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交野歴史健康ウォーク 第70回

怨霊と戦い続けた平安京

京都市北・中京区 徒歩 約7km

京阪出町柳駅9:30糺の森・下鴨神社→出雲路橋→上善寺→天寧寺→
上御霊神社(応仁の乱発祥の地)→鴨川河川敷(昼食)→阿弥陀寺→本満寺→
相国寺拝観→同志社大学構内→御所・猿ケ辻→京阪出町柳駅15:00


 2005.5.21(土)午前9時30分、京阪出町柳駅改札口付近で集合。天候快晴申し分なし。時間通り、お孫さん連れの会員もあり賑やかに元気な20名の顔が揃った。
 交野歴史健康ウォークは発足後第70回目を迎え、今回のウォークは、交野古文化同好会のメンバーである吉岡一秋氏の企画立案で、自ら案内役も引き受けて頂き、「怨霊と戦い続けた平安京」をテーマに下鴨神社から上御霊神社、寺町界隈の新緑の京都を案内して頂きました。
 
 奈良時代最後の天皇として平城京で即位した桓武天皇。しかし、即位と並行して遷都を構想していたとされている。長岡京である。その長岡京がわずか10年で、なぜ平安京へ遷都しなければならなかったのか。非業の死を遂げた人々を祀る上御霊神社などを訪ねた。 

 
世界遺産・下鴨神社


       
  新緑薫る糺の森・下鴨神社境内を元気に歩く交野歴史健康ウォーク隊
 史跡・糺の森(ただすのもり)は、高野川と賀茂川が合流する三角州地帯の森林をそのように呼ばれている。かつては、約495万平方メートル(約150万坪)の原生林であったが、中世の戦乱や明治4年の上知令によって現在は約12万4千平方メートル、東京ドームの約3倍となった。現在は全域を国の史跡として保存されている。
 史跡糺の森は、旧山代原野の原生樹林の植生を残す唯一の森林で、ケヤキ、ムク、エノキなど約40種、樹齢200年から600年の樹木約600本が生い茂っている。
 また、下鴨神社の祭神がここで争い事の調停をしたことから、いわば日本の裁判の発祥地として糺(ただす)の名があると言われている。家庭裁判所がこの南にあるのも頷ける?


下鴨神社楼門(重要文化財)前で記念写真
 正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とよびます。京都は鴨川を中心に
町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられているお社というところから
「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがも)」と親しくよばれています。
 東西の二殿の本殿はともに国宝です。

詳細は、下鴨神社のホームページをご参照下さい!
下鴨神社境内の世界文化遺産の石碑 古文化同好会の中会長と
案内役の吉岡一秋さん (左から)
下鴨神社境内で説明される吉岡一秋さん
 
 下鴨神社から鞍馬口通りへと出て、出雲路橋(いずもじばし)を渡り寺町通りへと進み、上善寺(じょうぜんじ)、天寧寺(てんねいじ)を訪れた。

 ※賀茂川(鴨川)の呼び名
:賀茂大橋までは加茂川で、下の方は鴨川。源流は北区雲ケ畑。「岩屋山志明院」は鴨川が枯れないようにと建てられた寺。
 寺町通りとは
 寺町通が誕生したのは、天正18年(1590)、秀吉によって整備された。通り名もこの時につけられている。しかし、この通りもさかのぼると、すでに平安京の成立期に出現していた。それも東京極大路という堂々たる幅員32メートルの大道としてであった。
 平安末期から中世にいたるとさらに邸宅群が東側(京外)、西側(京内)に続出して、平安京でも有数の高級住宅街となっていた。だが、この整然たる街路も、15世紀後半の応仁・文明の大乱によって荒廃してしまった。

 豊臣秀吉によってこの寺町通りが整備されたが、その名が示すように通りの東側には浄土宗、日蓮宗、時宗の諸寺院が集中的に且つ整然として並べられた。北は鞍馬口通りから、南は五条通りまでほぼ一直線に通貫するが、東側のほとんどは寺院で占められている。その数約80ケ寺、塔頭を含めると寺院数はぐんと増大する。
  この界隈では次の寺院が著名である。太字の寺院に今回訪れた。
      上 善 寺・・浄土宗。 鞍馬口通寺町東入
      天 寧 寺・・曹洞宗永平寺派。  同上
      西 園 寺・・浄土宗。寺町鞍馬口下る
      阿 弥 陀 寺・・浄土宗。    同上    織田信長の墓
      十 念 寺・・・浄土宗西山派.  同上
           足利義教の墓、曲直瀬道三の墓。海北友松の墓
      仏 陀 寺・・・・浄土宗西山派。寺町上立売上る
      本 満 寺・・・ 日蓮宗本山  寺町今出川上ル 山中鹿之助の墓

  京の七口
   七口が世人の話題に広く登るようになったのは、豊臣秀吉が天下を制覇し、天正19年
   (1591)洛中四辺にお土居を築き、皇都の構えとして七口を開いたことによる。

       北は鷹ケ峯の「長坂口」、東は賀茂川出雲路橋の「鞍馬口」
       寺町今出川の「大原口」、三条大橋の「粟田口」、南に五条大橋の「伏見口」
       東寺の「鳥羽口」、西に七条千本の「丹波口」
上善寺は京都の六地蔵の一つ、六地蔵とは
六ヶ所の街道の入口に置かれた地蔵尊
境内には沢山の地藏さんが
祀られている

 こんな地蔵尊も くぼみ石地蔵?

十三仏碑もありました
 天寧寺の山門は「額縁門」として有名。寺町通りからこの門を通して境内を眺めると真っ正面に比叡山が見え、境内の樹木とマッチして一幅の絵のように見えるので「額縁門」と呼ばれている。

 寺町通りから西へ、本日のメイン・上御霊神社へと案内される。正門近くに、応仁の乱勃発地の石碑があり、ここで吉岡さんから応仁の乱の概略説明を受ける。

応仁の乱勃発地の石碑前で
上御霊神社鳥居の傍にある


応仁の乱勃発地
 文正2(1467年)正月18日早朝、この付近すなわち上御霊神社の森の合戦から応仁の乱ははじまった。17日の夜、畠山政長は自邸を焼いて一族や奈良の成身院光宣らと兵約二千を率いて、ここに布陣し翌18日は終日激しい戦いが続いた。義就方には朝倉孝景ついで山名宗全が加勢した。しかし政長方にはたのみの細川勝元がこの段階では動かず、まる一日の合戦ののち、政長方が敗退した。これが応仁の乱の最初の合戦である。

 上御霊神社に細川勝元の率いる東軍が陣取り、一方西軍は、ここから西方2キロ程にある、今の今出川大宮あたりに、山名宗全が陣を敷いた(西陣)。応仁の乱(1467年)は、都を11年間にわたり戦場と化した。
怨霊の鎮魂と上御霊神社
桓武天皇の平安建都
 
 京都は、蛇と亀の合体した玄武が北を、鴨川に棲む青龍が東を、山陰道に棲む白虎が西を、巨椋池に棲む朱雀が南を、それぞれ守っている。それゆえ、京都は千年以上も美しい街として現在も生き続けているといわれる。

 四神を配し、平安京を造営した桓武天皇は、都造りに自分の生涯をかけた人物であった。また、都に御霊神社(ごりょうじんじゃ)を祀ったのも天皇の意思であった。
 延暦13年(794)、平安遷都の際、桓武天皇が弟の早良親王(さわらしんのう)の霊を丁重に祀るために生れたのが、上御霊神社である。 

 京都で最も古い祭りの一つである上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の御霊会(ごりょうえ)は、貞観5年の御霊会(ごりょうえ)が起源とされ、毎年5月18日、平安装束の氏子ら約500人と鉾(ほこ)、みこしの行列が北区一帯を5時間近くかけて練り歩きます。


上 御 霊 神 社 本 殿
 
 上御霊神社の祭神である早良親王は、長岡京遷都の時に、桓武天皇の寵臣で長岡京造営長官であった藤原種継を暗殺したという謀反の科で乙訓寺に幽閉される。親王は罪を否定したまま飲食を断ち餓死すると言う非業の死を遂げる。以後、親王の霊は桓武天皇を悩まし、天皇の周囲では不幸が続発した。天皇は長岡京の造営を中止し、わずか10年で都を京に移さなければならなかった。

 処刑、毒殺、呪詛の渦巻く奈良朝末期を親王として過ごし、即位後も怨霊につきまとわれた桓武天皇にとって、都として理想的な地であると判断したのが京都盆地であり、平安遷都にかける願いは大きかった。
 まずは、上御霊神社を創建し、崇道(すどう)天皇の謚(おくりな)とともに東北鬼門に当る上高野の地に崇道(すどう)神社を建てさせ、早良親王を祀って鎮魂に尽力した。

 桓武天皇が地理的、精神的に都の永遠を託して造営した平安京。残念ながら、桓武天皇は、平安京の完成を見ることなく、大同元年(806)70歳で崩御した。

 桓武天皇の思いがこもった京都は、災禍や戦禍の残酷な歴史を繰り返しながらも多彩な文化が生まれ、日本の中心であり続けた。
賀茂川河川敷で昼食後、全員で比叡山をバックに記念写真

 昼食後再び寺町通りへ出て、阿弥陀寺、本満寺を経て、相国寺を特別拝観後、同志社大学校内から御所を散策して京阪出町柳駅で解散した。

織田信長・信忠父子の墓 森蘭丸・力丸・坊丸の墓
              阿弥陀寺 信長の墓はここにもあった!
 天文年間(1532-55)に清玉上人が近江(滋賀県)の坂本で開創。織田信長の帰依を得て京の地に移した。1582年(天正10)信長父子が旧本能寺で自刃したとき、上人が密かに骨灰をあつめてこの寺に葬ったという。本堂の本尊阿弥陀如来像の傍らに信長、信忠の像、境内に信長父子および森蘭丸ら120余人の墓がある。浄土宗。
 尚、今の地には、変後豊臣秀吉の命によって移され(天正15年)、今日に至っている。

本満寺

薩摩藩戦死者の墓
 天文8年(1539)に近衛尚通が現在地に移した。その後、後奈良天皇の勅願所となり、また宝暦元年(1751)日鳳が8代将軍徳川吉宗の病気平癒を祈願して以来、徳川家の祈願所となった。

 昭和4年再建の本堂のほか、方丈・鐘楼・妙見堂や塔頭6院がある。本堂北東の境内墓地に戦国時代の武将山中鹿之介の墓がある。裏面に刻まれた文字を判読すると宝暦14年(1764)にたてられたものと思われる。周囲に山中氏一族の墓が多い。

上京区上立売通寺町西入北側。相国寺山内塔頭林光院墓地にある。
元治甲子の禁門の変(1864)、慶応戊辰の鳥羽・伏見の戦(1868)での戦死者72名を葬る。近年整備され墓標が行儀よく並べられた。
 林光院は東門を入ったところにある塔頭、書院の前庭にある鶯宿梅が有名である。
なお、長州戦死者の墓は相国寺総墓地の定家の墓の西隣にあり、「長藩士戦亡霊塔」ときざむ。禁門の変で戦死した者20数名を葬っている。


 相国寺(しょうこくじ)特別拝観 : 金閣寺・銀閣寺が相国寺の山外塔頭(たっちゅう)であること、京都五山の中2位に列していること、寺域が東は寺町、西は大宮、南は一条、北は御霊の森に渡る広大さを誇っていたことなど、また、法堂(はっとう)は慶弔10年(1605)、豊臣秀頼により再建されたもので現存する最古のものであることなど、説明を聴けば聴くほどビックリすることばかりだった。
 (注)塔頭(たっちゅう):禅宗における開基、高僧、祖師(開山)などの墳墓およびそれを守り、祀るために
                 中心伽藍(寺院の中心的な建物)周辺に設けられた小寺院のこと。
  
  詳細は、こちらの相国寺のホームページをご参照下さい!

見どころ エコーの奏でる不思議な鳴き声と八方睨み龍
 重要文化財である法堂内には、本尊釈迦如来像(伝運慶作)が安置され、天井には蟠龍図(ばんりゅうず=狩野光信(永徳嫡子)筆)が描かれ別名「鳴き龍」と言われている。 
 堂内中央付近で手をたたくと、天井に反響してカラカラという音が返ってくるので、一名「鳴き龍」ともよばれます。円相外径11m、内径9m、 天井までの高さ 10.97m。
 蟠龍図の下で手を叩くとあたかも龍が鳴いているように聞こえるとういうので、一人一人手を叩いて体験しました。また、頭上の八方睨みの龍を見上げながら堂内をぐるりと廻りながら龍の睨みを確認して納得。
法堂内の須弥壇  
本尊釈迦如来像(伝運慶作)
が安置されている
蟠龍図(狩野光信筆) 円内径9m
別名「鳴き龍」と言われている
   庫裡、大きい破風や壁面が印象的
寺は創建後まもなく火災で焼失、応永14年(1402)には旧観に復したが、応仁の乱(1467−77)で相国寺合戦の舞台となって焼失してしまった
 浴室、1400年頃創建され、現在の建物は慶長初年(1596)に再建されたもの。蒸気浴をしながら、ひしゃくで湯を取り、身体に注ぐ掛湯式の入浴法を併せて行う方式であった


 相 国 寺
 : 正しくは万年山相国承天禅寺といい、臨済宗相国寺派大本山で、京都五山の第2位である。有名な金閣(鹿苑)寺、銀閣(慈照)寺は山外塔頭となる。
 永徳2年(1382)足利3代将軍義満が後小松天皇の勅許を得て、普明国師春屋妙葩(しゅんおくみょうは)と協力して創建、同 国師の師夢窓国師を開山に請じた。当時、寺地は東は寺町、西は大宮、南は一条、北は御霊の森に渡る広大なものであった。同志社今出川キャンパスの全部が寺領の内になる。
 創建に尽くした妙葩は、禅宗寺院を統括する僧録の職につき、当寺は五山の行政的中心として、権威を振るった。また多くの学僧を輩出、五山文学の中心となった。
 寺は創建後まもなく火災で焼失、応永14年(1402)には旧観に復したが、応仁の乱(1467−77)で相国寺合戦の舞台となって焼失してしまった。長く荒廃したままになっていたが、天正12年(1584)豊臣氏ついで徳川氏の支援を得て再興した。その後元和6年(1620)、天明8年(1788)再度焼失、のち漸次復興して現在にいたっている。
本堂(法堂)は、慶長10年(1605)豊臣秀頼の再建になるもので、元和、天明の両度の火災をまぬがれた唯一の建物、桁行5間・梁間4間・一重もこし付・入母屋造・本瓦葺きの純唐様建築で、現存する法堂では最古の貴重な遺構である。
 法堂の東にある開山堂は文化4年(1807)の再建で、内部の襖絵は円山応挙の筆といわれ、その前の庭園は江戸中期築造の禅院式枯山水庭園である。
 境内総墓地には、保元の乱で敗れた藤原頼長の墓といわれるさくら塚、江戸中期の画家伊藤若沖の墓、藤原定家・足利8代将軍義政の墓もある。
  京都五山・・・南宋の五山十刹の制にならって、禅寺の格式を決めたもの。天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万壽寺の順で第2位に位置している。なお、南禅寺はこの五山の上に置かれている。

学校法人 同志社今出川キャンパス
同志社の歴史と伝統を現代に伝え続ける学舎たち
同志社大学西門に立っている薩摩藩邸跡の碑
この屋敷で坂本龍馬立会いのもと、西郷隆盛、大久保利通、桂小五郎による薩長同盟が成立した
ハリス理化学館(重要文化財)科学教育をめざした新島襄の情熱に応えたJ.N.ハリスの厚意により、ハリス理化学校(工学部の前身)の校舎として建築された。1890(明治23)年の竣工で、イギリス積みの煉瓦建築
彰栄館(重要文化財) アメリカン・ゴシック調の瓦葺きの煉瓦造り。1884(明治17)年の竣工で、京都市内に現存する煉瓦建築の中では最古のもの。アメリカン・ボードの寄付を受けて、同志社教員の宣教師D.C.グリーンが設計した チャペル(礼拝堂)(重要文化財)D.C.グリーンが設計し、1886(明治19)年に竣工したアメリカン・ゴシック調の鉄板葺き煉瓦造り。アメリカン・ボードの寄付によって建築された。日本におけるプロテスタント派の煉瓦造りの礼拝堂としては現存する最古のもの。同志社の歴史とキリスト教精神を象徴する建物である
         


         同志社の歴史と伝統を現代に伝え続ける学舎たち (同志社WEB)を参照
  今出川キャンパスは同志社大学の誕生の地であり、128年にわたる歴史そのものといえます。キャンパス内の礼拝堂、彰栄館、有終館、ハリス理化学館、クラーク記念館は国の重要文化財にも指定されている明治の煉瓦建造物で、その後大正や昭和初期、近年に建てられた学舎と美しい調和を見せています。さながら明治以降の大学教育の歩みを語る生きた博物館といえるでしょう。総面積81,000uのキャンパスでは、約11,000人が学生生活を送っています。
室町幕府・花の御所跡
 京都に開かれた足利氏の政権を室町幕府といい、その時代を室町時代という。これは足利義満が「花の御所」と称される邸宅を室町頭北小路に築いたことによる。以来、足利将軍累代の御所となり、応仁の乱のとき室町殿を中心に東西の軍が戦い、焼失してしまう。邸内に花が数多く植えられていたので、花の御所とも呼ばれた。その規模は、南は現在の今出川通、北は上立売通、東は烏丸通、西は室町通で東西1町、南北2町であったと考えられる
 現在の同志社大学今出川キャンパスの西方一帯がこの遺跡であり、室町通今出川の交差点の東北角には「従是東北足利将軍室町邸址」と刻まれた石碑が建っています
京 都 御 所
 祐井
(さちのい)

 猿が辻の東北に井筒があり鉄柵で囲んである。
ここは中山邸の跡で明治天皇の生誕の地である。
天皇は1852年9月22日の生まれで、近くにある平屋は、その産屋だという。
祐井の名は、天皇の幼名祐宮にちなんだもの。祐井の北西に残る邸は元桂宮の屋敷である。


猿が辻表示板   猿が辻
 御所の東北の角で、築垣に少し入隅が取ってある。例の鬼門よけである。そしてやねのしたの東向きの蟇股(かえるまた)に御幣をかついだ猿が浮き彫りにしてある。それで、ここの辻を猿が辻という。

{猿が辻の変}
 文久3年(1863)。攘夷実行の期限と決めた5月10日になっても、幕府の腰は」一向に定まらず、朝廷では連日議論が沸騰していた。20日の日も、朝議深夜に果てて公卿たちが退出。

 盟友三条実美にわずかに遅れて、姉小路公知が続いた。姉小路家は猿が辻から僅か100米南にある。供の数も少なかった。朔平門を出て、猿が辻にさしかかる。その時白刃がひらめいた。刺客は3人。丸腰の公知は扇子をあげて防いだが、深手の傷を負い自邸に帰り着いて絶命した。下手人は今もってなぞである。

猿が辻蟇股(かえるまた)に御幣をかついだ猿が浮き彫りにしてある

やねのしたの東向きの蟇股(かえるまた)に御幣をかついだ猿が浮き彫りにしてある。それで、ここの辻を猿が辻という。


 昼食後再び寺町通りへ出て、阿弥陀寺、本満寺を経て、相国寺を特別拝観後、同志社大学校内から御所を散策して京阪出町柳駅で解散した。
 清々しい五月晴れの一日、新緑映える京都をご案内くださいました案内役の吉岡さん、お疲れ様でした。ご案内、本当に有難う御座いました。

最後までご覧頂き有難う御座いました!

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