第63回 交野歴史健康ウォーク
(とき)平成16年5月8日(土)快晴 |
5/8(土)天候晴れ、参加者21人元気な顔が揃った。淀川右岸の高槻市公園墓地内の安満宮山古墳に出掛けてきた。朝から天候も申し分なく、途中金龍寺跡へのハイキングと標高125mの青龍三年の丘・安満宮山古墳からの眺望を楽しみ、邪馬台国の女王卑弥呼の歴史談義などに花が咲いた、素晴らしい歴史健康ウォークとなりました。 枚方市駅前から京阪バスに乗り込み、9時40分頃高槻駅に到着。阪急電車沿いを約5分歩くと名勝史跡・八丁松原に出る。八丁松原は高槻城の京口から西国街道に出るまでの間に造られた松並木で、江戸時代には藩主の参勤交代に使われ明治維新に到るまで、城主永井氏代々により保護されてきた。その後、鉄道や道路建設で伐採されたり枯れたりしてわずかに往時の名残を留めていたが、昭和32年史跡公園として保存され、平成8年枚方高槻線拡幅に伴い、江戸時代の武家屋敷を偲ばせる門や塀などが整備され市民やドライバーの目を楽しませている。 JR京都線を越し別所本町の信号を右折、名神高速道路をくぐり高槻市公園墓地へと向かう。途中、磐手橋を左へ渡りハイキングコースの金龍寺跡(こんりゅうじあと)へと登った。竹薮と木陰の涼しい山道をゆっくりと2キロ強を往復。汗ばむ程度の気持良い健康ウォークとなった。1200年前に創建されたという金龍寺は今は礎石と石垣を残すのみであったが、想像していた以上に広い境内と新緑の楓にホッと癒される思いであった。 広大な高槻市公園墓地の桜道を約20分上り詰めた、見晴らしの良い場所に安満宮山古墳はあった。標高125mに造られた安満宮山古墳からは、眼下に高槻市、茨木市等大阪平野や淀川が一望され、はるか東方に交野連山の交野山や旗振山、竜王山が確認でき、同時期に造られた交野の森古墳群(標高155m)などと対比して、一同感激も一入でした。 安満宮山古墳(あまみややまこふん)は、平成9年に安満御所の町の市営公園墓地内において、3世紀後半に築造されたと見られる最古級の古墳で、木棺内から5面の鏡が出土した。魏の年号である「青龍3年(235)」銘、邪馬台国の女王卑弥呼が景初3年(239)に魏から下賜された「「銅鏡百枚」のうちの一枚と見られ「邪馬台国畿内説」を補強する発見と位置付けられている。 詳しくは安満宮山古墳の紹介ホームページを参照下さい。 遠く交野連山を望みながら青龍三年の丘で昼食。ゆっくり休憩後、邪馬台国の女王卑弥呼が景初3年(239)に魏から下賜された「「銅鏡百枚」のうちの一枚と見られる中国鏡などのレプリカを前に、古代のロマンに花が咲いた。帰りは、弥生の丘に立ち寄った後、急な墓地の階段を下り春日神社で一休み。後は一気に高槻駅へと帰った。 |
名勝史跡・八丁松原を歩く 慶安2年(1649)、高槻城主永井日向守直清が山城国より移封された頃、 京口より西国街道に通じる八丁(900m)の間にこの道路を新設し、同時に 松数百本が植えられ、明治維新に到るまで、城主永井氏代々により保護されてきた。 昭和32年史跡公園として保存され、平成8年枚方高槻線拡幅に伴い 江戸時代の武家屋敷を偲ばせる門や塀などが整備された。 |
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安満の道標:右 そうじじ 左 やなぎだに | ハイキングコース:金龍寺跡へ登る |
頂上付近の座禅石 | 頂上の金龍寺跡 礎石や石垣が残る |
高槻市公園墓地入り口付近 | 安満宮山古墳群1号古墳 |
青龍三年の丘・安満宮山古墳 | |
卑弥呼の古墳談義に花が咲く | 交野連山を望む |
青龍三年の丘・安満宮山古墳 交野山を背に記念撮影 |
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青龍三年の丘・安満宮山古墳からの眺望 標高125mに造られた古墳からは、眼下に高槻市、茨木市等大阪平野や淀川が一望され、 はるか東方に交野連山の交野山や旗振山、竜王山が確認でき、同時期に造られた 交野の森古墳群(標高155m)などと対比して、一同感激も一入でした |
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弥生の丘 眼下に安満遺跡が望める |
弥生の丘・日時計 午後1時半を指している |
桧尾山・春日神社、境内には後鳥羽上皇行幸800年記念の石碑が建てられていた |
大阪平野の北東に位置する高槻市は、弥生時代以来、水を治め豊かな田野を育ててきた人々の営々たる努力は、政治的にも、経済的にも、この地を三島地域の中枢とし、歴史の流れに大きな影響を与えてきました。
市の西方にある弁天山には三島で最初の王墓が出現し、継体(けいたい)天皇の陵墓と考えられている古墳が郡家に築かれました。又、市の南西にある玉川の里は、古代農村の典型として歌枕にもなり、安満(あま)地域には広大な荘園が広がっていました。 昭和3年京都大学付属農場建設の際に発見された安満遺跡は、三島地方で最初に米作りが始まったところといわれています。遺跡は市街の東、現在の八丁畷町、桧尾川の扇状地に広がり、東西に1,200 m、南北に300
mの範囲にわたっています。 弥生時代の環濠集落として名高い安満遺跡の背後(北側の山の中腹)にそびえる安満山。平安時代から春日神社(現 磐手杜神社)の神域として守られてきた聖なる山です。 1997年(平成9年夏)この山の中腹を発掘調査したところ、長大な木棺を納めた古墳が発見され、これを安満宮山古墳と命名されました。棺内には青銅鏡5面
(1号鏡~5号鏡) をはじめ、ガラス小玉をつづった装飾品や刀、斧などの鉄製品が副葬され、並々ならぬ人物が埋葬されていたことが明らかになりました。 注目されるのは、中国・魏の年号、青龍三年
(235年) 銘をもつ方格規 四神鏡 (2号鏡)です。1992年に丹後半島中央部の大田南5号墳から出土した鏡と同形の、日本最古の年号鏡です。さらに興味深いのは、それが古いタイプの三角縁神獣鏡
(1号鏡) などと、日本でははじめて一緒に出土したことです。 |