ホームページに戻る
 

歴史健康ウォーク  112回
第二京阪国道側道巡り(U)
交野ドームから星田北・平池遺跡まで

 日時 : 2011年2月12日(土) 午前10時 交野ドーム集合  参加者 20名

 行程 : 交野ドーム → 第二京阪国道の側道・私部南遺跡 → 天の川 →
       コーナン・上ノ山遺跡 → 星田北 → 平池遺跡  12時解散 約 3km徒歩
 2011年2/12(土)、天候晴れのち曇。いきいきランド広場に集合、午前10時出発。
中会長の挨拶の後、初歩きで歩いた第二京阪国道の側道を交野ドームから星田の平池遺跡まで、道中、高尾秀司さんの側道周辺の遺跡の解説を聞きながらゆっくりと歩いてきました。本日の参加者は元気な総勢20名の皆さんでした。

 心配された天候も時々冷たい風が吹いたが昼までは先ず先ずのウォーク日和であった。解散後ドームまでの道程で小雪交じりの霙に遭った。皆さんお疲れさまでした。
いきいきランド交野

中会長の挨拶

寒い中、元気に参加された会員の皆さん


今回、新しく作った「交野古文化同好会の旗」を披露される、中会長


本日の案内人・高尾秀司さんと解説資料



交野ドーム広場で記念撮影


第二京阪国道の側道を歩く

さぁー元気に出発!

私部南遺跡の事を解説される高尾さん

後方に見えるのは交野山


 第2京阪国道の大規模な調査により、現在の交野の景観が形作られる過程を
知る手がかりが多く得られました。 特に、私部南遺跡では紀元前6世紀ごろ、
朝鮮半島に起源を持つ「松菊里型住居」が造られ、水田稲作を行う弥生文化が伝わっています。
私部南遺跡
弥生時代
 いきいきランド交野の北側と、京阪電車側の2か所を中心として紀元前6世紀ごろ、弥生時代前期と呼ばれる時期の土器や住居跡が見つかりました。
 特にドーム側で調査された住居跡は、北河内地域では非常に少ない例というばかりではなく、炉跡の両端に小さな杭を打ち込む点や、炉跡の形状が楕円形であるなど一般的な竪穴住居と異なる構造をもっていました。これに似たようなものは朝鮮半島南部を中心に、北部九州地域から西日本に分布することから、大韓民国の遺跡名にちなんで、
 「松菊里型住居(しょうきくりがたじゅうきょ)」と呼ばれています。
 見つかった石器の中には稲の穂首だけを引き抜くために使われた石包丁も含まれているため、このころから交野市域で確実に農業が行われていたことを物語っています。
 つづく紀元前3世紀ごろの中期では、京阪電車側で住居跡が数棟見つかったほか、このころの土器や石器が出てきました。深く掘られた穴の中には、鋤や鍬、斧の柄などの農工具が納められている例がありました。
 さらに、2世紀ごろになると、いきいきランド交野北西側の向井田地区付近に、シガラミが数か所築かれていました
 シガラミとは、たくさんの木の杭を打って水をせき止めて水量を調節し、田に水を導くために設けられた堰のことで、このころ、周辺に本格的なかんがい用水路と水田が広がっていたと推測されます。
 なお、水路際から、いのししを模したと思われる小さな土人形も見つかりました。何に使われたのかは不明ですが、生産の基本となる水路近くから出てきたことから、いのししが子だくさんなことにあやかって、秋の豊かな実りや、人の暮らしが栄えることを託して置かれたものかもしれません。

「松菊里型住居」

縄文土器 深鉢  突帯文土器

槃若寺周辺
私部南遺跡から出土した遺物
動物形土製品と手焙り形土器

 古墳時代前期(弥生時代の終わりから須恵器と呼ばれる土器が出現するころの5世紀始めまでの期間)に作られた、動物形土製品と手焙り形土器を展示しています。
 この動物形土製品はイノシシだと考えています。
 その理由は、左上の写真では分かりづらいですが、背中の中央から両側へ3本から4本の線が模様のように描かれています。この模様は、イノシシの背中に見られる特徴的な模様と良く似ています。このことからこの土製品は、イノシシを模して作られたと考えられます。
 手焙り形土器は、鉢形の土器に覆いを付けた形をしており、その形が手焙りという手を暖めるための小型の火鉢に似ていることから名付けられました。 土器には実際に中で火を焚いた痕跡のあるものは確認されていません。そのため暖をとる手焙りとして使われたのかどうかはわかっていません。
 

動物形土製品はイノシシ

手焙り形土器
把手付平底土器と甕
 古墳時代中期に作られた須恵器の把手付平底土器が出土しました。須恵器は灰色の硬い焼物で、縄文土器や弥生土器などとは別の作り方の土器です。須恵器作りの技術は、朝鮮半島から陶質土器と呼ばれる土器とともに日本に伝わり、生産が開始されました。
 写真の把手付平底土器は須恵器ですが、須恵器が日本で生産され始めたころのもので、口の形や胴部の線、把手など朝鮮半島の影響が色濃く見られます。
 また、壷なのか甕なのか形から判断するのが難しく、今回は単に土器としています。
 須恵器の甕、とても大きな甕で、高さが約1・、胴部の一番大きな部分は円周が2・6・もあります。底部は復元していませんが、丸底になります。
 甕を展示するために運ぶ時には、重さと割れた破片をつなげていることから、持つのが難しく、大人3人がかりでやっとでした。当時の人もこの甕を運ぶのは一苦労だったに違いありません。
 この甕も須恵器が日本で作られ始めたころのものです。
 そのため土器の厚みは薄く、形を作った時の工具痕跡を内面・外面ともていねいになで消す、という古い特徴を持っています。
 この甕は、一体何につかわれていたのでしょうか。中身が入ったままの出土例は無く、実のところは分かっていませんが、穀類や水を入れたと考えられています。
 甕は素焼きで水がもれてきますが、夏場にはこれが良いのです。西アジアの例として、同じような素焼きの甕に水を入れておくと、外面に水がしみ出し、高い気温で蒸発して中の熱を逃がすので、冷たい水を飲むことができるのです。
 

把手付平底土器

須恵器の甕
紡錘車と子持勾玉
 古墳時代中期〜後期の紡錘車ですが、それぞれ素材が異なります。一つは滑石製、もう一つは土製ですが、用途は同じで糸を紡ぐために使ったものです。
 子持勾玉は古墳時代中期のもので、緑色をしているので、巨大な芋虫のように見えます。名前のとおり大きな勾玉の背中や腹、脇の部分にリボンのような形に簡略化した小型の勾玉を付けたものです。上部には穴が開いていることから、ちょっと重いですが、普通の勾玉のように首から下げて使っていたと考えられます。
 材質は滑石製ですが、滑石の中でも加工がしやすい非常に柔らかい石材で作られています。子持勾玉は、まじないに使われた道具として考えられており、子をたくさん持っていることから子孫の繁栄を願ったものではないかと考えられています。
 この子持勾玉や動物形土製品など、当時の人々は自分たちの力が及ばない自然の事柄に対しての願いを、まじないや祈りに込めて、それを身近にあるものの形で表していたのではないでしょうか。

紡錘車

子持勾玉

橋脚の向こうに見えるのは、槃若寺
私部南遺跡
京阪電鉄交野線のすぐ東側で古墳時代・飛鳥時代の集落に重なるように、奈良時代の建物跡が見つかっています。
 建物の構造は、飛鳥時代と同様の掘立柱建物と呼ばれるものですが、飛鳥時代と異なるのは、建物の向きがほぼ東西南北方向を示すことです。建物の向きとは建物の主軸、つまり棟の通りが東西南北に向くことです。
 奈良時代の建物跡の写真を見ると、建物の柱が立っていた穴の縁を白い線でなぞっています。その白い輪っかの列を、写真の左上の方位と比べてみると、白い輪っかが東西南北に並んでいるのが分かると思います。
 これは奈良時代になると水田の区画に現れるように、条里地割りという土地の区画利用が定められ、これによって建物の方向も規制されるためです。
 また、建物跡の周辺からは、円面硯と呼ばれる硯が2点見つかっています。
 右下の写真は柱穴の中から見つかった硯で、直径約16・と奈良時代の硯としては大きいものです。脚の部分は、失われています。左側の写真の硯は、墨をする陸部が高く盛り上がっているのが特徴です。
 また猿面硯と呼ばれる現在の硯の原型になる硯も見つかっています。
 このほかに、腰帯具という官人が腰に巻くベルトのようなもの(右下の図)の一部である、巡方という金属製の部品も出土しています。
 このことから、文字を使う官人が住んでいた可能性が考えられます。

大型の竪穴住居跡

奈良時代の建物跡

円面硯


ベルト

腰帯具

京阪電車を越す

貯水池

私部西2丁目南交差点

168号線との交差点
天野川周辺

天野川周辺

天野川のトンネル内に描かれた「交野かるた」

天野川の上のイラスト

天野川の南を見る
私部西5丁目交差点付近

高尾さんが説明されている、後方の空き地に出土した、
上の山遺跡・大型掘立柱建物
(現地説明会資料より)
枚方市茄子作南町、交野市私部西5丁目所在)

 上の山遺跡(交野市私部西5丁目地先・枚方市茄子作南町地先)の発掘調査は、第二京阪道路(大阪北道路)の建設に伴い、国土交通省・日本道路公団の委託を受け、大阪府教育委員会の指導のもと、平成15年度から行われました。
 本遺跡は、天野川の西側にあたり、枚方丘陵から天野川に沿ってほぼ南北方向に細長く伸びる中位段丘(東西幅約100m)と、東西両側の谷に立地しており、これまでの調査で、旧石器時代から中世までの遺構や遺物が見つかっています。
                                
 今回の調査では、弥生時代中期前半(今から約2,200年前)の独立棟持柱(どくりつむなもちばしら)をもつ大型掘立柱建物を1棟検出しました。建物は、遺跡が立地する段丘の最頂部(標高29.2m)にあたり、見晴らしがよく、周囲を一望できる高所に建てられています。

                

 建物の規模は、1間(4.45〜4.60m)×5間(8.60m)です。建物の柱穴(柱を立てるために掘られた穴)は、楕円形もしくは隅丸長方形で、建物の外側から内側に向かって斜めに掘られており、柱を滑り込ませて立てたものと考えられます。側柱(がわばしら)の柱穴の深さは約0.3mですが、棟持柱の柱穴の深さは約0.9mもあります。
 独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物が、一般的な掘立柱建物や大型掘立柱建物と違う点は、建物の妻部(つまぶ)から離れた位置にある棟持柱で、大きく張り出した屋根を支えることです。このような建物構造や当時一般的には竪穴住居に住んでいたことなどから、独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物は、特殊な建物として、「祭殿」「集会所」などであったとする意見もあります。
  上の山遺跡の大型掘立柱建物は、ながめのよい場所に立地すること、独立棟持柱が建物の妻部から大きく離れた位置にあり、柱穴が大きくて深いことなどから、かなり高くて、立派な屋根構造を持つ、シンボリックな建物であったと考えられます。

 参考:上の山遺跡現地公開資料  財団法人 大阪府文化財センター
上の山遺跡4区前景(西から)
独立棟持柱をもつ大型掘立柱建物跡(北から撮影)


現在は埋め戻された「上の山遺跡」 (2007年6月9日撮影)
ホームセンター「コーナン」付近の第二京阪国道工事現場
星田北5丁目交差点付近
星田北8丁目付近
陸軍中尉・中村純一戦地の地
 昭和20年7月9日、米軍機P51約50機が来襲、大阪上空で空中戦があり、鹿児島出身の中村純一中尉が操縦する戦闘機・飛燕が撃墜され、星田に墜落しました。
 中尉は、パラシュートで脱出しましたが、米軍機が翼でパラシュートのロープを切り、中尉は水田にしぶきを上げて墜死され、星田の村民が手厚く弔われた。

 2005年3月16日、交野市星田北8丁目の第二京阪国道作業地にて、飛行機の残骸が発掘された。調査の結果、発掘されたエンジンのマークから飛燕のもので、中村中尉が操縦されていたものであることが確認されました。
 なお、発掘された飛行機の出土品は、現在、いきいきランド交野のロビーに展示されています。
平池遺跡周辺
 周辺は現在、階段状に水田が造られていますが、大きく東から西へ張り出した小規模な尾根の名残が随所に見られます。
 確認調査では、平坦に形作られた水田の下には、埋没した谷が多く見つかっており、周辺のもともとの地形は細かな谷が入り組む、起伏の多い地形であったことが考えられます。
 調査では、谷や尾根など細かな地形をうまく利用した、主に古墳時代後期から中世にいたる時代の人々の生活の跡が見つかっています。

古墳時代の遺構

寝屋川北の標識


今回の最終地点・平池遺跡付近で記念撮影


 次回は、第113回歴史ウォーク、3月12日(土)、「第京阪国道側道巡り」
  JR星田駅〜寝屋〜巣本〜京阪萱島駅  集合は、JR星田駅 9時です。
  お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただき有難うございました

交野古文化同好会HPに戻る