[ホームページ] へ戻る


交野歴史健康ウォーク 2007.11.17 第86回
安土城跡を訪ねて

 行程; 京阪枚方市駅 午前9時→丹波橋駅・近鉄乗換え→JR京都駅乗換え→JR安土駅
→沙沙貴神社→浄厳院→安土城考古博物館・近江風土記の丘(昼食)→安土城跡→セミナリヨ跡→JR安土駅→JR京都駅→丹波橋→枚方市駅(解散) 
           午後6時30分過ぎ解散  徒歩約 13km
2007.11.17(土)午前9時、京阪枚方市駅にいつもの元気な仲間18名が集合。天候、晴れ。
 今年の2月の勉強会で「安土城の今-解き明かされた信長の夢」をテーマに、近藤 滋氏(安土城郭調査研究所所長)にご講演をいただき、今回安土城跡を訪ねることとなった。

 近鉄丹波橋から京都へ、JR京都駅にて乗換え。JR安土駅に向うも切符の購入に手間取り数名が遅れて、新快速と普通に分かれて乗車して心配したが、幸い近江八幡駅で合流、無事JR安土駅に到着。
  安土駅に下り立つと、そこはもう風光明媚な歴史のまち。安土城築城を指示するポーズの織田信長公像が目に留まり、早速、銅像前で全員で記念写真を撮る。駅の地下道をくぐり、まず近江源氏発祥に地・沙沙貴神社へ向う。ゆっくりと境内を散策。素晴らしい神社本殿建物、楼門に感服しきり。
 続いて長閑な田園風景の中に建つ浄厳院を訪ねると、「少し到着が早かったようですね」と、挨拶していただいた奇特な檀家さんに、境内から本堂まで詳しく案内いただき、予定より30分以上オーバーしたが、お蔭様で寺内をゆっくり拝観が出来、楽しい時間を過ごさせていただきました。謝して御礼申上げます。
 時間も12時20分を過ぎお腹もすいたが、お昼の予定にしている「安土城考古博物館」「近江風土記の丘」へと直線道路を急ぐ。2時30分まで各自、昼食を摂り園内を散策したり、「博物館」、「信長の館」「安土城郭調査研究所」を訪ねたりと、ゆっくりと休憩時間を過ごした。

 「安土城考古博物館」を背に、再び全員で記念写真。午後は、本日メインの「安土城跡」に向って散策、途中JR琵琶湖線の小さなトンネルをくぐり、彦根へと抜ける車の往来が激しい道路を離れて、やっと、安土城跡に着き、中会長より最近の発掘調査の内容などを説明いただく。入り口で、各自拝観料500円を払い、大手道を真直ぐに登り始める。石の階段を一段一段数えながら、500段近い階段を登り詰めたところが天主が建っていた所だ。ここから見える展望は素晴らしく、大中湖・南遺跡などが一望でき、全員で天主の礎石の上に立って記念撮影。続いてハ見寺跡より、西の湖方面を見下ろし、唯一焼け残った重文・三重塔を背景に、本日最後の記念写真を撮る。
 帰りは、「セミナリヨ跡」を見学、駅まで少し急ぎ足で駅に向う途中、琵琶湖に沈む真っ赤な夕日が印象的だった。安土駅を4時54分に出発、京都駅5時38分着、すっかり日も暮れてしまいました。さわやかな秋空の中、皆さんお疲れ様でした。

 今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。
 講師の中会長、有難う御座いました。

 次回は、来年平成20年1月2日(水)、恒例の新春初歩き、
  国宝薬師如来参拝に「獅子窟寺を訪ねます。
  集合は、午前10時、天田宮神社に集合下さい。



JR安土駅を基点に、「安土城跡」周辺を歩いてきました。
織田信長公像

JR安土駅前の信長の銅像前で記念撮影
皆さん もう、すっかり信長になりきっていますなぁ!

全国佐々木の総社  沙沙貴神社
蒲生地方の古代豪族「狭狭城山君(ささきやまぎみ)の氏神とされる神社。
豪壮な茅葺の楼門をくぐり、老松の茂る森の中に社殿が立ち並ぶ。
現在、佐々木氏の子孫は300万人といわれる。京極、黒田名地の大名
旧財閥三井氏、乃木希典などもこの子孫と言われる。


楼門の佐々木氏の家紋
「四つめ」
沙沙貴神社の楼門と本殿 - 近江源氏佐々木氏の氏神
なんじゃもんじゃの木
春には、雪をかぶったように白い花が一面に咲き乱れる
乃木神社とお言葉
浄厳院

天正7年(1579)、浄土宗と法華宗の間で安土問答が行われた。
本尊の阿弥陀如来像をはじめ、7つの国指定重要文化財を所有している
浄厳院の楼門と本堂 - 佐々木氏の菩提寺
楼門前で説明を受け、境内くまなく詳しく解説いただいた

近江の歴史・文化を集積  
安土城考古博物館

西欧風の館内では弥生時代から古墳時代の生活様式を再現したり
出土品を展示。織田信長、安土城に関する資料も豊富に揃っている。
また、安土城郭調査研究所があるほか、屋外には国の重要文化財である
「旧宮地家住宅」「旧柳原学校校舎」など建っています。


安土城考古博物館
  
 「安土城考古博物館」を背に、再び全員で記念写真。午後は、本日メインの「安土城跡」に向って散策、途中JR琵琶湖線の小さなトンネルをくぐり、車の往来が激しい道路を離れて、やっと、安土城跡に着き、中会長より最近の発掘調査の内容などを説明いただく。
 入り口で、各自拝観料500円を払い、大手道を真直ぐに登り始める。石の階段を一段一段数えながら、500段近い階段を登り詰めたところが天主郭が建っていた所だ。ここから見える展望は素晴らしく、大中湖南遺跡などが一望でき、全員で天主の礎石の上に立って記念撮影。続いてハ見寺跡より、西の湖方面を見下ろし、唯一焼け残った重文・三重塔を背景に、本日最後の記念写真を撮る。
旧柳原学校校舎 文芸の郷、信長の館
特別史跡 安土城跡

2007.2.24、勉強会で「安土城の今-解き明かされた信長の夢」をテーマに、
近藤 滋氏(安土城郭調査研究所所長)にご講演をいただいた。


現在の安土城跡周辺



安土城郭資料館の安土城復元模型

安土城は、織田信長が天下統一の拠点として琵琶湖岸に築いた大城郭です。
 織田信長は尾張国(現愛知県西部)の戦国大名です。はじめは尾張の一戦国大名にすぎませんでしたが、持ち前の才覚と行動力で周辺の戦国大名たちを従え、天下統一への道を歩んでいきます。

 信長は領地の拡大にあわせて居城を清洲城(愛知県清洲町)、小牧城(愛知県小牧市)、岐阜城(岐阜県岐阜市)と移し、天正4年(1576)から安土城の築城を開始します。

 信長は安土城を築いた後、さらに西国への進出を目指しますが、天正10年(1582)6月2日、京都本能寺において、明智光秀によって殺されます。安土城はその光秀が羽柴秀吉によって滅ぼされた後、焼け落ちました。
 その後も、信長の遺児信雄、信孝や孫の三法師が安土に入城するなど、安土城は天下人である織田氏の居城として機能しつづけていました。
 しかし天正13年(1585)、小牧長久手の合戦を経て織田信雄を屈服させた秀吉が、近江八幡に甥の秀次を入れ、八幡城を築かせたことにより、安土城は城としての機能を失い、廃城されることになります。


 (安土城郭調査研究所HPを参照させていただきました
安土城の歴史






1576 正月中旬、安土城の築城を開始する
1577 安土山下町中に楽市楽座の掟書を発布する
1579 完成した天主に信長が移り住む
1582 ハ見寺に徳川家康を迎え、能が行われる
本能寺の変で信長死去、安土城の天主・本丸等が焼失する
1585 豊臣秀次の八幡城築城に伴い安土城は廃城となる
安土城跡の発掘年表
調



20


1989 発掘調査を開始する
伝羽柴邸跡で五棟の建物跡を検出する
1990 環境整備の基本構想を策定する
伝羽柴邸跡で櫓門跡を検出する
136mにわたり大手道の当初ルートを確認する
1991 伝前田邸跡で建物四棟と木樋暗渠を検出する
黒金門に至る大手道の全ルートを解明する
1992 環境整備工事に着手する
1993 大手門とその東西に続く石塁跡を発見する
東家文書を調査し旧安土城下の絵図を多数発見する
1994 旧ハ見寺境内地を調査し当初の伽羅配置を明らかにする
現ハ見寺の高石垣を解体し当初の大手道を検出する
1995 百々橋口道及び主郭部周辺をめぐる周回路を調査する
1996 搦手道の調査に着手する
米蔵付近より金箔貼りの鯱瓦を発見する
1997 搦手道の全ルートを解明する
台所跡から流し・カマドとともに飾り金具を発見する
1998 天主台下から焼失建物とともに多数の遺物を発見する
一建築金物、十能・鍬、花器、金箔瓦、壁土等
搦手口の湖辺で木簡、完形に近い金箔瓦等を発見する
大手道の整備工事が完成する
1999 本丸跡から清涼殿と同じ平面を持つ建物跡を発見する
2000 天主台の再調査を実施
2001 大手門周辺から石塁と門跡2カ所を検出
2002 大手門西側〜百々橋口と大手門東側の調査を実施し、
大手門東側に虎口を検出
2003 大手道東側の蓮池周辺を調査し、曲輪跡などを検出
2004 大手道東側の蓮池周辺を調査し、曲輪跡などを検出
2005 大手道南側で城内南端の石垣を検出し、大手門前面に
空間のあったことを立証


 織田信長が天下統一を夢見た安土城跡の発掘調査の講演を、胸を躍らせながら拝聴した。
私は、これまで安土城跡を2度見学したことがあります。発掘調査中の大手門から大手道を上り、道の両側に発掘された、伝羽柴秀吉邸や前田利家邸などの家臣の屋敷跡を辿り、途中黒金門を通り二の丸、本丸、三の丸、頂上の天主まで一気に登り、帰りは、ハ見寺の三重塔や仁王門を見て大手道まで下ったことを思いだします。
 今回、特に、長年にわたり発掘調査に携って来られた近藤所長から安土城跡の発掘成果を全般にわたり、きめ細かくお聞きすることが出来たことを大変嬉しく思っています。
他の関連資料なども参考に、以下にその概要をまとめてみました。

安土城跡の現状と歴史
 信長が安土城を築いた安土山は標高198mで、西の湖、常楽寺湖、および伊庭内湖によって三方を湖で囲まれ、琵琶湖を堀と見立てた壮大な城であった。周囲の内湖は昭和初期の干拓事業によって埋め立てられ、小さくなった西の湖がその面影を残している。また、南側はひざまでつかる湿地が広がっていたとみられ、敵を寄せ付けない立地条件も考慮していたとうかがえる。
 天主は地上6階、地下1階。1階に狩野永徳の絵が飾られ、5階は法隆寺夢殿に似た八角形。6階は金箔張りで柱に竜、内部に中国皇帝、天上には天人が描かれていたという。炎上は、城下町の火災が飛び火したなど諸説あるが、原因は不明。1585年に廃城となった。1952年(昭和27年)、特別史跡に指定された。
 現在、安土山の大半はハ見寺が所有しており、大手道から天主などへの見学ルート以外には立ち入ることが出来ない。2006年9月から入山見学料として500円が必要となった。

安土城跡発掘調査概要
1. 文化資産としての安土城跡の保存、活用を図るため、滋賀県は1989年から20年計画の
  調査整備事業に着手した。天主・本丸跡は戦前にも発掘されているが、本格的な調査は
  初めてだった。
2. 対象は天主台や大手道、大手門周辺など。面積は安土山(96ヘクタール)のうち、
  5%弱だが、中腹の伝羽柴秀吉邸、伝前田利家邸跡で建物跡を検出した。
3. 1993年度には大手道の全容を解明した。
4. 1996年には、米蔵付近より日本の城で最古の金箔塗りの鯱(しゃちほこ)瓦を発見。
5. 1999年には、本丸跡で天皇を迎えるためとみられる御殿跡の礎石を確認した。
6. 2001年〜2004年にかけて、大手門西側、東側などから西虎口を2個、大手門、
  東虎口を確認。
7. 2005年、大手門前面に空間のあったことを立証した。
8. 県は発掘調査をほぼ終え、事業終了の2009年3月を目指し、大手門周辺の整備工事を
  進めている。
 
安土城の復元案 
  内藤昌氏と宮上茂隆氏の案に加えて、新たに佐藤大槻氏の案が出された。
  織田信長の右筆、太田牛一の記した『安土日記』(『信長公記』)
  フロイス『日本史』ほか、イエズス会宣教師らの記録
  昭和15年安土城発掘調査報告
  平成元年から始まった第二次発掘調査報告などを参考に案が出された。

  内藤案の特徴は、天主内部に4階吹き抜けの空間があり、ここに宝塔が収まっていた、
  とするもの。内部に吹き抜け空間をとったことで、下層の規模がきわめて大きくなった。
  また複雑になった外観とあいまって、「壮大」「壮麗」という印象を与えるものである。
  NHKがこの内藤案を支持し、CGを作って繰り返し放送した。
  セビリア万博に出展された復元模型も、この内藤案に従ったものである。
  安土城記念館には、内藤案と並べ、宮上案による復元模型が展示されている。

太田牛一の記した『信長公記』に書かれていた、興味深いこと
1. 信長は、城下町の経営には苦労していたようだ。当時の侍は故郷に本拠を持っており、家臣に「安土へ出てこい」と言っても、なかなか集まらない。
 面白いのは、「弓衆」の長屋が焼けた際の信長の怒り方。今でいう単身赴任で男ばかりだから、料理などをしていて火事が起きたと言う。火事を機会に家族を呼び寄せるよう命じた。
2. 天正10年(1582)正月一日、信長が「御幸の間」を家臣に見学させたことが書かれている。
 「御幸の間」を拝観したあと、最初に参じた白州へ戻ると、信長公から台所口へ参るようにとの上意が伝えられた。それに従い伺候すると信長公は厠の口に立って待っており、そこでわれらの出す十疋ずつの礼銭をかたじけなくも手ずから受け取られた。
 

調査成果・新発見の絵図などから分かったこと
1. 安土城の縄張りは、山上には信長の城と宮殿があり、中腹には信長一族と小姓・右筆・
  馬廻り衆など側近の屋敷、山麓は城の外郭線の防御施設などが造られて、山全体が
  立体的な機能を持った壮大な城であった。
  山頂の宮殿、山腹の家臣屋敷、山ろくの砦(とりで)と、一体的な縄張りがある。
  やはり、天下取りの城というイメージ。
  しっかりとした防御機能を持って都に対峙(たいじ)していた。
2. 城下町や下街道に面した山麓を石垣で区画して、山=城とした。
3. 『信長公記』などに書かれている、山下(さんげ)・山麓は安土山の中腹を指す。
4. 伝本丸御殿(御幸の間)、直線の大手道(6〜7mの幅で180m)、三門形式(大手門・
  東口虎口・西虎口)の大手石塁の造から、天皇の行幸を迎える機能を備えていた。
  信長は、天皇を将軍自らの邸宅に招いた室町幕府を受け継ぎ、安土城に天皇を
  迎えようと考えたのだろう。
  天正10年6月2日、信長は本能寺で無念の自害に果て、その夢は叶えられなかった。
5. 城下に面する西側の防御が手薄。
6. 「江州蒲生郡豊浦村与須田村山諭立会絵図」(元禄8年)に惣構どて
  描かれ、また、「指上申西霊寺建立並寺地之」(江戸中期)に信長公の頃に
  惣郭之土堤を開いたと書かれている。明治初期の地図では惣構地内の道路は、
  鍵形路が分布していることなどから、安土城下町には、内町・外町があり、岐阜の
  城下町と類似している。但し、楽市楽座は内町にあった。

総まとめ
安土城は、近世の先駆けといわれるが、城・城下に中世的要素がある。城下の在り方や社会・経済的にも近世というには未成熟であり、まさに過渡期の城であって、戦国末期でより中世に近く、近世は次の秀吉の時期からと考えられる。

以上、今回の講演で確認できたことを念頭において、また、是非とも安土城跡を
訪れたいと思います。

《信長と安土城》
1534年 尾張で信長誕生
1546年 元服し織田三郎信長を名乗る
1551年 父信秀が病死、家督を継ぐ
1555年 清洲城主となる
1560年 桶狭間の戦い。今川義元を討ち取る
1567年 稲葉山城を攻略、岐阜城に改名。「天下布武」の印章を使い始める
1568年 将軍足利義昭を奉じて京に上洛
1571年 比叡山焼き打ち
1573年 足利義昭を京から追放。室町幕府滅亡
1575年 長篠の戦いで武田勝頼を破る
1576年 安土城築城開始。信長も安土に移る
1577年 安土城下町に楽市・楽座令
1579年 安土城天主が完成
1582年 本能寺の変、信長自刃。安土城天主、本丸炎上
1585年 安土城廃城

詳しくは安土城跡ガイドマップをご覧下さい!

中会長より最近の発掘調査の内容などを説明いただく


安土城跡・天主を目指して、杖を片手に大手道の石段を登る  3時ごろ
大手道の石仏
安土城天主台跡

天主の礎石


安土城跡天主の礎石に並び、気勢を上げて記念写真


安土城跡天主より、「大中の湖」方面

信長の菩提寺
ハ見寺跡
安土城築城の際に菩提寺として建立されたが、安政元年(1854)に焼失。
現在は、三重塔と楼門(仁王門)が当時の姿を残している。
また、門の両脇間の木造金剛力士立像を含むこれらは
すべて国の重要文化財に指定されている。


ハ見寺跡より、西の湖方面

ハ見寺の三重塔  3時50分頃

セミナリヨ跡 4時30分
天正9年(1581)、イタリア人宣教師オルガンチノにより創設された
セミナリヨ日本初のキリシタン神学校。安土城円状の際焼失し
現在はその推定地の一部が公園になっている。

 帰りは、「セミナリヨ跡」を見学、駅まで少し急ぎ足で駅に向う途中、
琵琶湖に沈む真っ赤な夕日が印象的だった。
安土駅を4時54分に出発、京都駅5時38分、すっかり日も暮れてしまいました。
さわやかな秋空の中、皆さんお疲れ様でした。

皆さん、お疲れ様でした!

最後までご覧いただき有難うございました!

交野古文化の歴史ウォークに戻る