京阪枚方市駅9:30→伏見桃山駅→魚三楼→御香宮神社→伏見奉行所跡→濠川沿い→長建寺→
伏見港公園(見学・散策・昼食)→月桂冠大倉記念館→寺田屋→石碑・市電発祥の地→西岸寺→
大黒寺→石碑・銀座発祥の地・両替商発祥の地(確認)→京阪伏見桃山駅15:00
2004.6.12(土)午前9時30分、京阪枚方市駅中央コンコースで集合。天候曇り時々雨。時間通り元気な20名の顔が揃った。交野歴史健康ウォークは発足後第64回目を迎え、今回のウォークは、交野古文化同好会のメンバーである吉岡一秋氏の企画立案で、自ら講師役も引き受けて頂き、新緑の京都・水運のまち・街道のまち・伏見を幕末の歴史を中心に「哀れ散り行く新選組」をテーマに案内して頂きました。
雨上がりの濠川の川端には、色とりどりの綺麗な紫陽花の花が咲き乱れ、我々遠来の旅人の目を癒してくれた。きっと、川端近くの気持ちの優しい方々が丹精込めて育てて下さった花なのだろう。雨に濡れた紫陽花は一段と見事だった。観光船「十石船」の乗り口付近で、通るだけで福が授かるという長建寺に寄った後、昼食は伏見港公園で三十石船を見ながら頂いた。
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伏見城が秀吉によって築かれ濠川が整備され、淀川三十石舟をはじめ 大小の船が行き交う港町として栄えた。川端には色とりどりの紫陽花が 見事に咲き、遠来の旅人を暖かく迎えてくれ、柳と濠川を背に記念写真。 |
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戊辰戦争の勃発の切っ掛けとなった鳥羽・伏見の戦いは、島津式部を大将に参謀は吉井幸輔が御香宮神社に陣をしき、北西2.5キロにある城南宮(鳥羽離宮址)も薩摩軍の陣地となり、約800名(8個小隊)の薩摩藩兵が、伏見の町を東西にはしる大手筋を境に、百数十メートル先の伏見奉行所を本拠とする会津藩兵・新撰組等1千500人と対峙しました。 鳥羽・伏見の戦いは、城南宮方面(鳥羽)よりの砲声を合図にするように御香宮の東側高台にある龍雲寺からの薩摩砲兵隊の正確な射撃が、伏見奉行所を本営とする会津砲兵隊に行われました。(旧幕軍の総兵力は3万人とも言われています。) 旧幕府軍側は大砲陣地を潰されると、手出しも出来ない甚大な被害を受け、特に新撰組は壊滅的な情況となり、抵抗もままならない事態となります。その後新選組や会津藩兵は伏見の各地に火を放って淀方面へと敗走していきます。しかし、追撃する薩摩藩兵の更なる攻撃に耐え切れず、大阪方面へと落延びていきます。哀れ散り行く新選組・・・。 |
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料亭「魚三楼」の出格子に残る弾痕 料亭「魚三楼(うおさぶろう)」創業200有余年という京料理の老舗。京阪伏見桃山駅から徒歩1分。慶応4年(1868年)1月3日、薩長軍と幕府軍による鳥羽伏見の戦いがはじまった。伏見では御香宮神社に薩摩軍が、南側の伏見奉行所には新選組や会津藩兵をふくむ幕府軍が陣取り、対峙していた。薩摩軍が大砲を打ち込むなど激しい戦闘が行われ、奉行所は炎上した。奉行所西側の料亭「魚三楼」には、表格子を貫く弾痕が今も生々しく残っている。奉行所跡は現在の桃陵団地のあたりで、奉行前町、西奉行町、東奉行町の地名を現在に伝えている。 |
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料亭「魚三楼」の出格子に残る弾痕 (右上写真)↑ | |||||||||||||||||||||||||||
御香宮神社(ごこうぐうじんじゃ) 拝殿 | |||||||||||||||||||||||||||
初めは、「御諸神社」と称していたが、平安時代貞観4年(862)にこの境内から「香」の良い水が湧き出たので、清和天皇より「御香宮」の名を賜った。現在も本殿東側から名水百選・伏見の七名水に数えられる「御香水」が湧き出している。徳川頼房(水戸光圀の父)が寄進した表門、徳川家康によって建てられた本殿は、国重要文化財。拝殿は、京都府指定文化財である。 慶応4年(1868年)正月、伏見鳥羽の戦いで薩摩藩の屯所となり、薩摩軍は5門の大砲を備えて、新選組が屯所としていた眼下の伏見奉行所に砲弾の雨を降らせました。御香宮蔵の『戊辰東軍戦死者霊名簿』には、新選組の戦死者24名の名も記されています。 |
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鳥羽伏見の戦いの話をされる吉岡さん | 明治維新 「伏見の戦跡」 | ||||||||||||||||||||||||||
明治維新 「伏見の戦跡」 内閣総理大臣佐藤栄作書(上写真の文) (御香宮神社境内に設置されている) 慶応3年12月9日 王政復古が発せられるや京洛の内外は物情騒然として朝幕の間に一触即発の陰悪な空気が漂った。ところが7日の明方、当社の表門に徳川氏陣営と書いた大きな木札が掲げられた。祠官三木善郷は早速社人を遣して御所へ注進すると翌日薩摩藩の吉井孝助が来てこの札を外し、ここに部隊を置いた。やがて年が明けて慶応4年正月2日、徳川慶喜は大軍を率いて大阪より上洛せんとし、その先鋒は翌3日の午後伏見京橋に着いた。そこでこれを阻止せんとする薩摩藩との間に小ぜり合いが起こった。その折しも鳥羽方面から砲声が聞こえてきたので、これをきっかけに当社の東側台地に砲兵陣地を布いていた大山弥助(大山巌)の指揮により御香宮と大手筋を挟んで目と鼻の先にある伏見奉行所の幕軍に対し砲撃を開始した。これに対し土方歳三の率いる新選組は砲撃の火蓋を切って応戦し、一方、久保田備中守の率いる伝習隊は官軍の前衛部隊を攻撃して奇効を奏し官軍を塁梁まで撃退した。しかし翌4日軍事総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰親王は錦の御旗を翻して陣頭に立たれたので官軍の志気大いに振い、そのため幕軍は淀に撤退した。一方鳥羽方面の官軍も一時苦戦に陥ったが錦の御旗に志気を盛り返し、幕軍を淀から更に橋本に撃退し、遂に幕軍は大阪に敗走した。 かくて明治維新の大業はこの一戦に決せられたのである。即ち我国が近代国家に進むか進まぬかは一に繋ってこの一戦にあったのである。この意味において鳥羽伏見の戦は我が国史上否世界史上まことに重大な意義を持つわけである。 |
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「遠州ゆかりの石庭」と親しまれる御香宮の庭園 御香宮神社の庭には、戦火で表面が焼けた石や変色した手水鉢が見られる。もともと、初代の伏見奉行だった小堀遠州が元和9年(1623年)、伏見城の礎石などを利用し作った奉行所の庭にあったものである。戦火に遭った石材を御香宮が譲り受け、新たに作庭されたもので昭和36年(1961年)に完成、「遠州ゆかりの石庭」として親しまれている。庭園の手前の水船には「文明9年」(1477年)の銘が刻まれている。 |
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伏見奉行所は、現在の桃陵(とうりょう)団地一帯で、石垣に囲まれた中にあったと言う。 団地の入り口に石碑「伏見奉行所跡」がある。1623年(元和9年)小堀遠州が初代で、畿内8国を支配していた。その規模は広大で、指月の森を背景に宇治川に面した風景は、絶景といわれている。 |
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酒蔵を模した伏見区桃陵団地 | |||||||||||||||||||||||||||
伏見奉行所跡を示す石碑 (伏見区西奉行町の桃陵団地入口) |
維新戦跡 伏見区桃陵町(桃陵中学校内) この石標は、慶応4(1868)年正月3日 勃発し、翌年夏まで続いた戊辰戦争 の発端となった鳥羽伏見戦跡を 示すものである。 |
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今も桃陵(とうりょう)団地の石垣に当時の面影を偲ぶことができる |
水運の町・伏見 |
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濠川に浮かぶ観光用の十石船 文禄3年(1594)、豊臣秀吉が伏見城を築き,淀川を巨椋池から切り離し城山の真下へ迂回させ、城の外濠として構築させた。酒蔵の多くは、この濠川に接して建てられ、明治の終わり頃まで、米・薪炭・樽材などの原材料がこの濠川を上下する十石船で運ばれていた。 大倉記念館の裏に回れば、濠川が流れ柳や雪柳がきれいです。春と秋の土、日、祝日には、伏見港公園と月桂冠大倉記念館の南側を十石船で往復することができ、酒蔵などの風景を楽しむことができます。 |
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伏見港の三十石舟 | |
伏見港は昔「伏見の浜」と呼ばれて、伏見桃山城が築かれた頃から第2次世界大戦まで、淀川舟運の基地だったのです。とくに江戸時代には、おなじみの三十石舟や高瀬舟などが往来して、伏見は港町として大いに栄えたといわれます。 明治に入っても、なんと外輪船が就航、数社が川蒸気を走らせたとか、その後東海道本線が開通したり、京阪電車が走り出したり、交通の近代化とともに、舟運は衰退しました。戦時中は軍用として港が整備されましたが、戦後の陸上輸送の発展とともに昭和30年代半ばで、港としての機能は幕を閉じたのです。その後を埋め立てたのが伏見港というわけ……(府民グラフ14号より抜粋) 伏見城築城にともなう河港整備によって水上交通が注目され、江戸時代から明治時代にかけて淀川の舟運が活発になっていった。1614年(慶長14年)には、角倉了以(すみのくら・りょうい)により京都二条から伏見を結ぶ高瀬川が開削され、宇治川、淀川を経て大坂までが水上交通で結ばれた。伏見はその中継点となり、京の街への入り口、淀川舟運の拠点として栄えた。 江戸時代の伏見港には、三十石船、二十石船、十五石船、高瀬船など2千隻もの船舶が往来していた。これらは幕府公認の通航証を持った過書船(かしょぶね)だった。淀川の航路では、上流の伏見へは1日、下流の天満橋へ半日の行程だった。上方落語「三十石船」は当時の船旅を題材にしたもので、船頭の舟歌や物売りの口上も交え、船に揺られながらののどかな旅気分を彷彿とさせる。大倉酒造の旧本社から西側にあたる南浜の一帯は旅客でにぎわい、船宿が軒を連ねていた。旅客だけでなく米や酒、薪などの物資も往来し、浜辺では運送業者の馬借(ばしゃく)が積荷を取り扱っていた。 |
伏見は「伏水」と記されたように,昔から良質の地下水に恵まれていたこと,"京の底冷え"と言われる厳しい気候とが相まって,昔から酒造りが盛んで兵庫県の灘と並ぶ二大銘酒処として知られている。 酒造りの街、伏見。月桂冠をはじめとした白壁に板張りの酒蔵のある街並みは雰囲気があります。月桂冠の大倉記念館では、酒造りの行程を見た後、お酒の試飲もできおみやげもついてきます。お酒好きの方はぜひどうぞ〜。 |
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大倉記念館の裏に回れば、濠川が流れ柳や雪柳がきれいです | |||
絵画にも採り上げられことも多く、気持ちも和む酒蔵と柳の雰囲気が良い! | |||
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大倉家本宅(文政11年、1828年築) |
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維新の先駆け |
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と 寺田屋は坂本龍馬が定宿として知られる、幕末の寺田屋騒動の舞台。2階には、刀傷の痕が残る柱があり、龍馬の居部屋だった「梅の間」には女将お登勢が街の画家に描かせたという遭難直前の龍馬の肖像画が掛けられている。 文久2年(1862)4月23日の寺田屋騒動は、島津久光が1千名の薩摩藩兵を率いて上京したことから始まります。 この時急進派の薩摩藩士を含浪士など百数十人の尊攘派が集まり、関白九条尚忠と所司代酒井忠義を襲撃して、相国寺獅子王院に幽閉された尊融法親王をお助けして島津久光に詔りを賜り幕府を誅伐するとの過激な計画を実行しようとして寺田屋に集まっていました。 そこに、公家方よりの通報を聞いた島津久光は、計画を中止させるために藩の鎮撫使を派遣し、説得して計画を中止させるよう命じました。 しかし、鎮撫使側は上意討ちの許可が出ていたため、藩邸への同行を頑なに拒否した急進派藩士の有馬新七以下8名を、その場で斬殺せんと及んだため、激しい剣戟を伴う乱闘になり鎮撫使側も1名死亡、多数の負傷者を出しました。また、急進派側の藩士もその場で6名が死亡、2名の重症者(翌日藩命に背いた罪で切 腹)を出し、4月27日には1名が自刀して果て、これを加え9名の死者を出してしまいました。 遺体は、伏見の呉服屋、井筒屋伊兵衛(斎藤酒造「英勲製造元」の4代前)とその手代数名が駆けつけ、 白木綿で包み大黒寺に葬ったとされています。この大黒寺は、寺田屋より700〜800メートル北にある藩の菩提寺で、九烈士の墓には、西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建っています。西郷は泣きながら亡き同士たちの為に、大黒寺の墓碑を書いたとされています。 藩はこの時、同士討ちを恥じると共に、迷惑をかけた寺田屋には、乱闘で破損した家財を即日に修復をさせると共に大金を渡し他言を禁じたそうです。 |
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大黒寺(寺田屋事変九烈士の墓) | |||
この大黒寺は、寺田屋より700〜800メートル北にある藩の菩提寺で、九烈士の墓には、西郷隆盛の筆による墓碑が一緒に並んで建っています。西郷は泣きながら亡き同士たちの為に、大黒寺の墓碑を書いたとされています。 | |||
日本最初の電気鉄道である京都電気鉄道株式会社の伏見線は、明治28(1895)年に開業し、この地を起点・伏見町下油掛より京都駅までの約6kmを走った。この石標は、電気鉄道事業発祥地として伏見線の起点を示すものである。(伏見区油懸通り) | |||
西岸寺・油懸地蔵(あぶらかけじぞう) 昔、山崎(乙訓郡山崎町)の油商人がこの地蔵尊の門前でころんで油桶を落とし油を流してしまった。大切な油を失って落胆したが、残った油を地蔵尊にかけて供養し行商したるところ商運大いに栄え大金持ちになったという。以来、地蔵尊に油をかけて祈願すれば商売繁昌、願望成就、家内安全と特に商家の信仰を集め、油懸地蔵尊と称するようになった。 |
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らーめん玄屋 ラーメン専門店 名物は酒粕ラーメンで、ファンも多いという |
大黒寺 有馬新七以下九烈士の墓の前で |
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京阪伏見桃山駅前の大手筋商店街 の一角に伏見銀座跡の石碑は建っている |
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