JR河内磐船9:00→祝園→西大寺拝観→平城宮跡・朱雀門・東院庭園→
昼食→遺構展示館→極楽寺→海王龍寺→近鉄西大寺15:00 約7km
2004.9.11(土)午前9時、河内磐船駅前に集合。天候曇り時々晴れ。いつもの元気な顔が揃い、9時13分河内磐船駅を出発、途中祝園駅にて近鉄新祝園駅にて乗換え10時に大和西大寺駅に到着。参加者16名。 |
西大寺(さいだいじ) 称徳天皇の勅願で奈良時代後期に創建され、一時は東大寺と並ぶ大寺院として栄えた。しかし何度も火災に遭って大伽藍を焼失。本堂前に残る、東塔の巨大な基壇だけが往時の壮大さを物語っている。 現在の本堂、四王堂などは江戸時代中期の再建。本堂内は、燈籠の淡い光に照らされた内陣に、本尊の釈迦如来像などを安置している。4月の第2土・日曜日と10月の第2日曜日に行われる、巨大な抹茶茶碗を使っての茶会・大茶盛(おおちゃもり)でもよく知られている。 今年も、奈良市西大寺芝町1丁目の西大寺(谷口光明長老)で10日、秋の大茶盛が行われた。型破りの大きさの茶せんや抹茶茶わんをなどを使って、作法や形式にとらわれないお茶席で正月、春、秋の年3回開催。着物姿の女性らが助け合って茶わんを口に運ぶなど、他の茶席にはない独特な風景が見られ、約1000人が秋の1日を楽しんだ。 西大寺は奈良に都が置かれた平城京の時代に創建され、見事な伽藍(がらん)を誇ったといわれるが、政治の中心が京都に移った平安時代以降は度々天災に見舞われたこともあり衰退。これを立て直し、中興の祖といわれる叡尊上人が、延応元(1239)年に万民豊楽などを祈願し、16日の結願で八幡宮に「高貴薬」であったお茶を献上した際、集まった大衆にも茶をふるまったのが大茶盛の始まりと伝えられる。当時、大勢の民衆が西大寺へ大茶盛に駆け付けたという。 (奈良新聞より) |
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次に近鉄電車沿いに南下、トンネルをくぐり52号線に出て奈良簡易保険保養センターを右に見て、平城宮跡の西門(玉手門)から入り、広大な宮跡を見やりながら平成10年に復元された朱雀門に至る。ここで、ボランティアスタッフの方から、平城宮跡の歴史や朱雀門、朱雀大路のことなどを詳しく解説して頂く。 奈良時代、朱雀門は、天皇や皇族、高位高官の人しか通れない門だったらしいが、そこは平成の有難さだ。広い平城宮跡を歩くと、なんだか大宮人になったような気分になる。ただ、大正3年に開通したという、近鉄電車の轟音はなんとも無粋なものだ。史跡にはまったく似つかわしくない代物である。 |
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平城宮跡(へいじょうきゅうせき) 大和西大寺〜新大宮駅の間、線路の間際にそびえる巨大な朱塗りの楼門が朱雀門である。その北の広大な緑地が平城宮跡。再現された朱雀門や東院庭園、築地塀など、またツゲの木で遺跡の建物の位置を示していたり、新しく復元中の第一次大極殿展示館や平城宮跡資料館、遺構展示館など見るべきものは多く、実際に歩いてそのスケールの大きさを体感すれば、往時の大宮人たちの世界に触れることが出来ます。 朱雀門をくぐると天皇の住居であり、政治や国家的儀式をおこなう平城宮(へいじょうぐう)で、平城宮の周囲には大垣が巡り、朱雀門をはじめ12の門がありました。 平城宮の内部にはいくつかの区画があります。政治・儀式の場である大極殿(だいごくでん)・朝堂院(ちょうどういん)、天皇の住まいである内裏(だいり)、役所の日常業務をおこなう曹司(そうし)、宴会をおこなう庭園などです。 その中でも政治・儀式の場は、都が一時離れた時期を境にして、奈良時代の前半と後半で大きな変化がありました。奈良時代前半に、朱雀門の真北にあった大極殿(通称、第一次大極殿)が、奈良時代後半になると東側の区画で新たに建てられたのです。(通称、第二次大極殿)。これに対して、内裏は、奈良時代を通じて同じ場所にありました。 |
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ツゲの木で内裏など遺跡の建物の位置を示している |
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復元された宮内省南殿 |
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朱雀門(すじゃくもん) 平城京の入口である羅城門から75mもの幅を持つメインストレート朱雀大路の4km北端にそびえ建っていた、平城宮の正門「朱雀門」である。高さ約24m、柱から柱の距離約25mの二重門、入母屋造りで当時の姿を再現している。 その当寺、門の前では、外国使節の送迎を行ったり、大勢の人たちが集まって歌垣なども行われていた。正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすることもあった。朱雀門は、衛士によって守られ、常時開いていたわけでなく、宮の正門としての権威とともにその雄姿を内外に誇示していた。 屋根の各所には、この時代に流行したとされる舌を出した鬼の顔(鬼面文)の鬼瓦が飾られ、魔物から建物を守っていた。 |
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東院庭園(とういんていえん) 宴会や儀式が行われた庭園を復元。池を中心に、橋や水面に張り出した露台を配して、日本庭園の原型といわれている。発掘調査で見つかった植物の種をもとに、往時の庭の風景を忠実に復元されている。 |
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復元された東院庭園全景 かつてここで催されたであろう宮廷行事や宴会など大宮人の優雅な世界に夢を馳せる |
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東院庭園 鳳凰堂 |
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遺構展示館(いこうてんじかん) 柱穴や溝などが発掘された状態を、館内にそのまま保存展示されている。そのほか発掘調査によって出土した井戸枠や数々の遺物や第一次大極殿の模型などが展示されている。 |
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柱穴や溝などが発掘された状態を、館内にそのまま保存展示されている 今も、豊富な地下水の水が柱穴の跡に湧き出している。 |
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第一次大極殿の模型 | 遺構を間近かに見学できるようになっている |
発掘された井戸枠 | |
海龍王寺(かいりゅうおうじ) 古くは隅院、隅寺と言われ、長い歴史を感じる築地塀や山門に奈良の都の往時を偲ぶことが出来る。731年(天平3)光明皇后が建立。、多数の伽藍は失われた現在、本堂、西金堂、経蔵が残るだけである。西金堂は奈良時代の建築で、内部に国宝・五重小塔が置かれている。五重小塔は、いわば天平時代の精巧なミニチャアで、薬師寺の三重の塔に似ている。 養老元年(717)第八次遣唐使一行に加えられて渡唐した僧玄ムは、在唐18年法相の教学を極めた。天平6年10月帰国の途中船団は暴風雨に襲われ、玄ムの乗った船だけがかろうじて種子島に漂着し、翌天平7年3月に帰京することが出来た。この時玄ムが持ち帰った五千余巻の経論が後に我国の仏教学に大きく貢献することになった。 東シナ海の狂瀾怒涛に漂いながら海竜王経を唱え、九死に一生を得て貴重な経論をもたらした玄ムは、その功により僧正に任ぜられ、平城京皇后宮の東北隅に位置することで隅寺(角寺)とも言われていた当寺に住して、寺号を海龍王寺とした。 (海龍王寺のパンフレットを参照) |
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海龍王寺本堂 古くは隅院、隅寺と言われ、長い歴史を感じる築地塀や山門に奈良の都の往時を偲ぶことが出来る |
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西金堂は奈良時代の建築で、内部に国宝・五重小塔(奈良時代)が置かれている。五重小塔は、いわば天平時代の精巧なミニチャアで、薬師寺の三重の塔に似ている。 | 寺門勅額(重文・奈良時代) 復元された朱雀門に掲げられた扁額のモデル |