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2004年 新春恒例の初歩き
天野川から開けた文化
交野古文化同好会

朝廷の正月の祝いは、もともと元旦の朝賀と元旦節会だけで終わった。
そのため、2日には仕事をはじめる「事の始め」が行われた。
2日の書初めや初荷の習慣はこの2日を仕事始めとする考えから起こったものだ。
そして、事の始めに見る夢が「初夢」である。つまり2日の夜に見る夢のことになる。
「一交野、二古文化、三初歩き」と1年が平穏無事に健康で過せますようにと
古文化同好会では、毎年企画して歩いております。 (古文化・石鏃より)
今年は、昨年の文化祭のテーマ「天野川に開けた文化」に因んで、天野川を歩きました。

日時: 平成16年1月2日(金)
集合場所:・徒歩で参加 京阪交野駅バスターミナル 午前9時
・電車利用 京阪「星ヶ丘」駅前 午前10時

コース:交野駅前→郡津駅→天野川→星ヶ丘駅前(合流)→禁野車塚古墳→
百済寺→百済王神社→天野川→かささぎ橋→天野川と淀川の合流地点→
淀川公園(昼食)→意賀美神社→枚方市駅(午後2時頃解散)
 2004年1/2(金)天候晴れ、参加者31人。今年の初歩きは晴天に恵まれ元気な顔が勢ぞろいした。先発隊は午前9時交野駅前に集合、天野川を下り10時過ぎ星ヶ丘駅前で合流した。
淀川と天野川の合流地点
天津橋、京阪電車の鉄橋をくぐり、かささぎ橋を過ぎ、天野川水防橋を渡って遂に淀川へと到着。淀川と天野川の合流付近には、たくさんのカモメが元気よく舞っていた。

 星ヶ丘駅前で、「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします」と、口々に挨拶を済ませて雑談に花を咲かせている所へ、交野駅前から出発された先発隊の吉岡さんが颯爽と歩いてこられて、「現在、先発隊は少し遅れているが元気にこっちに向かっております」と報告された。暫らく待っていると、次から次へと沢山の方々が元気に歩いてこられ、新年の挨拶を交わして全員揃った所で再出発。

 駅から枚方方面に向かい、国道1号線の小さなトンネルをくぐり200mばかり歩いて京阪電車の踏切を左に渡ると、国史跡・禁野車塚古墳である。見上げるような後円部と広く平らな前方部からなる、110mを誇る枚方市内屈指の大型前方後円墳である。今は史跡公園として綺麗に整備されている。
 ここで、井戸会長より「今年も皆さんと共に積極的に古文化の活動をやって行きたい」と抱負を語られ、最後に 「よろこべば 喜び神が喜んで 悦び連れて 慶びに来る」と言う年賀状の挨拶文を披露され、「ふるさとの歴史を勉強できる幸せを喜び、今日一日、皆さんと一緒に歩きたい」と挨拶された。

 平田さんから禁野車塚の説明を受けたあと、天野川の堤防沿いに歩き、禁野橋の手前で右折して宮之阪駅を過ぎて数分歩き、石の階段を上がると、百済王神社があり、右手は国の特別史跡公園・百済寺跡である。境内は初詣のお客で賑わっていた。茅野輪を八の字にくぐり、拝殿で無病息災と世界の平和をお願いした。百済寺跡で見つかった瓦
 6世紀のはじめ百済国(345年〜660年)から数多く渡来したうちの百済王一族が、8世紀後半建立したと伝えられる百済寺跡。百済国は、仏像だけでなく僧侶・工人などの多岐にわたって人材を派遣して日本文化に多大な影響を及ぼし、飛鳥・白鳳文化を育んだことが知られている。
 一辺約160mの方形寺地の中心線上に伽藍を配し、南門を入るとさらに中門があり、その両脇から延びた回廊が東西両塔を包容し金堂両脇にいたる形式は、新羅の感恩寺奈良の薬師寺だ。和久田さんが持参された百済寺跡で見つかった言われる瓦の破片を見せて貰った。往時を偲ばせるに十分な素晴らしい瓦と東西両塔の礎石と広い遺跡を眺めていると、交野ヶ原の高台に悠然と建つ東西の塔と伽藍が目の前に浮かんだ。

 再び、天野川の堤防に出て、淀川に注ぐ下流に向かって歩いた。天野川には沢山の鯉が元気に泳ぎ、カモメやコガモ、サギ、カイツブリなど野鳥がゆうゆうと羽根を広げて舞っていた。最近は護岸工事がなされ川幅も広くなり中洲には雑草が茂り、野鳥の宝庫となっているようだ。しかし、岸に打ち上げられたゴミが目に付いたのは残念であった。
田中家の椋木
天を仰ぐような田中邸のむくの
大木の大きさに改めてびっくり

 天津橋、京阪電車の鉄橋をくぐり、かささぎ橋を過ぎ、天野川水防橋を渡って遂に淀川へと到着。淀川と天野川の合流付近には、たくさんのカモメが元気よく舞っていた。

 悠々と流れる淀川、見渡す限り広大な淀川公園に感動を覚える。全員で記念撮影後、昼食。
 午後は、東海道56次の宿場町・枚方宿の旧京街道に出て、意賀美(おがみ)神社で初詣。この地に物部の遠祖・饒速日命(にぎはやひのみこと)の五世孫の伊香色男、伊香色女の邸宅があり、この神が鎮座していたと言う。旧社地の伊加賀村の地名のゆわれであり、天野川、天野が原にゆかりの神社である。

 万年寺山古墳・遺跡の説明を受けたあと、森繁久弥の生家前を歩き、田中鋳物の建物跡を見学、天を仰ぐような田中邸のむくの大木の大きさに改めてびっくり。600〜700年の樹齢だそうで、大阪府の天然記念物に指定されている。枚方市駅方面が一望される高台をゆっくりと下り枚方市駅で解散。(午後2時前)

 井戸会長の熱弁と平田さんの軽妙な説明に感動し、天野川に開けた文化の一面を垣間見た楽しい歴史ウォークでした。次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!
 
 下記ホームページも参考にしてください
枚方宿から万年寺山古墳を廻り、周辺の文化財を訪ねる
百済寺と七夕伝説の天の川を尋ねる


2004年1/2  淀川公園で記念撮影(昼食) 
見渡す限りの芝生の広場、圧倒されるのがその広大さ!約30haの園内には新しく整備されたポイントがいっぱいあります。まず、淀川の流れに親しめる「水辺のプロムナード」、川の水を引きこんだスケールの大きな「多自然池」、1万人が集える野外ステージ「淀川アクアシアター」に、のんびり散歩を楽しめる「花と緑の散歩道」「のんびり広場」などなど。ちょっとしたピクニック気分を楽しみに、お弁当を持って、家族や友達と一緒に出かけてみましょう!(web枚方情報を参照)
禁野車塚古墳
全長110メートルの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳。この地が淀川と天野川の合流地点を臨むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられている。
百済王神社・初詣
百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により、従三位河内守に任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられている。
百済寺跡国史跡公園
百済寺跡・国史跡公園
枚方市中宮にある史跡公園百済寺跡は、8世紀後半、渡来系豪族百済王敬福のころ一族が中官に移り、氏寺として建立した百済寺の跡である。
百済寺跡・東塔の礎石
百済寺は、標高30mの台地のうえに160m四方くらいの面積をもつ小規模な寺院であるが、七堂伽藍の甍を並べていた。伽藍配置は、奈良の薬師寺や新羅の感恩寺との類似が指摘される。
天野川 京街道を歩く
田中邸むくの大木
樹齢は約600〜700年、樹高21m、幹囲地上1.3mで5.4mをはかり、枝張りは東西16.4m、南北17.5mに及ぶ。この種の巨樹として全形を留める樹木は府下では珍しく、大阪府の天然記念物に指定されている。田中家は古くから鋳物を業とし、江戸時代には真継家より独占的営業を許され、河内国の惣官鋳物師として、鋳物師を統率し、枚方上之町で梵鐘、鋤鍬、鍋釜などを造っていた。
意賀美神社・初詣
片野物部氏の祖先が淀川の水害の難を排除し、船の航行安全を祈願して創建したと伝えられている。 この地には万年寺と須賀神社があったが、明治に入って神社を護持する万年寺が廃寺になり、伊加賀字宮山の意賀美神社に合祀(ごうし)された。その後、ふたたびこの地に意賀美神社が移された。

天野川から開けた文化の新年初歩きMAP

 ※史跡など・概略説明

禁野車塚古墳(国史跡)百済寺跡周辺地図
全長110メートルの前方後円墳で、牧野車塚古墳とともに枚方市内では屈指の大型古墳です。後円部の直径は57メートル、同高さは9.9メートル、前方部の幅40メートルを測り、前方部を西に向けています。前方部はかなり削平を受けていますが、後円部は2段に築成された様子が観察でき、葺石と埴輪の存在も認められます。内部構造や副葬品については明らかではありませんが、後円部上に板石が存在することから、主体部は竪穴式石室である可能性があります。
 したがってこの古墳が築造された時期は、予想される主体部と墳丘の状態から4世紀末〜5世紀初頭頃と推定できます。この地が淀川と天野川の合流地点を臨むという良好な立地条件から、この地域の交通権を掌握した首長の墓と考えられます。平成3年には、後円部側の墳丘基底部から古墳時代前期後半期の竪穴住居の存在が確認されている。

百済寺と百済王氏
 
 枚方市中宮にある史跡公園百済寺跡は、8世紀後半、渡来系豪族百済王敬福のころ一族が中官に移り、氏寺として建立した百済寺の跡である。 奈良時代末期から建てはじめ、七堂伽藍が完成したのは平安時代の初期と考えられている。
 百済寺は、標高30mの台地のうえに160m四方くらいの面積をもつ小規模な寺院であるが、七堂伽藍の甍を並べていた。伽藍配置は、奈良の薬師寺や新羅の感恩寺との類似が指摘される。
 東西の塔は、何層であったか不明であるが、この地方の農民はもちろん、淀川を上下する旅人の目にも中央政界で活躍するはなやかな百済王氏の象徴として映ったことであろう。
 百済寺は、11〜12世紀に焼失したものと考えられるが、礎石だけはそのまま残っていたので、1941年、国の史跡に指定され、1952年に特別史跡に昇格した。百済寺の伽藍配置図

『百済王(くだらのこにきし)物語』
 660年頃、難波津の港に白村江の戦いに敗れ、日本に渡って来た百済王一族がいました。一足先に来ていた百済王の第二王子(禅広)をたよりに亡命して来たのです。
 時は流れ四代目の(敬福きょうふく)の時代に東大寺の大仏に大量の金が必要となった時、陸奥守だった敬福が900両もの金を贈りました。その褒美で河内守になった敬福は枚方に難波津の一族を呼び寄せて住まわせ、壮大な百済寺を建てたのです。
 百済王一族を特に優遇したのは桓武天皇で「百済王等は朕の外戚なり。」と言って、行幸や遊猟などに何度も枚方を訪れました。百済寺の中には桓武天皇が祭祀を行った場所もあったそうです。
 住居や倉庫と考えられる堀立柱建物跡や井戸が11棟以上見つかっているので百済王一族の一大ニュータウンだったのかも。
田中鋳物家
 田中家は古くから鋳物を業とし、江戸時代には真継家より独占的営業を許され、河内国の惣官鋳物師として、鋳物師を統率し、枚方上之町で梵鐘、鋤鍬、鍋釜などを造っていた。
ムクノキ(椋)はニレ科の落葉樹で高さ20m、直径1mの巨樹にも達する。果肉は甘くて野鳥が食し、特にムクドリが集まるところから鳥名となった。葉の表面はざらついていて物を磨くのみ用いられる。鋳物製品の磨きにも利用されたという。
 田中家は代々河内鋳物師として名を馳せたが邸内木の椋は枚方金屋のシンボルであった。樹齢は約600〜700年、樹高21m、幹囲地上1.3mで5.4mをはかり、枝張りは東西16.4m、南北17.5mに及ぶ。この種の巨樹として全形を留める樹木は府下では珍しく、大阪府の天然記念物に指定されている。