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普通・特急と乗り継ぎながら出町柳駅に到着。10時7分発の叡山電鉄・八瀬大原行きに乗車、一乗寺駅で下車。曼殊院通りを東へと向う。
白河通りを越え、最初に着いたのが、「一乗寺下がり松」。武蔵と吉岡一門の決闘の地。 |
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〇一乗寺について
元は、園城寺(三井寺、天台宗の総本山)の末寺。創建は平安中期から南北朝時代にかけての寺。南北朝時代の戦乱で焼失しその後再建せず廃絶。
京都市左京区の「一乗寺」という地名は、昔この地にあった寺院「一乗寺」というお寺の名前に由来するとされている。
この一乗寺は天台宗系の寺院で、平安時代中期から中世にかけて存在していたとされ、現在は廃寺になっているが、地名だけが残り、周辺には今も天台宗系の寺院が点在している。
京都市の資料によると、「修学院」「一乗寺」はどちらも寺院名に由来する地名で、比叡山の麓にひろがる、琵琶湖と京都を結ぶ道の玄関口として栄えたエリアとされている。 |

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1604年(慶長9年)の頃と伝えられている。
京都・一乗寺の「下り松」と呼ばれる場所で、剣豪宮本武蔵が、当時京都で大きな勢力を持っていた吉岡一門と戦ったとされている。
物語や伝承では、武蔵が吉岡一門多数を相手に一人で挑み、激しい死闘の末に勝利した場面として語られている。ただ、歴史研究の視点からは、史実としてはかなり疑わしく、後世の創作・脚本の要素が大きいと考えられている。
現在の一乗寺下り松には、「宮本・吉岡決闘の地」という石碑が建っているが、これは近代以降、観光と顕彰の文脈で整備されたもので、当時その場で公式に記録されたものではない。
かつて決闘の舞台とされた松の古木は、伐採後その一部が近くの八大神社に御神木として祀られていて、現在の松は四代目として植え継がれていると案内されている。
そもそも、一乗寺下り松、京都市左京区一乗寺エリアにある地名・史跡で、もともとは街道の目印として植えられた松に由来するとされている。
現在は周辺一帯が市街化となっている。 |
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(こんぷくじ) |
「下がり松」からすぐに右に曲がり静かな住宅街を抜けて、自然石に刻まれた「佛日山 金福寺」の石段を上がると、金福寺に到着。
洛北の金福寺(こんぷくじ)は、一乗寺にある臨済宗の寺。山号は佛日山、本尊は聖観音菩薩。詩仙堂の少し南にあるこの寺は与謝蕪村の墓所があり、松尾芭蕉が滞在したとされ、芭蕉を敬慕する蕪村とその一門によって再興された芭蕉庵がある。
当初は天台宗の寺であったが、後に荒廃した為に元禄年間に圓光寺の鉄舟によって再興され、その際圓光寺の末寺となり、天台宗より臨済宗南禅寺派に改宗。
その後鉄舟と親しかった松尾芭蕉が、京都に旅行にした際に庭園の裏側にある草案を訪れ、風流を語り合ったとされ、後に芭蕉庵と名付けられたが、荒廃していたため、彼を敬慕する蕪村とその一門が1776年(安永5年)に再興した。
幕末に入り、船橋聖一著『花の生涯』のヒロインとして知られる村山たか(村山たか女)が尼として入寺し、その生涯を閉じた。 |
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金福寺にゆかりのある「村山タカ女」の話、
京都市街を見渡しながら、吉岡さんの名調子に聞き入る皆さん |
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芭蕉庵再興記 |

芭蕉庵 |
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月斗墓 |

国友文友翁
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呉春呉星文 |
松村呉春の碑 |

新村出筆塚 |
森川 |

中川四明 |
中川四明 |

芭蕉の碑
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蕪村百池 |
彦根藩城下の三味線師匠で、和歌を詠み、漢籍にも通じた才女であった。又彦根藩士で国学者の長野主膳の愛人。
彦根藩主井伊直弼が大老に起用されたのに伴い、主膳は直弼の懐刀となり活躍することに。
この風雲急を告げる幕末の時期、「たか女」は主膳の意をうけて京都などで開国に反対する尊王攘夷派の情報を収集する活動を始める。
井伊直弼が桜田門外の変で46歳の生涯を閉じた後、直弼の密偵であった「たか女」は天誅組に捕えられ、京都三条河原で三日三晩の生き晒しの刑にされた。
その後救出された「たか女」はこの金福寺で尼となり、井伊直弼、長野主膳を弔って暮らしたという。 |
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金福寺を出て、詩仙堂を尻目にころし、隣接する八大神社へと歩を進める。
八大神社は、1294年(永仁2年)に一乗寺の産土神として祇園神社から勧請された。
江戸時代初頭、一乗寺下り松で吉岡一門数十人と決闘を行った宮本武蔵が、決闘を前に当社で神頼みをすることを思い立ったが、神仏に頼ろうとした自分の弱さに気づき寸前にやめたという逸話も残る。 社殿内には一乗寺下り松の古木が保管展示されている。
また、若き日の宮本武蔵のブロンズ像や映画ポスター展示が行われている。

二刀流で知られる「二天一流兵法」の開祖、宮本武蔵は、13歳という若さで最初の決闘に勝ち、30歳になるまで60回以上にも及ぶ決闘を行い、その勝負は負け知らずと言われている。
武蔵にとって、生涯の決闘の中で、最も重要だったのが「吉岡一門」との決闘と言われている。決闘の詳細については諸説があり、一般的に伝わるところで言えば、決闘は3回行なわれたといわれているが。
ところで、武蔵と吉岡一門が対戦したのは事実のようであり、この一回のみ。双方の伝記によると、引き分けのようである。
また武蔵と対戦したのは、吉岡源左衛門直綱で(小説では清十郎)、吉岡直賢(なおかた)の嫡男。 尚、一乗寺下り松の決闘は、後世の創作である。
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昭和39年の中村錦之助主演の宮本武蔵の映画の説明 |
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昼食後は抜け道を通って、「葉山馬頭観音」へ。
馬頭観音とは、観音菩薩が馬の頭でいただいた姿で現れ、牛馬や交通・旅の安全、無病息災を守るとしんじられてきた仏様。峠道や村はずれの道端に石塔として祀られ、働いてくれた牛や馬の供養塔として建てられた。
洛北の葉山(180m)中腹に一燈寺(いっとうじ)は建つ。「葉山観音(はやまかんのん)」、「葉山観音堂」、「葉山馬頭観音堂」とも呼ばれている。葉山の名は、観音堂を守護してきた端山(はやま)氏に由来するともいう。
単立の臨済宗、かつて臨済宗林丘寺派、本尊は三面馬頭観世音菩薩。
境内には、幕末の尊攘派志士・儒学者の梅田雲浜(うめだうんぴん)の石碑が建つ。 |
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葉山馬頭観音から、鷺森神社へ向かう途中、北の方角の山に五山の送り火で有名な「妙法」の「法」の字が見える。
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今回は曼殊院門跡をパス。
春は桜、初夏は青もみじとウグイス、夏の夕方はヒグラシ、秋は紅葉と自然豊かな鷺森神社で小休憩。
鷺森神社から住宅街を抜けると音羽川に架かる後安堂橋へさしかかる。
この川を少し遡ると「雲母(きらら)坂」に因んだ「きらら橋」があり、北へ渡ると「雲母坂」の標示板が見える。これは一つの坂というより、鷺森神社の北辺りから音羽川に沿って登り、比叡山の四明ヶ嶽(しめいがたけ)に至る約5キロの山道をいう。道は非常に険しいが比叡山山頂への最短路のために、平安時代から京の都を結ぶ主要路として賑わったとのこと。
その昔、最澄、法然、親鸞などの名僧をはじめ、多くの人々が行き交った山道。
また、千日回峰行のうち、6年目の最初の100日の間毎日、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と呼ばれる荒行である。
これは行者が、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下する修行で、一日65キロの行程である。 |
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音羽川の左岸より修学院離宮を説明しています
遠くに比叡山を望んでいます |
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後安堂橋を渡ると右手には広大な修学院離宮の農園部分が姿を現す。
その北側に二層の山門の解脱山禅華院。
山門は二層が鐘楼となっている鐘楼門。「解脱山」の扁額がかかっている。
解脱山禅華院は、臨済宗大徳寺派。本堂の本尊・釈迦如来、左右に地蔵菩薩、観音菩薩を安置。楠木正成の信仰があった円通観音、三面大黒天も安置されている。
かつては天台宗であり、昔は比叡山三千坊の一つで、寛永年間に大徳寺第170世の創建による。
狭い境内ではあるが、比叡山雲母坂や田畑の中にあった石仏が祀られている。
山門は、山門兼鐘楼(二層は鐘楼) 。1826年(文政9年)、修学院離宮の建物を移築修復。庭は江戸初期の大名茶人の小堀遠州作とも。
本堂は昭和御大典の際の建物の一部を移築し、翌1929年に再建された。
○弥勒菩薩座像
1126年(大治元年)の銘あり。
元々は、雲母寺にあったものだが、1977年にこちらに移されたとのこと。
○阿弥陀如来座像(小)
上記と同
○阿弥陀如来座像(大)
鎌倉後期の石仏。
修学院離宮の田園の中にあったものを映されたとのこと。
○地蔵菩薩座像
上記と同
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禅華院鐘楼門 鐘楼と門を兼ねている |
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阿弥陀如来坐像と地蔵菩薩像 雲母坂地蔵の石仏 |
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禅華院から修学院離宮の総門の前を通り、抜け道から赤山禅院へと向かう。

赤山禅院(せきざんぜんいん)は、平安時代に慈覚大師 円仁の遺命によって創建された、比叡山延暦寺の塔頭。京都・修学院離宮近くの閑静な地にある紅葉の名所。
本尊の赤山大明神は、陰陽道の祖神とされる中国の神 泰山府君を勧請したもので、京都御所の表鬼門を守護している。鬼門除けの猿が知られ、方除けのお寺として信仰されている。
まず目につくのが、拝殿の屋根上に鎮座している「猿」。この猿には、深い意味がある。この猿は比叡山を護っている日吉神社(滋賀県)の神猿といわれ、この場所が都の北東にあたり、表鬼門に位置するためね守護として鎮座している。
猿は京都御所にある猿が辻の「猿」と向き合っており、都に邪気が入らぬよう守ってくれているそうで、右手に御幣(ごへい:神道の祭祀に使う細長い木の枝に白い紙を切って挟んだもの)、左手に鈴を持ったなんとも愛嬌のある猿。

比叡山の天台宗の修行僧が行う「行」の中でも最も厳しい荒行。
その名の通り7年間延べ1000日間山の峰々を歩き、1日約40キロ、260か所におよぶ礼拝所(らいはいじょ)を巡る。 一度始めたら途中で止(や)めることは許されず、続行不能になった場合は自ら命を絶つことが不文律に「千日」と言われるが実際に歩む日数は「975日」である。「悟りを得るためではなく、悟りに近づくために課していただくことを理解するための行である。
比叡山の千日回峰行とも関わりが深く「赤山苦行」で知られる。
比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち100日の間、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と称する荒行がある。これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。
千日回峰行を修めた大阿闍梨により「八千枚大護摩供」「ぜんそく封じ・へちま加持」「珠数供養」をはじめとする加持・祈祷が行われている。
都七福神の福禄寿のお寺としても知られ、また毎月行われる五日講が古くから商人に信仰され「五十払い(ごとばらい)」の起源となるなど、さまざまな信仰を集めている。

室町時代に京都で最初に七福神信仰がおこり、それが次第に日本各地に拡がっていったといわれている。えびす神以外は中国とインド由来の神である。正月に参詣すると福がもたらされるという。また毎月7日が七福神の縁日である。
当寺は明治時代の神仏分離令の後も神仏習合の形を残したまま現在に至っている。
赤山禅院で一応解散し、音羽川沿いを下り叡山電鉄修学院駅から出町柳駅へと。 |
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| まず目につくのが、拝殿の屋根上に鎮座している「猿」 |
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右手に御幣(ごへい:
神道の祭祀に使う細長い木の枝に白い紙を切って挟んだもの)、
左手に鈴を持ったなんとも愛嬌のある猿 |
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赤山禅院で一応解散し、音羽川沿いを下り叡山電鉄修学院駅から出町柳駅へ
出町柳駅3時前に乗車、交野駅へ3時40分に帰着。
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| 参加の皆様、お疲れ様でした! |