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2016年 新春恒例の初歩き
古代の交野郡衙・長宝寺跡を訪ね
郡津神社で新年を祝い初詣
交野古文化同好会

 明けましておめでとう御座います!今年は申年(さるどし)です。
今年は、申年に因んで「災いを去って安全に暮らせることを願い」
健康第一に活動して行きたいと思います。

1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きで、
郡津神社にお参りして健康で過ごせるようお祈りして来ました。

日時:平成28年1月2日(土) 午前10時集合  案内:村田義朗氏
集合場所 京阪電車  郡津駅前
  参加者32名(会員24名)
<行程> 京阪郡津駅→交野の都碑→松塚公園→東高野街道・五条通の碑→
     郡津小学校→長宝寺小学校→郡津神社・長宝寺跡→長池→倉山→
     交野郡衙の碑→明遍寺→弘法の井戸→丸山古墳→極楽寺→常夜灯
 2016年1/2(土)、天候快晴。今年は年末から晴天続きで幸い風もなく、「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年も昨年同様よろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら郡津駅前に集合しました。

 立花会長と高尾部長の新年の挨拶の後、当日の行程と交野郡衙・長宝寺・肩野津など説明して東高野街道・五条通へ向けて出発。日本一近接している二つの小学校、環濠集落や珍しい地名など案内して10時40分頃郡津神社に到着。
 地元の巽憲次郎氏より、郡津神社の由緒や長宝寺のことなどの説明を受けた後、門前で元気な皆さん全員で記念撮影。倉山・郡衙跡を探索し、明遍寺〜弘法の井戸〜丸山古墳〜極楽寺などを廻って、郡津駅前で12時過ぎ解散しました。


 なお、交野広報の集合時間を9時と誤り掲載した関係で、先発組(10名)で松塚のまち中探訪を行いました。また、そのために早朝より、役員の方々、参加された皆さんに多大なるご迷惑をお掛けしましたこと、心よりお詫びし、いろいろと御協力頂き感謝申し上げます。

 写真撮影は、伊東征八郎氏、毛利信二氏、高尾秀司氏にお願いしました。

 また、当日は、地元ケーブルテレビ(ケイ・オプティコム K-opti.com)の取材を受け、1月5日午前11時45分放映され、その後数度にわたり再放送されました。
 当日配布しましたレジメは、下記の資料を参考にさせていただきました。
 記して感謝申し上げます。


  交野市史復刻版、交野市史民俗編、交野市史考古編 交野市史自然編、
  ジュニア文化財ガイドブック、交野広報、奥野平次氏写真集、松塚30年史、
  交野ヶ原の古代寺院レジメ、黒田幸男氏作成レジメ他
当日は、地元ケーブルテレビ(ケイ・オプティコム K-opti.com)の取材を受け、
1月5日午前11時45分放映され、その後数度にわたり再放送されました。
交野古文化同好会の初歩き レジメ
 市役所別館の壁に掲げられている片山長三氏の描かれた古代の交野が原。中央右手に流れる天野川、その右岸の台地には交野郡衙があり、長宝寺が建つ。南面して左右に塔が建ち、金堂、講堂と並ぶ姿は薬師寺式の寺院に描かれている。天の川の上流に天田宮に磐船神社がある。古代の交野が原の様子が浮かび上がってくる。

 淀川に流れ込む天の川の下流部に伊香郷がある。息長氏の一族である。息長氏は天皇家の皇后を多く輩出した豪族で、本拠は滋賀県米原から長浜にかけての地域である。その上に田宮郷があり、田宮の津である。これも息長氏の一族田宮姫の里である。付近に万年寺山古墳、禁野車塚古墳などがあり、大いに勢力を張っていた。その上に郡津があり、郡津の津である。台地には交野郡衙があり、長宝寺が建つ。またその上には船戸があって、船戸の津で天野川の最上流の津である。ここからかいがけの道を上がり傍示から富雄を経て大和に通じる最短路である。


 (交野古文化同好会40周年記念講演 水野正好先生 参照)


平安時代後期 交野地方の想像復元図  片山長三氏

●郡津とは・・・・郡津と書いて「こうづ」と読む。おこりは郡衙(ぐんが・役所)の門の前からおこったので郡門村。最初は「こうど村」といった。いつのまにか「づ」と呼ばれ、大坂奉行所の命により「郡津」と改めた。(1804年)
●交野ぐん郡が衙とは・・・・
古代律令社会で地方の民を統卒するのが郡司、年貢米を徴収する中心地が「郡衙」役所であって米倉が林立していた。
※高槻の「郡家」・茨木市の「郡山」、「郡家}・寝屋川の「茨田郡家」など同例
 
くらやま郡衙跡推定図
 奈良時代に入ると、郡津に交野郡(現在の交野市・枚方市)の郡衙(役所)が置かれたと考えられている。交野の中心が郡津に移ったために、沢山の土器がそこで使われました。長宝寺小学校の北側、郡津神社付近に役所やお寺の施設があったと思われます。
肩野津(かたのつ)(郡津)
 交野郡衙で働く役人は、農民たちから米を集め、平城京へ運びました。平城京の発掘調査で、肩野津(郡津付近にあったと思われる港)から米を運んだことが書かれた木簡が見つかっています。「交野」という人の名前も木簡に書かれていました。交野郡の出身で、平城京で働いた人であったと思われます。
まちの名に歴史あり
【郡津の名のおこり】
 古代、律令(りつりょう)体制(たいせい)時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山(くらやま)の地で、私市(きさいち)から枚方(ひらかた)まででとれた年貢米(ねんぐまい)を、当時の長であった郡司(ぐんじ)さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺(ちょうほうじ)という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳(はくほう)時代(じだい)(七世紀後半、約1300年前)郡津(こうづ)は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。

 郡津の村は、環濠集落(かんごうしゅうらく)=【外敵から財産や身を守る村】、と言われている。村から出る所に、東ノ口、西口、西代(にしんだい)などの地名が残っている。防御策(ぼうぎょさく)として溜池(ためいけ)、長池などが利用された。また、台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るように作られている。 長宝寺小学校の北側は、春日宮(かすがのみや)お出(おで)待ち(まち)大門(だいもん)、やぐら池、(とり)待ち田(まちだ)など、楽しい歴史的地名が残った土地である。

 【郡津の「くらやま」は、
明遍時から郡津神社にかけて一段高くなった台地を形成しており、この台地に郡司(ぐんじ)が住み、蔵が建ち、郡司の一族の力で郡衙(ぐんが)の東隣の今の郡津神社の場所に
長宝寺が建てられていたことが確認されている。 長宝(ちょうほう)寺址(じあと)遺跡(いせき)の中央には郡津神社の社殿が建てられているが、その周辺から、多くの白鳳(はくほう)時代(じだい)の瓦片が出土している。
 交野には面白い・変わった地名が数多くあります。その由来については、はっきりと分かっていないところもありますが、いろいろな言い伝えが残されています。
 交野の昔に思いをはせながら地名にまつわるお話を紹介します。
 (交野広報)より
郡津(こうづ)
 今は郡津と書きますが、江戸時代の中ごろには「郡門」と書いて「こうづ」と読むことが一般的でした。「郡」とは8世紀に施行された国郡里制の郡を指しています。つまり交野郡の役所があった所を意味していると伝えられています。
その中心地であった郡津神社の付近からは、白鳳時代の瓦が出土しており、役所があったのではないかと考えられています。というのも、当時は瓦ぶきの建物は、大きな寺院や役所に限られていたためです。

長淵(ながぶち)
 今の府営交野松塚住宅あたりが「長淵」です。北川が天野川に流れ込む手前の低湿地で、団地が造成される前は、京阪電車交野線の西側にアシの生い茂った水路や池がたくさんありました。ちょっとした大雨が降ると、この付近は水がたまり、水面が広がっていました。現在は団地が立ち並び、当時の面影はなくなっています。ここに残されている言い伝えは、色好みで文才に長けた美男子として都で評判の交野の少将が、鷹狩をしたときに交野郡司の館に泊まると、その郡司の娘が交野の少将に一目ぼれしてしまいます。
 しかし、恋多き男である少将が郡司の館を再び訪れることはなく、ただ月日が過ぎていくことに絶望した娘は長淵へ身投げを決意します。娘は自分の着物の端を引きちぎり、淵のそばを通りかかった鵜飼の男が灯していたかがり火の墨で着物の端に辞世の歌を書きつけ、それを少将に渡すように鵜飼の男に言い残して長淵に身を投げました。

    「かつきゆる うき身のあわと成りぬとも 誰かは間はん 跡の色波」
                        『風禁集』巻14・恋

遠坂(とうさか)
 文字通り遠い坂です。東高野街道が郡津の地を離れ、枚方市の村野、春日、四辻へ抜けていく道があります。出鼻橋を渡ると一段高い台地上に上がります。
 昭和30年代までは、道の東側はうっそうとした竹やぶで、西側は芋畑でした。昼でも薄気味悪く、おまけに坂の上り手に、郡津と村野の墓地があり、夜などは一人で歩けないほどで、大平洋戦争前までは山賊が出たという話も聞きます。今では村野浄水場ができ、竹やぶは取り払われて枚方工業団地に、墓地周辺も住宅地に変わり、昔の暗いイメージはすっかり無くなってしまいました。
鳥待ち田(とりまちだ)
 郡津神社から私部へ戻る道を、神社の南から南尾谷へだらだらと下り、直角に二度曲がると谷に出ます。その曲がり角に、田が一枚あり、この田のことを鳥待ち田といいました。その名前から昔ここから南尾谷の混地帯に舞い降りる鳥を、猟師がじつと待ちかまえていた様子が目に浮かぶようです。今では、その田や南尾谷には長宝寺小学校が建ち、その面影は消えてしまいました。

茶屋(ちゃや)
 京都から高野山へと続く東高野街道沿いには、旅人の疲れを癒してくれる休憩所がいくつもありました。なかでも郡津の茶屋は有名で、江戸時代の絵図にも記載されています。
 むかし、ある日のこと、茶屋の前に来た旅の僧侶が水を一杯ほしいといいましたが、あまりにみすぼらしい姿に誰も相手|こしませんでした。気の毒に思った上茶屋の人が水を差しだすと、実は、その僧侶とは弘法大師で、お礼に清水の湧き出る場所をその人に教えた、という言い伝えが残されています。

生野(いくの)
 今池を取り巻いて郡津の「生野」があります。その東と南には倉治と私部の幾野があります。どちらも同じ意味で荒野・原野のことで、開墾の進まない水の便の悪い土地のことです。しかし、逆に住宅地としては好適地といえるため、今ではたくさんの住宅地になりました。

西久保(にしくぼ)
 東高野街道の下茶屋から東の台地一帯、郡津神社までを西久保といいます。久保というのは窪地のことで、水たまり・水が良く沸くという意味で、多くはくぼんだ小さな水田適地のことを言います。郡津の場合は、窪地ではなく台地になっていますが、その周辺に水量の豊富な丼戸が多かったため、西久保の田のほとんどが一等地でした。

二ノ宮(にのみや)
 明治時代までは郡津には一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮の三つの神社がありました。現在の郡津神社は一ノ宮で、祭神は素戔嗚尊で、ニノ宮は住吉神を、三ノ宮は天照大神を祀っていました。
 ニノ宮は東高野街道にあった上茶屋の西の台地上にあり、三ノ宮は大塚にありました。明治6年にニノ宮・三ノ宮が一ノ宮に合祀されて、名前も郡津神社になりました。

2016年1月2日、初歩きMAP


郡津駅前に集合
 

当日は、地元ケーブルテレビ(ケイ・オプティコム K-opti.com)の取材を受け、
1月5日午前11時45分放映され、その後数度にわたり再放送されました。

交野の都 碑
 古代の郡津は郡衙の門前であったことから郡門と記されていましたが、江戸末期に今の郡津に改められました。東高野街道、磐船街道が通る交通の要衝で茶屋が立ち並んでいて大変賑わい奈良・平安時代は「交野の都」でした。 交野遊猟の宮人もしばしばこの地を訪れ詩歌を詠むなど風情を楽しみました。貝原益軒も「南遊紀行」で「香津の茶屋」を紹介しています。

 郡津の地は交野物部氏の祖先が天野川沿岸で稲作を始めた弥生時代の終わり頃から拓けたところでした。大化改新(645年)より交野の地にも条里制が敷かれその中心である五条通の郡津は交野の郡衙(郡の役所)が置かれました。 郡津神社境内は白鳳時代郡司が交野地方最初の寺院として建立した長宝寺跡で出土品から当時の壮観さがうかがえます。

          平成元年6月 管理者:フジサンケイグループ、寄贈:松下電器産業

うずらなく 交野のみ野の草枕 いく夜かり寝の数つもるらん
 藤原基氏「続後拾遺和歌集」より
 藤原基氏。権中納言・基家の三男。承元5年(建暦元年・1211)〜弘安5年(1282)。72歳。寛喜4年(貞永元年・1232)に22歳で検非違使別当となったが、24歳で辞任し出家。円空と号した。園流の料理の祖。
 庖丁者:庖丁人。庖丁師。基氏の生まれた家は四条流の庖丁の家柄で、基氏はその分派・園流を開き、子孫に受け継がれた。「庖丁者」は魚鳥を扱ったが、特に鯉の料理を職掌とした。
松塚公園内に汚水貯留槽設置工事中
平成27年5月〜28年3月26日

ゲリラ豪雨など汚水貯留槽の設置工事中。
東高野街道を歩く
古代交野地方条里区画五条通遺跡 碑
条里制  6町 約600m  6町毎に大路が東西に 
天の川沿岸54町を9条で区割り 中間が郡津 5条通り


東高野街道から倉山へと続く古道
日本一近接して建てられている小学校
交野市立郡津小学校と長宝寺小学校  
何と直線距離約150m
交野市には、10校の小学校があります。

郡津小学校 住所は郡津4丁目。
交野町時代1968年に、交野小学校から分離開校された、市内で3番目に古い小学校です。

長宝寺小学校 住所は、郡津1丁目。
市内第7校目の、交野小学校及び郡津小学校から1975年、分離開校された小学校。
同じ郡津にあるんですが、郡津小学校は、交野市立第二中学校へ。
長宝寺小学校は、交野市立第一中学校へそれぞれ進学するんだそうな。
郡津にお住まいのヒトで、長宝寺小学校に進むのは1丁目の1〜3番、37番〜43番なんだそうです。
他の郡津1丁目の4〜36番、44〜70番、2〜5丁目は、郡津小学校なんだそうな。

   (WEB 交野タイムズ 参照)


郡津環濠集落図
 郡津の村は、環濠集落(かんごうしゅうらく)=【外敵から財産や身を守る村】、と言われている。村から出る所に、東ノ口、西口、西代(にしんだい)などの地名が残っている。防御策(ぼうぎょさく)として溜池(ためいけ)、長池などが利用された。また、台地上に集落があり、谷を防御に村の財産や人の命を守るように作られている。 長宝寺小学校の北側は、春日宮(かすがのみや)お出(おで)待ち(まち)大門(だいもん)、やぐら池、(とり)待ち田(まちだ)など、楽しい歴史的地名が残った土地である。
昭和30年ごろの西久保あたりの風景   井戸が田んぼ毎に掘られていた
はねつるべ、ポンポン発動機で水をくみ上げる風景 

郡津神社
京阪電車・郡津駅より東へ徒歩15分。
祭神は、本殿が素盞嗚命(すさのおのみこと)・住吉明神・天照大神、
末社には金刀比羅大神・天神地祀・稲荷大神・貴船明神が祭られている。


地元の巽憲次郎氏より、郡津神社の由緒や長宝寺のことなどの説明を受けた
 祭神は、本殿が素盞嗚命(すさのおのみこと)・住吉明神・天照大神、末社には金刀比羅大神・天神地祀・稲荷大神・貴船明神が祭られている。今の郡津神社は、郡津神社として現在の地に祭られているが、明治以前は、一ノ宮・二ノ宮・三ノ宮と、別々の土地に祭られていた。今の郡津神社が一ノ宮で、祭神は素盞嗚命(すさのおのみこと)、二ノ宮は住吉明神で東高野街道の上茶屋の西の台地にあった。
 また、三ノ宮は天照大神で大塚の地に祭られていた。明治6年3月、神社の統合がなされ、二ノ宮・三ノ宮が一ノ宮に合祀されて名前も郡津神社となった。 よく言う「牛頭(ごおず)天王」とは素盞嗚命のことであり、疫病除けの神であり、農業の神でもある。
 神社の裏手には明治の初めまで官寺の長宝寺(奈良時代創建)があったと伝えられ、白鳳時代の瓦が出土している。
長宝寺跡
交野郷土史かるだには次のように書かれている。
  「ち」   長宝寺 瓦は語る その偉容
 現在その跡は全く無くなっている。
「河内名所図会」享和元年(1801)刊行に、長宝寺、郡門村にあり。本尊十一面観音、長二尺許。
 「北河内史蹟史話」平尾兵庫著に、長宝寺、大字郡津にある。名所記及び図会には、大堂山長宝寺、十一面観音、長二尺とあるが、由緒は不明である。

 ・村人は明治初年まで郡津神社境内裏手に長宝寺という宮寺があって、そこで寺小屋が開かれていたという。
 ・明遍寺境内の観音堂と九重石塔は宮寺が廃寺となった時に現在の所に移されたという。
 ・昭和35年9月境内から白鳳時代の単弁軒丸瓦や粗目網形文の滑り止めのある瓦片が見つかっている。だんじり倉付近から鎌倉初期の瓦片が見つかる。
・その後の調査で自鳳時代(650〜 710)の寺跡であることがわかる。
・「北河内史蹟史話」に「旧茨田郡友呂岐の郡が郡衙所在地」という。郡津も旧交野郡の郡衙のあった所ではないかといっている。明遍寺の東南隅の道端に「此付近交野跡郡衙跡」の石柱が立っている。
・白鳳時代の頃、交野郡司であった一豪族の居住地と推定される。この寺はその権力者が建立したものであろう。
昭和51年8月から9月にかけて郡津神社の発掘調査が行われて
神殿の東側から「忍冬唐草文軒丸瓦」が採集された。


左、「単弁八葉蓮華文軒丸瓦」  右、「忍冬唐草文」の軒丸瓦
昭和51年12月、明遍寺の南へ二本目の道が台地より西に下がったところで、
奥野平次さんが「単弁八葉蓮華文軒丸瓦」を採集された。

交野郡衙跡推定図


付近の電柱にクラヤマの地名が残っている
「北河内史蹟史話」に「旧茨田郡友呂岐の郡が郡衙所在地」という。郡津も旧交野郡の郡衙のあった所ではないかといっている。明遍寺の東南隅の道端に「此付近交野跡郡衙跡」の石柱が立っている。
明遍寺
浄土宗の宗祖法然の弟子明遍がもとを開いた
 明遍寺は摂取山と号し、源平時代、白河上皇の側近で、学者であった藤原信西が平治の乱(1159年)で源義朝に殺されたが、このとき信西には26人の子があったが、内男子13人は出家して僧になったという。
 明遍はそのうちの1人で兄弟の中でも最も優れていたとのことで、治承年間(1177〜81年)高野山蓮華三昧院で修行したが、浄土宗の開祖法然に帰依し、京都と高野山を度々往復するうち当地(交野郡郡門村)に休息のため庵を作り、近在の百姓に念仏信仰を解いたのに始まるという。寺号はこの明遍より起こるが、その年代は明らかでなく、当初は阿弥陀寺と号したとも伝わる。
明遍寺(摂取山蓮華三昧院)
 交野郷土史かるたには次のように記されている。
      
「ね」念仏を 教え伝えて 明遍寺
 明遍寺は平安時代の僧、明遍の名をとったものといわれている。平治の乱(1159)で、源義朝に捕らえられ殺された藤原信西の子である。高野山蓮華三味院に入つて真言宗を究める。その後、京都黒谷に住
む法然に帰依する。高野山と京を往復するうち、河内交野郡の郡門村にその休憩所として小庵を造り、付近の百姓を集めて念仏を教化したのが当寺の始まりという。

・浪華大福寺了吟輯「新撲往生伝」巻五の中に「明遍僧都従高野山出京之時憩息此所、後為一寺」とある。しかし、現在では明遍が法然に帰依して専修念仏に入つたということは史実性に乏しいとされている。

現在境内には本堂・庫裏・門・鐘楼・地蔵堂・観音堂・庭前に九重石層塔が立つ。
・観音堂、九重石層塔は明治初年に廃寺となつた長宝寺から移されたものである。
・本尊:阿弥陀如来立像、室町時代。来迎印、寄木造り。像高:59 cm。
  脇侍像:観音像、37.2 cm。勢至像、37.3 cm。江戸時代。
・観音堂・本尊:十一面観音坐像、塑像、75.0cm。江戸時代。
・西国三十三所観音像:33体、木造、漆箔。像高は立像で24.8cm。観音堂安置
  この三十三体の観音像は村人が寄進したものである。明遍寺のみならず、他の北河内の寺院でもお祭りする所があり、そうした寺院が巡礼の組合をつくつていた。明治初年頃に須弥寺の第26世住職豊原大賢が発起人となり「河州交野茨田讃良三郡之霊場須礼道中案内表」という北河内の寺院と宿泊を記した木版の絵図を発刊した。この中に、第八番札所として、明遍寺も記されている。現存する観音堂にも『河内西国三十三観音第八番納経札所」と書かれた看板が掲げられている。


本尊:阿弥陀如来立像、室町時代。来迎印、寄木造り。像高:59 cm。
  脇侍像:観音像、37.2 cm。勢至像、37.3 cm。江戸時代。
古式豊かな鎌倉地蔵
花崗岩の自然石に船形状に彫りくぼめをし
その中に、肉彫りで阿弥陀如来坐像が彫られている
九重の層塔(四方仏)  元は長宝寺にあったもの
南北朝時代から室町時代前期ころのもの

東高野街道の地蔵の辻
中伝次郎宅の「弘法の井戸」
 昔、ある日のこと、茶屋に見すぼらしい旅の僧が来て水を一杯ほしいと所望したが、誰も水をすすめる者がなかった。ところが上茶屋で水を汲んで差し出す人がいた。その僧は弘法大師で、そのお礼に清水の湧き出る場所を教えたという。茶屋町の瑞塔寺跡の向いに「中 伝次郎さん宅」がある。屋敷玄関の右側に「弘法の井戸」が現存。

東高野街道
日蓮宗  瑞塔寺
東高野街道の上茶屋の中程東側に日露戦争のころまで瑞塔寺はあった

郡津の瑞塔寺の石塔
享保8年(1723)9月28日と刻まれている
だら池
 郡津3丁目の北尾の集落の東高野街道沿いに四角い池がある。この池を「だら池」と呼んでいる。「だら」とは交野の方では下肥のことである。この池は下肥の捨て場になっていたとはいえない。北尾の集落の家庭の使った水が集まってこの池に流れ込んでいたので、いつも濁った池で悪水を貯めていたから自然とこのような呼ばれ方になったと思われる。夏はハスの花が咲いて綺麗です。

郡津丸山古墳
 郡津山崎の地に築かれ、現在では円墳のような形から丸山古墳と呼ばれている。が、実際は南北方向の前方後円墳ではなかつたかと推測されている。
 墳丘の最頂部は31.3m、周囲より8mほど高い。仮に前方後円墳とすると、100mにも及ぶ規模になる。古墳の前方部と思われる部分と丸山との接合部分に道路がつけられた際、その断面より土師器片が出土したと伝えている。
 丸山古墳の東と南に小さな池がかつてあった。これが古墳の周濠であつたと推定されている。築造年代・墳形・埋葬施設などは不明である。

 2014年、同志社大学の研究室により測量調査がなされたが、まだ未発表である。研究成果を待ちたい。

丸山古墳の全景(南から撮影)
西方山 極楽寺
極楽寺(融通念仏宗、平野大念仏寺の末寺)

1345年(貞和元年)頃に創建され、大阪冬の陣(1614)で全焼、1688(元禄元)年に
仮本堂が出来、1700年代は隆盛したが、その後老朽化が進み、明治35年に再建された。
融通念仏宗
 融通念仏宗の開祖、良忍上人(聖応大師)は平安時代後期の人で、比叡山に入つて修行し、円仁(慈覚大師)がもたらした修行の一環に念仏を取り入れる浄土思想に領注し、自己の唱える念仏の功徳が自他ともに融合し、一人の念仏往生が衆人の念仏往生を約束するという教えで、

   一人一切人、一切人一人、一行一切行、一切―行

 良忍は摂津平野の大念仏寺で法を説き、元享年間(1321〜 23)には良尊(法名上人:上の山の本尊掛け松)が全国へ融通念仏を勧め、その後門弟たちは京都嵯峨野の清涼寺を中心に活躍。戦国時代以降集団として固定化し、元禄年間(1688〜 1703)に大通融観が大念仏寺の第46世となり、一宗の規定を定め学寮を設けて宗学の研究、学僧の養成を計つた。

最近、綺麗に修復されました。
境内の江戸時代の地蔵尊に「郡門」の文字が彫られている

 古代律令体制時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山(くらやま)の地で、私市(きさいち)から枚方(ひらかた)まででとれた年貢米(ねんぐまい)を、当時の長であった郡司(ぐんじ)さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺(ちょうほうじ)という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳(はくほう)時代(じだい)(7世紀後半、約1300年前)。郡津(こうづ)は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。
弘法大師の常夜灯
弘法大師の常夜灯(大峰山講、文政13年、1830年の銘がある)
今も、地区の皆様が月2回常夜灯のお世話をされて大切に守られている。
郡津の在所、極楽寺から閑静な町並みを歩く。

12時過ぎ、郡津駅前で立花会長の挨拶で解散しました。


午前9時の先発組でご案内したレジメ>
交野少将の話 (郡津)

都が平城京から長岡京・平安京に移った頃、(かん)()天皇(てんのう)頻繁(ひんぱん)に交野へ行幸(ぎょうこう)され鷹を放って遊猟(ゆうりょう)されている。その後も、嵯峨天皇も遊猟された記録が10回も記録されている。天皇の遊猟に伴って、皇族や宮廷人たちも続々と交野ヶ原へ来るようになった。その中でも、文徳天皇の皇子(これ)(たか)親王(しんのう)在原業平(ありはらのなりひら)などにまつわる伝説が有名である。

郡津にあったと思われる交野郡衙(かたのぐんが)(=役所)に交野郡の郡司(ぐんじ)(現在の交野市長のような人)で(みや)()弥益(びえき)という豪族(ごうぞく)がいました。郡津には、この郡司の娘が失恋して天野川のよどみの「長渕(ながぶち)」に飛び込んでしまったと言うお話があります。

昔、交野少将(京都の貴族、姿は美しく文章も上手く好い男)が交野に鷹狩(たかがり)に来た時、交野郡司の家に泊まり、その娘と一夜を契ったことがある。その後、待てども少将はあらわれず、娘はいつまでも少将のことが忘れられない。こんなに待っても来てくれないのは、私を見捨てたからだろうと、大変絶望し、近くの水辺に出て身を投げようとしていた。そこに鵜飼(うかい)をする男がいた。娘は袴の腰を引き裂き、鵜飼のかがり火の松の炭で、その布に歌を書いて「これを少将様に」とその男に渡し、身を投げたと言う。

「 かつきゆる うき身の(あわ)と成りぬとも 誰かはとはん(あと)の白浪」
               「風葉和歌集」 巻一四・恋四

 長渕(ながぶち)は、申田川より東で山崎までの郡津では一番低い土地である。現在は京阪電車から東だけ残っている。一番低かった京阪より西が埋め立てられたため、昔の葦(あし・よし)の茂った湿田、酒沢池の景観は消滅してしまった。
 免除川、村野との境界を流れる北川とが合流する手前であるのと、天野川の水を最後にため込むのでいつまでも水が引かない。そのようなことから遊水池の役目をなしていた。埋め立てられる前は電車沿いに長渕の地名どおりの長い池があった。そこから今も電車沿いに川があるが、これが当時の排水路であった。
 大雨が降れば線路だけかろうじて見えるが、架線を支える電柱だけが見えているといった―面湖と化してしまう場所であった。


      

郡   津 (こうづ)
郡津駅(昭和40年ごろ)交野市内で一番変わったのは、郡津駅付近である。昔、大雨が降ると郡津駅の北側は、水があふれて京阪電車がとまることがあった。
 駅のまわりには、何もなかった。松塚に大きな町ができ、梅が枝の町がその南にできた。
(昭和41年ごろから開発された)
 現在の郡津駅は、昭和47年に建設された
 松塚の町名になっている所の小字名は、申田と長淵である。
申田は、免除川が現在は交野幼稚園の裏から直接天野川に流入しているが、昔はここから再び東へ大きく湾曲し、また北へ折れて今の村野のぎんが保育所の辺りで北川と合流して天野川に流入していた。この川を申田川と呼んでいあ。この間に挟まれた地域が申田であった。この申田川より東が二ノ宮、長淵である。長淵の方が申田より土地は低く、湿地であった。
交野は海だった!

駅前の松塚ユニライフマンションが建設中、地下33メートルの泥土から海の貝の化石が発見され、郡津のこの付近は、今から5万年から7万年前、海であったことがわかった。 

交野は海だった!
奥に見えるのが、ユニライフ
建設中、貝が出てきた!
今から5万年から7万年前、
海であったことがわかった!


<番外編>  住吉神社へ初詣  
高尾秀司さん提供 2016.1.2 午後


 次回は、3月12日(土)高尾秀司氏の案内で、「大塩平八郎の守口・門真の旧跡探訪」です。
 集合は京阪・交野市駅、午前8時15分で、12時解散予定です。
 お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。

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