住む。 青物市や靭の海産物市場の開設、又淀屋の屋敷の前で米市が開かれた(淀屋の米市・北浜の米市)。 巨万の富を手にして豪商となる。屋敷は百間四方(33千u)。 敷地の大きさは、御堂筋のツインタワーの場所と住友ビルを含めたと推定。 なお、連歌の参加などで文化交流を深める。又淀屋橋や妙心寺の経蔵等を寄贈 5代目淀屋広當の時に、贅沢な生活等が咎められて、1705年に淀屋本家は闕所処分(財産没収と所払い)になる。しかし淀屋分家は除く、子孫は残る。 (諸大名貸付金 約100兆円相当) 1918年(T7年)に現在の民生委員制度の礎となる、方面委員制度を導入した大阪府第15代知事・林市蔵の功績をたたえて制作された記念像。「民生委員の父」とも呼ばれています。 中央区北浜の理髪店から市蔵が見た夕刊売りの貧しい母子が制度の出発点になったといわれ、像は和服で整髪中の姿です。 土佐堀川に影を映す整然とした窓。壁の薄黄色の穏やかな色合いは、周囲を威圧することなく、かつストイックにそこに佇んでいる。旧住友本社と連系各社の本拠であった「住友ビルデイング」(現・三井住友銀行大阪本店ビル)は、東西74m、南北84mに及ぶ大規模建築。 1926年(T15年)に第一期、1930年(昭和5年)に第二期工事が完成した。北東西の各エントランスは竜山石積み円柱に堂々としたイオニア式オーダーが施されている。濃淡のある自然石の風合いが生かされた分厚い壁に、奥行きのある縦長の窓が規則的に刻まれ、そこに生まれる陰影が、重厚で質実な印象をもたらしている。南面の壁は、他の三面とは異なり、規則的なメダリオンとアーチ窓が並ぶ。狭い通りから見ても、やさしさを感じられるようにとの配慮だ。 設計は、住友合資会社工作部で、当初の計画では鉄骨鉄筋コンクリート七階建てとなる予定だったが、工事途中に関東大震災が起こった。実際に東京の惨状を見聞した住友家十五代吉左衞門友純の命により五階建て(※現在は改築されて六階建て)に変更され、現在の規模となった。別子銅山を経営した住友の建物らしく、門扉や照明、雨樋、ガーゴイルに至るまでブロンズ製で、細かな細工が端正な外観をいっそう印象的に見せている。 土佐堀川から分流して、南の道頓堀川まで、2.5Km。1600年に開削された。 1962年に埋め立て。(南側の一部残る)、1964年に高速道路供用を開始。 阪神高速1号線環状線(北行き)の高架と西横堀駐車場として利用。 大阪有数の豪商、「加島屋本家の碑」があります。 1925年(T14年)に大同生命保険の本社ビルが完成。(著名建築家のヴォーリズが設計した) 1993年(H5年)に新ビル19階を建て替えて誕生した。 装飾的な部分は旧ビルの様式を引き継いでいるがこのビルを特徴付けている下層部の扇型の広がりは新ビルになってからのもの。 2015年度後期のNHK朝ドラ「あさが来た」で同社に関わりの深い広岡朝子がヒロインのモデルとして登場する。 同氏は大同生命のほか加島銀行、日本女子大学校の設立に尽力した女傑として知られる。2階の展示室を短時間見学します。(地下には、太閤の井戸、金庫が残っています) 2012年11月6日に竣工。37階建て. 地下2階。高さ200m(中之島で一番高い) 中之島フェスティバルホール 2013年1月竣工、朝日新聞大阪本社や一般事務所が入る。 2017年に竣工、40階・地下3階、高さ200m、香雪美術館、コンラッド大阪などが 「三田は変に寂しかった 欄干に近く遥々と見渡される 澄み渡った星空の下を 静に下る川船の艪の音が ぎいと冴えて聞えて消えて行く 」 水上瀧太郎「大阪の宿」 1951年発売 国立国際美術館は、2004年に開館(万博記念公園に1977年開館。(そこから移転) 大阪市立科学館は、1989年に開館。(四ツ橋に1937年に開館。(そこから移転) 大阪市立科学館プラネタリウム館は2022年にリニューアルされた。 橋の袂の薬種商の田辺屋五兵衛が寄進した橋で田辺橋と言われていたが、田辺屋が道修町に転出したので、常安町に行く橋とのことでいつの間にか、常安橋と呼ばれるようになった。 (現在の橋 上流側は1929年、下流側は1969年間完成) 御三家の水戸松平家の支藩で高松松平家、12万石、1642年から廃藩置県まで この石碑は高松藩が大阪に置いた蔵屋敷があった場所で、発掘調査により船溜・屋形・米蔵の跡が確認されている。なお、傑僧慈雲尊者は、1718年ここ蔵屋敷に生まれたので「慈雲尊者生誕之地及び顕彰碑」があつた。(移転済) リーガロイヤルホテル大阪(1965年に開業、1973年には地上30階建ての新館が完成)は総部屋数1039室。大阪の迎賓館の役割。その敷地にある石碑です。製紙と製糖工場の跡で明治天皇が来られた場所です。 高松藩と徳島藩蔵屋敷跡に建つ。 安芸の国(広島)の淺野家、42万6千石、1619年から廃藩置県まで 川岸に「蛸の松」が植えられていた。今は、大阪大学中之島センター、大阪中之島美術館 ほたるまち は、大阪府大阪市福島区福島1丁目にある複合施設である。 大阪大学医学部附属病院跡地(1993年に移転)の再開発計画として2008年5月に開業。 この碑は、1954年に慶應義塾社中建立。題字は小泉信三氏 1834年(天保5年)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。中津では儒学を学び、1854年(安政元年)長崎遊学を終え江戸へ上る途中大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し、後に塾頭になっている。 3度にわたる幕府の遣外使節に随行、明治の文明開化啓蒙思想家として活躍、慶応義塾を開設した。 「 天ハ人ノ上ニ 人ヲ造ラズ 人ノ下ニ 人ヲ造ラズ 」 中津藩(大分県中津市)は、奥平家10万石、1717年から廃藩置県まで9代155年間 (「どうする家康」の6/4のTV放送分:家康の長女の亀姫が奥平信昌との結婚を承諾シーンがありましたね。この結婚が成立していなければ、奥平家も中津藩も、福澤諭吉も存在していなかったのでは・・・) 大淀区から現在地に2008年から移転。隈研吾が設計。ABCホールは327人収容。 元対岸の広島藩の川岸に、福島正則が植えたと言われ松は、蛸が泳ぐ姿に見えるので「蛸の松」と呼ばれるようになった。枯れてしまったので、2004年に田蓑橋北詰に植えて碑を建立した。 (『浪速百景』蛸の松夜景,描かれた白壁は隣接の久留米藩蔵屋敷。) 1861年に肥前大村藩に所属していた松林飯山氏、三河刈谷藩の松本奎堂氏、陸奥仙台藩の岡鹿門氏らが中心となって塾を開校。 3名の名前を一字ずつ取って「雙松岡」とした。 尊王攘夷思想を理由に、大坂町奉行所によって閉鎖に追い込まれた。薩長土肥の倒幕中枢藩の一つ。 松林飯山氏の教えを受けた楠本長三郎(大阪帝国大学第二代総長)らが1943年に石碑を建立。 時代が変わり石碑は撤去されたが、その後大阪市指定史跡として復活。大隈重信は肥前藩出身。 五代友厚(天保6年〜明治18年、1835−85)は鹿児島県に生まれた。明治初年、大阪の経済が沈滞混乱の極みにあったときに、それを大きく発展させる牽引車的役割を果たした。彼は慶応元年(1865)ヨーロッパ諸国を視察、貿易に関心をもち一時官途につくが、大阪に来てからは鉱山・紡績・鉄道事業に手をひろげた。 当時我が国製の藍は粗悪で、インドからの大量輸入に頼っていた。それに対抗するため製法に研究努力を重ね、従業員300名を越す近代的製藍所を建設した。その製品は欧米各地に輸出され、明治10〜11年ごろ最盛期を迎えた。しかし明治16年には、輸入品におされ閉鎖された。 大阪市青年聨合團が明治天皇御駐輦の遺跡を顕彰して市内に30地点に昭和3年から昭和6年の間に建てられた顕彰碑です。 元大阪市立本田小学校の平尾先生の調査によれば、確認できる碑は21地点だそうです。 大村藩は、肥前国彼杵地方(大村市)を領した藩。薩長土肥の倒幕中枢藩の一つ。 領主は大村家。2万7900石、鎌倉時代から廃藩置県まで。NTTテレパークの南側(堂島川側) 五代友厚精藍所西朝陽館跡の碑、明治天皇聖躅の碑と並んであります。 ※堂島浜通りには、東洋紡やサントリーの本社や古河大阪ビル等があります ※最寄り駅は JR東西線「北新地駅」 又は 京阪電車「渡辺橋駅」又は「淀屋橋駅」 〇淀川と大和川は、現在の天満橋のところで合流して堂島川のところを本流として流れていた。 大和川は1704年に付け替えされ堺の北へ西流した。新淀川は、1910年に運河掘削して完成。 〇豊臣時代は、葦が生え水鳥が住む、堂島川と土佐堀川に挟まれた低湿地帯(中州)でした。 東西に細長く、約3km、面積73.6ha。 東の端は、当初は灘波橋まで、後に天満橋のところまで埋め立てた。 〇江戸時代の初期に、淀屋常安が開拓して江戸幕府に提供した (その内、淀屋常安は6000坪を譲渡されて、常安町としてそこに住む) 〇江戸時代の中期に、中之島とその周辺に各藩の米蔵屋敷が出来た(MAXの数135)、 〇明治5年(1872年)の廃藩置県で蔵屋敷は払い下げられ、学校等が出来た。 〇現在では、政治や経済の中心地になった。 日本銀行大阪支店・国立国際美術館・大阪府立中之島図書館、・大阪市役所 ・大阪市中央公会堂・リーガロイヤルホテル・大阪国際会議所・朝日新聞社・関西電力本店、等 |
|||||||||||||||
河内磐船駅構内で、村田会長の挨拶 | |||||||||||||||
江戸時代諸街道の起終点は、高麗橋であった。その後、道路法の制定で国道ルートの整備がされ、1922年(T11年)には現大阪市役所前に設置された。さらに1952年(S27年)新道路法が成立(このとき、東京−大阪間国道2号が1号になった)、道路元標も現在位置に移設された。 | |||||||||||||||
大阪市道路原票を説明される毛利信二さん | |||||||||||||||
1909年(M42年)北の大火後、焼跡の瓦礫の捨場となり、上流部が埋めたてられ、1924年(T13年)にはすべて姿を消した。川には上流部から難波小橋、蜆(しじみ)橋、曽根崎橋、桜橋、緑橋、梅田橋などが架かっていた。近松の名作「心中天網島(てんのあみじま)」の道行き「名残りの橋づくし」によみ込まれ、有名であった。 | |||||||||||||||
推古天皇の頃、「東は玉造に四天王寺を作り、西の方洲の中に御堂を建立」との記録があるという歴史深い場所。 | |||||||||||||||
日本初のビール醸造所が作られたのは横浜ですが、日本人によってビール醸造・販売が初めて行われたのは大阪です。1872年、渋谷庄三郎が、北区堂島中9番地にあった土地と土蔵などを利用し、「渋谷ビール」の醸造所を作りました。 | |||||||||||||||
江戸時代の初め、各地から運ばれた米の取引は、土佐堀川沿いの北浜の路上で行われていた。この「北浜米市」は、中心となっていたのが当時の豪商淀屋であったため「淀屋の米市」とも称された。その後、1697年(元禄 10年)頃、交通の妨害になることや、当時開発されたばかりの堂島新地の振興策として、米市は堂島に移されることになった。 | |||||||||||||||
米中心の江戸時代は、堂島米市場での価格が全国に旗振り通信にて伝えられました。 ・交野の旗振山はその名残りです。 ・2015年後期のNHK朝ドラでも、放送されました |
|||||||||||||||
1990年に完成した歩行者専用の新しい橋。堂島側に江戸時代の心斎橋、高麗橋、安治川橋、新町鉄橋、玉江橋の絵図や大阪全図が掲げられている。ANAクラウンプラサホテル゙前の川岸。幅員は20m広めになっているので、くつろげる空間が確保されている。夜間LED証明。「そよかぜの像」の台座には、東西南北の世界の主要都市名が記載されています。 | |||||||||||||||
大江橋駅は地下3階・地下25m。中之島駅(地下20m)から天満橋駅まで。2008年10月開通。約3km。 中之島駅が2031年度に開業する予定のなにわ筋線との乗換駅になる計画。 | |||||||||||||||
1903年(明治36年)に辰野金吾の設計で建立された。中央にドーム型の屋根をのせ、両脇に三角屋根(四角すい)を組み合わせた形はベルギー国立銀行をモデルにしたもの。屋根が薄緑色に見えるのは、塗装ではなく銅板が酸化し緑青(ろくしょう)が出たため。外装は花崗岩。 | |||||||||||||||
わが国最初の郵便制度が設けられたのは、1871(M4年)3月。まず大阪−京都・東京間の開設があり、ここにその郵便役所がおかれた。さしずめ今日の中央郵便局にあたるものであった。ポストも設置されたが、最初の3日間で53通が投かんされ、東京までの所要時間は約75時間であった。 | |||||||||||||||
江戸時代は、現在の御堂筋の北側は淀屋橋筋、南側は御堂筋でした。長堀川には橋はありませんでした。市電は淀屋橋から堺筋を通っていました。全長4km(阪急前から難波西口まで)1937年(S12年)5月11日に竣工。 | |||||||||||||||
|
|||||||||||||||
大阪万博の2025年12月竣工を目指して工事中。東側150m、西側135m(29F、B2) 以前は、東側には京阪ビル、西側には石原時計店、尚美堂、美津濃などのビルがあった。 (淀屋小路は、残念ながら消滅することになった) |
|||||||||||||||
淀屋常安(じょうあん)は、淀周辺(巨椋池など)の出身。豊臣時代に、伏見城の巨石の処理や太閤堤の請負いなどで名前を上げる。徳川時代に、淀屋常安と2代目淀屋言当が大坂夏の陣で徳川の陣屋を提供した。 中之島を自費で開拓し幕府に提供。その返礼として6千坪も貰い受け常安町として住む。 |
|||||||||||||||
淀屋の碑・淀屋屋敷跡 江戸時代の豪商淀屋の屋敷跡で、心斎橋筋から現・三井住友銀行西側までの 旧「大川町」のほぼ全域があり、敷地内には、いろは48蔵が建ち並んでいたといわれる。 中之島も開拓して、淀屋橋は私費で架けた。 淀屋が幕府に願い出て、屋敷前で「淀屋(北浜)の米市」が開かれていた。 (碑文=宮本又次:大阪大学名誉教授) 【淀屋屋敷跡碑文】 近世のはじめ、中之島の開発その他、大阪の発展に寄与するところが 多かった淀屋の屋敷は大川町にあり、淀屋の名は今も淀屋橋に残っている。 |
|||||||||||||||
分かりやすく説明される毛利信二さん |
|||||||||||||||
1918年(T7年)に現在の民生委員制度の礎となる、方面委員制度を導入した大阪府第15代知事・林市蔵の功績をたたえて制作された記念像。「民生委員の父」とも呼ばれています。 中央区北浜の理髪店から市蔵が見た夕刊売りの貧しい母子が制度の出発点になったといわれ、像は和服で整髪中の姿です。 | |||||||||||||||
土佐堀川に影を映す整然とした窓。壁の薄黄色の穏やかな色合いは、周囲を威圧することなく、かつストイックにそこに佇んでいる。旧住友本社と連系各社の本拠であった「住友ビルデイング」(現・三井住友銀行大阪本店ビル)は、東西74m、南北84mに及ぶ大規模建築。 | |||||||||||||||
土佐堀川から分流して、南の道頓堀川まで、2.5Km。1600年に開削された。1962年に埋め立て。(南側の一部残る)、1964年に高速道路供用を開始。阪神高速1号線環状線(北行き)の高架と西横堀駐車場として利用。 | |||||||||||||||
大阪有数の豪商、「加島屋本家の碑」があります。 1925年(T14年)に大同生命保険の本社ビルが完成。(著名建築家のヴォーリズが設計した) 1993年(H5年)に新ビル19階を建て替えて誕生した。 装飾的な部分は旧ビルの様式を引き継いでいるがこのビルを特徴付けている下層部の扇型の広がりは新ビルになってからのもの。 |
|||||||||||||||
大同生命の旧ビルの遺構が残る |
|||||||||||||||
旧の大金庫の扉が展示されている |
|||||||||||||||
2012年11月6日に竣工。37階建て. 地下2階。高さ200m(中之島で一番高い) 中之島フェスティバルホール 2013年1月竣工、朝日新聞大阪本社や一般事務所が入る。 2017年に竣工、40階・地下3階、高さ200m、香雪美術館、コンラッド大阪などが |
|||||||||||||||
「三田は変に寂しかった 欄干に近く遥々と見渡される 澄み渡った星空の下を 静に下る川船の艪の音が ぎいと冴えて聞えて消えて行く 」 水上瀧太郎「大阪の宿」 1951年発売 |
|||||||||||||||
国立国際美術館は、2004年に開館(万博記念公園に1977年開館。(そこから移転) 大阪市立科学館は、1989年に開館。(四ツ橋に1937年に開館。(そこから移転) 大阪市立科学館プラネタリウム館は2022年にリニューアルされた。 |
|||||||||||||||
昼食は、大阪市立科学館南側に新しく出来た公園でゆっくりとすませた。 | |||||||||||||||
橋の袂の薬種商の田辺屋五兵衛が寄進した橋で田辺橋と言われていたが、 田辺屋が道修町に転出したので、常安町に行く橋とのことでいつの間にか、常安橋と呼ばれるようになった。 (現在の橋 上流側は1929年、下流側は1969年間完成) |
|||||||||||||||
なにわ筋線は、2023 年3月に開業した大阪駅(うめきたエリア)と、JR難波駅及び南海本線の新今宮駅をつなぐ路線であり、JR阪和線、南海本線を介して西日本最大の鉄道ターミナルである梅田ターミナル、大阪市の主要鉄道ターミナルである難波ターミナル及び天王寺ターミナル、国土軸との結節点となる新大阪駅及び関西国際空港とを直結する機能を有し、大阪都心及び京阪神圏の各拠点都市と関西国際空港とのアクセス性の強化等、広域鉄道ネットワークの拡充に資する路線です。 | |||||||||||||||
御三家の水戸松平家の支藩で高松松平家、12万石、1642年から廃藩置県まで この石碑は高松藩が大阪に置いた蔵屋敷があった場所で、発掘調査により船溜・屋形・米蔵の跡が確認されている。なお、傑僧慈雲尊者は、1718年ここ蔵屋敷に生まれたので「慈雲尊者生誕之地及び顕彰碑」があつた。(移転済) リーガロイヤルホテル大阪(1965年に開業、1973年には地上30階建ての新館が完成)は総部屋数1039室。大阪の迎賓館の役割。その敷地にある石碑です。製紙と製糖工場の跡で明治天皇が来られた場所です。 高松藩と徳島藩蔵屋敷跡に建つ。 |
|||||||||||||||
安芸の国(広島)の淺野家、42万6千石、1619年から廃藩置県まで 川岸に「蛸の松」が植えられていた。今は、大阪大学中之島センター、大阪中之島美術館 |
|||||||||||||||
広島藩大阪屋敷跡復元図 |
|||||||||||||||
多くの蔵屋敷のなかでも、広島藩浅野家蔵屋敷は坪総数3900坪と最大級の規模を誇っていた。広島藩大坂蔵屋敷の東西には大きな蔵屋敷が並んでいた。下記の絵図によると、表口(南側)48間(約94m)、裏幅(北側)46間半(約91m)、奥行きは東側82間(約160m)、西側87間(約170m)の敷地を有していた。 | |||||||||||||||
ほたるまち は、大阪府大阪市福島区福島1丁目にある複合施設である。 大阪大学医学部附属病院跡地(1993年に移転)の再開発計画として2008年5月に開業。 |
|||||||||||||||
この碑は、1954年に慶應義塾社中建立。題字は小泉信三氏 1834年(天保5年)12月12日、諭吉は当地にあった中津藩蔵屋敷で生まれた。 父百助は諭吉が1歳8か月のとき急死、そのため母につれられ中津へ戻った。 中津では儒学を学び、1854年(安政元年)長崎遊学を終え江戸へ上る途中 大坂の蔵屋敷へ立ち寄ったが、兄のすすめで翌年3月、緒方洪庵の適塾に入門し 、後に塾頭になっている。 3度にわたる幕府の遣外使節に随行、 明治の文明開化啓蒙思想家として活躍、慶応義塾を開設した。 「 天ハ人ノ上ニ 人ヲ造ラズ 人ノ下ニ 人ヲ造ラズ 」 中津藩(大分県中津市)は、奥平家10万石、1717年から廃藩置県まで9代155年間 (「どうする家康」の6/4のTV放送分:家康の長女の亀姫が奥平信昌との結婚を 承諾シーンがありましたね。この結婚が成立していなければ、 奥平家も中津藩も、福澤諭吉も存在していなかったのでは・・・) |
|||||||||||||||
大淀区から現在地に2008年から移転。隈研吾が設計。ABCホールは327人収容。 |
|||||||||||||||
元対岸の広島藩の川岸に、福島正則が植えたと言われ松は、蛸が泳ぐ姿に見えるので 「蛸の松」と呼ばれるようになった。枯れてしまったので、2004年に田蓑橋北詰に植えて碑を建立した。 (『浪速百景』蛸の松夜景,描かれた白壁は隣接の久留米藩蔵屋敷。) |
|||||||||||||||
1861年に肥前大村藩に所属していた松林飯山氏、三河刈谷藩の松本奎堂氏、 陸奥仙台藩の岡鹿門氏らが中心となって塾を開校。 3名の名前を一字ずつ取って「雙松岡」とした。 尊王攘夷思想を理由に、 大坂町奉行所によって閉鎖に追い込まれた。薩長土肥の倒幕中枢藩の一つ。 松林飯山氏の教えを受けた楠本長三郎(大阪帝国大学第二代総長)らが1943年に石碑を建立。 時代が変わり石碑は撤去されたが、その後大阪市指定史跡として復活。大隈重信は肥前藩出身。 |
|||||||||||||||
五代友厚(天保6年〜明治18年、1835−85)は鹿児島県に生まれた。明治初年、大阪の経済が沈滞混乱の極みにあったときに、それを大きく発展させる牽引車的役割を果たした。彼は慶応元年(1865)ヨーロッパ諸国を視察、貿易に関心をもち一時官途につくが、大阪に来てからは鉱山・紡績・鉄道事業に手をひろげた。 |
|||||||||||||||
最後までご覧いただき有難うございました! |