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日時 : 2024年4月13日(土) 午前8時50分 河内磐船駅駅集合 参加者29名(会員19名) 行程 河内磐船駅 → 木津駅 → 奈良駅 → 天理駅 → 石上神宮 → 神宮外苑公園内 (昼食)→ 白山神社 → 内山永久寺跡 → 夜都伎神社 → 竹之内環濠集落 →長柄駅 →奈良駅 →木津駅 →河内磐船駅(徒歩7.5km) |
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2024年4/13(土)、天候 晴。奈良 気温25。7度を記録。 JR河内磐船駅前に8時50分元気な26名が集合、村田会長・盛岡氏より挨拶・当日のウォーク行程などの説明を受けて、9時4分発の列車に乗車、木津駅・奈良駅を経て天理駅に10時28分着。天理駅前広場(コフフン)は春の装いで沢山の人出で賑わっていました。 駅前から「天理本通り商店街」を約1km東へ歩き、天理教教会本部前にて記念撮影。新芽が芽吹き青々とした山並みの裾野を南北に走る古道「山辺の道」をゆっくりと散策、古代の面影と歴史を楽しんで来ました。 「古道を歩いて、なにか懐かしいような表現しきれぬものを感じるのは、諸々の時代を経てここを歩いた無数の人達の喜怒哀楽がしみこんでいるからなのだろうか。ここ山辺の道は、我国最古の古道の名残をとどめ、千幾百年来のさまざまのドラマを秘めて、今に生きる私たちを歩かせる。」と紹介されている。 今回の企画は、案内人の盛岡博氏が、天理市の石上神宮から桜井市の金屋までの約16kmの「山辺の道」を3回に分けて歩く、第1回目として実施されました。後の2回は、今年の下期、来年の上期に予定されています。 当日は、午後には夏日が予報されるなど熱中症対策を万全に余裕を持った時間割で、石上神宮に到着。ここで車組の3名と合流、総勢29名となった。 国宝の拝殿や重要文化財の楼門などをゆっくりと案内頂き、巽副会長から物部氏の由来や歴史の話も特別に披露して頂き、大和朝廷の武器庫のことなどいろいろと勉強になりました。 神宮外苑公園で昼食後、白山神社〜内山永久寺跡〜夜都伎神社〜竹之内環濠集落をめぐり懐かしい里山風景と歴史を存分に楽しむことができました。 参加された皆さんから「何度か山辺の道は歩きましたが、説明を受けながら巡ると分かりやすくていろいろと興味が出て来て一日楽しく過ごせて良かったです。」「子供の頃を思い出す懐かしい風景に出会えて嬉しかったです。また、色々な歴史を身近に感じられる大変楽しいウォークでした。」「初めてお会いした方とも親しく話が出来、十分に楽しみました!」と大好評でした。 ※案内役の盛岡さんには下見や事前準備など、また、資料など沢山提供頂き 有難うございました。当日、頂いたレジュメを参考にさせて頂きました。 記して感謝申し上げます。 |
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天理教教会本部前で記念撮影 |
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奈良・山辺の道を歩くNo.1 |
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案内: 盛岡 博氏 (交野古文化同好会) | |||||||
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つながりとにぎわいを生む、新しいコフン。 奈良県天理市にあるJR・近鉄天理駅の駅前広場は、まちの元気をつなぐ、にぎわいづくりの拠点です。 広場は天理市の「歴史」「地理」「文化」という3つの要素を凝縮したデザインとするため、市内に約1600基も点在しながら日常生活に美しく溶け込んでいる「古墳」をアイコンとして選びました。 古墳を想起する野外ステージや大型遊具、カフェや観光案内などの機能を備え、イベントの開催や観光・ものづくり、農業情報の発信、近隣住民の憩いの場として活用されることで、周辺地域のにぎわいの循環を生むことを目的としています。 天理の芸術文化、スポーツ、ものづくり、教え、そして子どもから高齢者までが絆をもって共に暮らしてきた日々の価値を、いまみんなで共有し、新たな価値を生み出していく。天理駅前広場はその拠点となります。 |
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天理の玄関口である天理駅(JR/近鉄)と天理教教会本部を結ぶ東西約1kmのアーケード商店街。約200の店舗があり、最寄り品・買い回り品・小売店、飲食店、天理教関係の神具店・装束店など多岐にわたっている。 | |||||||
天理教は、江戸時代の天保9年(1838)教祖・中山みきによって始められました。現在、日本国内を中心に約1万4千の教会があり、信者数は120万人を数え、その教えは海外80ヶ国に広がっている。(天理教のホームぺージより抜粋) 天理参考館(本日は行きません) 1930年に設立され、世界各地の生活文化資料や考古美術資料などを所蔵する博物館。収蔵する資料は、約30万点が常時展示されている。今となっては現地でも見ることが出来ない、様々な時代で使用されていた貴重な資料は一見の価値があります。是非一度、訪れて下さい。 |
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「天理教教会本部」の大きな神殿。1838年(天保9年)中山みきさんによって開かれた天理教の聖地、人類創造の地「おぢば」がここで、中心に建つ「神殿」は入母屋造で、東西南北に礼拝場があります。そして、これらを囲む様に天理市内のいたる所に「おやさとやかた」と呼ばれる鉄筋コンクリート和風5階建てが建っています。まるでアニメの「千と千尋の神隠し」に出て来たような建物ですね、と同行のN氏が言われた。なるほど、似てますね。 |
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布留の地名は、魂振(たまふ)り(生命力の再生)のための神剣・神宝を振る呪術「振る」からとも、神剣が布に留まったことからともいう。 神宮のすぐ北に、のどかな田畑が広がり、布留川(ふるかわ)が流れている。 |
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天理教の建物にあるエントツって何に使われているのですか? 天理市内の詰所近辺の話でしょうか?だとすれば風呂の煙突ですよ。 多分、新しくできたやかたや母屋にはないはずです。 現在、ある詰所の大半は古い建物だと思いますので、昔の銭湯のように風呂の湯を沸かしていた もののなごりです。大半の詰所ではボイラーに切り替えてあると思いますよ。 |
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(いそのかみじんぐう) |
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日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきた。国宝の「七支刀(しちしとう)」が有名。拝殿と出雲建雄神社拝殿が国宝、楼門が重要文化財に指定されている。境内には、神鶏の「ニワトリ」が自由に闊歩しており、参拝者の人気となっている。また、南北へ通じる「山辺の道」の起終点でもある。 | |||||||
万葉集で「布留(ふる)の神杉」と詠われた「石上神宮」。石上(いそノかみ)神宮は布留社(ふるしゃ)とも云われ、大和朝廷の武器庫のあった所に建てられ、三輪の大神(おおみわ)神社と共に我が国最古の神社である。 神武天皇が即位後、物部氏の祖宇摩志摩治命に命じて宮中に祭らせた神剣を、崇神天皇の時、物部氏の伊香色雄に現在地に移させた。以後物部氏がこの宮を祭祀した。朝廷の武器庫ともなり、国家非常の際には、天皇が行幸して鎮定を祈った。 現在、国宝として指定されている「七支刀」(しちしとう)は、石上神宮の神庫に、ながく神の宝として伝えられてきた剣。「しちしとう」「ななつさやのたち」とも呼ばれている。 長さ約75cmの古代の鉄剣。左右に3本ずつ交互に枝のような剣がついていて、中央先端の刃と合わせて7本になるところからこの名があり、剣の形状をしてはいるが、突き出した枝は戦闘には使えず、儀礼のために作られた、他に例が無いほど珍しい形の剣だと考えられている。 この剣を、石上神宮に祀ったのは、崇神天皇(すじん)で、七支刀には表と裏に次のような61文字が刻まれいる。 表 秦■四年五月十六日丙午正陽造百練鋼七支刀■辟百兵宜供供侯王■■■■作 裏 先世以来未有此刀百済王世■奇生聖■故為倭王旨造伝■■世 1600年ほど前頃(西暦369年頃)、百済王から倭王に贈られた刀であると、そのいきさつが記されているそうである。 |
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石上神宮の社号標 |
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隷書(れいしょ)で「官幣大社 石上神宮」と彫られています。 この社号標は、明治16年の建立で、この年の3月に当宮本来の正式な名称「石上神宮」の神宮号に復旧したことを記念して建てられました。すでに「古事記」「日本書紀」には石上神宮と記されていましたが、明治に入り広く石上神社と称せられていたものを改めたものです。 この字は、明治9年5月3日に当神宮の少宮司に任ぜられた富岡百錬(鉄斎)の筆によるものです。 |
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この社号標は、昭和3年11月に行われた昭和天皇の即位礼、 大嘗祭を奉祝して建てられたもので、裏面には「昭和参年拾壹月建之」となっています。 |
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石上神宮鳥居横の歌碑 柿本人麻呂 | |||||||
未通女等(おとめら)が 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みづがき)の 久(ひさ)しき時(とき)ゆ思(おも)ひき吾(われ)は (意味) 少女が袖振るという布留の山野、神垣がずいぶん年を経ているように、 あなたを長い間、恋慕っておりましたよ、わたしは。 |
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神 杉 |
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石上神宮の境内には矮鶏(ちゃぼ)や鶏が飼われ、彼らは神のお使いで、鏡池の所の鶏舎に天然記念物の東天紅(とうてんこう)も飼われている。 また、鏡池に天然記念物の馬魚(ばぎょ、ワタカ)がいる。これは内山永久寺跡の本堂池から引っ越して来た魚で、後醍醐天皇の御乗馬の斬られた首の子孫です。1336年(延元元年)12月23日第96代後醍醐天皇が京都を脱出し吉野へ逃れる時、内山永久寺に一時立ち寄りましたが、天皇の御乗馬が後を追って来た敵方の馬に応じて嘶(いなな)くと、所在がばれるのを恐れ、馬の首を切り落としたら、その首が転がって本堂池に落ち、「馬魚」になったと伝えられている。 |
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所在地 奈良県天理市布留 石上神宮 ワタカは淡水魚で我が国の固有種。全長は約30cm。 体色は淡い青色で腹部は白色。 平成19年 (2007)に環境省より絶滅危惧B類に指定された。 その後、平成25年(2013)には絶滅危惧A類となった。 |
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境内には、神鶏の「ニワトリ」が自由に闊歩しており、参拝者の人気となっている。 | |||||||
重要文化財の 石上神宮 楼門 |
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国宝の拝殿 |
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国宝の「七支刀(しちしとう)」 |
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国宝の摂社出雲建雄神社拝殿 内山永久寺(現在は廃寺)の鎮守社の拝殿を同寺廃絶後大正3年に 移築されたもので、中央に一間の「馬道(めどう)」と呼ぶ通路を開く 割拝殿(わりはいでん)の典型的なものである。 |
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出雲建雄神社(左)と猿田彦神社(右) |
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猿田彦神社 |
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摂社 天神社 |
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楼門を眺める |
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石上神宮外苑公園の歌碑 石上(いそのかみ) 振之神瘁iふるのかむすぎ) 神備西(かむびにし) 吾八更々(あれやさらさら) 戀尓相尓家留(こひにあひにける) 意味 石上の布留の社の年ふりて神々しい神杉のように年老いた私が、 今さら思いもかけず恋にとりつかれてしまったよ。 |
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祭神は菊理姫大神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神。古くは、白山権現社と称し、五穀豊穣、延命長寿の守護神として奉賛され、広く衆民の尊崇を集めていた。 | |||||||
永久年間(1113〜1118)に鳥羽天皇の勅願により亮恵上人が建立したと伝わる五町(500m)四方の広大な境内を誇っていた大寺院で、本堂をはじめ真言堂、観音堂など40有余の伽藍があり、仏教文化を背景とした山荘ともいうべき性格を持っていたもので、上流貴族との関係も深く、その交流が伝えられている。南北朝動乱の頃、後醍醐天皇も一時、当寺に身を寄せていたことがありました。明治の激動期に廃寺となり、現在は池が残るのみ、池畔には芭蕉の句碑だけが静かに佇んでいる。 | |||||||
うち山や とざましらずの 花ざかり 宗房 | |||||||
今、内山永久寺に参拝してみると、見事なまでに満開の桜でうめつくされている。 土地の人々はこの桜の花盛りをよく知っているのであろうが、外様(よその土地の人々)は知るよしもない。 松尾芭蕉が江戸へ上る以前、まだ出生地の伊賀上野に住んで「宗房」と号していた頃の作品である。いつの頃かにこの地を訪れて作られたか、明らかではないが寛文十年(1670年)六月頃刊行の『大和順礼』(岡村正辰編)に収められているところから、この年以前、すなわち23か24才の頃までに詠まれたものであろう。 |
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月の出を待ってあの嶺をこえてきたんだなぁ。 ああ、この夜更けに初雁の声がしているよ 龍王山城の武将・十市遠忠 |
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ベニバナ トキワマンサク |
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峠の茶屋のマンサク 一時休憩する |
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春日大社の御祭神である四神を祀っているので、春日神社とも呼ばれている。社殿や鳥居は、伝統的に春日大社から下賜されたものを使用している。本殿は明治39年に改築されたもので、春日造檜皮葺きの4棟が末社の琴平神社と並立し、華麗な社殿を作り上げている。鳥居は嘉永元年(1848)に春日若宮社から払い下げられたもの。 | |||||||
山の辺の道ははるけく 野路の上に 乙木[おとぎ]の鳥居 朱[あけ]に立つ見ゆ |
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ベニバナ トキワマンサクが満開! |
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前方に、竹之内環濠集落が見えてきた! |
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環濠集落とは、外敵の侵入を防ぐため周囲に濠を巡らせた集落。中世の奈良盆地に多く造られたが、標高100mに位置する竹之内は、奈良盆地で最も高所にある環濠集落として知られている。現在は、集落の西側に環濠の一部が残る。 |
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少し時間があり、竹之内環濠集落を散策途中、各家の表札と並んで、「八十八才」と 書かれたしゃもじが掲げられていた。土地の人の説明によると、 88歳の米寿を迎えられたお家の人がお祝い返しに各家に配られ、 それが掲げられているとのこと。(この地区特有の風習らしい) |
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JR長柄駅にて乗車、奈良駅で木津行きに乗り換え、 各自元気に帰途に着いた。18000歩を記録する。皆様、お疲れ様でした! |
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最後までご覧いただき有難うございました |