ホームページに戻る
 
交野歴史健康ウォーク 214回

東高野街道を歩く
~郡津駅~五条通~天野川~上の山遺跡~

日時:令和7年3月8日(土)  午前9時集合
集合場所 京阪郡津駅 36名(会員21名)参加

 

案内:青山 洋二氏(交野古文化同好会)
行程 : 京阪郡津駅9時集合 → ①古代条里制五条通碑 → ②東高野街道→
③府道18号線
(枚方・交野・寝屋川線)→④新天野川橋→⑤天野川左岸の堤塘→
⑥新磐船街道と合流点→⑦縄文時代の遺構と遺物→⑧府道148号
(木屋~交野線)
 → ⑨本尊掛松跡→⑩上ノ山の辻 →⑪閲武駐蹕記念碑→⑫大型掘立柱建物
→ ⑬私部
(上ノ山)の南端街道→ ⑭逢合橋→ ⑮交南高等小学校跡 
11時45分頃解散 徒歩約4km

 2025年3/8(土)、天候晴れ。朝方冷え込むも太陽の日差しが満点、風もなく先ず先ずのウォーク日となりました。午前8時40分過ぎから参加者が徐々に増えだして、9時の定刻には、京阪・郡津駅前が参加の皆さんでほぼ一杯になりました。
 午前9時、皆さんが揃われたところで村田会長の挨拶の後、案内人の青山洋二氏より当日の行程と駅前の「交野の都碑」と「長渕と交野少将のお話」「郡津駅前のマンション建設時に地下33mより海の貝が出土、昔交野は海だった」などの説明があり、早速、東高野街道へ向けて出発。

 駅前から松塚公園を左に折れ、京阪電車を東に渡り、郡津の町中へ入る東高野街道筋の田んぼの畦道に最初の訪問地の「古代条里制五条通碑」が少し傾き加減に建っていた。その後、新天野川橋を渡り、昔の面影が漂う東高野街道をゆっくりと南へ進む。第2京阪国道へのバイパス道路「新磐船街道」により、私部西4丁目付近の130mばかりが分断されるも、バイパス道路の工事により、貴重な「縄文時代の遺跡と遺物」が出土。蘇った街道の東は交野市、西は枚方市の境界線。

 その後、本尊掛松跡、上ノ山の辻、大正天皇の「閲武駐蹕記念碑」などを見学。途中、「コーナン」にてトイレ休憩。大型掘立柱建物が発見された状況等をお聴きした後、第二京阪国道から天野川の緑道に降り、川沿いを逢合橋まで、カワセミや鴨、大きな鯉を見ながら歩き、最後は、交南高等小学校跡で解散。
 街道筋が途中で見えなくなったり、複雑な道筋を無事に案内下さったのは、事前に青山さんより十分な準備をして頂いたお陰です。感謝!感謝!です。

 参加された皆さんからは、「こんなに身近なところに沢山の歴史があるなんて大変なお驚きです。以前より、歩きたいと思っていた「東高野街道」を丹念に案内頂き大感激でした!」など嬉しい感想を頂きました。

 今回の3回目のウォークにて、星田から郡津迄の東高野街道が繋がりました。青山洋二様に大変お世話になりました。
 また、当日配布のレジメを提供いただき誠に有難うございました。記して感謝申し上げます。
 
上の山の辻にて記念撮影 
 当日のウォーク地図

東高野街道を歩く レジメ
~郡津駅~五条通~天野川~上の山遺跡~ 
東高野街道を歩く レジメ(PDF) 
 
 

京阪郡津駅 集合・出発
 
案内:青山洋二氏(古文化同好会)
 案内人の青山洋二氏より当日の行程と駅前の「交野の都碑」と「長渕と交野少将のお話」」「郡津駅前のマンション建設時に海の貝が出土、昔交野は海だった」などの説明があり、早速、東高野街道へ向けて出発。
①古代条里制五条通碑
 大化の改新(645)以後の大改革で、公地公民制となり、口分田を配分するため、土地を条里制により区画する。郡ごとに耕地を6町(654m)間隔で縦横に区切り、その列を条(6町平方)の一区画を里と呼び、一里はさらに一町間隔で縦横に区切って、合計36の坪とした。交野郡では私市の天田宮から西へ向う一条通から、北の天野川下流である枚方市禁野の十条通りまで区画した。この碑は、ほぼ中央の五条通りです。
条里制  6町 約600m  6町毎に大路が東西に 
天の川沿岸54町を9条で区割り 中間が郡津 5条通り

 
②東高野街道
 京都から高野山に参る高野街道のうち、石清水八幡宮から、生駒山西麓を通り、河内長野に至る約50㎞が東高野街道と呼ばれる。平安時代には、河内を南北に縦貫する道として利用していたと思われる。市域では郡津から星田までの区間が該当する。
 ③府道18号線(枚方・交野・寝屋川線)
 60年前に府道は完成で、現在南の梅が枝住宅と北の松塚住宅との間には、街道はない。終戦直後の米軍航空写真と現在の道路地図を重ね合わせると、終戦当時は現府道の北側に小円弧が突出する。
 現在も北側に空地があって、住宅裏が建ち並んでいて、この空地の北縁に街道があったのではと思います。写真の左側の高架は、府道が京阪電車を越えるため、跨線橋で西の堤塘から東の交差点迄は、約500mです。
④新天野川橋
 写真は天野川左岸の南側より望む(新天野川橋)。街道はその橋あたりを渡って、左岸の堤塘を南へ150m程行く。街道の稀な景色です。府道等が天野川を渡る橋には、それぞれ名前がついている。この橋の上流次の橋は<逢合橋>七夕伝説で、その次が<天の川七夕橋>第二京阪国道が渡り、<交野橋>は、府道736号が渡り、<天野川橋>は、府道154号が渡り、次の<私市橋>は、妙見口から磐船街道の私市4丁目交差点を結ぶ橋です。
 
新天野川橋左岸北の西詰め地蔵群
 近くの方の話ですと何処かからここへ移されたとのことでし|た。このお地蔵群にはいつも花が飾られていており、大切に:守られていることが分かります。この天野川は昔には、よく氾濫をおこしていて、犠牲者の霊を祀ったり、また安全を祈ったりしていたのではないかと考えられています。
 
⑤天野川左岸の堤塘
 左岸を150m南に来ると、街道は右方向(南西)へゆっくりと下って行くが、両側は新しい住宅が建っている。ここは枚方市茄子作東町で、300m余りの街道は拡幅されて、新磐船街道に繋がる。この街道は徐々に堤塘から離れていくので、その分宅地が広がり、街道から堤塘に伸びる枝道が数本築造され、密集した住宅街となっている。
 
⑥新磐船街道と合流点
 茄子作東町の住宅地をぬけて、第二京阪国道と同時期に新しく築造された新磐船街道(現在は北の府道18号と第二京阪国道を繋ぐ)との交差点である。(写真の前方に第二京阪)。 
 この交差点より南方向(オリーブ美容室)の西側迄約180m行くが南東方向の新磐船街道に、130m程被せられて、東西の府道(木屋・交野線)の手前50mあたりから、街道は蘇ってきた。
   
 
新磐船街道(現在は北の府道18号と第二京阪国道を繋ぐ)との交差点の
手前東側に、
私部の西の墓があります。
 
 
   私部 西の墓 井戸桂二氏、「伝えたいこと」 

 私部の村は昔から大きかったので墓も東と西のニケ所にありました。西の墓は西方浄上の教えか私部の西のはずれの東高野街道に面した野原の中にありました。
 随分昔からあつたようで、二十年程前までは根元の直径が一メートル以上もある松の大木があったり大きなケヤキの木が繁っていて、古い歴史を感じさせる雰囲気がありましたが、今では松の木も倒れてなくなり、ケヤキの木も切られてしまい、近くには住宅が迫って来ています。

 この墓は私部の西半分の五町(出屋敷、中、谷、畑中、西崎) の共同墓地でしたが大正の中頃に狭くなり、以後東の墓に埋葬するようになって、今ではお参りするだけの墓になっていますがよく観察しますと昔の人の教えが残されているように思います。
 昔の人は死んでも土にかえればまた生まれ還れると信じておられたようです。この墓も「かえり墓」として、死んだ人を順番に埋葬し、全部埋め尽くせば、また初めの場所から繰り返し埋葬するようにされていたようです。その後時代の流れでいろんな教えや考え方が伝わり、先祖の霊をおまつりするようになり、一族でおまいりする石碑が建てられるようになりました。

 それの初めは寛延四年(一七五一) で、ついで宝暦十一年のものもありますが大半は、文化・文政時代に建てられました。この石碑の表には「南無阿弥陀仏」「南元阿弥陀仏」とひたすらに阿弥陀仏に帰依しますと。表や側面には小さく建立年月と町名、屋号が刻まれてあります。

 この石碑は一族に一塔ということで、本家より分家した家も全て含むということで、一族の誰かが亡くなれば亡骸はかえり墓に埋め、髪の毛と両手両足の爪を切って遺髪遺骨とし、この石碑の下に埋められ、死ねば一つ石の下に入るとされて来ました。この一族墓は約百基ありまして、いつも一族に縁のある誰かがお参りされています。

 この墓は小さい面積ですが、かえり墓として最大限に利用され、まいり墓としても一族一塔でみんなで供養されて来ましたが、明治になってからそれぞれの埋葬場所に一塔ずつ戒名碑が建てられるようになり、一気に墓地がなくなつてしまいました。

 このような墓の歴史を見てきますと、今の墓作りに疑間が湧いてきます。それは経済的に豊かになって人々の欲望が未来にまで拡がり次々と広大な墓苑が開発され、一人一塔や家族で一塔の立派な石造りの墓が造られていくことです。その碑には麗々しい名前が深々と数千年たっても消えないように刻まれています。人は墓石に名を残すために生きているのかと問いたくなります。

 石に刻むものは、後世に是非伝えなければいけないことだけです。私たち一人ずつのご先祖は、十代で千人、二十代で百万人、三十代では十億七千万人もおられますがその人達の墓はどこにも見当たりません。自然界の生物は皆、いのちが無くなれば痕跡も残さず消滅するものです。
 決して罪な置き土産を後世に残さないように先人の歩みを学び考え方を改めなければいけないと思います。
⑦縄文時代の遺構と遺物
 新磐船街道に被せられた高野街道が再び姿を見せる位置からレジメ⑥の交差点を振り向く、新磐船街道の工事前発掘調査で、縄文時代の遺構と遺物が発見された。 
 縄文時代後期(15,000年前~2,300年前)の土坑が約200基で3種類の大きさ(直径30cm前後~1m前後)で、柱の痕跡が多数確認され、土坑の中に土器を据えた埋甕(うめがめ)遺構・縄文時代の墓である。
 
交野古文化同好会勉強会で、平成30年5月26日(土)
小林 義孝氏
(大阪府教育庁文化財保護課)より
ご講演を頂きました時のレジメを参考に掲載いたします。
 もう13年も前ですが、2005年に(財)大阪府文化財センターに出向し、2005・2006年の2年間にわたって上の山遺跡の発掘調査を担当しました。ホームセンター・コーナンの茄子作店のあたりです。第二京阪道路に交差する府道の予定地で、想像もしなかつた縄文時代と弥生時代の遺構が発見されました。
 この発掘調査を実施した場所は、いろいろ条件がわるく、現地説明会なども開催できず、広く市民のみなさんに見ていただくこともありませんでした。今回、このような機会をいただいて、交野のすばらしい歴史の一齣(こま)をしっていただくことは、たいへんうれしく思います。
ウッドサークル?― 縄文時代の遺構と遺物一

  〇調査地の北端(第1調査区)から縄文時代の土坑が約200基
    ⇒縄文時代後期(15000年前~2300年前)
  ○土坑の中に土器を据えた埋甕遺構
    ⇒縄文時代の墓
  ○土坑三つの大きさのもの
    ①30 cm前後 ②直径50~ 70cm ③直径lm前後
    ⇒柱の痕跡が多数確認
  ○南端の遺構密度の低い地点、段丘の縁辺でかなり削られている .
    ⇒4基の上坑が2mほどの間隔を保って円弧を描いて配置
      → 1基には明確な柱の痕跡
    ⇒ウッドサークル(環状木柱列)?
    ⇒遺構が密集している地点でも円弧を描いて土坑が分布
 
大型方形周溝墓
 交野街道(府道148号木屋・交野線)が新磐船街道(168号バイパス)を横切る北側の方から6基の弥生時代の周溝墓が出土しました。その中でひときわ大きな東西15,8m南北10,9mの方形周溝墓を検出しました。ほかの5墓は長辺が4~ 6m短辺2,5m~ 5m前後の墳丘墓を検出。大型方形周溝墓は周囲の方形周溝墓とは隔絶した存在であることがその規模と配置から伺うことができる。さらに168号線を越えた高速の取り付け部に近い所からも方形周溝墓が見つかつております。
ウッドサークルとは

 円を描くように巨木柱を配置した縄文時代の祭祀施設らしい遺構。1980年に金沢市新保本町のチカモリ遺跡で判明した約3000~ 4000年前(縄文時代後期)のクリ材(直径50~ 85cm)による直径7mの遺構を始め、富山県小矢部市の桜町遺跡で2000年末に確認された約2700年前(同晩期)のクリ材(直径30~ 60cm)lo本を使った直径約6五の遺構など全国で十数例見つかっている。
 滋賀県東近江市の正楽寺遺跡(94年)では内部に大型たき火跡があって建物説が否定され、真脇(まわき)遺跡の半分に割つたクリ材の使用(84年)が判明―しており、多様性もありそうだという。

   (天野幸弘朝日新聞記者/:今井邦彦朝日新聞記者/2007年)
 記念物 史跡:チカモリ遺跡
【所在地】金沢市新保本5-47
【国指定史跡】昭和62年2月23日指定
【指定面積】4,456.17平米

 金沢市西南部にある縄文時代後期〜晩期の集落遺跡です。昭和55年に行われた発掘調査では、349点の木柱根が発掘されました。なかでも環状木柱列(かんじょうもくちゅうれつ)は、直径約60〜90センチメートルのクリの巨木を縦に半分に割り、切断面を外側に向けて直径約7メートルの円形に立て並べたもので、全国ではじめて発見されました。この環状木柱列の用途・機能については様々な意見があり、現在でも明らかになっていません。
遺跡の中心部は「チカモリ遺跡公園」として整備され、環状木柱列などが復元されています。

 遺跡公園に隣接する「金沢市埋蔵文化財収蔵庫」には、チカモリ遺跡をはじめとして、市内の遺跡から出土した遺物を時代別に展示してあります。そのうち、チカモリ遺跡出土の柱根57点については、石川県指定文化財に指定されています。


巨大な方形周溝墓一弥生時代の遺構と遺物ー

○方形周溝墓1 →第5調査区で検出
 ⇒長辺16m、短辺Hm前後の規模をもつ大型
  →周囲の小型の方形周溝墓
 ⇒弥生時代第II期(中期のはじめ)
  →この時期の方形周溝墓としては畿内地域では最大規模

○大型建物との関係
  ⇒独立棟持柱をもう大型掘立柱建物 →第二京阪建設地の調査区
  ⇒集落の中心的施設
  ⇒梁間1間:(約4.5m)、桁行5間(約8.6m)、床面積39ピ
 □大型の建物と大型の墓


参考文献
『上の山遺跡Ⅱ』((財)大阪府文化財センター調査報告書第155集) 2007年
『上の山遺跡Ⅲ』((財)大阪府文化財センター調査報告書第171集) 2008年
 方形周溝墓

 
 
 
 
 
⑧府道148号(木屋~交野線) 
 ⑦の交差点から南へ40m進むと、逢合橋から西へ向かうバス通り(府道148号木屋・交野線)の交差点に出る。この道は昔の「交野街道」で現在の(府道18号 枚方交野寝屋川線)が天野川の西手前で右に折れ、逢合橋を渡って来た。枚方丘陵の南は平坦で、守口方面から交野までの街道があった。その手前の東高野街道は、新磐船街道に被せられました。
 
 ⑨本尊掛松跡
 ⑧の交差点から南へ200m右手に玉垣の中に立派な地蔵と松の木が、「本尊掛松跡」。700年前の元亨元年、大念仏宗の中祖七世「法明上人」は、男山八幡神の霊夢を受け、深江から男山へ向かう途中、同じ霊夢を受け霊宝を届けんと、八幡宮の一行とここで出会い、十一尊天得如来の画像を授かった。上人はこれを側の松に掛け念仏を唱えると感激のあまり踊りだした。これが同宗の念仏踊りの始まりです。
 
 
 
 
 
 
⑩上ノ山の辻
 天野川と東高野街道の間の一帯を、古い地名「上ノ山」と云います。逢合橋西南のこんもり台地は、「上ノ山の辻」で東高野街道と、北東から上ってくる山根街道が合流します。 
 そこには私部村地蔵講中が、1725年建立の「上ノ山地蔵」が立っている。地蔵の側の二つの道標は、「大峰山道標」1855年建立と「大阪府道標」1904年(明治37)建立です。亰や八幡、宇治、津田、星田停留所等への案内です。 
 
   
 
上ん山(うえんやま)
東高野街道と山根街道の分岐点・上ん山の辻山根街道の石標あり
 天野川にかかっている逢合橋を西に越えると、左前にある薮のある小さい丘が目に付く、この丘を「上人松」とか、「お野立所」とか「上ん山」と呼んでいる。 (現在では、建物が建ち並び見えない。府道20号線を「逢合橋西」より50㍍南に下がると見える)

 ここへは、逢合橋を渡ってまっすぐ「逢合橋西」の表示板の方向に歩いて、30㍍ほど行くと南北の道と十字に交わる。その道が東高野街道で交野市と枚方市の境である。この道を左にとり、水道道を越すと、すぐ右に「本尊掛松遺跡大念仏寺」の道標がある。それに続いて玉垣の中に大きい地蔵様がおいでになり、光背の左に「法明上人御旧跡勧進紗門」、その裏に「弘化二乙巳年(1845)4月24日 世話人交野門中」と彫ってある。

ここ「上人松」にこんな伝説がある。

東高野街道と山根街道の分岐点・上ん山の辻 後醍醐天皇の元享元年(1321)12月15日の夜、摂津深江の法明上人に「男山八幡宮に納めてある融通念仏宗 に伝わっている霊宝を授かり、法灯をつぐように。」との夢告げがあった。上人はさっそく弟子12人を連れて男山へ向かった。上ん山まで来ると、霊宝を深江に届けようとする男山からの社人ら一行と出会った。16日のことであった。本尊掛松遺跡大念仏寺

両者は喜んで宝器を授受し、松の小枝に開山大師感得十一尊曼荼羅をはじめ軸の尊像を掛け、鐘を叩きながら松の周囲を喜んで踊って廻ったという。

以来、本尊掛松遺跡、念仏踊り発祥の地だと言う。そこから薮の坂道を左にとると、すぐ山根街道と交わる。

左が東高野街道、右が山根街道の分岐点(うえん山の辻)

 この分岐点の辻に、上ん山地蔵がおられる。 地蔵様の光背には「私部村地蔵講中 享保十乙巳年(1725年)3月24日とある。また「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」の大きな道標があり、その南側の小さい道標に「右 山根街道 左 すぐ東高野道」と彫ってある。

大正天皇の「閲武駐蹕記念碑」元弘の乱(1337)で北条方が楠正成の下赤坂攻めにこの道を急ぎ、近畿平定には織田信長もここを通って岩倉開元寺を焼かせ、足利義昭の反抗の時には秀吉が義昭をつれて急いだと言うこの道は、なるほど権力の道だ。

真言密教の道であるとともに、文化を伝え、産業を興した大切な道である。

道を隔てた東には、「閲武駐蹕記念碑」がある。大正3年(1914年)大正天皇がここで陸軍大演習を統監されたことを記念して建てられたものである。

ここで、「東高野街道」と「山根街道」が一つになって星田に伸びている。

 
大峰山供養塔  高さ1m90cm、幅35cm

 正面に「大峰山」
 右下に「宇治」、左下に「京八幡」
 その下に大きく「道」

 塔の右に「すぐ高野大坂道」
 安政元年(1854)3月建立

  願主 私部村徳右衛門

 付近は、綺麗な住宅地となりすっかり往時の面影がなくなってしまった。
⑪閲武駐蹕記念碑
 星田の第一御野立所「大正天皇行幸記念碑」から、上ノ山の第二御野立所「閲武駐蹕記念碑」のところへ移られて、天皇は大正3年(1914)ここからも陸軍特別大演習の状況を統監された。
 この演習は明治25年から昭和11年迄(45年間)年1回行われ、両軍に分かれての大規模な模擬戦は、天皇が審判長を務められた。この少し前に日本は、第一次世界大戦に参戦したこともあり、白熱した演習となった。(昭和3年11月建立)
 
 
⑫大型掘立柱建物
⑫上ノ山遺跡
 東高野街道と第二京阪の交差部の西(コンビニの北側)で、弥生時代中期前半(約2200年前)に建てられた、独立棟持柱を持つ「大型掘立柱建物」の跡が、道路工事前の調査で見つかりました。
 平成17年3月(2005年)の新聞では「集落の中心施設で、弥生最古級の神殿跡?」と報道されて話題になりました。梁間4.5m、桁行8.6m、床面積39㎡(約12坪)です。
 
 
 
 
 
 
上の山遺跡(現地説明会資料より)
枚方市茄子作南町、交野市私部西5丁目所在)

 上の山遺跡(交野市私部西5丁目地先・枚方市茄子作南町地先)の発掘調査は、第二京阪道路(大阪北道路)の建設に伴い、国土交通省・日本道路公団の委託を受け、大阪府教育委員会の指導のもと、平成15年度から行われました。
 本遺跡は、天野川の西側にあたり、枚方丘陵から天野川に沿ってほぼ南北方向に細長く伸びる中位段丘(東西幅約100m)と、東西両側の谷に立地しており、これまでの調査で、旧石器時代から中世までの遺構や遺物が見つかっています。
                                
 今回の調査では、弥生時代中期前半(今から約2,200年前)の独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)をもつ大型掘立柱建物を1棟検出しました。建物は、遺跡が立地する段丘の最頂部(標高29.2m)にあたり、見晴らしがよく、周囲を一望できる高所に建てられています。


          

 建物の規模は、1間(4.45~4.60m)×5間(8.60m)です。建物の柱穴(柱を立てるために掘られた穴)は、楕円形もしくは隅丸長方形で、建物の外側から内側に向かって斜めに掘られており、柱を滑り込ませて立てたものと考えられます。側柱(がわばしら)の柱穴の深さは約0.3mですが、棟持柱の柱穴の深さは約0.9mもあります。
 独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物が、一般的な掘立柱建物や大型掘立柱建物と違う点は、建物の妻部(つまぶ)から離れた位置にある棟持柱で、大きく張り出した屋根を支えることです。このような建物構造や当時一般的には竪穴住居に住んでいたことなどから、独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物は、特殊な建物として、「祭殿」「集会所」などであったとする意見もあります。
  上の山遺跡の大型掘立柱建物は、ながめのよい場所に立地すること、独立棟持柱が建物の妻部から大きく離れた位置にあり、柱穴が大きくて深いことなどから、かなり高くて、立派な屋根構造を持つ、シンボリックな建物であったと考えられます。


 参考:上の山遺跡現地公開資料  財団法人 大阪府文化財センター
上の山遺跡4区前景(西から)
独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物跡(北から撮影)


現在は埋め戻された「上の山遺跡」
ホームセンター「コーナン」付近の第二京阪国道工事現場
 

 (枚方市茄子作南町、交野市私部西5丁目所在)
    上の山遺跡現地説明会風景
2005.3.2 朝日新聞朝刊記事参照
朝日新聞記事
 神殿か 大型建物跡発見

 大阪上の山遺跡「池上曽根」に類似

大阪府交野市と枚方市の市境に広がる上の山遺跡で、弥生時代中期前半(紀元前2世紀初め)の大型建物跡が見つかった。大阪府文化財センターが1日、発表した。同府の池上曽根遺跡で見つかり、復元された「神殿」とされる建物より小さいが構造はそっくりで、同様の大型建物では最古級になるという。
 建物跡は標高約29mの丘の上にあった。長さ約8.6m、幅約4.5mで、両端に大きく張り出した屋根を支える為の「独立棟持柱」の跡が見つかった。独立棟持柱のある大型建物は、集落の中心地で一般の住居とは離れて見つかることから、神殿や首長の居宅などの特別な建物とみられる。
 近畿地方で多く発見され、最も古いのは唐古・鍵遺跡(奈良県)の弥生中期初めのもの。上の山遺跡の建物はそれと同時か、少し遅れて建てられたらしい。床面積は池上曽根遺跡の「神殿」
(紀元前1世紀中頃)の約3分の1だが、形や構造はよく似ていた。
同センターは「集落が統合されて『クニ』が生れる過程で、集落の中心のシンボル的な建物も大型化していった。池上曽根遺跡との比較で、その変化がうかがえる貴重な発見」としている。

上の山遺跡とその周辺地図
上の山遺跡4区前景(西から)
独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物跡(北から撮影)
独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物跡(南から撮影)
独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物は、特殊な建物として、「祭殿」「集会所」などであった?
 ⑬私部(上ノ山)の南端街道
 街道はレジメ⑩から南に下り、コーナンの東側で府道20号(枚方・富田林・泉佐野線)と第二京阪を斜に渡り(被せられ消失)コンビニの東に拡幅された道が、南へ210mで工場敷地に突き当たる。 
 その手前約25m迄が(上ノ山)で、星田北との境です。突き当りから真っ直ぐ120mで少し西に折れた所で、星田集落の中心から星田共同墓地に向う南からの道と合流して、西南へ工場敷地を抜け、再度府道を斜横断して、すぐ星田共同墓地から星田駅に向う。
⑭逢合橋
 宝暦12年(1762)「河州交野郡私部村田畑絵図帳」によると、この橋の名は「天の川七夕橋」と表記されている。現在の橋は昭和52年(1977)に出来た。 
 七夕の夜、機物神社の<織姫>と、枚方茄子作の中山観音寺の(彦星)とが、この橋のたもとで、恋こがれて一夜逢われると言い伝えられている橋です。
 逢合橋の七夕歌碑
   
 彦星と 織女と 今夜逢はむ 天の川門に 波立つなゆめ
 
 
 
⑮交南高等小学校跡
 天野川東堤、逢合橋の北側に、明治18年(1885)私部、茄子作、星田等10の小学校を統合した交南小学校があった。 その後小学校令の改正で尋常小学校と高等小学校に分離した後、再び尋常高等小学校として統合される明治20年(1887)から大正8年(1919)まで高等小学校として利用した。
 
交南高等小学校跡
 森小学校及び交野小学校の変遷を見ると、以下のようである。
 明治7年(1874)10月 森村に百四十番小学校創立、
 明治8年(1875)森小学校と改称
 明治18年(1885)交南小学校が天野川堤に建ち、森は第二分校となる。
  (星田、寝屋、打上、灯油、茄子作、山ノ上、村野、倉治、私部、森の10校を廃して、
  交南小学校を本校とし、第一分校星田、第二分校森、第三分校倉治、
   第四分校山ノ上、第五分校灯油、第一分教場を村野に設ける。)
 明治25年(1892)交野、磐船、星田、川越、水本、5ケ村組合で交南高等小学校創設。
 明治28年(1895)交野、磐船両村組合尋常小学校できる。
 昭和22年(1947)3月 教育基本法、学校教育法によって、六・三制義務教育となり、
          交野小学校、星田小学校、交野中学校できる。
最後までご覧いただき有難うございました! 

交野古文化の歴史ウォークに戻る