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饒速日命の史跡を訪ねる
2008.9.10
矢田坐久志玉比古神社→奈良県立民俗博物館→
稗田環濠集落・売太神社→
     唐古・鍵遺跡→唐古・鍵考古学ミュージアム

 2008.9.10(水)午前10時、古文化同好会の有志4人は、私市共同墓地駐車場に集合。12月3日(水)に予定されている、交野古文化同好会のバス旅行「甦る饒速日命」の下見に出掛けて来ました。
 今回、訪れた史跡と、7月11日に探索した「長髄彦本拠の地→饒速日命の墳墓(檜の窪山)」を加えて、きっと皆さんに喜んで戴けるバス旅行となることでしょう。

 
矢田坐久志玉比古神社
(やたにいますくしたまひこじんじゃ)

大和郡山市矢田町965 0743-52-7313
紫陽花で有名な矢田寺に近いところです。
 物部氏の祖先である饒速日命(にぎはやひのみこと)を、祭神とする神社。航空機のプロペラが、シンボルになっているという・・・珍しい神社 矢田坐久志玉比古神社を訪ねて来ました。
ご祭神は、櫛玉饒速日命 御炊屋姫命 2座。
 また、饒速日命が天の羽々矢3本を射て、その落ちたところを住まいと定めたが、そのうち二の矢がこの神社の境内に落ちたとされている。


↑ 写真の楼門の上を注目ください!


正面の大きな楼門
航空機のプロペラがシンボルに

(航空祖神 源田 実)の額が掲げられている

磐船(いわふね)に乗って饒速日命(にぎはやのみこと)が飛来した
という神話から航空の神様として信仰を集めている。

二之矢塚
かって矢落明神(やおちみょうじん)と呼ばれていた。
饒速日命が天の羽々矢3本を射て、その落ちたところを住まいと定めたが、
そのうち二の矢がこの神社の境内に落ちたとされている
奈良県立民俗博物館
大和郡山市矢田町545 0743-53-3171
県立民俗博物館をはじめ、緑地公園や児童広場、
そして移築復元した民家九棟が配置されています。

天候に恵まれますと、広い公園内で昼食です。


大和民俗公園
稗田環濠集落・賣太神社(めたじんじゃ)


下つ道が稗田環濠集落の西を通っている
賣太神社 (めたじんじゃ)
賣太神社 (めたじんじゃ) -------------------------- 「古事記」の伝承者として知られる稗田阿礼(ひえだのあれ)を祀り、現在は童話の神様として親しまれている。大きな森 を保ち、神社を中心として稗田集落の環濠が発達したようすを示しているが,このような様相は若槻環濠や番条環濠でも みられる。山辺の道を歩くと、あそこにも菅生(あのう)の環濠集落が若干残っているが、ここのように、集落全体とし て現存しているのは極めてめずらしい。


賣太神社の本殿
稗田阿礼(ひえだのあれ) 古事記の編纂者として知られる人物である。天武天皇に舎人として仕え、記憶力の良さを見込まれて『帝紀』『旧辞』等 の誦習を命ぜられた。元明天皇の代、詔により太安万侶が阿礼の誦する所を筆録し、『古事記』を編んだ。阿礼の生没年 は不明だが、『古事記』の成立当時(和銅5年/西暦712年)、すでに老年だったと考えられ、従って七世紀後半の人 である。(出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』)
唐古・鍵遺跡
 唐古・鍵遺跡は、今からおよそ2,000年前に栄えた、弥生時代の代表的な集落です。奈良盆地のほぼ中央、奈良県磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置します。遺跡面積の約42ヘクタールは近畿地方最大です。直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環濠」が巡っていました。
 遺跡は弥生時代前期(約2,300年前)に成立し、古墳時代前期(1,700年前)までの約600年間続きました。昭和11年の第1次調査では多量の土器・石器・木器が出土し、その成果は弥生時代研究の基礎となりました。昭和52年の第3次調査以来継続的な調査が行われ、多数の絵画土器や青銅器鋳造施設の発見など重要な成果が相次ぎました。その重要性から、1999年1月27日、国の史跡に指定されました。
 田原本町では、現在史跡指定された約10ヘクタールの公有化事業を進めています。公有化された土地は、史跡公園として整備する予定です。
唐古・鍵考古学ミュージアム
 このミュージアムは、田原本の考古資料を中心とした展示品で構成されています。特に日本を代表する弥生時代の環濠集落である唐古・鍵遺跡の出土品を中心に展示されています。
 貴重な資料が多くあり、当日は館内をボランティアさんから詳しく説明を受けることになっています。

最後までご覧頂き有難う御座いました!

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