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2006年 新春恒例の初歩き
かいがけ道から傍示の里・山根道を歩く
東車塚古墳、鍋塚古墳、森1号墳(雷塚)を見学
交野古文化同好会

 明けましておめでとう御座います!今年は戌年(いぬどし)です。
さすがに今年の年賀葉書は、犬、犬、犬のオンパレードでした。
頂戴した年賀葉書は可愛らしい犬のイラスト入りが圧倒的でしたが、
写真と名前入りで紹介された愛犬たちがいじらしいですね。

 兎に角今年も元気な犬歳に因んで、何事にも好奇心を持ち
元気にワンワンと情報を求めて歩きたいと思っています。
1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きに参加して、
かいがけ道から傍示の里をじっくりと散策してきました。

日時:平成18年1月2日(年始)  午前9時集合
集合場所:いきいきランド(交野ドーム)噴水広場

コース
交野ドーム→東車塚古墳→寺・住吉神社→かいがけ道→
傍示→蓮華寺→キトラの辻→里→スマイル地蔵→大仏道→傍示・菅原神社→
廃蓮華寺跡→鍋塚古墳→森・雷塚古墳→天田神社
    徒歩約8km

車塚古墳群・東車塚古墳について、詳細はこちらへ
南山弥生遺跡の「鍋塚古墳」の詳細はこちらへ
森古墳群・雷塚古墳の詳細はこちらへ


 2006年1/2(月)天候くもり一時時雨。参加者20人。今年の初歩きは明け方に雨が降り何となく足元が気になる天候でしたが、それでも20名の元気な顔が勢ぞろいした。交野ドーム噴水前には早い方は午前8時40分頃から顔を出され、続々と沢山の方々が参集された。
 「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします」と、口々に挨拶をしているところへ、会員の堀江さんが元気な声で「中会長、星田の山の堰堤調査のことが読売新聞に紹介されました」と切抜きを見せられた。「また、今月の初めに寝屋川市の方々を案内して一緒に歩くことになっています」と挨拶された。そして、今日のウォークで「傍示のことを勉強したい」と沢山の資料を持参された。年末から「石鏃」1号から110号までを精読し傍示の記載記事を事細かくまとめ、所在場所など確認して書き込めるようにと、2万分1のウォーク行程地図も準備されて来られた。参加者一同堀江さんの積極的な行動に感服しきりでした。

出発地点の交野ドーム前で全員で記念撮影(交野連山を背に)
 
午前9時、中会長の挨拶の後、全員で交野連山を背に記念撮影、元気にスタートした。
府道久御山線のトンネルをくぐり抜けると「東車塚古墳」は近い。車塚古墳は、昭和47年交野高校建設に伴って発掘調査された5基の古墳からなる古墳群で、その一つ「東車塚古墳」の木棺は8mを超える長大な割り竹木棺で、副葬品として、甲冑、銅鏡3面、石釧、刀剣、筒型銅器、巴形銅器などが出土したことなど、会長から説明を受けながらフェンス越しに見学。目の前に広がる田圃の風景は、「てるは村」(寺村の前身)「今井」と言った。昔、寺村は、JR学研都市線の西側、交野高校の北側の「いまい」という小字にあったという。
 「昔、寺村は「いまい」にあってな、水が出て困り抜いたすえ、こんなところには、いまい、いまいといって今の龍王山の麓の寺村に移ったんや」と、村の古老の話を紹介された。

 車塚古墳群・東車塚古墳について、詳細はこちらへどうぞ

交野ドーム前で「皆さんと初歩きを楽しみたい」と中会長が挨拶された

 寺村の燈籠の辻では、「二月堂」「愛宕さん」「「柳谷」などの伏拝に昔の人達の信仰心の篤さを偲び、綺麗に石垣が積まれた清楚な佇まいの町並みを歩き住吉神社に着く。いつもは閉まったままの本殿も正月ばかりは村人達のお世話で御神燈が点灯され華やかだ。早速、皆で拍手を打ち初詣。
 かいがけの道を落ち葉を踏みしめながらゆっくりと傍示の里を目指して上った。途中、伏拝の辻の大石に彫られた可愛らしい阿弥陀さんはきれいに掃除され真新しい花が飾られていた。寺の皆さん、年末のお掃除ご苦労様でした。感謝申し上げます。 
寺の燈籠・伏拝の辻で   年号は? 御神燈が点灯された寺・住吉神社
落ち葉に埋まり、少しばかりの石積みが確認できる「いわなし古墳」を見学
↑かいがけの道の伏拝の辻、大岩に彫られた阿弥陀様
 かいがけ地蔵やゴミの木地蔵などに参拝して傍示の里に入ると、村の角の伊丹さんの門前に山砂で描かれた大きな〇印と線を発見、昔から伝わるこの地区独特の新年をお迎えする正月行事の一つらしい。早速、珍しいのでシャッターを切る。倉治でも30年代頃まで続いていたそうだ。
かいがけ道を登ること、ゆっくり15分で「かいがけ地蔵」↑に出会えます
火炎も凄い不動明王碑 ゴミの木地蔵  室町時代?
傍示の里に入ると、村の角の伊丹さんの門前に山砂で描かれた大きな〇印と線を発見
昔から伝わるこの地区独特の新年をお迎えする正月行事の一つらしい
交野の正月行事 - 砂もち
家庭が円満におさまるようにと、家の庭に砂で丸や桟を書く風習
皆さんの土地でもこんな風習は残っていないでしょうか?
蓮華寺の収蔵庫の前にも同じように大きな丸印が描かれていた↑
 国指定重要文化財の阿弥陀如来立像(快慶作・鎌倉時代)が安置されている蓮華寺の収蔵庫の前にも同じように大きな丸印が描かれていた。そこから直ぐ近くの廃蓮華寺へと案内するも、畑の中ほどまで進むも自信がなく引き返す。
 キトラ(北浦)の辻へと出て苔むした双体仏を拝み、右へ下り里の小径に出る。左右に段々の棚田が広がる緩やかな小径を上がりきると、スマイル地蔵、天正4年の阿弥陀さんに出会える。以前にお会いした時と同じように微笑んでおられるお姿がとても懐かしい。
キトラ(北浦)の辻へと出て苔むした双体仏を拝み、右へ下り里の小径に出る
左右に段々の棚田が広がる緩やかな小径を上がりきると
↑スマイル地蔵、天正4年(1576)の阿弥陀さんに出会える
  傍示の共同墓地、経塚など確認後、静かな空き地で昼食とする。南に下ると大仏の道と交差する。昔、宇佐の鋳造工の人たちが大仏建立の時に急いだ道だという。
 この道を右にとり傍示の里へと下り菅原神社にお参りし、ふと午前中行きそびれた廃蓮華寺の道を思い出し細い道を上がりきると、途中で引き返した畑の端に出て竹やぶの中に入ると、あった!無残にも倒れ掛かったような五輪塔や宝篋印塔が目に入った。竹に隠れた「フットボール地蔵」も見つかった。探し回った甲斐があり、久し振りにお会いできた。
畑の端に出て竹やぶの中に入ると、あった!無残にも倒れ掛かったような五輪塔や
宝篋印塔が目に入った。竹に隠れた「フットボール地蔵」↑も見つかった。

廃蓮華寺地蔵(交野市傍示)フットボール地蔵 (石鏃No117号より)
両肩が異常に発達したお姿に、フットボール地蔵と名前が付けられた
 傍示の里ともお別れしアスファルトの山根道を下り、南山弥生遺跡の「鍋塚古墳」を見学。ここから仰ぎ見る龍王山は凛として素晴らしい。鍋塚古墳は、標高200m以上の高い位置にあり、主体部は竪穴式石室で墳丘には埴輪はなく4世紀初頭の雷塚古墳と同時期の前期古墳で最古級クラスの古墳である。
 山根道に出て直ぐの交野連山・中腹随一の見晴台から見る風景はまた素晴らしかった。生憎の雨がぱらつき始めたが、山根道を下り森古墳群に着いた頃にはすっかり雨も上がり、全長106mの雷塚古墳の前方部を確認して標高155mの後円部頂上に上り全員で記念撮影。森古墳群は、前方後円墳4基、円墳1基からなる古墳群で、その中で最大最古の前方後円墳が雷塚古墳である。
 前方部が10mも低くバチ形をしており、奈良県桜井市の箸墓古墳と同タイプで、交野市内が一望できるこの地にこれほどの大きな古墳が4世紀初頭に造られた事に、参加者一同感動を新たにした。
 帰りは天田神社で拍手を打ち、お神酒をよばれて解散。皆さんお疲れ様でした。
 
        南山弥生遺跡の「鍋塚古墳」の詳細はこちらへ

         森古墳群・雷塚古墳の詳細はこちらへ

 また次回のウォークが楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!! 
雷塚古墳の前方部を確認して標高155mの後円部頂上に上り
森古墳群・雷塚古墳(1号墳)の後円部頂上で記念撮影

かいがけ道から傍示の里・山根道を歩くMAP



《ミニガイド》

傍示の里
 傍示とは、榜(ふだ)を立てて国境を示した。特に街道筋においては、この傾向が強い。傍示は河内国と大和国の境になっている。ここ傍示は交野から高山を経て富雄川を下り、三碓(みつがらす)で左折して奈良に通じる「かいがけ道」である。古代交野は天野川流域の条里制が施行されたごとく、豊かな地であり、かつ、渡来人の活躍の場でもあった。寺、森辺りに古墳や遺跡が散在する。当然この道は頻繁に利用されたことであろう。また、東大寺建立の際、大仏の銅の鋳型がうまく出来ないため、この仕事に熟達していた九州の字佐八幡宮にいた渡来人の鋳型師を招くことになり、宇佐から大和に行くことになった。一行は途中2斑に分かれ、一隊は枚方市の百済寺に、他の一隊は交野の獅子窟寺に宿泊した。そして、この「かいがけ道」を通り奈良の都に到着し、無事、大仏建立を助けたと言われている。

 氷室山八葉蓮華寺から国宝級の快慶作の阿弥陀如来立像(高さ82.4cmの半等身像で、来迎印を結び、わずかに左足を踏み出して衆生に向かって来迎する有様を表わしている)が発見された。鎌倉時代初期、建久年間から建仁年間(1192〜1203ごろまで)に作られた作品で、快慶の造像活動の中でも自分の様式を確立するための模索していた時期と言われている。
 
 
現在の傍示に住んでおられる人の姓が、ほとんどが「伊丹氏」である。この伊丹氏が傍示に住みつくようになったのは天正元年(1573)のことである。
 この年、かって摂津国伊丹の城主であった伊丹兵庫守親興が室町幕府の最後の将軍足利義昭に加勢して織田信長と戦争を起こした。しかし、戦況は思わしくなく、宇治の槇島が落とされたため親興は退去し、高槻の芥川城に逃げた。しかし、この城も織田方の荒木村重に落とされ、しかも、城主伊丹親興は討死してしまった。残った伊丹一族は淀川を渡って交野へ逃げた。しかし、織田方の追手の厳しさから逃れるため、交野の山中に入り、寺の背後の竜王山の後ろに移り住むことになった。芥川城陥落の功により荒木村重は伊丹の城主になっている。また、大阪冬の陣の時、伊丹因幡守という人が大阪方の武将として出陣している。
 天正年間に伊丹氏が生活を始め、その後もこの小さな谷を切り開いて、あまり人口を増やすことなく、現在まで永々と生活してきているのである。

北浦(きとら)】
 里の北側で、中心に交野市野外活動センターがある。里に集落があり、また、田畑が開かれた後、北浦の谷も開かれたものと思われる。「浦」はこの場合「裏」のことで村の裏側の土地といった意味である。
 傍示では「きたうら」をなまって「きとら」と呼んでいる。

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