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2011年 新春恒例の初歩き
第二京阪国道側道巡り
交野ドームから津田まで
津田春日神社初詣
交野古文化同好会

 明けましておめでとう御座います!今年は卯年です。
頂戴した年賀葉書には可愛らしい「莵・卯」のイラスト入りが圧倒的でした。
今年は、卯年に因んで「草木が大地を覆うがごとく果敢に挑戦したい」と思います。

1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きに参加して、
昨年3月開通しました第二京阪国道の側道を津田まで歩き、
津田春日神社にお参りして健康で過ごせるようお祈りして来ました。


日時:平成23年1月2日(年始)  午前10時集合
集合場所 いきいきランド

 行程 : 交野ドーム → 第二京阪国道の側道 → くにみ坂通り(津田サイエンス入口) 
      → 津田春日神社 → JR津田駅 12時解散    約 4km徒歩
 2011年1/2(土)、天候晴れ。このところ年末から冷え込みが厳しく、特に山陰・鳥取地方では雪崩で人が亡くなったり、国道9号線が大雪のため1000台の車が立ち往生したりの暗いニュースなどで天候が心配されましたが、幸い風もなく暖かい天候に恵まれました。、「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします」と、挨拶を交わしながらいきいきランド広場に集合した。

 中会長の新年の挨拶の後、昨年3月20日に開通した第二京阪国道の側道をゆっくりと歩き、津田の春日神社にお参りしてきました。本当に申し分のない天候に恵まれ、排気ガスなども全く心配することもなく大変気持よく歩いてきました。本日の参加者は元気な総勢18名の皆さん、新春の初歩きを楽しんできました。
いきいきランド交野


中会長の新年の挨拶!


清々しい皆さんの笑顔をご覧ください
交野山山頂・観音岩からの眺望
昨年3月20日に開通した「第二京阪国道」



平成21年3月撮影 第二京阪国道WEBより

第二京阪国道の側道を歩く

交野ドームから久御山線に出て、信号を右折側道へ入る

信号を右折、いよいよ側道を歩く

振り向くと、交野ドームが大きく見える

側道の傍の畑の向こうに交野山が見える

神宮寺へと通じる新しく出来た道路を渡り側道へ

交野山が目の前に

神宮寺の町並み

青山3の交差点

神宮寺への旧道もしっかり残っています

JR学研都市線も間近かに、丁度列車が通過!
航空写真 平成21年3月撮影 第二京阪国道WEBより


右手向こうにに、関西電力変電所が見えてきました

免除川がJR学研都市線の下を流れて、国道が上を通る

JR学研都市線の列車が河内磐船方面に向かって行った

この辺りがJR線を超す一番高いところで、交野山が間近かに

国道の下にJR学研都市線の踏切があり、その向こうに源氏池が見える

神宮寺から倉治へと通じる道

右に、雇用促進住宅が見えます

振り返ると小さく交野ドームが見えます

関西電力の大きな電柱が右に

殆ど埋め立てられて、少し残った松塚下池改修中のため水が抜かれている

左が松塚下池

関西電力枚方変電所

変電所の右は松塚上池

幸い風もなく暖かい太陽に恵まれ防寒具を一枚脱ぎました

橋桁に免震装置が設置されている

遮音壁もしっかり設置されている

交野ドームも小さくしか見えません

倉治桜道 春には桜が満開!

倉治桜道方面へ

倉治5丁目へ抜ける道路

道路の向こうは警察学校

この辺りは、清水谷で小さな池があった、藪が残っている

変電所の東側へと通じて源氏の滝へ

津田南町1丁目へと通じる道

津田南町付近

この付近はえんず(円通)谷様子が一変している


この付近にあった大原池、新池が埋められ、新しく円通寺池が造られた

円通寺池新設工事竣工記念碑

円通寺池

円通寺池の左側の側道

向こうは津田大池、地蔵池から津田駅へと通じる道

更に、北へと歩く

ガラト川

ガラト川副道橋付近で記念撮影

国見山への登り口

国見山への登り口

国見山への入り口を後に、元気に歩く

車の側道を交野の方に振り返る

津田サイエンスの工場の一部が見えてきた

津田サイエンスヒルズの看板

津田サイエンスへの道路

ここで、第二京阪国道を西へと渡り津田へと向かう

第二京阪国道の上から交野方面を見る

第二京阪国道の上から枚方方面を見る

交差点を渡ったところに、スパバレイ交野南があり、正月休みで駐車場も満車!

スパバレイ交野南

入浴だけなら410円、成程満車も頷ける!

側道に沿った道は、やま辺通りと名付けられていた

側道の傍の公園で暫くトイレ休憩
津田山手のくにみ坂通りを下って、津田元町へ
円通寺津田元町2丁目

浄土宗 円通寺
 元は津田の南東、えんず(円通)谷の口の平瀬にあった。1682年(天和2年)成立の『当郷旧跡名勝誌』の「円通寺事」には、えんず谷にあった円通寺の所在を示すとともに、「渚の院を開いた惟喬親王が当地で狩猟のとき門前に雪女が現れたことやえんず谷の奥で光物が出て障害があったため住僧がなく、修行をつんだ山伏が蟹の化身を祈りにより退治したが、その後寺は衰退したこと」などを記されている。

五重相伝(ごじゅうそうでん)    

浄土宗のお念仏の教えを、檀信徒に五つの順序にしたがって伝える法会。現在は五日間にわたって行われることが多い。この法会は、教えの真髄や奥義を伝えるため、詳しく説明することはできませんが、初重(しょじゅう)から第五重 (だいごじゅう)まで、お念仏の信仰を深めるためのお話が順序にしたがってなされます。結縁五重、化他五重とも言います。

  • 初重 (しょじゅう)      宗祖法然上人作と伝えられる『往生記』1巻によって「機」について相伝します。
  • 二重 (にじゅう)      浄土宗第二祖 聖光 (しょうこう) 上人末代念仏授手印』1巻によって「法」(行)について相伝します。
  • 三重 (さんじゅう)      浄土宗第三祖 良忠 (りょうちゅう) 上人の『領解末代念仏授手印鈔』1巻によって「解」について相伝します。
  • 四重 (しじゅう)      同じく良忠上人の『決答授手印疑問鈔』2巻によって「証」について相伝します
  • 第五重 (だいごじゅう)    中国北魏時代の 曇鸞 (どんらん) の『往生論註』に説くお十念について相伝します。といっても、これではなんのことか良くわからないでしょう。しかし、これを受けることによって、法然上人がなぜお念仏を勧めたかが理解でき、信仰が深まり、法然上人のご法語にある「生けらば念仏の功つもり、死なば浄土にまいりなん。とてもかくてもこの身には、思いわずろうことぞなしと思いぬれば、死生ともにわずらいなし」という境地になって、この世を明るく・正しく・仲よく暮らすことができるようになるのです。
        (浄土宗 サイトを参照)

円通寺門前

円通寺から春日神社への風情のある小道

津田元町2丁目35付近
山根の道と山根街道の分岐点

こちらが山根街道 春日神社を通って津田駅へと通じる
津田春日神社

春日神社の右の道路は旧山根街道

注連飾りと門松

津田春日神社・拝殿

拝殿内部の絵馬

(枚方の4神社のHPを参照)

【春日神社(津田)】−−津田元町1丁目
 津田の町中を通る旧山根街道沿いにあり、津田地区では最も大きく社殿も壮麗である。
今の社名は『春日神社』だが、大鳥居および拝殿には『春日大明神・若宮八幡宮』の神額が掲げられている。

  祭神−−春日大神:タケミカヅチ命・フツヌシ命・
アメノコヤネ命・ヒメ大神
若宮大神:八幡大神

 由緒などによれば、「当社の創建年代は不明。津田の住民は古くから穂谷の三の宮神社を氏神としていたが、津田村が繁栄するにおよんで春日4神を勧請して(嘉吉2年1442)三の宮の内宮となした」とある。三之宮神社の末社・春日神社を勧請したのであろうが、“内宮”とは境外末社を意味するのか。
 春日4神は藤原氏が祖神として奉祀する神々だが、枚方には末社を含んで13社が祀られている。枚方市史によれば「鎌倉時代後期になり全国各処の交通の要衝に関所が設けられるようになると、摂関家の権威を背景とする春日社・興福寺は、淀川水系の各処に関を設けた」とあり、また興福寺官務牒疎に「尊延寺は交野郡芝村にある興福寺の末寺で云々」とあることなどからみると、奈良春日神社・興福寺の勢力が当地までおよんでいたと思われ、そういう事情から当地域に春日社が多いのかもしれない。

 当社は古くから宮座12座で奉仕されていたという。宮座とは祭神と関係の深い特定の家々が独占的に神事をおこなうために結んだ閉鎖的・特権的な祭祀組織をいう。今も形を替えて残っているというが詳細不明。

春日神社(津田)・拝殿
(注)藤原氏の前身である中臣氏の本来の祖神はアメノコヤネで枚岡神社(東大阪市)の祭神、タケミカヅチ・フツヌシは鹿島神社(茨城県)および香取神社(千葉県)の祭神で、本来は物部氏が奉祀していた祖神。物部氏本宗の没落と藤原氏の東国進出により藤原氏の氏神として取り込まれたという。

本殿−左:若宮八幡宮
   右:春日神社

若宮八幡宮・本殿

春日神社・本殿
 拝殿奥の神域には、右に春日神宮、左に若宮八幡宮が並んでいる。津田史(1955)に「光格天皇・天明6年(1786、江戸中期)大和国南部春日社より古社殿寄進、造営竣成」とあるように、春日神社の式年造替に際して旧社殿を譲り受けたもの。
 左に鎮座する若宮八幡宮の合祀由緒は不明。“若宮”とは、一般に本宮祭神に関係する御子神を指すが、それ以外にも多様な性格の若宮があり、当社の場合、春日社に遅れて勧請された八幡宮ということで若宮と称するのかもしれない。
 拝殿内部には絵馬・奉納額などが数多く掲げられている。貴重なものもあるというが、ほとんどが落剥していて内容は読み取れない。
また当社は、近世以降“雨乞い”に霊験あらたかだったそうで、しばしば雨乞い祈祷がおこなわれたという。大鳥井脇に立つ社名碑の裏には「昭和14年9月 祈雨御礼」とある。

春日造・模式図

『弾痕奉額』
 拝殿正面に「弾痕奉額」なる扁額が掛かっている。幕末の頃、在郷の人が射撃を訓練し、その成果を奉納したものとかで、上に、弾が当たった痕がある四角形の白い的が並び、その下に、その的を撃ち当てた人の名前が書かれている。ただし、墨色がかすれていて判読不明。
 世情不安だった当時の様子をうかがわせる遺物として、珍しいものである。

旧山根街道沿いの椰子の大木の前で

見上げるほどの大木に驚くばかり
山下翁頌徳碑
山下翁頌徳碑(やましたおう しょうとくひ)
所在地:津田西町2丁目(久御山線府道沿い)
この頌徳碑は、政太が没して7 年後の大正3年(1914)に、
津田区費と77名からの寄付金で建立されました。
政太が多くの人に慕われていたことを偲ばせます。
2007 年12 月 津田区
ぶらり つだ界隈津田塾より参照

柳の辻の山下翁頌徳碑 津田元町津田本通りの南端、通称柳の辻に大きな石碑があります。

津田の素麺業と山下政太
津田における素麺業の起源は定かではありませんが、18 世紀後半にはすでに始まっていました。このころ津田素麺業の中心となったのは山下政右衛門です。19 世紀に入ると、素麺生産者は株仲間を作って組織的に生産し、主として京都に卸すようになります。
ところが、明治時代になり商品経済が活発になると、少量しか生産していなかった津田素麺は、その先行きが危ぶまれるようになります。そこで山下政右衛門の子孫にあたる政太は、安価な原材料を確保するため、私財をなげうって小麦を挽く水車設備を調えます。その後も素麺生産組合の設立に尽力するなど素麺業の発展に貢献しました。晩年、政太は自らを「素ノ小児」(素麺の子・素朴な子)と呼び、素麺業の発展に一心であった自身の半生を振り返っています。

JR津田駅に着いて解散 12時10分前でした


 次回は、第112回歴史ウォーク、2月12日(土)、「第京阪国道側道巡り」
  いきいきランド〜寝屋〜JR星田駅  集合は、交野ドーム 10時ですです。
お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただき有難うございました

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