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付近の電柱にクラヤマの地名が残っている |
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「北河内史蹟史話」に「旧茨田郡友呂岐の郡が郡衙所在地」という。郡津も旧交野郡の郡衙のあった所ではないかといっている。明遍寺の東南隅の道端に「此付近交野跡郡衙跡」の石柱が立っている。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
浄土宗の宗祖法然の弟子明遍がもとを開いた |
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明遍寺は摂取山と号し、源平時代、白河上皇の側近で、学者であった藤原信西が平治の乱(1159年)で源義朝に殺されたが、このとき信西には26人の子があったが、内男子13人は出家して僧になったという。 明遍はそのうちの1人で兄弟の中でも最も優れていたとのことで、治承年間(1177〜81年)高野山蓮華三昧院で修行したが、浄土宗の開祖法然に帰依し、京都と高野山を度々往復するうち当地(交野郡郡門村)に休息のため庵を作り、近在の百姓に念仏信仰を解いたのに始まるという。寺号はこの明遍より起こるが、その年代は明らかでなく、当初は阿弥陀寺と号したとも伝わる。 |
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明遍寺(摂取山蓮華三昧院) 交野郷土史かるたには次のように記されている。 「ね」念仏を 教え伝えて 明遍寺 明遍寺は平安時代の僧、明遍の名をとったものといわれている。平治の乱(1159)で、源義朝に捕らえられ殺された藤原信西の子である。高野山蓮華三味院に入つて真言宗を究める。その後、京都黒谷に住 む法然に帰依する。高野山と京を往復するうち、河内交野郡の郡門村にその休憩所として小庵を造り、付近の百姓を集めて念仏を教化したのが当寺の始まりという。 ・浪華大福寺了吟輯「新撲往生伝」巻五の中に「明遍僧都従高野山出京之時憩息此所、後為一寺」とある。しかし、現在では明遍が法然に帰依して専修念仏に入つたということは史実性に乏しいとされている。 現在境内には本堂・庫裏・門・鐘楼・地蔵堂・観音堂・庭前に九重石層塔が立つ。 ・観音堂、九重石層塔は明治初年に廃寺となつた長宝寺から移されたものである。 ・本尊:阿弥陀如来立像、室町時代。来迎印、寄木造り。像高:59 cm。 脇侍像:観音像、37.2 cm。勢至像、37.3 cm。江戸時代。 ・観音堂・本尊:十一面観音坐像、塑像、75.0cm。江戸時代。 ・西国三十三所観音像:33体、木造、漆箔。像高は立像で24.8cm。観音堂安置 この三十三体の観音像は村人が寄進したものである。明遍寺のみならず、他の北河内の寺院でもお祭りする所があり、そうした寺院が巡礼の組合をつくつていた。明治初年頃に須弥寺の第26世住職豊原大賢が発起人となり「河州交野茨田讃良三郡之霊場須礼道中案内表」という北河内の寺院と宿泊を記した木版の絵図を発刊した。この中に、第八番札所として、明遍寺も記されている。現存する観音堂にも『河内西国三十三観音第八番納経札所」と書かれた看板が掲げられている。 |
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本尊:阿弥陀如来立像、室町時代。来迎印、寄木造り。像高:59 cm。 脇侍像:観音像、37.2 cm。勢至像、37.3 cm。江戸時代。 |
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東高野街道の地蔵の辻 |
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中伝次郎宅の「弘法の井戸」 | |||||||||||||||||||||||||||||||
昔、ある日のこと、茶屋に見すぼらしい旅の僧が来て水を一杯ほしいと所望したが、誰も水をすすめる者がなかった。ところが上茶屋で水を汲んで差し出す人がいた。その僧は弘法大師で、そのお礼に清水の湧き出る場所を教えたという。茶屋町の瑞塔寺跡の向いに「中 伝次郎さん宅」がある。屋敷玄関の右側に「弘法の井戸」が現存。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
東高野街道 |
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日蓮宗 瑞塔寺 東高野街道の上茶屋の中程東側に日露戦争のころまで瑞塔寺はあった |
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郡津の瑞塔寺の石塔 享保8年(1723)9月28日と刻まれている |
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だら池 | |||||||||||||||||||||||||||||||
郡津3丁目の北尾の集落の東高野街道沿いに四角い池がある。この池を「だら池」と呼んでいる。「だら」とは交野の方では下肥のことである。この池は下肥の捨て場になっていたとはいえない。北尾の集落の家庭の使った水が集まってこの池に流れ込んでいたので、いつも濁った池で悪水を貯めていたから自然とこのような呼ばれ方になったと思われる。夏はハスの花が咲いて綺麗です。 | |||||||||||||||||||||||||||||||
郡津山崎の地に築かれ、現在では円墳のような形から丸山古墳と呼ばれている。が、実際は南北方向の前方後円墳ではなかつたかと推測されている。 墳丘の最頂部は31.3m、周囲より8mほど高い。仮に前方後円墳とすると、100mにも及ぶ規模になる。古墳の前方部と思われる部分と丸山との接合部分に道路がつけられた際、その断面より土師器片が出土したと伝えている。 丸山古墳の東と南に小さな池がかつてあった。これが古墳の周濠であつたと推定されている。築造年代・墳形・埋葬施設などは不明である。 2014年、同志社大学の研究室により測量調査がなされたが、まだ未発表である。研究成果を待ちたい。 |
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丸山古墳の全景(南から撮影) |
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最近、綺麗に修復されました。 |
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境内の江戸時代の地蔵尊に「郡門」の文字が彫られている 古代律令体制時代(7世紀後半頃)に、交野郡(かたのごおり)に郡衙(ぐんが)=役所が設けられた。それが現在の倉山(くらやま)の地で、私市(きさいち)から枚方(ひらかた)まででとれた年貢米(ねんぐまい)を、当時の長であった郡司(ぐんじ)さんが、この倉山の倉におさめて管理していた。その周辺に長宝寺(ちょうほうじ)という立派なお寺が建てられた。交野で一番古いお寺である。時期は白鳳(はくほう)時代(じだい)(7世紀後半、約1300年前)。郡津(こうづ)は昔「郡門(こうど)」といった。郡衙(ぐんが)に入る所に門があり「こうど」といった。いつのまにか、「ど」が「づ」にかわり、江戸時代に、こうづの発音どおり「郡津(こうづ)」と改められた。 |
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弘法大師の常夜灯(大峰山講、文政13年、1830年の銘がある) 今も、地区の皆様が月2回常夜灯のお世話をされて大切に守られている。 郡津の在所、極楽寺から閑静な町並みを歩く。 |
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12時過ぎ、郡津駅前で立花会長の挨拶で解散しました。 |
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<午前9時の先発組でご案内したレジメ> | |||||||||||||||||||||||||||||||
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<番外編> 住吉神社へ初詣 高尾秀司さん提供 2016.1.2 午後 |
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次回は、3月12日(土)高尾秀司氏の案内で、「大塩平八郎の守口・門真の旧跡探訪」です。 集合は京阪・交野市駅、午前8時15分で、12時解散予定です。 お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。 |
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最後までご覧いただき有難うございました |