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交野歴史健康ウォーク 118回

星田〜香里園 陸軍用地石標巡り

JR星田駅 → 星田駅北石標2本 → 中村純一中尉の碑 → 星田北石標2本
 → 茄子作り石標2本 → 工廠駅 → 南部生涯学習市民センター →
桑ケ谷公園石標10本 → 藤田橋 → 京阪郡津駅

写真撮影は、綱分清美さん、高尾秀司さんにお願いしました。
心から感謝申し上げます。



桑ケ谷公園にて記念撮影 交野古文化同好会の皆さんお元気ですね!

 交野歴史健康ウォーク118回は、前回の大阪城周辺の史跡と戦跡巡りに引き続き、星田から香里園まで、陸軍用地石碑を巡る戦跡ウォークを開催しました。

 
2011年11月12日(土)午前10時、JR星田駅集合。朝から秋晴れに恵まれ絶好の歴史健康ウォーク日和となりました。 参加者は古文化同好会の元気なメンバー会員18名、会員外8名の合計26名。

 今回案内して頂いた綱分清美さんが、星田から香里園にかけて、旧陸軍軍用用地を丹念に歩かれ発見された沢山の石標を巡るという大変貴重な体験となりました。
 これまでは、星田北6丁目に1本だけ残っているとの認識でしたが、新たに昨年2本を発見され、その後、茄子作りで2本、香里ケ丘1丁目の桑ケ谷公園で10本、香里ケ丘2丁目の桜公園で5本、香里ケ丘3丁目の香里ケ丘東公園で埋設・切損を合わせて9本、香里ケ丘4丁目の観音山公園で埋設・切損を合わせて7本を発見された。


今回のウォークは、発見されたうちの星田、茄子作り、桑ケ谷公園を案内していただきました。
 星田駅から枚方の香里団地へ向かって一本の道路が弧を描いて延びています。この道路の一部と歩道は、星田駅から現在の香里団地付近にあった陸軍造兵廠香里製造所までの、約4キロの陸軍専用鉄道跡です。
 香里製造所は、陸軍が砲弾などに使用する火薬を製造していた日本有数の製造所で、列車は星田駅から工場への軍需品の輸送や工員の輸送に利用されていました。
 線路は戦争終結と同時に役割を終え、昭和23年、廃線となりました。
 この線路用地脇には民有地との境界を示す「陸軍用地」の石柱が立てられていました、現在では星田北6丁目の1本が残るのみです。(広報 かたの 平成20年8月号より) 
昨年、平成22年6月12日、星田周辺のかるた巡りの時に、綱分清美さんより2本の石碑を発見しましたと、紹介を受け大変驚きました。その時の様子です。

星田駅北裏の田圃の畔に 初めてお目にかかる「陸軍用地石碑10番」
会員の綱分さんがもう2年も前に発見されていました!

「陸軍用地石碑10番」
※陸軍造兵廠香里製造所
現在の香里ケ丘1丁目から12丁目までの範囲、140ヘクタール、230棟の建物、約5000人が働いていた。
宇治からの湿薬を乾燥させ、枚方製造所で作った砲弾に詰め、金や火薬庫で禁野火薬庫で貯蔵。
妙見山の煙突は、火薬を乾燥させる石炭を焚いたボイラーの煙突。
昭和14年に日中戦争の拡大に伴い、増大する火薬需要の製造場所「宇治火薬製造所香里工場として開設。昭和17年東京第二陸軍造兵廠香里製造所として独立。昭和20年終戦により操業停止。昭和30年日本住宅公団が住宅建設を計画、翌年建設が始まる。
※星田〜香里軍用側線
現、片町線が明治31年4月12日、四条畷長尾間に関西鉄道として開設。
明治40年10月1日、国鉄に編入、関西本線の支線、片町線となる。
昭和16年9月21日、星田駅から旧陸軍香里火薬製造所へ通ずる陸軍専用鉄道(3845km)が開通し、軍需品の輸送や行員の通勤に利用された。
昭和19年10月、星田駅の待合所一部撤去、
昭和23年10月頃、撤去された。   (交野町史 U)


用地買収については、昭和14年12月2日関係土地所有者が村役場に集められ、憲兵下士官が「土地を軍に返還せよ」と価格の記載のない書類に押印させ、買収した土地の境界に「陸軍用地」の標石が立てられた。
          (交野の戦争遺跡)
工廠駅は110mのプラットホームがあった。

11月12日、 陸軍用地石標巡り
星田〜香里園 戦跡散策マップ








昭和23年(1948年)米軍の撮影の航空写真 ↓

星田駅から枚方の香里団地へ向かって一本の道路が
弧を描いて延びていることが確認できます。




星田駅で、朝の挨拶と日程説明
本日の案内人:綱分清美さんより、陸軍造兵廠と行程の説明を受ける


星田駅北の田圃の畔に、説明される綱分さん


ウォークに参加された方の中に、小さい子供の頃線路の上で遊んだことがあるとの話に
ウォーと感動の声が上がる
中村少尉の鎮魂碑
陸軍中尉・中村純一戦地の地
 昭和20年7月9日、米軍機P51約50機が来襲、大阪上空で空中戦があり、鹿児島出身の中村純一中尉が操縦する戦闘機・飛燕が撃墜され、星田に墜落しました。
 中尉は、パラシュートで脱出しましたが、米軍機が翼でパラシュートのロープを切り、中尉は水田にしぶきを上げて墜死され、星田の村民が手厚く弔われた。

 2005年3月16日、交野市星田北8丁目の第二京阪国道作業地にて、飛行機の残骸が発掘された。調査の結果、発掘されたエンジンのマークから飛燕のもので、中村中尉が操縦されていたものであることが確認されました。
 なお、発掘された飛行機の出土品は、現在、いきいきランド交野のロビーに展示されています。
星田北6丁目の陸軍用地の石標確認!

案内される、綱分さん
東高野街道を横切る
第二京阪国道をくぐる
茄子作りの「陸軍用地」石標
南部生涯学習センター
桑ケ谷公園  石標を探訪

フェンスの外側に「陸軍用地」石標を確認
 
公園の西端の高台より、妙見山の煙突を遠望する
綱分清美さんが確認された 陸軍用地石標一覧

星田駅北 陸軍用地碑
茄子作り 陸軍用地碑
桑ケ谷公園 陸軍用地碑 10本
桑ケ谷公園で時間も12時となり解散、その後藤田橋を渡って京阪郡津駅からそれぞれ帰途に着きました。
藤 田 橋

桑ケ谷公園を振り返る

藤田橋、 最近、南側に人道橋が併設された
次回の歴史健康ウォークは、12月10日(土)、第二京阪国道側道巡りと
周辺遺跡探訪の最終コース(、星田〜巣本)となります。
午前10時、JR星田駅集合、皆さん奮ってご参加ください!

最後までご覧頂き有難う御座いました!

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