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歴史健康ウォーク  119回
第二京阪道路側道巡り
星田駅から寝屋・太秦・大尾・高宮・小路遺跡まで



案内人:高尾秀司氏(交野古文化同好会)

高尾氏のご厚意で沢山の貴重な資料及び写真を提供頂きました。
また、当日の写真は平田副会長から提供いただきました。

 日時 : 2011年12月10日(土) 午前10時 JR星田駅集合  参加者 32名

 行程 : JR星田駅 → 寝屋長者屋敷跡 → 第二京阪国道の側道 → 寝屋東遺跡 → 寝屋南遺跡 

       →  奥山遺跡(奥山1号墳) → 太秦古墳群 → 太秦遺跡 → 大尾遺跡 → 高宮遺跡 →

       小路遺跡 → 讃良郡条里遺跡 → 大正寺 → 忍陵神社・忍岡古墳 → JR忍ヶ丘駅
                     
                                     解散12時30分 約6km徒歩 
 2011年12/10(土)、天候晴れのち曇り。JR星田駅に集合、午前10時出発。
平田副会長の挨拶の後、JR星田駅を出発して第二京阪道路の側道を寝屋〜寝屋川公園〜高宮〜小路まで、そこから南下して〜JR忍岡駅まで高尾秀司氏の案内で、側道周辺の遺跡の解説を聞きながらゆっくりと歩いてきました。本日の参加者は広報他ふるさと講座などで案内を事前に聞かれた方を含めて、総勢32名の元気な皆さんでした。

 朝から今年一番の冷え込みで心配された天候もまずまずの良い天候に恵まれ、最後まで皆さん元気に参加されました。今回歩いた寝屋川地域では、遺跡を復元して全体を公園化し、広く市民に公開されており、素晴らしい遺跡保存のモデルだと感心しました。

※寝屋川市教育員会及び大阪府文化財センター作成の資料を参照させて頂きました。
  記して、感謝申し上げます。
当日のレジメを改めて作成していただきました!
第二京阪道路側道及び周辺遺跡めぐり (PDF) 高尾氏作成

行 程
JR星田駅⇒寝屋東遺跡⇒寝屋南遺跡⇒奥山1号墳⇒太秦古墳群⇒
太秦遺跡⇒大尾遺跡⇒高宮遺跡⇒(参考・蔀屋北遺跡)⇒小路遺跡⇒
讃良郡条里遺跡(讃良川遺跡含む)⇒大正寺⇒忍陵神社⇒JR忍ケ丘駅(解散)
当日の第二京阪国道沿い散策マップ

平田副会長の元気な挨拶から始まりました

案内人・高尾秀司さん、本日も元気に案内いただきました

復元された太秦古墳の前で記念撮影

今回の復元した古墳は、調査地西側で見つかった18号墳(一辺約9mの方墳)をもとに、
盛り土部分を復元して、築かれた当時の状態を再現しました。
(寝屋川市教育委員会の説明板より)



 第二京阪道路建設に伴う財団法人大阪府文化財センターの発掘調査では、25基の小型の古墳が密集して見つかりました。
 多くの古墳は一辺が10m程度で上から見ると四角い形の古墳(方墳)です。いずれの古墳も、後世の造成工事等によって墳丘(盛り土部分)は失われており、死者を埋葬した部分(埋葬施設・主体部)は不明です。埴輪が見つかっているのは2基の古墳だけで、お供え用と考えられる土器だけが見つかった古墳は16基あります。
 土器や埴輪が出土しなかった古墳も7基見つかりました。近くにある太秦高塚古墳(造り出しを持つ円墳・直径37m)とは規模や内容に大きな違いが認められます。(太秦高塚古墳は9月29日のブログ)太秦古墳群に葬られた人々は、高塚太秦古墳の被葬者よりも社会的に低い階層の人々だと想像できます。
今回の復元した古墳は、調査地西側で見つかった18号墳(一辺約9mの方墳)をもとに、盛り土部分を復元して、築かれた当時の状態を再現しました。
  (寝屋川市教育委員会の説明板より)




第二京阪国道の側道を歩く
星田駅から北へ、山根街道を進み水道道を渡ったところに、
「史跡・寝屋長者屋敷跡」があります。
史跡・寝屋長者屋敷跡
                            お伽草子『はちかづき草』 
 河内の国交野郡に寝屋長者といわれた寝屋備中守藤原実高という人がいた。夫婦円満だが、二人の間に子どもがないのがただ一つの不足であった。夫婦は大和の長谷寺の観音にきがんして、美しい一人の女子を得た。両親の愛にすくすくと姫は育ち、学問・芸事にいそしんでいた十三歳のとき、母は病気になって死ぬのだが、その直前にわが子の頭に、何やら物をのせ、その上に大きな“はち”を冠らせて、“さしも草深くぞたのむ観世音ちかひのままにいただかせぬる”と歌を詠むのであった。母の葬式にもその後も、どうしても“はち”は姫の頭をはなれない。体の一部のようにきちっとくっついてはなれないのである。父は人々のすすめで後添いをもらったが、この人が優しかったら、この話はおこらなかっただろう。その逆で、気質のきつい人であって妹ができてからは一層高ずるのであった。夫にいろいろつげ口をして、ついに「はちかづき」を屋敷から追い出してしまった。「はちかづき」は行くあてもなく道を歩いていると、大川の辺りにきたので見るともなく水の流れを見ると、その底から亡き母が呼んでいるように見えたので、身をおどらせて川に飛び込んだが、かずいている“はち”が邪魔になって沈まない。流れのままに流れていたが、漁師の手で岸にほうり上げられた。川岸に上げられた「はちかづき」は、また堤を歩くのであった。そして、山陰三位中将という公家の一行にあい、このような者が邸内にいるのも一興だと、屋敷へ連れて行かれ湯殿番をすることになった。いままでしたこともない水汲み、まき割りから、湯わかしと、なかなかの労働だったが、「はちかづき」は懸命につとめた。この邸の四男の御曹子宰相(さいしょう)の君と、ある夜、湯殿で一度の出会いなのに、相思相愛の仲となった。ばけ物のような「はちかづき」と、御曹子との恋仲は邸中に広まり、両親の耳にまで聞こえたので、邸の名折れだから二人を離れさそうと「嫁くらべ」なる行事を計画された。そんな晴れがましい席に出られる自分でないことを知っていた「はちかづき」は邸を出ようとすると宰相の君も出るといってきかない。二人が一歩踏み出すと、「はちかづき」の冠っていた“はち”が前に落ち、金、銀、宝物に、いろんな衣装まで山と出てきた。それに“はち”のとれた姫の顔の美しいこと、宰相の喜びは大きかった。こうして、たくさんの物が出て、“はち”がとれたのだから、邸を出なくなってもよいこととなり「嫁くらべ」に出席することにした。「嫁くらべ」を上々の首尾で終えた姫は、両親の殊の外お気に入りとなって、宰相の君との結婚を許され、財産分配で宰相の君は相続者となり、宮中に出仕し、追々出世をするのであった。二人の間には三人の子どもができ、かく幸福にあるのも長谷の観音のお蔭とお礼をし、そこで父寝屋実高の修行僧姿に会い、喜び語り合うのであった。
      (寺前治一氏「寝屋長者はちかづき」より)


山根街道沿いの壁画
寝屋東遺跡
谷と谷とに挟まれた丘陵上から飛鳥時代から奈良時代の掘立柱建物が営まれていました
飛鳥時代(7世紀)〜奈良時代(8世紀)ころの掘立柱建物15棟以上が見つかりました

交野山が背後に見えます!

国道壁面に「鉢かづき姫」が掲示されている
寝屋南遺跡
飛鳥時代の掘立柱建物跡がみつかり、この時期に付近の開発が始まったとも考えられます

右遠方に「ホームセンター・ビバ」が見えます。
奥山 1号墳
古墳時代後期の円墳がみつかりました。上部を大きく削られていましたが、埋葬施設はこの地域では
珍しい横穴式石室でした。内部には土器や鉄製武器類、ガラス玉などのアクセサリーのほか、耳飾りが
11点もみつかつたことから、最低でも6人が葬られていたことが判明しました。
太秦古墳群(多数の小型の古墳)
太秦元町・太秦緑が丘・太秦東が丘・太秦中町・太秦高塚町のあたりは海抜50m前後の小高い丘陵になっています。現在は消滅してしまいましたが、この丘陵には廻シ塚(まわしづか)古墳のような古墳があったことが知られています。また小金塚・向ヒ塚・高塚・モロ塚など古墳と関連する地名が残されており、多くの古墳が存在したことが推察されます。近年の住宅開発等に伴う発掘調査で、鏃、鉄刀、埴輪、須恵器など古墳にかかわる遺物が採集されています。第二京阪道路建設に伴う財団法人大阪府文化財センターの発掘調査では、25基の小型の古墳が密集して見つかりました。多くの古墳は一辺が10m程度で上から見ると四角い形の古墳(方墳)です。いずれの古墳も、後世の造成工事等によって墳丘(盛り土部分)は失われており、死者を埋葬した部分(埋葬施設・主体部)は不明です。埴輪が見つかっているのは2基の古墳だけで、お供え用と考えられる土器だけが見つかった古墳は16基あります。土器や埴輪が出土しなかった古墳も7基見つかりました。近くにある太秦高塚古墳(造り出しを持つ円墳・直径37m)とは規模や内容に大きな違いが認められます。(太秦高塚古墳は9月29日のブログ)太秦古墳群に葬られた人々は、高塚太秦古墳の被葬者よりも社会的に低い階層の人々だと想像できます。今回の復元した古墳は、調査地西側で見つかった18号墳(一辺約9mの方墳)をもとに、盛り土部分を復元して、築かれた当時の状態を再現しました。 (寝屋川市教育委員会)

復元された方墳


墳丘盛土部分は失われていましたが、一辺あるいは直径が6〜14mの
小型の方墳が23基・円墳が2基見つかりました
太 秦 遺 跡
丘陵上の弥生時代の集落
丘陵上に弥生時代中期(紀元前1〜2世紀)の竪穴住居が30棟以上が見つかり、
大きな村の後である事がわかりました。住居の中からは土器や石器のほか、
ヒスイの勾玉も含まれており、当時の広い交流がうかがえます。
大 尾 遺 跡
河内平野を望む丘陵先端部に営まれた弥生時代中期のお墓と、飛鳥から奈良時代にかけての集落跡が
見つかりました。時期からみて、前者は太秦遺跡の集落と、後者は高宮遺跡に関連すると考えられます。
復元された、方形周溝墓
高 宮 遺 跡
丘陵の斜面から平野部にかけて広がる場所で、奈良時代の非常に大きな掘立柱倉庫が
5棟整然と並んでみつかりました。その規模や配置状況からみて、一般の集落に伴うものとはみなされず、
北側に隣接する高宮廃寺あるいは当時の役所に付随する施設であった可能性が高いと考えられます。
1辺1mを越える大きな柱穴をもつ大型の掘立柱建物が5棟並んで見つかりました。
床下にも柱をもつ構造で、高床の倉庫に復元できます。
北西側の丘陵上にには飛鳥時代(7世紀後半)創建の古代寺院の
高宮廃寺跡(国指定史跡)があり、両者の関係が注目されます。
小 路 遺 跡
古墳出現期の墓
丘陵から下がった平野部に立地し、古墳時代では初頭に築かれた前方後方形の周溝墓が分布の中心を
はずれたこの地域でみつかったこと、奈良時代では疫病神を払うために用いられた人面墨書土器や、願
掛けに使用された絵馬がそれらを流した流路から大量にでてきたことで注目を浴びました。
古墳時代初頭の墓域が見つかり、中央部で見つかった全長22.7mの
大きな墓は前方後方形で、前方後円墳出現前の墳墓として注目されます。
小路遺跡では、讃良郡条里遺跡のことなどを詳しく説明を受けた後、
ここから河内街道を南下して、忍岡古墳へと向かった。途中、讃良川を渡る。

11/21 下見に大正寺を訪れました。 高尾氏
大 正 寺
松風山・大正寺(だいじょうじ)は、鎌倉時代に、法然上人のお弟子さんであった西仙房心寂上人が
この大正寺の地に庵をたてたのが始まりです。観音堂に安置されている聖観世音菩薩は、、
讃良寺が廃れた後、大正寺へ祀られたと言われ、平安時代初期藤原時代のものと伝えられている。

観音堂に安置されている聖観世音菩薩は、、
讃良寺が廃れた後、大正寺へ祀られたと言われ、
平安時代初期藤原時代のものと伝えられている

忍陵神社・忍岡古墳
忍岡古墳(しのぶがおかこふん)】 四條畷市岡山
 JR学研都市線「忍ケ丘」駅から200mほど西へ行くと、左手に小高い丘陵が見え、その頂上部にある。 忍陵神社で、ここが忍岡古墳である。
昭和9年9月の第1室戸台風によって忍陵神社が倒壊した。その後復旧工事が行なわれ、昭和10年4月拝殿整地中に竪穴式石室が発見された

 石室の規模は、幅1m,長さ6mで板状割石を内面に揃えて小ロ積みしたもの。この忍陵古墳は、忍ケ丘丘陵の突端部の景勝地に築造したものである。北向きの前方後円墳で、全長87m、後円部径45m、高さ6mの規模で、石室内から石釧、紡錘車、鍬形石、剣、斧、刀子が出土している。
 これらの出土遺物や石室・古墳の形から古墳時代前期につくられたと推定されている。
 北河内で同時期の古墳として、枚方市の万年寺山古墳、藤田山古墳、交野市の妙見山古墳があげられる

忍陵神社(しのぶがおかじんじゃ)
 忍岡古墳の後円部に建てられているのが忍陵神社である。社伝では、1200余年前より四條畷の岡山、岡山東、砂地区の守護神 熊野皇大神・藤原鎌足公・大将軍神・馬守大神を祭祀としてきたと伝える。(延喜式内社)

近世、大阪夏の陣では、2代将軍徳川秀忠の本陣が設営され勝利したので御勝山と称された。
同日、初代将軍家康は本陣を星田平井家および新宮山に設営し大阪城を目指した。

【讃良川(さらがわ)の遺跡】
 忍岡古墳の北側、寝屋川市南端の台地との谷間に流れる川が讃良川である。
東の山々にその源を発して、門真市巣本附近で寝屋川に合流しているが、昔はこの丘陵の谷間を自由に流路を変えて流れ、西の平地にいたって天井川を形成していった。
 この讃良川畔一帯は、旧石器、縄文後・晩期、古墳時代、白鳳時代に創建されたと推定される更良寺等々の遺跡が重なりあった貴重な地域である

忍岡古墳
当日のレジメを改めて作成していただきました!
第二京阪道路側道及び周辺遺跡めぐり (PDF) 高尾氏作成

行 程
JR星田駅⇒寝屋東遺跡⇒寝屋南遺跡⇒奥山1号墳⇒太秦古墳群⇒
太秦遺跡⇒大尾遺跡⇒高宮遺跡⇒(参考・蔀屋北遺跡)⇒小路遺跡⇒
讃良郡条里遺跡(讃良川遺跡含む)⇒大正寺⇒忍陵神社⇒JR忍ケ丘駅(解散)
12時30分、JR忍ケ丘駅で解散。
高尾さん、丁寧なご案内有難うございました。

 次回は、第120回歴史ウォーク、2012年1月2日(祭日)
「新春恒例の初歩き、交野山〜機物神社で初詣」です。
  集合は、いきいきランド噴水広場 午前10時集合です。 

最後までご覧いただき有難うございました

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