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案内:吉田 知史氏(交野市教育委員会) |
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行程 : JR河内磐船駅 9時集合 →森遺跡の概要説明→森遺跡周辺ポイント→船戸→ 交野車塚古墳群3~5号墳→2号墳→1号墳(東車塚古墳)→大畑古墳等の説明 解散 11時30分頃 徒歩 約3km |
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2024年9月7日(土)、天候晴れ。9月に入っても連日35度を超す異常気象の中、早朝から35名のたくさんの方々が元気に参加された。熱中症対策について、細目に水分を摂ること等お願いすると同時に、出来れば11時30分ごろには終わりたいと申し上げた。 午前9時過ぎ、JR河内磐船駅より少し東寄りのマンションの日陰で、講師の吉田知史氏より当日の行程と森遺跡についての詳しい解説を受ける。その後、森遺跡の中の主だった10ヶ所位のポイント毎に巡り立ち止まって説明された。 磐船小学校を過ぎた森北付近の「船戸」、次いで交野高校手前では、「交野車塚古墳群の3~5号墳について」、当日文化祭が開催されていた交野高校の校門前を通り、南川の堤防沿いの桜並木を東へ進み、「車塚古墳群の2号墳」、「車塚古墳群1号墳(東車塚古墳)」及び、大畑古墳や未確認古墳、須弥寺のことなど、大変詳しく解説された。 炎天下の中にも拘らず、参加された皆さん、大変熱心に解説を聞かれて、最後の「東車塚古墳」の前では、いろいろと質問が相次ぎ、その都度講師の吉田さんから丁寧な解答があり、大変有意義な歴史健康ウォーとなりました。 また、講師の先生より当日配布のレジメ(35p)を提供いただき誠に有難うございました。 記して感謝申し上げます。 |
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交野車塚古墳群の前にて記念撮影 |
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当日のウォーク行程図 河内磐船駅~交野車塚古墳 | |
昭和20年代の終わり頃、交野市森から私部に行く道の途中の田の中に排水溝を造るため120㎝ほど掘削したところで、弥生時代終末の土器が確認されたことが、森遺跡発見の契機となった。 発見者は交野考古学会の代表である片山長三氏らで、その後周辺の遺物の散布状況から遺跡が標高35~ 40mの間で、東西約400m。南北200mの範囲に広がっていることが分かった。 片山氏らは昭和30年6月に町道建設工事に伴い森南3丁目の大門酒造北側の斜面に弥生土器や石器片などの遺物が採取され、同年9月20日より5日間にその斜面においてトレンチ掘りでの発掘調査を行い、森遺跡が弥生時代終末から現代まで続く遺跡であることを確認している。 そして昭和61年度からは河内磐船駅南側、平成4年度からは駅北側のロータリーやそれに接続する市道建設及び区画整理事業に伴つて、交野市教育委員会と交野市文化財事業団によって大規模に発掘調査が進められた。そして、遺跡の広い範囲で古墳時代中・後期の鍛冶に関する遺構・遺物が確認され、この時期、鍛冶専業集落であつたことが分かった。 またこの大規模な調査が開始されてから20数年が経ち、鍛冶炉や鍛冶関連遺物について様々なことが分かってきた。 |
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この地域は古墳時代中期から後期にかけて、列島内の鉄文化の中核地であったことは間違いない。その役割を果たした氏族が交野郡においては肩野物部氏・鍛冶(守部)氏であった。 両氏の墓とも森遺跡の近くには存在していることも、調査研究で明らかになつてきた。鍛冶操業が一番盛んであつた古墳時代中期後半、北河内最大で全長85mの車塚古墳群第六号古墳(大畑古墳)とその周囲では葺石を持たない全長20m下の円墳である第四・五号古墳が築かれており、前者を肩野物部氏、後者を鍛冶氏とすることができるであろう。北河内においても職能民の墓の一部はこのように有力首長の周囲に配置されたと考えてよいであろう。 森遺跡の立地は現在では護岸工事が完了した天野川から少し離れた位置にあるが、古代においては水運に恵まれかつ、大和へと通じる磐船街道近くに位置していた。「船戸」という小字名も残り、当時は淀川を遡つて森遺跡まで船運が使えたことが予想される。朝鮮半島や各地から鍛冶原料を入手しやすい立地であつたといえる。森遺跡の近くには、磐船街道から分岐した「かいがけ道」もあり、こちらも大和へと通じる。同遺跡は天野川と二つの大和へと通じる陸路との結節点に位置している。原料に含まれた不純物の精錬が行われた後、それを大和の鍛冶遺跡へと運びこんだのであろう。また大和政権の直轄地であった「私部」地区の遺跡にも近く、そこへの鉄器の供給も重要な役割であつたといえよう。 1.森遺跡の鍛冶工は、6世紀後半以降、急速に衰退し、恐らくは飛鳥地域の官営工房に 吸収されたのだろう。 2.奈良時代には鍛冶造氏とみえ、改姓して守部氏となる。須弥寺を氏寺として建立。 3.平安時代には交野郡司として守部氏がみえ、森遺跡一帯に三宅山荘園を構え、 その後石清水八幡宮に寄進し、荘官となる。 |
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(みやけやましょうえん) | |
交野市森北1丁目のマンション建設予定地(JR河内磐船駅の北約200㍍の田圃)で、平安時代に石清水八幡宮(京都市八幡市)が持っていた「三宅山荘園」と見られる遺構や遺物が見つかったと発表した。 古代、大化改新後に班田収授法が施行され全国の土地が朝廷のものになった。条里制を施行して、班田農民に土地を分け与えていった。 その代わりに、これらの農民から年貢を取った。ただ、貴族、寺社等には特権的な土地所有が与えられた。奈良時代から平安時代にかけて、朝廷の力が弱まって行くと、逆に有力貴族、寺社は強くなっていく。重い年貢に耐えきれずに班田農民は村を捨て逃亡する。 これら逃亡農民などを使役して、貴族、寺社は未開地を開墾し、耕地を広げていく。また、中小農民から土地の寄進を受けたりして、自己の所有地を増やしていく。このように朝廷の力の及ばない土地を「荘園」と呼んでいる。 交野地方には石清水八幡宮の荘園があった。天暦3年(949)のことで三宅山一帯1400町歩にわたる広大なものである。 『日本書紀』は敏達天皇が皇后(後の推古天皇)のために「私部」を置いたと記すが、交野市私部はこの皇后領に由来するとされる。また小字名にも「官田」が残り、これは『養老令』が記す畿内に置かれた天皇の食料田である「官田」に由来している。またこの官田は大化以前の屯倉(みやけ)に由来するとされている。平安時代の初め書かれた『延喜式』には河内に20町の官田があったとされ、近年、第二京阪道路建設にともなう発掘調査が行われ、上私部遺跡や私部南遺跡の調査が行われ、多数の住居跡が確認され、中から新羅系土器が出土したことから屯倉に関連した『古事記』が記す秦人の集落であった可能性が指摘されるようにもなった。 |
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車塚古墳群は交野市南野10番地にある。 現在の府立交野高校の校地内と北側の古墳群を言う。昭和47年、交野高校が建設されることになり、事前に試掘され発見された。5世紀初頭から6世紀頃の5基の古墳群からなる。交野東車塚南古墳は、他では類例のない四隅が四角の周溝を有する円墳で、その形から「日の丸古墳」と言われる。北辺27.5m、南辺26.5m、東辺27.4m、西辺28.8m、その中央に直径22.4mの円墳がある。 また、東車塚古墳は、5世紀初頭の時期のものと考えられており、周辺域でも確認例のない前方後方墳(墳長65m、後方部の高さ約6m、後方部幅33.5m)で、筒型銅器・巴形銅器・石製腕飾類など多数の遺物が出土している。中でも、甲冑は三角板革綴衝角短甲と呼ばれるタイプの一種で、全国でも20例ほどしか出土していない。 |
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レジメ 古墳時代交野の鉄器生産と王墓 講師 : 吉田 知史氏(交野市教育委員会) 古墳時代交野の鉄器生産と王墓 (PDF) |
案内:吉田 知史氏(交野市教育委員会) |
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交野高校 体育館 |
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交野車塚古墳群 2号墳 | |
交野車塚古墳群の前にて記念撮影 |
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参加の皆様、大変お疲れ様でした! |