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私部南遺跡を解説される高尾さん |
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弥生時代
いきいきランド交野の北側と、京阪電車側の2か所を中心として紀元前6世紀ごろ、弥生時代前期と呼ばれる時期の土器や住居跡が見つかりました。
特にドーム側で調査された住居跡は、北河内地域では非常に少ない例というばかりではなく、炉跡の両端に小さな杭を打ち込む点や、炉跡の形状が楕円形であるなど一般的な竪穴住居と異なる構造をもっていました。これに似たようなものは朝鮮半島南部を中心に、北部九州地域から西日本に分布することから、大韓民国の遺跡名にちなんで、
「松菊里型住居(しょうきくりがたじゅうきょ)」と呼ばれています。
見つかった石器の中には稲の穂首だけを引き抜くために使われた石包丁も含まれているため、このころから交野市域で確実に農業が行われていたことを物語っています。
つづく紀元前3世紀ごろの中期では、京阪電車側で住居跡が数棟見つかったほか、このころの土器や石器が出てきました。深く掘られた穴の中には、鋤や鍬、斧の柄などの農工具が納められている例がありました。
さらに、2世紀ごろになると、いきいきランド交野北西側の向井田地区付近に、シガラミが数か所築かれていました。 シガラミとは、たくさんの木の杭を打って水をせき止めて水量を調節し、田に水を導くために設けられた堰のことで、このころ、周辺に本格的なかんがい用水路と水田が広がっていたと推測されます。
なお、水路際から、いのししを模したと思われる小さな土人形も見つかりました。何に使われたのかは不明ですが、生産の基本となる水路近くから出てきたことから、いのししが子だくさんなことにあやかって、秋の豊かな実りや、人の暮らしが栄えることを託して置かれたものかもしれません。 |
「松菊里型住居」 |
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縄文土器 深鉢 突帯文土器 |
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動物形土製品と手焙り形土器
古墳時代前期(弥生時代の終わりから須恵器と呼ばれる土器が出現するころの5世紀始めまでの期間)に作られた、動物形土製品と手焙り形土器を展示しています。
この動物形土製品はイノシシだと考えています。 その理由は、左上の写真では分かりづらいですが、背中の中央から両側へ3本から4本の線が模様のように描かれています。この模様は、イノシシの背中に見られる特徴的な模様と良く似ています。このことからこの土製品は、イノシシを模して作られたと考えられます。
手焙り形土器は、鉢形の土器に覆いを付けた形をしており、その形が手焙りという手を暖めるための小型の火鉢に似ていることから名付けられました。 土器には実際に中で火を焚いた痕跡のあるものは確認されていません。そのため暖をとる手焙りとして使われたのかどうかはわかっていません。
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動物形土製品はイノシシ |
手焙り形土器 |
把手付平底土器と甕
古墳時代中期に作られた須恵器の把手付平底土器と甕が出土しました。須恵器は灰色の硬い焼物で、縄文土器や弥生土器などとは別の作り方の土器です。須恵器作りの技術は、朝鮮半島から陶質土器と呼ばれる土器とともに日本に伝わり、生産が開始されました。 写真の把手付平底土器は須恵器ですが、須恵器が日本で生産され始めたころのもので、口の形や胴部の線、把手など朝鮮半島の影響が色濃く見られます。 また、壷なのか甕なのか形から判断するのが難しく、今回は単に土器としています。
須恵器の甕、とても大きな甕で、高さが約1・、胴部の一番大きな部分は円周が2・6・もあります。底部は復元していませんが、丸底になります。 甕を展示するために運ぶ時には、重さと割れた破片をつなげていることから、持つのが難しく、大人3人がかりでやっとでした。当時の人もこの甕を運ぶのは一苦労だったに違いありません。 この甕も須恵器が日本で作られ始めたころのものです。 そのため土器の厚みは薄く、形を作った時の工具痕跡を内面・外面ともていねいになで消す、という古い特徴を持っています。 この甕は、一体何につかわれていたのでしょうか。中身が入ったままの出土例は無く、実のところは分かっていませんが、穀類や水を入れたと考えられています。
甕は素焼きで水がもれてきますが、夏場にはこれが良いのです。西アジアの例として、同じような素焼きの甕に水を入れておくと、外面に水がしみ出し、高い気温で蒸発して中の熱を逃がすので、冷たい水を飲むことができるのです。
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把手付平底土器 |
須恵器の甕 |
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紡錘車と子持勾玉 |
古墳時代中期〜後期の紡錘車ですが、それぞれ素材が異なります。一つは滑石製、もう一つは土製ですが、用途は同じで糸を紡ぐために使ったものです。
子持勾玉は古墳時代中期のもので、緑色をしているので、巨大な芋虫のように見えます。名前のとおり大きな勾玉の背中や腹、脇の部分にリボンのような形に簡略化した小型の勾玉を付けたものです。上部には穴が開いていることから、ちょっと重いですが、普通の勾玉のように首から下げて使っていたと考えられます。 材質は滑石製ですが、滑石の中でも加工がしやすい非常に柔らかい石材で作られています。子持勾玉は、まじないに使われた道具として考えられており、子をたくさん持っていることから子孫の繁栄を願ったものではないかと考えられています。 この子持勾玉や動物形土製品など、当時の人々は自分たちの力が及ばない自然の事柄に対しての願いを、まじないや祈りに込めて、それを身近にあるものの形で表していたのではないでしょうか。
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紡錘車 |
子持勾玉 |
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大阪北共同溝が今も工事中である |
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久御山線を渡ると上私部遺跡跡 |
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上私部遺跡の遺物 |
上私部遺跡は、5世紀前半ごろから7世紀初めごろの約二百年にわたって集落が営まれ、中でも6世紀ごろか後半にかけてはもっとも栄えていたことが発掘調査によって明らかにされています。 これらのうち、5世紀のものには土師器や須恵器などの土器のほか、石製の玉類などが見られます。
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土師器と須恵器
土師器の中には、当時国内で作られた土器の底は丸いものが主流であったにもかかわらず、右の写真のように植木鉢のように底が平に形作られた土器も含まれています。
この土器のもとの形は、朝鮮半島南部の「小形平底鉢」と呼ばれているもので、ここで生活を営んだ人々が、当時の朝鮮半島南部で流行していた最新のものを取り入れようとした様子がうかがえます。 須恵器には高杯などがみられます。しかし当時の主要な生産地であった大阪府堺市の丘陵部を中心として広がる陶邑古窯跡群から出土するものと比べてみると、全体の形はよく似ていますが、素地が粗い、厚さが分厚い、焼きが悪いなど、細かい部分で異なっています。このことから、交野市をはじめとする北河内のどこかで須恵器を焼いていたと考えられます。
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韓式系土器平底鉢
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管玉と臼玉
玉類には管玉と臼玉が見られます。管玉は緑色凝灰岩などで製作されていることからアクセサリーとして実際に使われていたと考えられます。 しかし臼玉は5ミリほどの非常に小さいもので、その原材料も滑石と呼ばれる、爪で引っ掻いても傷がつくような非常に柔らかい石材が使われていることや、ほかの遺跡では古墳や祭祀場などの日常生活の場所以外で大量に見つかっていることから、儀式やお祭りで使われる特殊な飾り玉であったと考えられます。
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須恵器高杯
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管玉と臼玉
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↑ 須恵器 甑(こしき)
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青山・老人介護施設が見えます、この辺り周辺が有池遺跡です。
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介護老人保健施設 青山
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有池遺跡 |
有池遺跡では14年度から大きく4回に分けて、3万3000平方メートルを超える広大な面積を調査しました。その結果、11世紀後半〜15世紀にわたる中世集落を発見し、集落構造の変化のみならず、集落をとりまく景観も復元できる好例となりました。
この集落一帯は、山麓から山すそに向けてヤツデの葉のように伸びる微高地と、その間に大小の谷が食い込む、扇状地特有の地形が見られます。全体を通じて見ると、微高地に居住地を構え、谷や谷に向けて緩やかに傾斜する部分を生産地として利用した点は変わりません。 ただ集落の出現当初は、農作業小屋と見間違えるような小規模な掘立柱建物がまばらに数棟あり、その周りに小規模な生産域があるような集落の単位が谷を挟んで点在するような状況でした。
ところが時が経つにつれて、居住域と生産域は徐々に面積を拡大させていきます。その中で飛び地状に新たな居住域も派生していきますが、集落の最盛期である13世紀後半〜14世紀には、面積の大きい微高地に居住域が統合されるとともに、居住域と生産域が明確に区分されます。このころにはたくさんの掘立柱建物が軒を連ねるように密に、整然と建ち並ぶ状況が見られました。
その中には周囲を濠で囲った、大きな母屋と、幾つかの脇屋からなる大型の屋敷があり、これが集落の中心だったと考えられます。おそらくこの地の土豪の屋敷だったと考えられます。 |
有池遺跡における居住域検出状況
有池遺跡の集落中心部分(居住域)
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遺跡名は「有池」と書いて「ありけ」と呼ばれています。古文書の記述から、もとは「有家」という漢字が用いられ、後世に「有池」に変化してからも、読みは残ったことがうかがえます。発掘調査の結果、姿を表した集落の様子は、まさに「有家」そのものでした。 有池遺跡も含めた一帯は、古代末から中世にかけて石清水八幡宮領にあたっていて、集落が最盛期へとむかう時期は、八幡宮が当時の権力者との結びつきを強め、発展する時期にあたります。
その時期に耕地開発や木材需要の増加に伴い、森林の減少と山からの土砂流出が増えたことがわかりました。環境の変化が集落の移転や改変につながり、その後は田んぼの中に小さなため池が点在する「有池」の景色へと変化したのです。 |
有池遺跡遺物 |
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有池遺跡の遺物 |
有池遺跡では、11世紀後半から15世紀にかけての集落跡がみつかり、それとともに碗や皿など当時の生活用品が大量に発見されました。 右の写真は建物の柱穴から見つかった13世紀前半代の土師器の皿類です。写真のように、2か所に分けられて積み重ねられたような状態で見つかったことや、これらの皿の合計21枚がほとんど完全に復元できることなどから、建物を取り壊す際の儀式などに使ったものを納めていた可能性があります。
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土師器皿
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瓦 器
右の写真は、瓦器と呼ばれる屋根瓦のような焼き方をした、当時の代表的な器です。光の方向を変えながら内側をよく観察すると、細かい線がたくさん見えます。これは「暗文」という瓦器独特の文様で、時代が新しくなるごとに粗雑になっていきます。 なお、瓦器はその特徴から、大阪府南部に分布する「和泉型」、大阪府北部に分布する「楠葉型」、そして奈良県に分布する「大和型」の3種類に大きく分けられます。有池遺跡では大和型と楠葉型が見つかっており、大和型瓦器は13世紀初めごろまでは一定量を占めていますが、それ以降はほとんど見つからず、楠葉型瓦器のみとなっていきます。このことから、有池遺跡の住人たちは、12世紀中ごろを境にして大和型から楠葉型へと取引先を変えたことがうかがえます。 そこには、当時の支配者の勢力関係や経済活動のほかにも、大和への主要交通路である磐船街道に近いという地理的要因なども深く関係していると考えられます。 展示会では、下の写真のとおり、12世紀から14世紀にかけて約200年の間に使われた瓦器や皿を年代別に並べています。ぜひ時代ごとの、形や大きさの変化や暗文が雑になっていく様子などをたどってみてください。 なお、展示されていませんが、有池遺跡からは中国製の白磁や青磁の碗や小皿の破片もわずかながら見つかっています。これらは、瓦器よりも格段に高級な器で、当時の有力者など一部の限られた人や、特別な行事の時に使われたもと思われます。
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瓦器と暗文 |
瓦器展示の様子
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有池遺跡 奥に老人施設が見えます |
有池遺跡 |
有池遺跡椀 出土状況
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道中、ちょうどフェスタが開かれおり、沢山の家族連れが見えました |
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倉治遺跡
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倉治遺跡は倉治1丁目付近に埋もれている遺跡で、周辺には古墳時代後期の倉治古墳群が存在していました。 今回の第二京阪道路建設に先立って行われた調査では、免除川の流れに押し流された大量の土砂により地中深く埋もれた場所から、弥生時代後半から近世にかけての次のような遺構・遺物が見つかりました。
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古墳時代中期
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南北7・4・、東西6・5・の範囲を小さい溝で区画した長方形の遺構が見つかりました。形からは竪穴式住居跡の可能性も考えられましたが、内側に柱穴や炉の跡がなかったことから、それとは別のものと考えられるようになりました。また、周辺からは下図に示すような古墳時代中期後半(5世紀中頃以降)の土器などがたくさん見つかりました。 市内でこれと同じ時期の遺跡としては、製鉄遺跡としてよく知られる森遺跡があります。このころは府内の南河内や和泉に古市古墳群・百舌鳥古墳群と呼ばれる巨大な前方後円墳が次々と作られている時期でもありました。 |
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長方形の遺構
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古墳時代後期
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この時代の地層には、特徴的な遺構は見つかりませんでしたが、遺物は、古墳時代後期(6世紀中頃以降)を中心とする土器がたくさん見つかったことから、この周辺に当時の集落が埋もれている可能性が高いという調査結果が得られました。 |
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中世〜近世
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周辺一帯が順に耕地化されていき、私たちが一昔前まで目にすることができた昭和の時代の風景が形作られていった様子が明らかにされました。 |
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倉治遺跡の遺物 |
倉治遺跡からは須恵器と呼ばれる灰色の土器が見つかりました。須恵器は5世紀前半に朝鮮半島から伝わったまったく新しい技術により製作された土器です。 左の写真の土器は、口径約18センチ、高さ約30センチもある甕です。水などの液体や穀物を貯蔵するために用いられたと考えられます。 右の写真の土器は、2つ合わせて蓋杯と呼ばれ、現在のふた付きのご飯茶碗に当たります。 下の部分は杯身と呼ばれ、口径約12センチ、高さが約4・8センチです。上の部分は杯蓋と呼ばれ、口径約12センチ、高さが約4センチです。みなさんの使っているご飯茶碗の大きさと比べてみてどうでしょうか。 これらの須恵器はいずれも5世紀後半のものと考えられます。
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須恵器 |
須恵器蓋杯(上が杯蓋、下が杯身) |
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石器 縄文時代
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免除川は綺麗に改修された |
免除川の流れは、第二京阪国道沿いを北へ |
左向こうに見えるのは、道路工事のため1/3が埋め立てられた源氏池
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免除川は、源氏池の手前で東から流れている |
目の前を、JR学研都市線の列車が通り過ぎました
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第二京阪道路工事のために埋め立てられて無くなった、
松塚下池付近にあった鐘撞き堂池の地蔵さん |
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源氏の滝から倉治の旧村落に向かう途中、2か所で阿弥陀如来さんを拝むことができます。そのうちの一つは、現在行われている第二京阪道路建設のために消滅してしまった鐘撞き堂池のほとりにあり、現在は第二京阪道路の橋脚の傍らで、工事車両を見つめておられます。 鐘撞き堂池という名前は、この池の水を放水する時に鐘を鳴らしたことに由来があると言われています。今はなくなってしまいましたが、この仏さんとともに池があったことやそれにまつわる話を後世に伝えていきたいものです。
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鐘撞き堂池の石仏さん |
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東倉治遺跡
東倉治遺跡は、東倉治1丁目一帯に広がっています。 この場所には、ここの東にある清水谷古墳があることや、警察学校の周辺に土器片が散布していたことから、遺跡があることが古くから知られていました。 今回の発掘調査では、大きく次の3つに分けられる時代の遺構・遺物が見つかりました。
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弥生時代後期〜古墳時代前期
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弥生時代後期(3世紀)の円形竪穴式住居が1棟見つかったほか、古墳時代前期(4世紀)の穴が見つかりました。この穴は、中に炭が詰まっていたことから炉の跡だと考えられています。 また、これらの時代の土器が多く埋没した谷も見つかり、その中には数多くの土器や、左の写真のようなガラス製の小さな玉や、棒状に加工した石の真ん中に穴を開けた管玉と呼ばれる当時のアクセサリーも含まれていました。この時代はちょうど邪馬台国の女王、卑弥呼がいた時期と重なります。 |
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ガラス玉、管玉
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東倉治遺跡 警察学校側
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東倉治遺跡 変電所西
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弥生時代後期(3世紀)の円形竪穴式住居が1棟見つかった
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古墳時代後期〜飛鳥時代
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遺跡から、火を受けたために壁面が真っ赤に焼け、底に炭の溜まった四角と丸い形をした穴が見つかりました。
小さな土器片しか見つからなかったため、遺物からくわしい時代の特定はできませんでしたが、炭を放射性炭素年代測定法という理科学的方法で分析した結果、古墳時代後期(6世紀前半)〜飛鳥時代(7世紀中ごろ)のものであることが判明し、この時代の人が残した、たき火の跡だと分かりました。
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東倉治遺跡のたき火跡
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飛鳥時代以降
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飛鳥時代から後に、厚い砂のたい積が見られました。 このことから、付近で数回にわたる土砂災害が起こったことが分かります。それらの土砂がたい積していく途中の地層からは、平安時代の土器や中世の犬の骨、畑の跡などが見つかり、やがて現在の地形になっていったことが分かりました。 |
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ここから、側道の東川へと歩きました |
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額縁のトンネルをでると交野山が目の前に |
見事な額縁の風景です! |
向こうに見えるのは、関西電力・倉治変電所(倉治古墳群跡)
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ハゼの大木、花が満開 |
津田遺跡のことも解説頂きました
地元に伝わるまばろしの寺「円通寺」の姿をかいま見るような建物跡や多数の青磁碗や皿などを副葬
した墓のほか、金属や土で作られた仏像などがでてきました。その他、弥生時代中期の竪穴住居や、戦
国時代の堀や土塁をめぐらせた館もみつかり、この場所が非常に重要であったことが判りました。
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第二京阪国道巡りは、清水谷古墳へ通じる道路を最後に、
大阪府警察学校前を通り、倉治歴史民俗資料室に向かって歩きました。 |
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市政施行40周年
七夕伝説と星の信仰
中国で生まれたの七夕伝説が日本でどのように受け入れられ
変化していったのかを交野市内に残る史料や出土品を通じて紹介します。
《展示品》 機物神社宮司選出神籤
金丸又左衛門役地図 茄子作遺跡出土織機部材(公益財団法人大阪府文化財センター所蔵) 等
問い合わせ歴史民俗資料展示室(電話810−6667)まで。
開催期間 7月6日(水)から8月14日(日) 開室時間 10時〜17時(入室は16時30分迄) 休室日 月・火曜日・祝日
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資料室の玄関口、大きな「おりひめちゃん」に迎えられる |
暑い中、良くいらしゃいました! |
機織りが実演されている |
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金丸又左衛門役地図 |
七夕・乞巧奠 |
おりひめちゃんと星のあまん |