ホームページに戻る 明けましておめでとう御座います!今年は戌年です。 |
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日時:平成30年1月2日(火) 午前9時集合 集合場所 京阪・交野市駅 17名参加 案内 : 伊東征八郎氏(交野古文化同好会) |
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行程 : 交野市駅(9時集合出発)→ 牧野駅→ 前島街道碑→ 清岸寺→ 牧野公園→ 阿弖流為供養碑→ 片埜神社→ らんぱん公園→阪今池公園→ 片埜神社一鳥居跡→ 京街道三栗集落→ 渚の院→ 御殿山神社→ 御殿山駅(12時解散) (散策時間9時〜正午) 徒歩 約4.5km |
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2018年1/2(火)、天候晴れ。今年の正月は大変穏やかな年明けで初歩きとしては最高の天候の中、ゆっくりと歩くことが出来ました。早朝から交野市駅には、「明けましておめでとうございます」「今年も昨年同様どうぞよろしくお願いします」と、挨拶を交わしながら集合された。 牧野駅前で皆さんが揃った処で、高尾部長の司会で始まり、立花会長の新年の挨拶の後、伊東征八郎氏の案内で牧野駅から御殿山駅まで、交野ケ原の史跡めぐりと初詣、初歩きに相応しいコースを探訪してきました。片埜神社と御殿山神社では御神酒と焼芋を戴き、交野古文化同好会の繁栄と会員の健康を願って参拝してきました。 本日の参加者は元気な総勢17名(会員10名)の皆さん、新春の初歩きを存分に楽しまれたようで、「天気も良く、交野ケ原の史跡めぐりに初詣もできて、良い正月を迎えられ幸せです」「阿弖流為の塚を訪れたのは初めてでした」と感想を頂戴しました。 伊東さんには綿密な事前の準備と下見に万全を期していただき、ゆっくりと噛み締めるように大変分かりやすくご案内いただきました。また、当日配布のレジメを提供いただき誠に有難うございました。 記して感謝申し上げます。 ※HPを記載するにあたり、枚方市のホームページ、ふるさと枚方発見などの WEB記事などを参照しました。 |
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片埜神社 南門前で記念撮影 |
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立花会長の挨拶 |
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伊東征八郎氏の案内で交野ヶ原を歩きました! |
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京阪・牧野駅 |
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坂(京街道)と対岸の前島(西国街道)を結ぶ街道。なお、淀川を渡し船で渡った。 | |||||||||||||||
穂谷川 穂谷〜尊延寺〜杉〜津田〜藤阪〜山田池公園横〜田口〜牧野〜淀川 |
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【清岸寺】 @.宗派:融通念仏宗 A.総本山:大念仏寺。大念仏寺は、坂上田村麻呂の次男で、平安時代に平野殿」こと坂上広野の私邸内に建てられた修楽寺が前身と伝わる。 B.融通念仏宗は、平安末期に開祖された宗教で鎌倉時代に良忍上人によって宗派を構成。 C.中興の祖である円覚上人による大念仏狂言が有名な壬生寺に伝わる。 |
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藤原俊成(としなり)は交野の桜を思って、「またや見む 交野のみ野の桜狩 花の雪散る春のあけぼの」(新古今和歌集)と詠んでいるように、交野ヶ原と呼ばれた枚方・交野地域は、桜の名所として都の貴族たちに親しまれ、歌枕として多くの歌も詠まれました。
桜の名所として枚方八景の一つに選ばれている牧野公園は、桃山時代の華麗な建築を伝える片埜神社の北側にあります。 片埜神社の神域は、明治の頃には5ヘクタールほどあり、大阪歯科大学付近の松林はその面影を残しています。戦後、広い神域の一部を市が譲り受けて牧野公園を造成しました。桜の季節には、数十年を経た桜が咲き競い、市民の憩いの広場になっています。 |
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春には桜が爛漫と咲き誇ります! |
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牧野公園に『伝阿弖流為・母禮之塚』と記されている石碑があります。 阿弖流為(アテルイ)は8世紀の終わりごろの蝦夷(東北)の領袖でした。征夷大将軍となった坂上田村麻呂が数万の朝廷軍を引き連れて侵攻した際にはこれを撃退した英雄として知られています。 802年に降伏し、坂上田村麻呂が蝦夷の首長アテルイと副将モレと多数の同族を引き連れてそのことを朝廷に報告しました。坂上田村麻呂はアテルイの助命を嘆願しましたが、聞き入れられず河内国国内で処刑されました。 『日本紀略』によると河内国植山で処刑されたとあり、この植山は現在の枚方市宇山と推定されています。 |
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伝 阿弖流為・母禮之塚 約1200年前、時の朝廷の国土統治にあたり、当方地方には蝦夷(えみし)と呼ばれる人々がいてその支配を拒否していました。このため朝廷は、彼らを辺境の人々として征討部隊を派遣しましたが、人々はこれに対し、激しい抵抗を繰り返し容易には屈しませんでした。 延暦21年(802)4月、征夷大将軍坂上田村麻呂は蝦夷の首長アテルイと副将モレが同族500余人を引き連れてようやく降伏したことを朝廷に報告し、7月、二人を伴って帰京しました。二人の処遇について田村麻呂は強く助命を嘆願しましたが、8月、二人は河内国で処刑されました。 この地がアルテイとモレのゆかりの地とされています。 なお、塚の裏面に説明があります。 |
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延暦21年(802)秋8月13日、蝦夷の首長アテルイと副将モレの二人は、征夷大将軍坂上田村麻呂らの助命嘆願もむなしく、「野生獣心反覆無定」として河内国で処刑された。肥沃な蝦夷地日高見国の制服は古くからの朝廷の悲願であったが、延暦8年には5万余の大軍が北上川河畔でアルテイの軍に大敗する有様であった。 郷土史の先覚者たちにより両名最後の地と目され、また首塚の伝えを持つ当地に、1205年の時を隔て多くの賛同者の浄財により塚を建立する。 記 関西外国語大学教授 瀬川芳則 表記は京都・清水寺貫主 森 清範 平成19年3月4日建立 伝 阿弖流為・母禮之塚建立実行委員会 |
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アテルイの首塚?(牧野公園) |
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【片埜(かたの)神社】 社伝では、古くから旧交野郡の鎮守神として崇敬され延喜式に記載されている交野郡二座の内の一座である。 天正11(1583)年豊臣秀吉が大坂城築城に際して当社を鬼門鎮護の社として定めたという。現在の本殿は、棟札によると、慶長7(1602)年に豊臣秀頼が片桐且元を総奉行に再建したものである。三間社流造、檜皮葺で細部に至るまで桃山時代の華麗な様式をよく示しており、特に四面を飾る蟇股の彫刻に当時の特色を見ることができ、「竹に虎」、「芙蓉にせきれい」、「椿にひよどり」など、絵画的で精巧な彫刻がそろっていて見応えがあります。国の重要文化財に指定されている。 南門は、慶長7年の本殿再興に続いて再建された四脚門で、近世初頭における建立年代の明らかな数少ない遺構で、大阪府の指定文化財になっています。 東門は元は棟門でしたが、後世に改造され、現在は四脚門となっています。室町時代後期のものとみられ大阪府の指定文化財です。 石燈籠 鎌倉時代末期 六角形花崗岩製、高さ192p。火袋に金剛界四仏(不空成就如来・あしゅく如来・宝生如来・阿弥陀如来)を梵字で彫られています。大阪府指定文化財。 |
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極彩色の壮麗な社殿 |
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大坂城の鬼門鎮護の社 |
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交野台地の一角、牧野阪に鎮座するお社は、延喜式内社の古社であり、素盞嗚尊・菅原道真公を主神として十一柱の神々を奉祀されています。 第十一代垂仁天皇の御代に出雲の国の豪族「野見宿禰」(のみのすくね)が「当麻蹴速」(たいまのけはや)との相撲に勝ち、その恩賞に、この辺り一帯を拝領し、出雲の祖神「素盞嗚尊」(すさのおのみこと)をこの地に奉祀して土師氏(はじし)の鎮守としたのが草創です。その後、欽明天皇の勅願をもって「片野神社」と称し、平安中期の村上天皇天徳四年に野見宿禰の後裔「菅原道真公」を併祀された。 |
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石燈籠 鎌倉時代末期 六角形花崗岩製、高さ192p。 火袋に金剛界四仏(不空成就如来・あしゅく如来・宝生如来・阿弥陀如来)を 梵字で彫られています。大阪府指定文化財。 |
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奉納された神牛 |
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三浦家は17世紀末頃より河内国交野郡坂村(現在の枚方市牧野阪)に居住し代々医師をつとめていた。歴代当主のうち18世紀末頃より活躍した三浦蘭阪(みうららんぱん)は考古学や金石学(金属や石に刻まれた金石文を研究する学問)など幅広い知識を持っていた人物として知られている。 らんぱん公園は、三浦家の邸宅跡で平成19年三浦家から枚方市に土地を寄贈され、公園として整備しました。 |
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京街道沿いの阪今池公園は阪今池を埋め立てて造られた枚方市立公園。 砂場、遊具、広い広場があり、子供たちや家族連れが 大勢訪れ春には花見客が談笑する場でもある。 阪今池は江戸時代から京街道を歩く人たちを和ませる大きな灌がい池だった。 |
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阪神淡路大震災後倒壊の恐れがあることから解体された。 【常夜灯】 享和元(1801)年に建立されたもの。 右は大阪江戸堀壹丁目 竹屋勘兵衛、左は京都四条新町通 竹屋利三郎が建立。 |
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京街道に面して残る片埜神社参道入口を示す常夜灯(黄金野1丁目)。享和元年(1801年)9月と刻まれています。ちなみに、この翌年「東海道中膝栗毛」が刊行されています。 向かって左側の常夜灯に刻まれている「京都」の文字。反対側の灯籠には「大阪」とあり、このあたりが京街道の中間に当たるところからこうした表記が行われた様です。今の道路案内標識のようなものでしょうか。 |
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解体された一の鳥居 |
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京街道と淀川舟運を利用した町なみ | |||||||||||||||
石垣などに淀川の船運の名残が見えます |
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清伝寺は江戸時代から寺小屋として地域の子供たちの教育を行っており明治の初めの学制制定をうけ1875年(明治8年)から1877年(明治10年)まで渚村の渚院観音寺跡に移転するまでこの地区の小学校として開校しており現在の殿山第1小学校に発展したとのことです。 | |||||||||||||||
平安時代、枚方一帯は交野ケ原といわれ、皇族・貴族が鷹狩りや花見に訪れる場所で、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう)の別荘・渚院がありました。 平安歌人在原業平(ありわらのなりひら)が渚院の桜を見て詠んだ歌、 「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」 (世の中にもし桜がなかったら、春の人の心はのんびりするであろうに)は、『伊勢物語』や『古今和歌集』にも収められ、桜の花のはかなさを詠んだ名歌として親しまれてきました。 また、皇位継承争いに敗れた惟喬親王の心情を込めたとも解釈できます。惟喬親王は、紀静子を母とする文徳天皇第一皇子です。藤原明子を母とする第四皇子の惟仁親王が、三人の兄を越えて、清和天皇として即位します。藤原氏の権勢下で皇嗣への道を絶たれた惟喬親王は、在原業平や紀有常など近縁の腹心との交遊によって憂悶(ゆうもん)を慰めます。そしてついに、出家して京都の「小野の里」に隠棲(いんせい)します。 渚院の跡地には、江戸時代に観音寺が建てられたといわれています。観音寺は明治時代の初めに廃寺となり、現在は梵鐘と鐘楼(ともに市指定有形文化財)が残るのみです。 なお、梵鐘は田中家が寛政8(1796)年に鋳造したもので、河内国惣官鋳物師(かわちのくにそうかんいもじ)である同家の活動を示す貴重な文化財です。なお枚方市藤阪には、市立旧田中家鋳物資料館があります。 |
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渚院の跡地には、江戸時代に観音寺が建てられたといわれています。観音寺は明治時代の初めに廃寺となり、現在は梵鐘と鐘楼(ともに市指定有形文化財)が残るのみです。 なお、梵鐘は田中家が寛政8(1796)年に鋳造したもので、河内国惣官鋳物師(かわちのくにそうかんいもじ)である同家の活動を示す貴重な文化財です。なお枚方市藤阪には、市立旧田中家鋳物資料館があります。 |
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梵鐘は田中家が寛政8(1796)年に鋳造したもの |
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祭神は品陀(ほむだ)和気(わけの)尊(みこと)(応神天皇:八幡大神) 御殿山神社は、元は渚の院跡の観音寺境内に設けられていた小倉の粟倉神社のお旅所であった。江戸文政年間(1818〜29年)、渚村に産土神勧請の話が起こり、お旅所に八幡大神を勧請して西粟倉神社と称した。 明治初年の神仏分離令によって、1869年(明治2)御殿山に社殿を造営し、翌年当地に遷宮し、御殿山神社と改称し、現在に至っています。 御殿山の名は、惟喬親王の渚院のあずまやに起源すると伝わるが、江戸初期に領主永井伊賀守がこの山に陣屋を設けたところから、呼ばれるようになったとも言われる。 美術センターの建設に先立ち1986年の発掘調査で弥生時代やから平安時代にかけての住居跡・建物跡などが見つかりまた。また、江戸時代の建物跡など陣屋に関する遺構も見つかっています。 |
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御殿山神社 絵馬 |
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御殿山神社 渚院の絵馬 |
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お神酒が配れ、先ずは一献! |
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温かい焚火とお神酒、焼き芋が何よりでした! |
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御殿山神社から眺める 今昔風景 | |||||||||||||||
京阪電車が開通する前、明治30年代末〜 40年代初頭の御殿山から見た風景。中央に見えるのは現在も残る廃観音寺の鐘楼です。 田畑と集落が広がるのどかな風景。御殿山神社から北方向を撮影した絵はがきです(中央上の写真)。手前の集落は現在の渚元町で、奥に三栗の町並みと淀川、天王山が見えます。 明治22年に渚・禁野・磯島など9つの村が合併して牧野村となり、渚院が建っていたと伝わる廃観音寺の鐘楼の隣に役場が置かれました。「敷地内には駐在所もあって、村の中心であった」。 現在、役場があった場所(渚元町)には渚保育所が建ち、園庭を駆け回る子どもたちの元気な声が響きます。田園風景は住宅地へと変わりましたが、今も残る廃観音寺の鐘楼が時代の流れを静かに見守っています。 |
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伊東さんには隅から隅まで詳しく案内頂きました!有難うございました! |
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大阪市内にあった大阪美術学校が御殿山神社の隣にやってきたのは昭和4年文化によるまちおこしを考えた当時の牧野村が、校長で南画家の矢野橋村に誘致を持ち掛け、京阪電鉄などから土地4800坪の無償貸与を受けるなどして実現したものです。同年5月には生徒の通学用として御殿山駅も開設しました。 駅から坂を上り、石段を上ると正面にモダンな洋館校舎、右手には150畳敷きの広さを誇る日本建築の美術館・大来館がありました。 日本画家の福岡青嵐や洋画家の斉藤与里など一流の講師から、多い時は300人が学びました。 昭和14年3月1日、旧陸軍禁野火薬庫の大爆発で学校は半壊。半年後に再開されましたが、戦況が悪化した昭和19 年に校舎は軍に接収され学校は事実上閉鎖されました。 そして、40年以上を経た昭和62年「御殿山に再び文化施設を」という地元の声を受け、美術学校跡地に御殿山美術センター(図書館併設)が誕生しました。 ☆交野市と関わりのある同校出身画家。 【清水要樹氏 南画家】 1909(明治42)年11月11日三重県に生まれる。1930年大阪美術学校に学び矢野橋村に師事。 1933年第14回帝展に初入選。1945年第5回日展[霊峰大峰]で入選しその後も入選を重ねるが1960年日本南画院に参加。各地の山を踏破し画を描く。 1992年日本南画院第32回展で内閣総理大臣賞を受賞、1997年米寿記念回顧展を開催。また、日本南画院副会長を務め、後進の育成に尽力する。1999年交野市郡津の自宅で歿。享年90歳であった。 なお、同氏の作品は青年の家の展示室でも見ることができる。 |
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御殿山美術センター |
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11時50分頃、御殿山神社で解散しました。 |
次回は、第171回歴史健康ウォーク、2月10日(土)、「尺治川〜月輪の滝 獅子窟寺の修験道」を歩きます。 集合はJR私市駅 午前9時。 お一人でも多くの皆さんの参加をお待ちしております。 |
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最後までご覧いただき有難うございました! |