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交野歴史健康ウォーク 第48回
石仏五百羅漢と伏水街道石柱を訪ねて
伏見街道を歩く
京都市伏見区 徒歩 約8km

京阪枚方市駅9:50墨染駅→藤森神社→瑞光寺→石峰寺・五百羅漢→
深草墓園(昼食)→ぬりこべ地蔵→伏見稲荷神社→東福寺→泉涌寺→京阪東福寺駅15:00


 2003.5.24(土)午前9時50分、京阪枚方市駅中央コンコースで集合。天候晴れ。小学4年の小川君を始め、時間通り元気な20名の顔が揃った。交野歴史健康ウォークは発足後第48回目を迎え、初めて交野市から離れて近郊の京都の伏見街道へと踏み出しました。参加されている皆さんのご意見により、2ヶ月に1回は、近隣に出掛けることとなった。
 
 今回のウォークは、交野古文化同好会のメンバーである吉岡一秋氏の企画立案で、自ら講師役も引き受けて頂き、新緑の京都・伏見街道を案内して頂きました。伏見街道に今も残る町並み
 江戸時代、東海道の延長である京街道は大津宿から京廻りではなく山科追分から伏見深草へ抜け、伏見宿を経て大阪へと向かっていた。伏見街道は、東海道54次の宿場町・伏見宿を通る、今も古い町並みが残る歴史街道である。

 京阪墨染駅で下車、直ぐ東側を南北に走っている伏見街道に出て北へ5〜6分歩くと「馬と勝負の神様」・藤森神社に着く。この神社の歴史は古く、約1800年前、神功皇后により創建されたと言われ、本殿は中御門天皇より賜った。競馬関係者(ファンを含む)がよく参詣する神社らしく沢山の競走馬の額が掲げられていた。花菖蒲の時期には早く、境内は閑散としていた。
 街道沿いの神社の大きな石の鳥居の前で、吉岡さんから、これから歩く伏見街道には伏水街道(ふしみかいどう)と彫られた石橋が四つあり、その内の三、四を訪ねること、また、伏見街道は京都五条を基点にして南の大和へ続いているが、京と伏見の境界を示す本町22丁目を探すこと、また街道筋には往時を偲ばせる古い町並みも残っているので確認すること、道は一方通行であるが車・単車などには充分に気をつけて1列で歩くこと、などウォークの注意点の説明があった。
 暫く歩くと、伏水街道・第四橋に出会った。成る程、石柱には伏水街道第四橋とはっきりと彫られており、平田さんからこちらから写真を撮ったらと声がかかり、川の脇道に下りてみると橋が見事な真円タイプで大変珍しい造りであった。この橋を直違橋(すじかいばし)と言い、町の表示が川より北が直違橋北1丁目である。珍しい橋を見たり、読めない字を発見するのもウォークの楽しみである。
 京阪藤森駅を跨ぐ名神高速道路の下を通り過ぎ、聖母学院本館前に出ると、赤レンガ造りのエキゾチィクな建物が目に付いた。思わず、「凄い建物が残っているなぁ」と歓声を上げる。明治40年(1907)に建てられた第16師団司令部の建物だった。
石峰寺の赤い唐門
 元政上人旧跡という標識を右折してJR奈良線を潜ると、右手に質素な茅葺屋根の瑞光寺があった。宝塔寺を過ぎ静かな細い路地を行くと、「百丈山石峰禅寺」と彫られた石柱が立っており、石段を登って行くといかにも禅寺を思わせる赤い門が見えた。正面に本堂、寺務所で拝観料を支払い、羅漢参道の石段を登り赤門をくぐると、一面竹林の中に数知れない羅漢像が見えた。
 五百羅漢は、江戸時代中期、伊藤若冲が描き10年掛けて石工に彫らせたという。自然石に刻まれた、ユーモラスな顔の中に自分に似た顔を捜した。これだと思い当たるものは見つかりませんでしたが、悩んでいる顔、口をあけて笑っている顔、とぼけた顔、苦虫をつぶした顔、無念無想にふけっている顔、一心に祈っている顔、そんな顔に出会って何故か心を惹かれるものを感じた。
誰かが、「あぁ、村田さんの顔だ!」と言われた顔は、彫られた石が磨耗してどことなく笑っているように見えた。

平田さんの今日の話はなんでっか?羅漢についてを参照下さい

 
《石峰寺の五百羅漢》
  
 正徳3年(1713)千呆(せんがい)禅師創立の黄檗(おうばく)宗の寺。 本堂背後の山中に江戸時代の画家伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)(1716〜1800)が下絵を描き,石工に彫らせた五百羅漢がある。
 羅漢とは釈迦の弟子で,五百羅漢といえば,優秀な弟子五百人という意味であるが,若冲の磊落な筆法で下絵を描かれた石仏は,長年の風雨を得て丸み,苔寂びその風化に伴う表情や姿態に一段と趣きを深めている。

 伊藤若冲は江戸時代中期,正徳六年(1716)二月八日京都の高倉錦小路南東角にあった青物問屋「桝屋」に長男として生まれた。 名前は代々伊藤源左衛門を名乗り,店の名は,屋号と名前から「桝源」といった。
 40歳の時に次弟の宗厳に家督を譲り,隠居して絵を描くことに専念する。
 絵は写生を基礎とした動植物画が有名で,特に鶏の絵は画幅から今にも飛びだしそうなくらいリアルである。
 五百羅漢は一説には,天明八年(1788)正月におこった京都大火災で焼け出された若冲がこの石峰寺門前で妹と暮らすようになり,石峰寺後方の山中に石像の五百羅漢を建立する事を思い立ち,絵1枚につき米一斗分の代金を受け取り,その金でみずからデザインした石の羅漢を一体ずつ石工に彫らせ,奉納配置していったという。しかし実際には天明大火の二年前に刊行された『拾遺都名所図会』にすでに「石像五百羅漢」の記事があり,建立はもっと早い時期からはじまったらしい。

 明治以降荒廃していた羅漢山は龍潭和尚の篤志により,草を払い径を開き,個々の石仏の趣を見られるように整備されたものである。

 深草墓園で昼食。
午後は、歯痛に良く効くといわれるぬりこべ地蔵さんに良くお頼みして、奥院まで赤い千本鳥居が続く伏見稲荷大社で参拝。雀の焼き鳥の香ばしい匂いを嗅ぎながら沢山の土産物屋を横目に、再度伏見街道に出て北へ暫く歩くと、赤暖簾がかかった伝統工芸品の伏見人形店・丹嘉があった。
 京と伏見の境界を示す本町22丁目
は久野病院付近で見つかった。三ツ橋川に架かる伏水街道第三橋と彫られた石橋を確認して右折東福寺へ。臨済宗東福寺派の大本山で、国宝の三門を仰ぎ、小休止。新緑のもみじが綺麗な通天橋を見下ろし、秋の紅葉のシーズンの頃を思い浮かべた。
 東福寺の境内をぐるりと迂回して、泉涌寺へと歩いた。住宅街を通り山の中へ、両側に御陵がありそこを過ぎると泉涌寺の山門にでる。「御寺泉涌寺」と書かれていた。拝観料を支払い、境内に入ると正面下に素晴らしい本殿が目に付く。先ず、境内左手の有名な楊貴妃観音像を参拝した。素晴らしいお姿にしばし、うっとりとする。
 見上げるような素晴らしい本殿の建物と釈迦・弥陀・弥勒の三尊仏に圧倒される。
 帰りは泉涌寺通りを下り、東大路通りを左折赤十字病院前を過ぎ、JRと京阪電車を跨ぐ高架橋の下を伏見街道に突き当たり右折したところに、伏水街道第二橋の石柱が立っていた。そこから少し北に京阪東福寺の駅があり、今回の歴史ウォークはここで解散した。
 参加者は60代を過ぎた方が多いのですが、皆さんお元気におしゃべりしながら約8kmを完歩しました。石峰寺の五百羅漢や往時を偲ばせる石橋を確認したり、静かな洛南・東山三十六峰の山麓など良い季節に良い所へ、案内して頂いた吉岡さんに感謝。
有難うございました。

次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わって頂きたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

 
藤森神社の前で本日のウォークの
趣旨を説明される平田さん
48回目にして交野から踏み出した
梅雨の時季、神社の二つの庭
には3500株の色彩々の
紫陽花が見事である。
花菖蒲で有名な藤森神社境内で
説明される吉岡さん
勝負の神様、駆け馬の神事も
勝負は菖蒲に通じ菖蒲の節句は
ここが発祥と云われ宝物館には
鎧兜や鉄砲など多数展示
されている
伏水街道・第四橋
伏水街道には4つの石橋があった
現存するのは第三、四の2つだけ
この伏水とは、伏見が酒づくりで
有名なことからもわかりますが
良質の地下水が豊富で
あったことを表しています
4年生の小川君も元気だ
第四橋・直違橋
七瀬川に架かる橋が「第四橋」の
直違橋(すじかいばし)である
この橋の名前は、川に対して橋が
斜めに架けられていることに由来する
第四橋は真円タイプでめずらしいもの
七瀬川の流れを通し交通量の多い
伏水街道を支えている。
明治時代末から華やかしき
軍人の町の名残?軍人湯

1908年(明治41年)深草地域に
京都第16師団司令部とその関連の
軍事施設が設置されると、
この付近はのどかな地域から

一転して「軍都」となりました
広大な練兵場、射撃場、弾薬庫、兵営、
陸軍病院などが深草の広大な地域を占めた
京阪電車の「藤森」駅は
当時は「師団前」という駅名だった
聖母女学院本館第16師団指令
本部跡のエキゾチックな建物

レンガ造り2階建て銅板ぶきで
明治40年(1907)に完成した。

 ちなみに、この聖母学院は大正10年(1921)
大阪の玉造カトリック教会の女性宣教師、
メール・マリークロチルド・リュチニエらが
始めた語学教室が前身で、昭和24年(1949)
小中学校からなる京都聖母女学院
として現在地に開設された。
質素な瑞光寺
彦根藩の家臣・石井元政が
26歳で出家し草庵を結んだ寺
石峰寺の本殿
薬師如来像を本尊とする
黄檗宗の禅寺
路傍の小さな地蔵さん
歯痛に効用があるとか
石峰寺の
隠れキリシタンの墓
新緑のもみじが綺麗な東福寺
通天橋・もみじの名所
京都五山の一つで広大な境内に伽藍が並ぶ、
紅葉の東福寺/通天橋として知られ
シーズンには凄い賑わいとなります
開山堂への回廊/通天橋(洗玉澗の谷間)
からの紅葉は一見の価値有ります。
泉涌寺 楊貴妃観音が有名
皇室との関連深い「御寺」の別名
東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に
静かにたたずむ泉涌寺。
ひろく「御寺(みてら)」として
親しまれている当寺は、天長年間に
弘法大師がこの地に
庵を結んだ事に由来する。

伏見(伏水)街道(ふしみかいどう)
史跡を訪ねてゆっくりと歩いてみたい道

食を楽しもう月桂冠 及び 街道を巡る・伏見街道 のHPを
参照させていただきました。深く御礼申し上げます

「伏見街道」は、豊臣秀吉が伏見に隠居の城、指月城を築いた16世紀の末頃、京都と伏見を直結する道として開通した。伏見を過ぎて奈良まで続いていることから、別名「大和街道」とも呼ばれている。現在でも車の行き交う広い道路に出ることなく、細い旧道が続いている。

 文禄3年(1594)、天下人としての城を伏見に造営した秀吉は、延べ25万人を動員、かつてないほどの金殿玉楼の城を築くと共に、大土木工事を敢行した。まず、伏見城と大坂城とを最短距離で結ぶため、淀川左岸に「文禄堤」と称する大堤防を造ることを毛利一族に命じた。その堤上に伏見から大坂・京橋に至る「京街道」を走らせたのである。
 時を同じくして、巨椋池(おぐらいけ)を縦断する堤防を築き、堤上に京と奈良を結ぶ新「大和街道」を貫通させ、さらに淀から西へ桂川を越え、大山崎を経て西宮に至る「西国街道(山崎路)」、大亀谷から東の観修寺を通る「大津街道」、藤森から京の五条に至る「伏見街道」、伏見から竹田を経て京に至る「竹田街道」、さらに南の宇治へと向う「宇治街道」など、「すべての道は伏見に通ずべし」との秀吉の壮大な構想が次々と具現されていった。
 ついで伏見も大坂も徳川幕府の直轄領となった元和5年(1619)、「京街道」の「伏見」「淀」「枚方」「守口」の4つの「宿(しゅく)」があらたに設けられた。
 これ以後、東海道五十三次目の「大津宿」を出た参勤交代の大名行列は一里二町(4.2キロ)で追分(おいわけ)に至り、そこから京都への西の道をとらず南西へと向い、山科盆地を通り抜け、三里六町(12.6キロ)で五十四次目の「伏見宿」に着くという道筋となった。
これは東海道を往来する西国の諸大名が、入洛して朝廷に接触することを極端に警戒した幕府によって特別に造らせた道筋であり、「宿」であった。

 「伏見」の地名は、「俯見」「臥見」「伏水」などと書かれてきた。『日本書紀』には「俯見村」、『万葉集』には「巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり 射目人(いめびと)の伏見が田井に雁渡るらし」(万葉集巻九、柿本人麻呂)とある。『枕草子』では「伏見の里」、新古今和歌集では歌枕に「呉竹(くれたけ)の伏見」が取り上げられている。
 江戸時代になると「伏水」も用いられるようになり、明治と元号が改まる1868年(慶応4年)には「伏水役所」(翌年、伏水京都府出張庁と改称)と公的にも使われている。水に関わるこの地名は、「巨椋池(おぐらいけ)に枕する地形」(『伏見町誌』1929年)や、伏見の港を表す「伏見津(ふしみつ)」(『伏見鑑』1779年)から転じたともいわれ、古くから水が豊かだったことを示す。「伏見」に統一されたのは1879年(明治12年)である。

伏見(伏水)街道の橋伏水街道・第二の橋
 伏見街道を南に行くと、一橋(いっきょう)小学校がある。その校内の一角に、かつてこの伏見街道に架かっていた「一の橋」が復元されている。親柱に「伏水街道」の字が深く刻まれている。この橋は、もと本町通の10丁目と11丁目の間を流れる今熊野(いまぐまの)川に架けられた石橋だったが、川が暗渠になって撤去された。伏水街道(ふしみかいどう)には4つの石橋が架かっていた。現存するのは2つだけ。
 今回のウォークでは、第二〜四の橋を確認できた。
 第三および第四橋は、京都府京都市により1873年竣工、
 上路石造アーチ 1連、石工内田徳佐エ門 真円 である。


日本で最初の銀座発祥の地  伏見
豊臣秀吉の城下町として開け、秀吉のあとに天下を治めた徳川家康は、京町通から一筋西の両替町通に銀座を置き、大黒常是を呼び寄せ銀貨をつくらせました。銀座の町名は現在も残り、大手筋との交差点に銀座跡の石碑が立っています。東京の銀座は有名ですが、はじまりにおいては伏見の方が古く、日本で最初の銀座が置かれました。


石仏五百羅漢と伏水街道石柱を訪ねて
伏見(伏水)街道MAP

京阪枚方市駅10:50→墨染駅→藤森神社→瑞光寺→石峰寺・五百羅漢→
深草墓園(昼食)→ぬりこべ地蔵→伏見稲荷神社→東福寺→泉涌寺→京阪東福寺駅15:00




歴史健康ウォークミニガイド

伏見稲荷大社 京都市伏見区伏見稲荷大社の赤い千本鳥居
 伏見の「お稲荷さん」といえば、赤い鳥居と「お狐さん」がすぐ思い出される。全国3万余の稲荷社の総本山として有名である。正月の初詣では全国5指に入るほど、全国から多くの人々が参拝する神社である。正月だけでなく、日常的にも稲荷詣をする人は多く、昔から稲荷講が結成され、定期的に惣参や代参が行なわれてきた。「稲荷詣」の話は「大鏡」にも「枕草子」にも出ているので、既に平安時代から盛んであったようだ。「稲荷詣」といえば、もともと稲荷山を巡って、三つの峰に鎮座する上社・中社・下社に詣でることだった。(お山巡り)

 伏見稲荷大社の由来、渡来人の秦氏の氏寺として栄えたこと、稲荷は稲生(いねなり)から生じたもので、五穀豊穣の神様を祀っている、今は商売繁盛の神さんで有名であること、また参道の周辺では、「すずめの焼き鳥」も有名で、お稲荷さんは元々は国の安穏を願い、五穀豊穣の神様ですから、すずめは稲を食べる外敵であり、それを食べて敵討ちをするのだとも言われている

◇伏見人形の由来
(六代目丹嘉窯元 大西重太郎商店解説より)伏見人形の店・丹嘉

 天下に有名な伏見人形は 稲荷山の植土を以て造った最も古い郷土玩具であります。
 全国で九十余種以上ある土人形のなかで、伏見人形の系統をひかないものはないといわれるほど我が国土人形の元祖であり、民俗的な美しさを誇っています。即ちその起源はむかしむかし土師部(はじべ・土でいろいろなものを造る人)は歴史に名高い野見宿称(ノミノスクネ)の後裔にあたる土師氏が統轄して土器を造っておりました。
 垂仁天皇の時代に朝廷より土師職に任命されまして、伏見深草の里に住んで土器、土偶(土人形)を創りだし茲に生まれたのが伏見人形であります。
 稲荷大社の祭事に使われる耳土器をはじめ、お使い姫の狐や饅頭喰いチョロケン、玉、でんぽ等、お馴染み深いものなど現在残っている原型、土型は三千種余り、往事の風俗、伝説を人形に表現したものが殆どで着想の飄逸、奇抜、ユーモアに富んだ面白さ、豊かな味、そしてその一つ一つににじみでている庶民的な素朴さは外国の人々にまで親しみをもたれています。



《泉涌寺》 
 東山三十六峰の一嶺、月輪山の麓に静かにたたずむ泉涌寺。ひろく「御寺(みてら)」として親しまれている当寺は、天長年間に弘法大師がこの地に庵を結んだ事に由来する。法輪寺と名付けられた後、一時仙遊寺と改称されたが、順徳天皇の御 代(健保6年・1218)に当寺の開山と仰ぐ月輪大師が時の宋の法式を取り入れてこの地に大伽藍を営み、寺地の一角より清水が涌き出た事により寺号を泉涌寺と改 めた。この泉は今も枯れる事なく涌き続けている。
 仁治三年(1242)に四条天皇が葬られてからは、歴代天皇の御陵がこの地に営まれるようになり、以来、皇室の菩提所として厚い信仰を集めている。楊貴妃観音像
ゆえに「御寺(みてら)」と呼ばれる所以である。

境内には、重要文化財の仏殿・舎利殿を始め、天智天皇以降の歴代皇族の御尊牌を祀る霊明殿などの伽藍が並ぶ。
 楊貴妃観音像⇒右手に持っているのは「宝相華(ほうそうげ)」という、極楽浄土に咲く花という。
 釈迦・弥陀・弥勒の三尊仏が有名である。
 
◇関連史跡としての泉涌寺◇
 「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも
         よに逢坂の関はゆるさじ

 誰もが一度は耳にしたことがあるであろう、清少納言の有名な歌です。
泉涌寺の境内の片隅には、この歌碑が建てられています。
清少納言は定子が没した翌年に宮仕えを辞去したものと思われ、晩年は鳥辺野近くのこの
泉涌寺の辺り(月輪)に隠棲し、朝な夕なに定子の眠る鳥辺野の御陵を拝しながら生涯を終えたと言われています。

昭和49年11月に、当時の平安博物館館長であった角田文衞氏が、泉涌寺が清少納言と密接な関係があるので、ぜひとも歌碑を建てたいと希望され、建立されたようです。

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