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2014年 新春恒例の初歩き
宮之阪駅から御殿山駅
百済王神社と御殿山神社に初詣

 明けましておめでとう御座います!今年は午年です。
1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きで、
交野が原の史跡を訪ねて来ました。


日時:平成26年1月2日(年始)  午前9時集合
集合場所 京阪・宮之阪駅
  31名参加
案内 : 伊東征八郎氏
行程 : 宮之阪駅→@禁野車塚古墳→A百済王神社→B百済寺跡→C中宮平和ロード→
D枚方製造所土塁跡→E大阪美術学校跡→F御殿山神社→(G渚の院跡)→御殿山駅
      (散策時間9時〜正午)
  徒歩 約5km
 2014年1/2(木)、天候晴れ。今年の正月は大変穏やかな年明けで初歩きとしては最高の天候の中、ゆっくりと歩くことが出来ました。早朝から宮之阪駅には、「明けましておめでとうございます」「今年も昨年同様どうぞよろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら続々と集合された。

 村田部長の新年の挨拶の後、伊東征八郎様の案内で宮之阪駅から御殿山駅まで、交野ケ原を南から北へ史跡めぐりと初詣、初歩きに相応しいコースを探訪してきました。御殿山神社では御神酒と焼芋を戴き、交野古文化同好会の繁栄と会員の健康を願って参拝してきました。本日の参加者は元気な総勢31名(会員外9名)の皆さん、新春の初歩きを存分に楽しまれたようで、「天気も良く、交野ケ原の史跡めぐりに初詣もできて、良い正月を迎えられ幸せです」と感想を頂戴しました。
 
 伊東さんには綿密な事前の準備と下見に万全を期していただき、ゆっくりと噛み締めるように大変分かりやすくご案内いただきました。また、当日配布のレジメを提供いただき誠に有難うございました。
  記して感謝申し上げます。
初歩きのレジメとウォークMAP

 

 


 
 2014初歩きレジメ 宮之阪駅から御殿山駅  PDF
当日のウォークMAP
 
 @禁野車塚古墳
 全長120メートルと北河内屈指の大きさを誇る国史跡の前方後円墳。邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓との説がある箸墓古墳(はしはかこふん、奈良県桜井市)と形がよく似ており、箸墓古墳と同時代の3世紀末〜4世紀初頭に造られた可能性が出てきました。少なくとも4世紀前半にはさかのぼるとされます。 
 
 禁野車塚古墳は、天野川に臨む段丘に位置しており、被葬者は淀川と天野川の合流地点を掌握し、かつ箸墓古墳の被葬者とも関係の深い人物であると考えられています。禁野車塚古墳は、現在、史跡公園として整備されています。
 
禁野車塚古墳で説明される、伊東正八郎さん
 
 
禁野車塚古墳で記念撮影

 
 
 A百済王神社
  百済国王、義慈王の王子・禅(ぜん)広(こう)(=善広)は、新羅・唐連合軍によって祖国が滅亡した際、日本に亡命してきました。やがて朝廷に仕えることとなり、百済王氏(くだらのこにきし)という姓を賜り、難波の地に居住していました。

 その後、陸奥守として赴任していた禅広の曾孫にあたる百済王敬福(きょうふく)は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で産出した金を献上し、その功により、従三位河内守に任ぜられ、中宮の地を賜り、氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、一族ともどもこの地に住みついたと考えられています。

 その後、度重なる火災により百済寺の壮大な伽藍は灰燼に帰し衰退しました。
 やがて神社の再興が図られ、今ある本殿は、文政10年(1828)に奈良春日大社から移築した「春日移し」です。なお、拝殿にかかる「百済国王 牛頭天王」の木版額は、当社が百済王氏の祖霊を祀る神社であることを明らかにしています。

 
祭神・百済国王・牛頭(ごず)天王(てんのう)  本殿は春日造。
 
百済王神社へと階段を登る
 
 
 
 
 
茅の輪を八の字にくぐり、穢れを祓い身を清め、新年の平穏を祈る。
 
本殿は春日造
 B百済寺跡
 百済寺跡は、百済最後の国王、第13代義慈王の後裔(こうえい)、百済王氏が8世紀中頃に建立した氏寺の跡。5代孫の百済王敬福が氏寺として百済寺を創建して一族の繁栄の基礎を築いたとされています。
 百済寺の造営された地「交野」は、桓武天皇が延暦4年(785)に日本で始めて天壇を築き効祀(こうし)をおこないました。まさに「天地交わる」処に相応しい名前といえます。

 平安時代初期には天皇や皇族が鷹狩りなどの遊猟を楽しんだところとして著名です。
 百済王氏は、桓武・嵯峨朝には両天皇の交野行幸の折にはここを舞台に饗応を重ね一族の昇進にあずかるとともに外戚としての地位を高めました。特に桓武天皇は生母、高野新笠が百済の武寧王の子孫であったことから百済王氏を[朕が外戚]として特に優遇しました。百済寺跡は、百済王氏の本拠地を交野に移して以降の盛衰を象徴する遺跡といえます。
 また、伽藍配置は双塔式の伽藍配置で統一新羅時代の影響が見られ、渡来系氏族の氏寺に相応した伽藍形式と言いえます。
 なお、1952年には古代史に於ける日朝文化の交流の史実を徴証する遺跡であると特別史跡に指定されました。(特別史跡は府下では大阪城)
 
 
百済寺跡 西塔
 
西塔の礎石
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

寺院は11〜12世紀ごろに焼失しましたが、かつての威容をしのばせる礎石が
今も残る寺院跡は、「百済寺跡の松風」として枚方八景の一つにも選ばれています。

 百済寺と百済王氏
 
 枚方市中宮にある史跡公園百済寺跡は、8世紀後半、渡来系豪族百済王敬福のころ一族が中宮に移り、氏寺として建立した百済寺の跡である
 奈良時代末期から建てはじめ、七堂伽藍が完成したのは平安時代の初期と考えられている。
 百済寺は、標高30mの台地のうえに160m四方くらいの面積をもつ小規模な寺院であるが、七堂伽藍の甍を並べていた
 伽藍配置は、奈良の薬師寺や新羅の感恩寺との類似が指摘される。
 東西の塔は、何層であったか不明であるが、この地方の農民はもちろん、淀川を上下する旅人の目にも中央政界で活躍するはなやかな百済王氏の象徴として映ったことであろう。

 百済寺は、11〜12世紀に焼失したものと考えられるが、礎石だけはそのまま残っていたので、1941年、国の史跡に指定され、1952年に特別史跡に昇格した

桓武天皇の長岡・平安遷都を支援

 奈良時代末、桓武天皇は即位すると、新しい親政を目指し、しがらみの多い平城京からの遷都を進めた。
 遷都先に決定されたのは山背国だった。
 山背国には、経済的にも、社会的にも大きな影響力をもつ渡来系氏族秦氏や淀川沿線には実母高野新笠の外戚百済王氏が居住していて幼少時より文化的影響を受けてきたことが、新京地決定の大きな要素となったことだろう。
 それに応え、秦氏も百済王氏も新京造営に大きな力を発揮した。
 遷都後、桓武天皇はしばしば交野が原を訪ね、百済王氏宅を行宮とした。
 桓武天皇は「百済王らは朕の外戚なり」として、政権の中枢に多くの百済王一族を登用した
 また、桓武天皇の右腕として活躍した大納言藤原継縄の夫人は、後宮の責任者(尚侍)の百済王明信だったので、天皇はたびたび継縄の楠葉にある別荘を行宮にして遊猟を楽しんだ。

天神崇敬の実践地

 785年・(延暦4)、桓武天皇は「交野柏原」で国家的な事業である祭天の行事をおこなった。これが、日本で行なわれた、初の祭天だった。
 祭天というのは、中国・朝鮮の政治思想に基づくもので、天子は世界に君臨する王者として天帝の意に従って内外を統治することを明らかにするものであった。日本が唐の世界的な文化を取り入れて、しかもこれと対等の天帝観をいだき、天意に基いて国を治める決意をこの祭天によって示そうとしたものであった。
 この天神崇敬の思想は、幼少時から母方で育ち、百済文化を通じて中国の政治文化を学んだ結果だろうと考えられる。
 祭天は「交野柏原」の少し高いところに郊祀壇を設け、天皇(または使者)が南から北に向いて、天神を祭り、祭文を誌み上げた。交野柏原については、定かではないが、伝承として、片鉾地区の杉ケ本神社南側、一本松の古木があった所という言い伝えがある。
 また、いまの交野天神社の位置でなかったかとも推定されている。
 祭天は、その後も787年(廷暦6年)、856竿(斉衡3)にも交野柏原で行なわれた。

 C中宮平和ロード

 戦前には津田駅から禁野火薬庫と枚方製造所まで、軍用鉄道(現国道307号)が敷かれ、毎日大量の火薬や砲弾などが戦地に向けて積み出されていました。

 1991(平成3)年に、この軍用鉄道敷の一部であった中宮本町から中宮西之町までの約600メートルを「中宮平和ロード」として整備しました。

 ここでは、昔の鉄道敷をしのばせるSL形のトンネルや線路沿いに立てられていた軍用電柱等を保存・設置しています。
 
 
 
 
 
 
 
 
禁野火薬庫  殉職記念碑
   戦前この一帯には、陸軍の兵器用火薬や砲弾・弾薬を収蔵する禁野火薬庫がありました。
 禁野火薬庫は、1939年((昭和14年)3月1日午後2時45分、大爆発を起こし、火薬庫はもちろん周辺の住民に大きな被害をもたらした。軍人・民間人を含む死者は100人近くにのぼり、家屋の全半焼821戸および多数の負傷者を出す大惨事となりました。
 この「殉職記念碑」は、火薬庫の大爆発による消火作業に従事して殉職した消防関係者16名を慰霊するため、1940年(昭和15年)3月1日に建立されました。

 枚方市は、禁野火薬庫大爆発から50年目の1989年(平成元年)3月1日に、「3月1日」を「平和の日」と定めました。
             枚方市  
 
 
 
 
 D枚方製造所土塁
 
 旧陸軍禁野火薬庫が大爆発を起こしたのは、1939(昭和14)年3月1日。天地を揺るがす爆発が約4時間、29回にわたって繰り返され、死傷者約700人、全半壊した家屋約821戸に及ぶ大惨事となりました。

 枚方製造所・禁野火薬庫ともに火薬を収蔵した倉庫は、爆発しても被害が拡大しないように、倉庫の屋根の高さまで達する堅牢な土塁で1棟ずつ囲まれていました。

 1945(昭和20)年の終戦により軍施設は閉鎖され、以後周辺開発に伴い土塁や建物・施設等は取り除かれましたが、高陵小学校の南側には禁野火薬庫の土塁が、また、東側の校門付近や中宮第三団地内には枚方製造所の土塁が残り、戦争の生き証人となっています。
 
 戦前この一帯には、陸軍の兵器用火薬や砲弾・弾薬を収蔵する禁野火薬庫があった。最大時にはここから現在の市民病院に至る敷地を擁し、さらに1938年(昭和13年)には、東隣にその面積を上回る枚方製造所が設置される。これによって、砲弾や弾薬の製造と火薬の充填が一貫して行われるようになり、国内屈指の市大軍需施設となった。
 禁野火薬庫は、1939年((昭和14年)3月1日に大爆発を起こし、火薬庫は勿論周辺の住民に大きな被害をもたらした。軍人・民間人を含む死者は100人近くにのぼり、家屋の全半焼821戸および多数の負傷者を出す大惨事であった。
 事故後、禁野火薬庫は縮小され、北側のおよそ3分の2の敷地が枚方製造所に移管されるが、戦争の激化とともに新たに大阪陸軍造兵廠の火薬・信管工場がこの敷地に移転してくる。ここに現存する土塁は、それに伴うしせつである。
 枚方製造所・禁野火薬庫ともに火薬を収納した倉庫は、仮に爆発しても被害が拡大しないように、倉庫の屋根まで達する堅固な土塁で1棟ずつ囲まれていた。1945年(昭和20年)の敗戦により軍施設は閉鎖されたが、以後団地の造成に伴い土塁や建物・施設などは取り除かれ、わずかにこの一角と高陵小学校の東側だけに土塁が残り、戦争の生き証人となっている。
 枚方市は、1982年(昭和57年)12月に「非核平和都市宣言」を行うとともに、禁野火薬庫大爆発から50年目の1989年(平成元年)3月1日に、「3月1日」を「平和の日」と定めた。さらに、1995年(平成7年)の被爆・戦後50周年を機に、この土塁を平和のモニュメントとして位置付けた。
      2008年(平成20年)3月       大阪府・枚方市  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
枚方市禁野火薬庫跡
 明治29年(1896)陸軍は禁野火薬庫を設置し、昭和13年(1938)に枚方兵器製造所、翌14年香里火薬製造所を開設、枚方は一大兵器生産地となりました。そして、昭和14年(1939)3月1日禁野火薬庫大爆発の惨事が起こりました。
 
禁野火薬庫の爆発被害

1回目(1909年)日時8月20日午前2時過ぎ、原因ダイナマイトの自然発火被害大破家屋約25戸小破家屋約1470戸軽傷10人
2回目(1939年)日時3月1日午後2時45分〜午後7時ごろ爆発大小29回、原因作業中の過失。
被害全焼・全壊299戸(アパートなど除く)半焼・半壊11戸(アパートなど除く)

※死者95人負傷者352人(以上「枚方市史」第4巻より)

 枚方製造所跡/「枚方工廠爆発殉難者慰霊塔」(小松製作所大阪工場)
  
 砲弾・爆弾を製造していた「陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所」(1938/昭和13年)は、日中戦争の拡大とともに、増産体制を強めた。その後、「大阪陸軍造兵廠枚方製造所」(1940/昭和15年)と改称し、工場規模は拡充されていった。
 戦争中、軍事工場をかかえていた枚方だったが、空襲による被害は比較的少なかった。
 戦後、旧陸軍造兵廠枚方製造所などは、連合国の賠償指定物件とされ、大蔵省所管のもと工場は遊休のまま放置されていた。枚方市は、この工場を平和産業に転用させることを考え、工場の誘致をすすめていたところ、小松製作所から払い下げ申請が出され、1952(昭和27)年払い下げが正式に決定した。朝鮮戦争(1950〜1951年)を契機とした再軍備強化をねらう特需ブームによって、旧枚方製造所から小松製作所大阪工場と名は変わったが、砲弾製造が復活した。小松製作所での兵器製造の噂を知った枚方市民の中には、禁野火薬庫爆発の体験から、兵器製造反対の声が高まった。一部の急進派の中には、小松製作所払い下げ反対を叫び、工場内の機械に爆弾を仕掛けるなど、いわゆる「枚方事件」を起こすものもあった(1952/昭和27年)。

 10年くらい前までは、小松製作所の周囲には、かつての陸軍造兵廠枚方製造所跡地だったことを示した「陸軍省用地」の石柱がいくつも残っていたが、今は取り除かれてない。そのうちの一つが「平和ロード」に移管されているが、26本の石柱は、「枚方市水道局春日受水場」(枚方市春日野1丁目)に保存されている。

 近年の企業海外進出=産業の空洞化政策によって、小松製作所大阪工場は、その規模も縮小し、研修施設などの一部だけを残し、工場敷地の大半を関西外国語大学に売却した

 ここ数年で、旧枚方製造所の名残りは、小松製作所内にある「枚方工廠爆発殉難者慰霊塔」と「供養塔」のみとなり、その跡地には大学が建つことになる。

 平和ロード(中宮本町・中宮西之町/市道中宮区第49号線……道路名)

 陸軍の軍事施設である、枚方製造所(砲弾・爆弾の製造)と香里製造所(火薬製造)が枚方に建設されたのは、人家が散在した広い敷地があり、原材料や製品の輸送が可能な旧国鉄片町線(現在のJR学研都市線)が走っていたためであるといわれている。
 枚方製造所へは津田駅から、香里製造所へは星田駅からそれぞれ引き込み線が敷かれ、砲弾・爆弾や火薬の輸送が行われた。現在、それらの引き込み線は、道路として利用されている(旧307号線、市道山之上高田線)。戦後もしばらくは、引き込み線跡にはレールが残っていて、子どもたちの遊び場所のひとつだったと何人もが証言している。
 
 枚方市は、禁野火薬庫や枚方製造所への引き込み線だった道路(市道)の一部を「平和ロード」にし、機関車のモニュメントと、引き込み線の周辺にあった軍用電柱を残し、平和への願いを託した道路として整備している。
 「平和ロード」の周辺の中宮東之町、中宮山戸町などを歩くと、道路がほぼ真っすぐなことに気づく。それは、禁野火薬庫の爆発で家屋が焼失・破壊した地域の住民が、区画整理の街づくりをめざした結果である。
               (枚方市戦跡を尋ねるHPを参照しました)
 
 E大阪美術学校跡

大阪市内にあった大阪美術学校が御殿山神社の隣にやってきたのは昭和4年。文化によるまちおこしを考えた当時の牧野村が、校長で南画家の矢野橋村に誘致を持ち掛け、京阪電鉄などから土地4800坪の無償貸与を受けるなどして実現したものです。同年5月には生徒の通学用として御殿山駅も開設しました。駅から坂を上り、石段を上ると正面にモダンな洋館校舎、右手には150畳敷きの広さを誇る日本建築の美術館・大来館がありました。
日本画家の福岡青嵐や洋画家の斉藤与里など一流の講師から、多い時は300人が学びました。
昭和14年3月1日、旧陸軍禁野火薬庫の大爆発で学校は半壊。半年後に再開されましたが、戦況が悪化した昭和19 年に校舎は軍に接収され学校は事実上閉鎖されました。
そして、40年以上を経た昭和62年「御殿山に再び文化施設を」という地元の声を受け、美術学校跡地に御殿山美術センター(図書館併設)が誕生しました。
(枚方市のホームページ参照)


☆交野市と関わりのある同校出身画家。
清水要樹氏 南画家。
1909(明治42)年11月11日三重県に生まれる。1930年大阪美術学校に学び矢野橋村に師事。
1933年第14回帝展に初入選。1945年第5回日展[霊峰大峰]で入選しその後も入選を重ねるが1960年日本南画院に参加。各地の山を踏破し画を描く。
1992年日本南画院第32回展で内閣総理大臣賞を受賞、1997年米寿記念回顧展を開催。また、日本南画院副会長を務め、後進の育成に尽力する。1999年交野市群津の自宅で歿。享年90歳であった。
 なお、同氏の作品は青年の家の展示室でも見ることができる。(毎月第2土曜・第4日曜)


 
F御殿山神社
 
 祭神は品陀(ほむだ)和気(わけの)尊(みこと)(応神天皇:八幡大神)

 御殿山神社は、元は渚の院跡の観音寺境内に設けられていた小倉の粟倉神社のお旅所であった。江戸文政年間(1818〜29年)、渚村に産土神勧請の話が起こり、お旅所に八幡大神を勧請して西粟倉神社と称した。明治初年の神仏分離令によって、1869年(明治2)御殿山に社殿を造営し、翌年当地に遷宮し、御殿山神社と改称し、現在に至っています。

 御殿山の名は、惟喬親王の渚院のあずまやに起源すると伝わるが、江戸初期に領主永井伊賀守がこの山に陣屋を設けたところから、呼ばれるようになったとも言われる。
 
 美術センターの建設に先立ち1986年の発掘調査で弥生時代やから平安時代にかけての住居跡・建物跡などが見つかりまた。また、江戸時代の建物跡など陣屋に関する遺構も見つかっています。
 
 
 
 
 
 
 
御殿山神社遷宮絵馬(民俗文化財)
渚本町12番55号   枚方市ホームページを参照
 御殿山神社絵馬御殿山神社の遷宮を描いた奉納額です。縦76センチメートル、横176.5センチメートルを測ります。御殿山神社は、渚院跡の観音寺境内に隣接して文政年間(1818〜1829)に設けられた西粟倉神社が、明治初年の神仏分離令によって、明治2年(1869)、御殿山に社殿を造営し、同3年9月19日当地に遷宮、御殿山神社と改称しました。極彩色の奉納額には、西粟倉神社から御殿山の新社殿への賑々しい遷宮の行列が描かれており、また、当時の建物構造が正確に描かれている貴重な資料です。平成14年4月1日、 有形文化財に指定。
 
 
御殿山神社では、御神酒や焼芋が振舞われた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 G渚の院跡
  平安時代、枚方一帯は交野ケ原といわれ、皇族・貴族が鷹狩りや花見に訪れる場所で、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう)の別荘・渚院がありました。

 平安歌人在原業平(ありわらのなりひら)が渚院の桜を見て詠んだ歌、

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

 (世の中にもし桜がなかったら、春の人の心はのんびりするであろうに)は、『伊勢物語』や『古今和歌集』にも収められ、桜の花のはかなさを詠んだ名歌として親しまれてきました。
 また、皇位継承争いに敗れた惟喬親王の心情を込めたとも解釈できます。◎惟喬親王は、紀静子を母とする文徳天皇第一皇子です。藤原明子を母とする第四皇子の惟仁親王が、三人の兄を越えて、清和天皇として即位します。藤原氏の権勢下で皇嗣への道を絶たれた惟喬親王は、在原業平や紀有常など近縁の腹心との交遊によって憂悶(ゆうもん)を慰めます。そしてついに、出家して京都の「小野の里」に隠棲(いんせい)します。


 
渚院の跡地には、江戸時代に観音寺が建てられたといわれています。観音寺は明治時代の初めに廃寺となり、現在は梵鐘と鐘楼(ともに市指定有形文化財)が残るのみです。

 なお、梵鐘は田中家が寛政8(1796)年に鋳造したもので、河内国惣官鋳物師(かわちのくにそうかんいもじ)である同家の活動を示す貴重な文化財です。なお枚方市藤阪には、市立旧田中家鋳物資料館があります。
 
河内名所図会 渚の院

河内名所図会・惟喬親王交野が原遊猟図
 
 
 
渚の院の新しい顕彰碑
 
 
 

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

(世の中にもし桜がなかったら、春の人の心はのんびりするであろうに)

『伊勢物語』や『古今和歌集』にも収められ、
桜の花のはかなさを詠んだ名歌として親しまれてきました。
 
真ん中の白い石碑が、古い渚の院の顕彰碑
 
 
 
梵鐘は田中家が寛政8(1796)年に鋳造したもので、
河内国惣官鋳物師(かわちのくにそうかんいもじ)である同家の活動を示す貴重な文化財です。
渚の院を後にして10分ほど歩いて、11時40分頃、京阪御殿山駅で解散しました。



 次回は、第136回歴史健康ウォーク、2月8日(土)、「星田周辺の山歩き」
 集合はJR星田駅 午前9時。 弁当持参願います。ガイドは大屋喜代治氏。 
  お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。

最後までご覧いただき有難うございました

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