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日時 : 2024年11月23日(土) 午前9時 河内磐船駅集合 参加者25名(会員17名)+子供1名 行程 河内磐船駅→ 京橋駅 →天王寺駅 →東天下茶屋下車→安倍晴明神社 →阿倍王子神社→北畠顕家の碑→北畠乗車→帝塚山三丁目下車→ 万代池公園→帝塚山古墳→帝塚山三丁目乗車→住吉鳥居前下車→ 住吉公園(昼食)→住吉大社(解散)→天王寺駅→京橋駅→河内磐船駅 (徒歩7km) |
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2024年11/23(祭日・土)、天候 晴。朝方は冷え込みましたが先ず先ずのウォーク日和となりました。 JR河内磐船駅前に9時、24名が集合、山本氏より列車の乗り換えなどの説明を受けて、9時4分発の列車に乗車、星田駅で2人乗車。京橋経由で天王寺駅に到着。阿倍野歩道橋の上で全員集合後、村田会長の挨拶と山本さんより歩道橋から見える東西南北の町並みや風景の説明などを受けて「阪堺線・上町線〜住吉大社へ」と出発。 阪堺線・天王寺駅で一日乗車券を購入、年・月・日の該当部分を爪で削り乗車する。先ず、東天下茶屋駅で下車、駅構内に「馬車鉄道跡」の石碑を確認。駅前から東へ出た道路が「熊野街道」である。 少し南へ進むと「安倍晴明神社」、「阿倍王子神社」を見学、阿倍野筋をさらに南へ「北畠公園」に到着、「北畠顕家の墓」から西へ、上町線の「北畠駅」で乗車。帝塚山三丁目で下車、万代池公園〜市内で残る最大級の前方後円墳「帝塚山古墳」を見学。再び、帝塚山三丁目駅で乗車、鳥居前駅で下車。住吉公園でゆっくりと昼食後、本日のメイン訪問先の「住吉大社」に到着。 見上げるような大きな石碑「住吉大社」と「うつぼ干鰯大燈籠」に迎えられ、1800年の歴史を感じる「住吉っさん」の反橋を渡って雄大な神社建築物に感動し、古代の歴史とご利益満載の沢山のパワースポットを楽しんで来ました。 今回の企画は、案内人の山本秀雄氏が令和2年の春に計画されたが、コロナの影響で何度も延び延びになり今回4年ぶりに実施された。これまで、何度も足を運ばれ下見や調査に時間を費やし沢山の資料を作成され準備万端当日に臨まれた。 参加された皆さんから「初めて乗る阪堺電車・上町線が珍しくてワクワクしました。熊野古道沿いの史跡巡り大変興味深く良かったです」「これまで住吉さんには良くお参りしましたが、今回いろいろな史跡やご利益が貰えるパワースポットなど案内頂き大変嬉しく楽しませて貰いました。有難うございました!」と大好評でした。 ※案内役の山本さんには下見や事前準備など、また資料など沢山提供頂き 有難うございました。当日、頂いたレジュメなどを参考にさせて頂きました。 また、住吉大社など関連のWEB記事、「すみ博ガイドブック」などを参考にさせて戴きました。 記して感謝申し上げます。 |
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安倍晴明神社で記念撮影 右奥に安倍晴明の銅像 |
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阪堺電気軌道(株)の前身は、明治30年5月に設立され、当時としてはモダンな交通機関とし て脚光を浴びた「大阪馬車鉄道」でした。東天下茶屋駅に、「馬車鉄道跡」の石碑が建っています。 南海電気鉄道では平野線の廃止を機会に、軌道部門を別会社として分離・独立させることとし、 昭和55年12月1日、阪堺線・上町線が「阪堺電気軌道株式会社」として新発足いたしました。 |
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上町線と住吉大社周辺ウォーク(レジメ資料) |
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案内: 山本 秀雄氏 (交野古文化同好会) | |
本橋は、JR天王寺駅と近鉄ビル「あべのハルカス」とを連絡する交差点を便利に網羅する、デザインコンペで選ばれた独創的な歩道橋である。 新たに架け替えられた歩道橋は、デザイン・設計コンペにより「あべの(abeno)」の「aからまちが始まる」をデザインテーマとした案が採用された。本橋は、主構高さが複雑に変化する曲線トラス橋3連と鋼床版鈑桁2連などから構成されており、歩道橋上面には東京ドームと同じ光触媒型テント膜屋根が設けられている。本橋を上から見ると「a」の形状をしている。 |
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阪堺線 天王寺駅乗場 |
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熊野街道は、京都から大阪を経て熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社) へと向かう参詣の道である。熊野三山は平安時代中頃から神仏習合による阿弥陀信仰の聖地として尊ばれ、宇多上皇、白河上皇、後白河上皇など皇族や貴族の参詣が盛んに行われた。 街道は渡辺の津(江戸時代以降は八軒家浜)を起点に四天王寺、住吉大社、和泉から紀州和歌山、田辺を経て、中辺路または大辺路によってまずは熊野本宮へと向かう。街道沿いには熊野権現を祭った王子社(九十九王子)があり、参詣者はここで体憩し、道中の無事を祈って参詣の旅を続けた。 |
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「安倍晴明神社」は、間口は狭いがうなぎの寝床のような敷地に古い大きな楠の木が数本、古色蒼然と立ち並び、古びた神社だが、「安倍晴明公の銅像」や「陰陽師安倍晴明生誕伝承地」の石碑が新設されたり、「安倍晴明公産湯井の跡」とか「鎮石(孕み石)」など謂われを書いた立て看板が所狭しと立てられている。 | |
「いまから千年以上昔、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげました。 その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けました。」 (葛之葉子別れ伝説 くずのはこわかれでんせつ) |
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「阿倍王子神社」の方は仁徳天皇の創建と伝えられ、隣の「晴明神社」よりも数倍広い敷地を擁し、ここにも背の高い立派な楠の木が鬱蒼と生い繁り、長い歴史を感じさせる神社だ。社殿の両脇に「石清水八幡宮御分社」、「熊野三所権現第二王子社」の銘板が掲げられている。 堀越神社(大阪市天王寺区 茶臼山町の神社)の境内にある熊野第一王子之宮(元は窪津王子と言って八軒家船着き場にあった。現在はその場所に座魔神社が建っている) |
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阿部野神社は、北畠親房(ちかふさ)・顕家(あきいえ)父子を祭る。明治15年創設、社殿は今次大戦で焼失した。父子は南北朝時代の武将で、建武中興のとき南朝方として活躍した。親房は陣中にあって職原抄(しょくげんしょう)(日本最初の法制史)、神皇正統記(じんのうしょうとうき)等を著述し、正平9年(1354)大和賀名生(あのう)で没した(61歳)。 顕家は各地を連戦したが、延元3年(1338)足利尊氏と阿倍野で戦い、奮戦の末手兵全員と共に戦死(21歳)した(一説には石津川付近ともいう)。伝顕家墓は古くから大名塚といわれており、現在の墓碑は、享保年間(1720年ごろ)並河誠所(なみかわせいしょ)により建てられた。 |
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北畠と言えば、私部の代官屋敷の北田さんと関係あります。 | |
顕家会館とご尊像 日本1000公園の訪問ブログを参照 | |
その昔 万代池には、魔物が住み、人々を悩ませていたが、 聖徳太子が人を遣わし、曼荼羅経を読ませた、ことから萬代池になったと伝える。 |
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帝塚山古墳(てづかやまこふん) 住所:大阪市住吉区帝塚山西2丁目 住吉村常盤会が所有している帝塚山古墳は、昭和38年国の史跡に指定され、大阪市内に残る数基の古墳のうち、前方後円墳の原型をとどめ、4世紀末から5世紀初めの築営と推定される貴重な古墳です。当初の規模は全長120m、後円部の直径57m、高さ10m、前方部の幅50m、高さ8mであったと推定され、内部構造や副葬品などは不明ですが、二段築成の墳丘には円筒埴輪列や葺石、周濠の跡も確認されています。 古く住吉近辺は玉出岡と称したことから帝塚山は玉手塚とも呼ばれました。玉手塚の呼称によって手塚山、そして帝塚山として現在の地名の元にもなりました。また、東側にはかつて大玉手塚あるいは大帝塚と称した古墳(現在の南海高野線帝塚山駅の周辺)、対する小玉手塚あるいは小帝塚と称した古墳(現在の住吉中学校付近)などが存在したが現在は消滅しています。 被葬者は不明ですが、住吉に居宅があった大伴金村の墳墓とする説があり、他にも鷲住王(摂津名所図会)、また地元では浦島太郎の墓とする伝承もあったようです。 明治31年(1898年)11月に行われた陸軍特別大演習では、明治天皇が帝塚山から御統監あらせられたことを記念する天皇駐蹕碑(題字は閑院宮載仁親王、碑文は藤澤南岳、大正3年住吉村の建立)が墳丘上に建っています。 |
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明治6年(1873)に開設された大阪でもっとも古い公園。 春は満開のサクラのもとで行われる桜祭、夏は隣接する住吉大社の住吉祭(夏越大祓神事)、そしてお正月には初詣と、一年中賑わいをみせている。 もともとは住吉大社の境内で、大社の馬場があり、公園の中央を東西に走る現在の「潮掛け道」も住吉大社の表参道だった。 国道26号線に面したところに立つ「高灯篭」は、鎌倉時代末期に住吉大社への献灯として建てられた日本最古の灯台とされる(現在の灯台は昭和49年に復元)。かつては公園の西側あたりまで海が迫り、この海に面した住吉大社の社前の風景が、日本の美しい風景の典型とされる白砂青松の原景である「住吉模様」と呼ばれ、景勝地として多くの和歌などに詠われた。 公園の東入り口には、元禄7年(1694)9月13日、芭蕉が住吉大社の宝の市神事へ参拝した時に詠んだ句の碑がある。 |
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住吉大社の詳しい境内めぐりは、住吉大社のホームページをご覧下さい! 住吉大社ホームページ |
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平成23年(2011)は辛卯(かのとう)の年で30回目の還暦。1800年前は西暦211年に当たります。邪馬台国の女王卑弥呼は西暦238年より10年程活躍。全国に約2300社あるという住吉神社の総本社で、航海の神、お祓いの神、和歌の神として古くから崇敬される。住吉大社(式内社-延喜式神名帳 延長5年(957年) 御祭神は住吉三神と神功皇后(息長足姫尊) 摂社四社、末社二十三社 | |
「住吉大社」は想像以上に広い境内に、見るべき所が数多くあり、ここは今回の史跡探訪のメインスポットだ。4つの社殿は全て「住吉造」と呼ばれる建築様式で、4社とも国宝に指定されている。有名なのは「太鼓橋」と親しまれている「反橋(そりばし)」で、緑の池に映るこの朱色の欄干と反橋の景観は実に綺麗で、その美しさに暫し心安らぎ癒される所だ。 境内の南には日本三大石舞台の1つで、慶長年間に豊臣秀頼が奉納したという「石舞台」(重要文化財)があり、第一本宮の北には如何にも古めかしい土蔵が目を惹く。これは享保8年、三都(大阪・京都・江戸)の書林が奉納した大阪で最古の図書館、「住吉御文庫」だと記されている。 その他、境内至る所に樹齢800年〜1000年の楠の巨木が翠の苔を纏って立っていて、これを見ているだけでも何か神秘的な力がこちらにも伝わってくるような気分になる。また、境内には石灯籠が600余基にも達し、中でも正面両脇には並外れて壮大な石灯籠が並び、壮観である。その題字も頼山陽や池大雅、貫名海屋や五井蘭州など名家の揮毫になるものなど、見応え充分である。 |
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4つの社殿は全て「住吉造」と呼ばれる建築様式で、4社とも国宝に指定されている。 御田植神事や夏越祓神事などは、昔からの儀式を継承し続けており、 住吉ならではの初辰まいりなどは、とても有名なため、 大阪だけでなく全国各地から人々が訪れます。 |
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摂津国の一の宮、住吉神社の総本宮である住吉大社 大阪の人からは「すみよっさん」と呼ばれ親しまれている。 航海の神・祓の神・歌の神として古くから崇敬されている大社である。 住吉大社周辺地区は、古くから海上交通の要衝として開けたまちです。 旧熊野街道、住吉街道を中心とするこの地域では、毎年多くの人が 参詣に訪れる住吉大社をはじめとする社寺や地蔵堂、町家や土蔵を目にすることができます。 |
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第一本宮〜第三本宮まで縦に、第四本宮は第三本宮の横に並ぶ縦並びの配置は、全国的にもたいへん珍しく、住吉大社だけの建築配置です。あたかも大海原をゆく船団のように立ちならび、「三社の縦に進むは魚鱗の備え 一社のひらくは鶴翼の構えあり よって八陣の法をあらわす」とも言い伝えられます。 | |
御本殿は「住吉造」といわれており、神社建築史上最古の特殊な様式で国宝に指定。 3つの特徴からなります。 1) 柱・垂木・破風板は丹塗り、羽目板壁は白胡粉塗り 2) 屋根は桧皮葺で切妻の力強い直線 3) 出入り口が直線型妻入式 屋根には置千木(ちぎ)と5本の四角堅魚木(かつおぎ)があります。周囲に迴廊なく、本殿の周囲には板玉垣、その外に荒忌垣があります。 柱は太い丸柱で礎石の上に立っており、柱間は横板張りで、正面より前が外陣、奥が一段高い内陣と二室あります。 |
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◎住吉大社 御祭神 第一本宮 底筒男命(そこつつおのみこと) 第二本宮 中筒男命(なかつつおのみこと) 第三本宮 表筒男命(うわつつおのみこと) 第四本宮 神功皇后(じんぐうこうごう) 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと) |
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住吉大社角鳥居すみよしたいしゃかくとりい |
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【住吉鳥居の特徴】 住吉大社で見られる鳥居。基本は明神鳥居であるが、 柱の形状が円ではなく四角い角柱になっている所が特徴。 |
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遣隋使、遣唐使等派遣の際には住吉大社へ航海の安全を祈願し船出をした。 | |
手水 うさぎの石造 |
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住吉大社の象徴で太鼓橋とも呼ばれ、この橋を渡ればお祓いになるといわれる。「住吉祭」には神輿を担いでこの橋を渡り、「観月祭には橋の上で短歌の披露と俳句の朗詠が行われる。 | |
源頼朝の寵愛受けた丹後局(たんごのつぼね)ここで出産した場所と 伝えられている。島津藩の始祖 島津忠久公 御台所 北条正子 |
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神宮寺は神仏混淆(こんこう)の名残りで、平安時代には有名神社殆どにもうけられた。 | |
天平宝字2年(758)、孝謙天皇の命により創建され、七堂伽藍を備えた壮麗な寺だつたが、明治の神仏分離令により廃寺となつた。回廊の一部は生根神社の紅梅殿として、西塔は徳島県の切播寺に移され現存している。 | |
享保8年、三都(大阪・京都・江戸)の書籍商20人が奉納した 大阪で最古の図書館、「住吉御文庫」だと記されている。 |
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祭神は豊玉彦と豊玉姫。式内社で本殿は住吉造、西門は元和年間造営の四脚門でともに重要文化財。神話の山幸彦は海神より授かつた潮満珠を当社本殿前の「玉の丼」丼戸に沈めたと伝えられる。 | |
一寸法師は住吉様の申し子 |
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大歳神社のおもかる石 |
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住吉大社の東門から延びる住吉街道(磯歯津路)と熊野街道の交差点に建つ。 名物「住乃味噌」の名で広く知られている。明治25年(1892)頃の建設と伝えられ、 背の低い2階部分「つし2階」に立派な虫籠窓をもち、重厚な外観は町家の 特徴をよく表している。昔から変わらない歴史的景観の核として貴重である。 |
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慶長年間に豊臣秀頼が奉納した。 毎年5月の卵之葉神事ではこの石舞台で 天王寺楽所による舞楽が奉納される。 日大三舞台(住吉大社・厳島神社・四天王寺)のひとつ。 |
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毎年6月14日に行われる「御田植神事」では実際に田植が行われ、 八乙女田舞、神田代舞、源平棒打合戦、田植踊、 住吉踊ほかの芸能が奉納される。国の重要無形民俗文化財。 |
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うつぼ干鰯(ほしか)仲間の石灯篭 高さ10.8m 奉納年1890年(明治23年) |
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境内には石灯籠が600余基にも達し、中でも正面両脇には並外れて壮大な石灯籠が 並び、壮観である。願主は広い地域に及び、業種は海運、漁業、材木、砂糖、 米、干鰯、昆布、綿等で住吉大社が全国的に厚く信仰されていたことを物語る。 |
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最後は、絵馬堂付近で解散。山本さん、ご案内大変お疲れ様でした! 上町線・住吉鳥居前駅にて乗車、天王寺駅〜京橋駅に乗り換え、 各自元気に帰途に着いた。皆様、お疲れ様でした! |
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