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2017年 新春恒例の初歩き
天田宮神社から普見山・獅子窟寺へ
国宝・薬師如来座像と王の墓

 明けましておめでとう御座います!今年は酉年(とりどし)です。
頂戴した年賀状は可愛らしい「とり」のイラスト入りが圧倒的でした。

1月2日、交野古文化同好会の恒例の初歩きに参加して、
天田神社から獅子窟寺にお参りして健康で過ごせるようお祈りして来ました。


日時:平成29年1月2日(月)  午前10時集合  集合場所 京阪・河内森駅前 
京阪河内森駅→天田神社・川東神社→安産地蔵→仁王門跡→
 国宝・薬師如来坐像→獅子窟岩→王の墓→六地蔵・滝が広の墓  12時30分解散 
参加23名(会員14名)
  案内: 村田義朗氏

 2017年1/2(月)、天候晴れ。参加者23人。年末から穏やかな良い天候が続き、正月三箇日は晴れるでしょうとの予報通り、申し分のない初詣日和となり幸い風もなく暖かく、「明けましておめでとうございます」「どうぞ今年もよろしくお願いします」と、口々に挨拶をしているところへ続々と集合され、総勢23名の元気な皆さんが顔を揃えられた。立花会長の新年の挨拶のあと、天田神社で初詣、全員で記念撮影。当日は2時間30分のウォークとなりました。

 (参考資料) 交野市史及び考古編、交野町史、ふるさと交野を歩く(山の編)、その他WEB検索資料

元気な皆さんが勢揃い!天田神社で記念撮影
天田の宮は田の神まつる「交野郷土史かるた」より
天田神社は私市、森の氏神社で住吉四神を祀る。
古代この地方は土地が良く肥えて、作物が豊かな野であったので、
甘野といわれ、川は甘野川、田は甘田であった。
この甘田に田の神を祀って建てた甘田宮が当天田神社の起源と言われている。
境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、付近の山麓からは
肩野物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、
当地の歴史の古さを偲ばせるものがあります。
祭神 本社
表筒命(うわつつおのみこと)、中筒命(なかつつおのみこと)、
底筒男命(そこつつおのみこと)、息長帯姫命(おきながたらしひめのみこと


天 田 神 社
【天田神社】
 創建:年代不詳だが交野で稲作が始まった弥生時代頃に田の神をお祭りするするために創建された神社。
裏山に物部氏のものと見られる古墳群があり、物部氏の祖先を田の神様として祭っていた。
ご祭神:住吉明神(四神)物部氏との関わり。私市・森の村社であり、元は寺村の住吉神社も合祀していた。

御神木


境内の広場に古い社が北向きに建てられていたそうである

天田神社の鳥居
川東神社
【川東神社】
 創建:年代不詳だがこの地には天暦3(949)年に石清水八幡宮の荘園三宅山荘園が設置され、津田から星田までが含まれる広大なもので、鎌倉時代まで続く。当社はその頃に創祀されたと思われる。
 ご祭神 :品陀別命(八幡さま)  森・私市の同地区の氏子は勅祭石清水祭においてそれぞれ火長神人、御前払神人として現在でも奉仕している。

 また、当社の創建年代は詳らかではないが森地区は古来岩清水八幡宮の所領であった事が知られ、平成十二年には区域内の 河内磐船駅北側より平安時代の三宅山荘園の遺構が発掘され、鎌倉時代まで荘園が続く事が確認された。また森地区の氏子は石清水八幡宮の勅祭岩清水祭に御先払神人として毎年奉仕しており未だに強いつながりを持っている。このような事から氏神として八幡大神である御祭神をお祭りしたものと思われる。

当社の前に円柱状の灯篭の変形のようなものが一対立っている。
 それには壽永寺元皓と僧名が刻まれている。この人はもと森向井家の出で、須弥寺本隆和尚に導かれて佐太来迎寺に入り、後江戸浅草の 幡隨院で修業し、遂に宗学の奥を研めたので、芝増上寺走誉によって 江戸寿永寺住職にせられた人。寛永年間父母の墓参のため森に帰り当村領主大久保家のために大いに尽くすところがあったので、同家よりその宗家向井五衛門に扶持、馬、槍を許した。
 よって、向井家では当社の前に長い広場を設けて、そこを調馬場 とした。(現在)
又この人は氏宮へ石鳥居を寄進したが、後それが倒壊したので その材を用いて立てたのが、現在社前にある一対の立石である。

寿永寺元晧 (江戸寿永寺 住職)

川東神社の鳥居
今年は酉年
 平成29年(2017)は「酉年」 朝を告げるとして古来より尊重された。  (平田語録より)
 「天の岩戸」開きの神話(古事記)では、弟のスサノオ(素戔嗚尊)の数々の蛮行を怒ったアマテラス(天照大御神)が、天の岩戸に隠れ籠ってしまう。このため天地は暗闇の世界となる。困った八百万(やおよろず)の神々は相談して、まず岩戸の前に長鳴鶏(ニワトリ)を集めて鳴かせた。つまり夜明けを告げさせた。

 ニワトリは、この神話から神鳥とされ、神前にニワトリの止まり木が造られ、鳥居となったという。

 この他にも諸説があるが、海外でも鳴声で闇の悪霊を追い払うとか、風見鶏として災いを防ぎ、天気を告げると言われている。 「とり」は時を知らせ、「福とり」や「取り込む」に通じるので縁起が良いとされる。
 2017年、皆様にとって素晴らしい一年でありますよう、明るく、楽しく、元気よく羽ばたきましょう。 
干支にちなんで鳥居に注目
「酉年だから鶏のいる神社がめでたい。」確かにそれもありますが、理由はそれだけではありません。神社にいる鶏は、神様の使いなのです。
皆さんは「神使(しんし)」という言葉をご存知でしょうか?
神使(しんし)とは、神道において、神様の使者となり、神の真意を示すために人と接触する動物のことです。
そう、神社にいる鶏は、まさに神使(しんし)なのです。
酉年の年明けに鶏のいる神社に行けば、ご利益がありそうですよね。

奈良県天理市の、古い歴史を持つ石上神宮(いそのかみじんぐう)。
ここにはたくさんの鶏がいますが、マスコット的な存在で人気です。
石上神宮で見ることができる鶏は、長鳴鶏(ながなきどり)の一種の東天紅(とうてんこう)と烏骨鶏(うこっけい)。天然記念物です。その他、採卵用種のレグホン・ミノルカを含めて、約30羽が棲息しています。
★神社の鳥居はどうしてその名前に鳥と居がつき、あの形なんだろう。

 神社に行くとその前にたいていあるのが「鳥居」です。このような形の鳥居と呼ばれるものはなんのためにあり、どうしてこんな形になったのか、またどうしてこれに鳥居と名前がついたのか。鳥のような形はしていないが、どこから鳥と関係しているのか。このような疑問が湧いてきます。神社の前の鳥居は「ここからは神域です」との印、また「神様の通り道」とも言われています。

 鳥居には、次の二つの形が殆どですが、中には、三輪鳥居や三つ鳥居などもあります。

【明神鳥居(みょうじん)】
 ・明神系:神明に比べて「明神」系は、仏教建築の影響があり、やや曲線的です。横木は、笠木の下に島木が添えられていて、両端が反っているもの(反増=そりまし)もあります。柱も地面に垂直ではなく、やや斜めに立ち、根元に行くほど太くなっているようになっています(ころび)。安芸の宮島の厳島神社、奈良の春日大社や、京都・平安神宮、石清水八幡宮が「明神」系になります。
 明神鳥居(みょうじんとりい)は上の横棒が上にそっていて、下の棒が柱の外に出ています。縦柱は斜めです。OO明神というような神社などでよくみられます。漆をぬることが多くみられます。

【神明鳥居(しんめいとりい)】
・神明系:「神明」系は、シンプルな形で横木には島木がなく、笠木と貫の二本で、縦柱もまっすぐ垂直に立っています。伊勢神宮や靖国神社、熱田神宮、鹿島神宮などが、この「神明」系の鳥居です。

  お宮を出て、左に上ってゆくと坂口に出る。井上姓が多く、長慶天皇と関係のある方々だと聞く。獅子窟寺の上り口に、「獅子窟律寺」「南無阿弥陀仏」「従是六丁」などと刻まれた三つの碑が建っている。
  中央の名号碑から寛保元年(1741)酉8月日 坂口久兵衛と銘記されているそうです。  


河内名所図会 享和元年(1801)
描かれてる絵図を丹念に見てゆくと、往時のことが細かく解ってくる貴重な資料です。
獅子窟寺
京阪電車・私市駅、河内森駅、またはJR河内磐船駅よりそれぞれ徒歩約40分。
普賢山獅子窟寺といい、真言宗高野山派に属する。

 獅子窟寺の上り口よりゆっくりと登り始めると、獅子窟寺の参道の中ほどの山側に、室町時代の作と思われる丈52センチの首なし地蔵がおられる。私市の老婦人たちは、この地蔵を「安産地蔵」と呼んでいる。
 昔、臨月になると、妊婦がここまで上がってきて、「元気な子どもを産まして下さいますように。子どもが出きたら、いいお乳(母乳)が出ますように」と祈ったという。明治のはじめ排仏毀釈の運動が起こった時、この石仏の上部を飛ばしたのではないかといわれている。

 さらに上ると、左右に「聖武天皇勅願、行基菩薩開創、役行者、弘法大師、修行旧蹟」「当山禁 殺生 制酒辛」と刻まれた石柱が立っている。昔は、ここに山門があり、牛臥石の上を越してお参りした。参道は平らで広い、ここまで登るとほっと一息できる。
 昔、両側には松並木があったが、昭和9年(1934)の第1室戸台風で倒れてしまった。参道の奥まった所の石組みの中央に仁王門跡の立札が立っている。仁王さんは今は本堂におられる。右に折れ、少し崩れた道を行くと百四つ(元は百八つ)の石段がある。
 亀山上皇はご本尊の薬師仏に病気平癒を祈られ、全快した喜びに荒廃した寺を立派に再建された。嘉元3年(1305年)上皇崩御の時、その徳をしのんで王の墓が建てられたという。

牛臥石

仁王門跡


獅子窟寺の境内からの眺望はお見事です!
当日は、遠くが霞んで山並みが見えませんでしたが・・・。
地 蔵 尊

地蔵尊
西国三十三観音の三十三番札所の谷汲山華厳寺が祀られている

 天 福 岩

天福岩
この岩を抱えて願いを唱えると叶うといわれる
獅子窟寺本堂

初詣客で賑わう本堂

本堂前では、新年のお神酒が振舞われていました
国宝・薬師如来坐像

薬 師 堂薬師堂前で記念撮影
健康で元気に活動が出来ますよう!お祈りしました!

国宝の薬師如来は獅子窟寺  「交野郷土史かるた」より
正月~三日まで、国宝・薬師如来は自由拝観できます!


国宝・薬師如来坐像
亀山上皇の病重く、この薬師仏に祈願したところ、効あって平癒した
(昭和43年3月16日に国宝に指定) 北河内の文化財一覧より参照

 開基は役小角(えんのおづぬ)と伝えられ、本尊薬師如来座像は 弘仁期(平安時代、西暦900年頃)のものとされ国宝である。 

 獅子窟寺本尊の薬師如来坐像は、昭和43年3月16日に国宝に指定された、平安時代の弘仁期(810~824年)の代表作です。薬師如来とは、文字どおり「薬師(医師)」の仏さまで、西方浄土の教主である阿弥陀如来のちょうど対極の東方浄土に住む仏さまです。 寺伝によりますと、この仏像は一刀三礼(1回彫るたびに仏像を3回拝む彫り方)しながら、3年3か月の歳月をかけて、行基菩薩が刻まれた像で、特に授乳のご利益があると伝えられています。
 高さは92センチ、眉、切れ目、口唇などと、衣文の鋭い翻波様式の模様に平安時代初期の特徴があります。また、薬師如来は通常薬壷を持つのですが、この像は珍しく宝珠を持っています。

 薬師如来の脇侍として左右に立つのが日光・月光両菩薩です。悟りを開いた薬師如来のもとで、いまだ悟りを開いてない両菩薩が修行をつむ姿を表しているのでしょう。「右日光・左月光」といわれ昼夜を問わず24時間、人々の苦しみを救うための仏。 さらに薬師如来の守護神としてつかえるのが十二神将です。  十二神将は、薬師如来の十二の願望に応じて現れる十二の分身で、一神がそれぞれさらに七千の従者をもち、合計八万四千の力によって薬師如来の願いをかなえるために守り続けるといわれます。また、昼夜12時間ずつ、一年十二ヶ月ずつ十二神将が交替で守護するものといいます。


 大坂夏の陣、獅子窟寺が焼き払われたときも、この像は獅子窟寺の子院のひとつである塔頭吉祥院の僧が大和までかついで運び出したため、焼失せず現存しています。

 獅子窟寺薬師仏は事前に予約をすれば拝観できます。 TEL 072-891-6693。国宝薬師如来御真言は「オン・コロコロセンダリマ、トウギ・ソハカ」です。
また当ホームページでも平田政信さんの
瓦版:よもやま便りで、詳しくご説明頂いているのでご参照ください。

獅子窟寺本堂への参道の石段    亀山上皇が薬師如来にご病気平癒を祈願され、全快するや寺の修復をされ、石段もお造りになったという。
大阪府下の4点の国宝仏像は次の通りです。
  獅子窟寺  *木造薬師如来坐像(薬師堂安置) 平安時代
  道明寺  *(秘仏)木造十一面観音立像(本堂安置) 平安時代
  葛井寺  *乾漆千手観音坐像(本堂安置) 天平時代
  観心寺  *(秘仏)木造如意輪観音坐像(金堂安置) 平安時代
金剛般若窟(こんごうはんにゃくつ)・獅子窟(ししくつ)岩

金剛般若窟(こんごうはんにゃくつ)・獅子窟(ししくつ)である。獅子の口に似たとして獅子窟(ししくつと言われ、現在の寺号が出来たと伝えられている。この岩にこもって、弘法大師が修行された。

金剛般若窟(こんごうはんにゃくつ)・獅子窟(ししくつ)獅子窟の女の岩 獅子窟の奥にある、弘法大師の石造嵯峨天皇(弘仁年間 810~824年)のころ、弘法大師が交野地方に来られた時に、獅子窟寺吉祥院の獅子の宝窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)が降り、三ヶ所に分れて落ちたと言われている。
八丁三所に星が降った

 この岩の奥には、弘法大師の小さな石像があり、昔の伝説がよみがえる思いがします。また、獅子窟岩の前には、お堂(灯籠)が建てられ淀川を行き来する船の灯台の役目をした灯がともされていたそうである。

獅子窟岩のくぐりぬけ> 半数位の方がくぐり抜けられ、「生まれ変わりました!」と喜びの声を。
何かにこだわりのある方は引っかかってくぐりぬけ出来ない!と言われています。
亀山上皇と皇后の供養塔・王の墓
 仁王門跡の石組みを左に曲がって山道を下り100メートルほど進んだところに「王の墓」と呼ばれる亀山上皇(亀山院ともいう)と皇后の供養塔が2基並んでいます。この亀山上皇は、私市とつながりの深い上皇で、獅子窟寺の薬師如来に病気の回復を祈願し、そのご利益で病気が治った上皇は大喜びし、滞在した場所に観音寺(現在の廃千手寺)やその寺を管理するための田を寄進しました。また獅子窟寺の修復・石段を造られた。

弘法大師の水 
誰が言うともなしに、この谷(男石と女石)から出る水を弘法大師の水と言われてきた

首なしの六地蔵 
明治の廃仏毀釈の時に上部が壊されたものか?
【六体地蔵】 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上において功徳を施す仏様
見はらしの ひらけた所に 王の墓 (郷土史かるた)
                王の墓
 獅子窟寺への山道を登って行くと寺の約150M手前、少し開けた所に仁王門跡の石組みがあり、左へ山道を下り、六体地蔵の前を抜けると、湾曲に突き出した所に、亀山上皇と皇后の供養塔・王の墓が重厚なたたずまいを見せている。
 この付近は、見晴らしの良い所から百重が原と呼ばれ、亀山院の分骨陵とか、後亀山天皇陵などと言われていた。辺りには古木が多く、かって王の墓の上のシイの大木の枝を切り落とそうとしたところ、「キイキイ」と泣き、木に触れただけで腹痛を起こしたといういわれがある。
 昼なお暗い木立の中にたたずむと、中世の栄華がしのばれる。
 【極楽往生を願う蔵骨器】
 この亀山上皇と皇后の供養塔がある付近は「百重が原」と呼ばれ、ここの周辺から、2個の蔵骨器(骨壺)が出土しています。
 一つは真言を刻んだ「梵文光明真言刻銘瓦質土器」と言われる室町時代の蔵骨器です。大きさは高さ16.9センチ、口径21センチで、器の表面には細かい錐状の工具で浄土変真言や光明真言などのありがたいお経が2行1単位で21回も刻まれています。
 お経の内容を要約すると「大日如来の諸力によって、死よりの恐怖を破壊し、もしこの死者が地獄に堕ち苦しんでいる場合でも、光明真言の力で地獄を破り脱し、極楽往生へ転生するように願う」という内容です。

 いずれの蔵骨器も王の墓を中心とする中世墓地に埋葬され、死者を地獄から救う葬送の形が立体的に造られており、鎌倉時代の終わりごろの葬送様式が分かる大変貴重なものです。
梵文光明真言刻銘瓦質土器 (ぼんもんこうみょうしんごんこくめいがしつどき)(室町時代)
 出土地  獅子窟寺(裏山)   交野市私市
 もとは土砂加持かじの際に使用される容器と考えられますが、後に蔵骨器に転用された可能性の高い土器です。平成12年、交野市指定文化財に指定された。

公開日 水曜から日曜 午前10時から午後5時(入室は4時30分)
      交野市立歴史民俗資料室に展示してあります。


梵文光明真言刻銘瓦質土器 (ぼんもんこうみょうしんごんこくめいがしつどき)(室町時代)
昭和47年から続けられている交野古文化同好会の無縁墓清掃
 交野古文化同好会の無縁墓(昭和52年8月)は、無縁墓の墓標(昭和47年8月6日建立)が新しく会員のお力で石に変わりました。  昭和52年8月6日(石鏃26号参照)

 昭和45年3月、滝が広(月輪の滝付近)の住宅建設現場から蔵骨器と銅銭、富寿神宝50枚と塼仏が出土した。富寿神宝は本朝(皇朝)十二銭中5番目に鋳造されたもので発行時の天皇は嵯峨天皇で鋳造・発行年は818年です。
 交野古文化同好会有志による無縁墓清掃 故奥野平次さんが中心となり、昭和47年夏から続けられている活動です。 交野古文化同好会の活動が今も継承されております。

月の輪の近くの「滝が広」付近から蔵骨器が発見され、昭和52年丁重に葬られた

昭和45年3月に30日に出土した火葬骨を埋葬する


蔵骨器と塼仏

獅子窟寺の境内より年の初めの素晴らしい眺望


獅子窟寺の頂上からの眺望は素晴らしく、大阪市街、大阪城、遠くは淡路島、 明石海峡大橋を望み、眼下に淀川河岸から三島連山、六甲山をながめることが出来る。

※ 鮎返しの滝と賓頭盧尊(びんずる)さん賓頭盧尊(びんずる)さん
 磐船神杜から北に下った所に鮎返しの瀧がある。昔は、若鮎がここから引き返したという。雨乞いの時は、獅子窟寺の賓頭盧尊さんの顔に白粉を塗って、この滝の滝つぼに吊り下けたといわれている。いつも赤い顔をしている賓頭盧尊が、百姓たちから顔におしろいを塗られて、日照り続きで水のない滝つぼへ下ろされる。
 こうしておけば、賓頭盧尊さんは、「わしは元来いつも赤い顔をしている事をお釈迦さんに許されている。それがこんな白い顔になって恥ずかしくてたまらない。といって、この顔の白粉を洗い落とそうとしても滝の水は日照りのために落ちていない。よし!一つ大雨を降らして滝に水を落として顔の白い粉を洗い落としてやろう」と考えるにちがいない、と思いついたのである。
 昔の百姓は、水を得るためにはどんなことでもしかねなかったので、雨が降るとなると仏様でも滝つぼへ吊り下げたのかもしれない。

 賓頭盧尊とは・羅漢のひとり⇒解脱をめざす永遠の修行者である
  ・頭髪が白くまゆが長い
  ・像を手でなでて祈ると病気が治まる。

ぬれている びんずるさんも 滝の中

大日如来の真言「アビラウンケン」石碑

 獅子窟寺の本堂の北の石段を上がって、まっすぐ行くと、獅子窟の南側の支え石に突き当たる。
その石の右寄りで、大岩に寄り添うように自然石に刻まれた梵字碑が建っている。
 この碑は、胎蔵界大日如来の真言「アビラウンケン」を蓮華座の上に表わしたもので、永禄6年(1563)3月12日に一結衆が逆修供養(死んで極楽に行けるように、生前仏事を修め冥福を祈ること)の為建立したことが一結衆11名の名が刻まれている。
 この梵字は、宇宙を現している。我々は、宇宙の中で生を受けている。その宇宙そのものが大日如来である。つまり、大日如来の力で生きさせてもらっているのである。その大日如来の真言が「アビラウンケン」であるという。  (木下蜜運仏教大学講師)
 弘法大師空海が開いた真言密教の本尊である大日如来、その大日の真言が真言宗高野山派に属する獅子窟寺にあることは、永禄の頃のこの獅子窟寺が果たしていた役割がうかがえて興味深い。「金石文としても貴い」(平尾兵吾「北河内史蹟史話)



会長の挨拶 (仁王門跡で12時30分を過ぎていましたが)

「国宝の薬師如来さんに参拝出来て良かったです、もっと国宝をPRすべきではないか!」
「いろいろな歴史が学べて良かった!」「市外へ行くのも良いが、交野の歴史散策を続けてほしい!」
など、参加された方々から積極的な意見が出され貴重な交換会となりました。

立花会長は最後に、皆様方から頂いたご意見を今後の活動に生かしてゆきたいと結ばれた。
参加された皆様、解散が遅くなりましたが、最後まで参加下され有難うございました。

  次回の行事は、1月14日(土)午後1時30分から青年の家・武道館2階にて、「郷土史かるた大会」が開催されます。スタッフの方は、午後1時に集合ください。よろしくお願いします。

最後までご覧いただき有難うございました

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