京阪出町柳駅9:30→糺の森・下鴨神社→出雲路橋→上善寺→天寧寺→
上御霊神社(応仁の乱発祥の地)→鴨川河川敷(昼食)→阿弥陀寺→本満寺→
相国寺拝観→同志社大学構内→御所・猿ケ辻→京阪出町柳駅15:00
2005.5.21(土)午前9時30分、京阪出町柳駅改札口付近で集合。天候快晴申し分なし。時間通り、お孫さん連れの会員もあり賑やかに元気な20名の顔が揃った。 |
世界遺産・下鴨神社 | |
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下鴨神社楼門(重要文化財)前で記念写真 正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とよびます。京都は鴨川を中心に 町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられているお社というところから 「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがも)」と親しくよばれています。 東西の二殿の本殿はともに国宝です。 詳細は、下鴨神社のホームページをご参照下さい! |
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下鴨神社境内の世界文化遺産の石碑 | 古文化同好会の中会長と 案内役の吉岡一秋さん (左から) |
下鴨神社境内で説明される吉岡一秋さん | |
下鴨神社から鞍馬口通りへと出て、出雲路橋(いずもじばし)を渡り寺町通りへと進み、上善寺(じょうぜんじ)、天寧寺(てんねいじ)を訪れた。 ※賀茂川(鴨川)の呼び名:賀茂大橋までは加茂川で、下の方は鴨川。源流は北区雲ケ畑。「岩屋山志明院」は鴨川が枯れないようにと建てられた寺。 |
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寺町通が誕生したのは、天正18年(1590)、秀吉によって整備された。通り名もこの時につけられている。しかし、この通りもさかのぼると、すでに平安京の成立期に出現していた。それも東京極大路という堂々たる幅員32メートルの大道としてであった。 平安末期から中世にいたるとさらに邸宅群が東側(京外)、西側(京内)に続出して、平安京でも有数の高級住宅街となっていた。だが、この整然たる街路も、15世紀後半の応仁・文明の大乱によって荒廃してしまった。 豊臣秀吉によってこの寺町通りが整備されたが、その名が示すように通りの東側には浄土宗、日蓮宗、時宗の諸寺院が集中的に且つ整然として並べられた。北は鞍馬口通りから、南は五条通りまでほぼ一直線に通貫するが、東側のほとんどは寺院で占められている。その数約80ケ寺、塔頭を含めると寺院数はぐんと増大する。 この界隈では次の寺院が著名である。太字の寺院に今回訪れた。 上 善 寺・・浄土宗。 鞍馬口通寺町東入 天 寧 寺・・曹洞宗永平寺派。 同上 西 園 寺・・浄土宗。寺町鞍馬口下る 阿 弥 陀 寺・・浄土宗。 同上 織田信長の墓 十 念 寺・・・浄土宗西山派. 同上 足利義教の墓、曲直瀬道三の墓。海北友松の墓 仏 陀 寺・・・・浄土宗西山派。寺町上立売上る 本 満 寺・・・ 日蓮宗本山 寺町今出川上ル 山中鹿之助の墓 京の七口 七口が世人の話題に広く登るようになったのは、豊臣秀吉が天下を制覇し、天正19年 (1591)洛中四辺にお土居を築き、皇都の構えとして七口を開いたことによる。 北は鷹ケ峯の「長坂口」、東は賀茂川出雲路橋の「鞍馬口」、 寺町今出川の「大原口」、三条大橋の「粟田口」、南に五条大橋の「伏見口」 東寺の「鳥羽口」、西に七条千本の「丹波口」 |
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上善寺は京都の六地蔵の一つ、六地蔵とは 六ヶ所の街道の入口に置かれた地蔵尊 |
境内には沢山の地藏さんが 祀られている |
こんな地蔵尊も くぼみ石地蔵? |
十三仏碑もありました |
天寧寺の山門は「額縁門」として有名。寺町通りからこの門を通して境内を眺めると真っ正面に比叡山が見え、境内の樹木とマッチして一幅の絵のように見えるので「額縁門」と呼ばれている。 寺町通りから西へ、本日のメイン・上御霊神社へと案内される。正門近くに、応仁の乱勃発地の石碑があり、ここで吉岡さんから応仁の乱の概略説明を受ける。 |
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応仁の乱勃発地の石碑前で 上御霊神社鳥居の傍にある |
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応仁の乱勃発地 |
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文正2(1467年)正月18日早朝、この付近すなわち上御霊神社の森の合戦から応仁の乱ははじまった。17日の夜、畠山政長は自邸を焼いて一族や奈良の成身院光宣らと兵約二千を率いて、ここに布陣し翌18日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景ついで山名宗全が加勢した。しかし政長方にはたのみの細川勝元がこの段階では動かず、まる一日の合戦ののち、政長方が敗退した。これが応仁の乱の最初の合戦である。 上御霊神社に細川勝元の率いる東軍が陣取り、一方西軍は、ここから西方2キロ程にある、今の今出川大宮あたりに、山名宗全が陣を敷いた(西陣)。応仁の乱(1467年)は、都を11年間にわたり戦場と化した。 |
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怨霊の鎮魂と上御霊神社 桓武天皇の平安建都 |
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京都は、蛇と亀の合体した玄武が北を、鴨川に棲む青龍が東を、山陰道に棲む白虎が西を、巨椋池に棲む朱雀が南を、それぞれ守っている。それゆえ、京都は千年以上も美しい街として現在も生き続けているといわれる。 四神を配し、平安京を造営した桓武天皇は、都造りに自分の生涯をかけた人物であった。また、都に御霊神社(ごりょうじんじゃ)を祀ったのも天皇の意思であった。 延暦13年(794)、平安遷都の際、桓武天皇が弟の早良親王(さわらしんのう)の霊を丁重に祀るために生れたのが、上御霊神社である。 京都で最も古い祭りの一つである上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の御霊会(ごりょうえ)は、貞観5年の御霊会(ごりょうえ)が起源とされ、毎年5月18日、平安装束の氏子ら約500人と鉾(ほこ)、みこしの行列が北区一帯を5時間近くかけて練り歩きます。 |
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上 御 霊 神 社 本 殿 |
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上御霊神社の祭神である早良親王は、長岡京遷都の時に、桓武天皇の寵臣で長岡京造営長官であった藤原種継を暗殺したという謀反の科で乙訓寺に幽閉される。親王は罪を否定したまま飲食を断ち餓死すると言う非業の死を遂げる。以後、親王の霊は桓武天皇を悩まし、天皇の周囲では不幸が続発した。天皇は長岡京の造営を中止し、わずか10年で都を京に移さなければならなかった。 処刑、毒殺、呪詛の渦巻く奈良朝末期を親王として過ごし、即位後も怨霊につきまとわれた桓武天皇にとって、都として理想的な地であると判断したのが京都盆地であり、平安遷都にかける願いは大きかった。 まずは、上御霊神社を創建し、崇道(すどう)天皇の謚(おくりな)とともに東北鬼門に当る上高野の地に崇道(すどう)神社を建てさせ、早良親王を祀って鎮魂に尽力した。 桓武天皇が地理的、精神的に都の永遠を託して造営した平安京。残念ながら、桓武天皇は、平安京の完成を見ることなく、大同元年(806)70歳で崩御した。 桓武天皇の思いがこもった京都は、災禍や戦禍の残酷な歴史を繰り返しながらも多彩な文化が生まれ、日本の中心であり続けた。 |
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賀茂川河川敷で昼食後、全員で比叡山をバックに記念写真 | |
昼食後再び寺町通りへ出て、阿弥陀寺、本満寺を経て、相国寺を特別拝観後、同志社大学校内から御所を散策して京阪出町柳駅で解散した。 |
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織田信長・信忠父子の墓 | 森蘭丸・力丸・坊丸の墓 |
阿弥陀寺 信長の墓はここにもあった! 天文年間(1532-55)に清玉上人が近江(滋賀県)の坂本で開創。織田信長の帰依を得て京の地に移した。1582年(天正10)信長父子が旧本能寺で自刃したとき、上人が密かに骨灰をあつめてこの寺に葬ったという。本堂の本尊阿弥陀如来像の傍らに信長、信忠の像、境内に信長父子および森蘭丸ら120余人の墓がある。浄土宗。 尚、今の地には、変後豊臣秀吉の命によって移され(天正15年)、今日に至っている。 |
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本満寺 |
薩摩藩戦死者の墓 |
天文8年(1539)に近衛尚通が現在地に移した。その後、後奈良天皇の勅願所となり、また宝暦元年(1751)日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈願して以来、徳川家の祈願所となった。 昭和4年再建の本堂のほか、方丈・鐘楼・妙見堂や塔頭6院がある。本堂北東の境内墓地に戦国時代の武将山中鹿之介の墓がある。裏面に刻まれた文字を判読すると宝暦14年(1764)にたてられたものと思われる。周囲に山中氏一族の墓が多い。 |
上京区上立売通寺町西入北側。相国寺山内塔頭林光院墓地にある。 |
相国寺(しょうこくじ)特別拝観 : 金閣寺・銀閣寺が相国寺の山外塔頭(たっちゅう)であること、京都五山の中2位に列していること、寺域が東は寺町、西は大宮、南は一条、北は御霊の森に渡る広大さを誇っていたことなど、また、法堂(はっとう)は慶弔10年(1605)、豊臣秀頼により再建されたもので現存する最古のものであることなど、説明を聴けば聴くほどビックリすることばかりだった。 (注)塔頭(たっちゅう):禅宗における開基、高僧、祖師(開山)などの墳墓およびそれを守り、祀るために 中心伽藍(寺院の中心的な建物)周辺に設けられた小寺院のこと。 詳細は、こちらの相国寺のホームページをご参照下さい! エコーの奏でる不思議な鳴き声と八方睨み龍 重要文化財である法堂内には、本尊釈迦如来像(伝運慶作)が安置され、天井には蟠龍図(ばんりゅうず=狩野光信(永徳嫡子)筆)が描かれ別名「鳴き龍」と言われている。 堂内中央付近で手をたたくと、天井に反響してカラカラという音が返ってくるので、一名「鳴き龍」ともよばれます。円相外径11m、内径9m、 天井までの高さ 10.97m。 蟠龍図の下で手を叩くとあたかも龍が鳴いているように聞こえるとういうので、一人一人手を叩いて体験しました。また、頭上の八方睨みの龍を見上げながら堂内をぐるりと廻りながら龍の睨みを確認して納得。 |
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法堂内の須弥壇 本尊釈迦如来像(伝運慶作)が安置されている |
蟠龍図(狩野光信筆) 円内径9m 別名「鳴き龍」と言われている |
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庫裡、大きい破風や壁面が印象的 寺は創建後まもなく火災で焼失、応永14年(1402)には旧観に復したが、応仁の乱(1467−77)で相国寺合戦の舞台となって焼失してしまった |
浴室、1400年頃創建され、現在の建物は慶長初年(1596)に再建されたもの。蒸気浴をしながら、ひしゃくで湯を取り、身体に注ぐ掛湯式の入浴法を併せて行う方式であった | |
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同志社の歴史と伝統を現代に伝え続ける学舎たち (同志社WEB)を参照 今出川キャンパスは同志社大学の誕生の地であり、128年にわたる歴史そのものといえます。キャンパス内の礼拝堂、彰栄館、有終館、ハリス理化学館、クラーク記念館は国の重要文化財にも指定されている明治の煉瓦建造物で、その後大正や昭和初期、近年に建てられた学舎と美しい調和を見せています。さながら明治以降の大学教育の歩みを語る生きた博物館といえるでしょう。総面積81,000uのキャンパスでは、約11,000人が学生生活を送っています。 |
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