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第172回 交野歴史健康ウォーク
2018.3.10(土) 21名(会員13名)参加
枚方市東部 
穂谷〜尊延寺(氷室路を散策)

 案内人  伊東征八郎氏

日時:平成30年3月10日(土) 午前8時50分 集合場所 JR河内磐船駅 
行程 河内磐船駅〜津田駅一(京阪バス)―穂谷バス停→ 穂谷集落内散策→
三之宮神社→ 里山風景散策→ 厳島神社(重要文化財拝観)→
尊延寺(重要文化財特別拝観)→ 大塩中斎碑→ 尊延寺バス停→ 津田駅(12時20分解散)

 3月10日(土)午前8時50分、河内磐船駅に17名が集合、6分遅れの電車に乗り津田駅で4名と待合せて合計21名が参加された。当日は、朝方は少し寒さも感じられましたが、太陽の日差しも段々と暖かくなり、穂谷から尊延寺の里山風景を存分に楽しめる絶好の散策日和となりました。
 日本の里100選、穂谷〜尊延寺周辺の里風景が懐かしくゆっくりと歩き、高低差を十分に味わってきました。(健脚コース)

 また、今回は、三之宮神社→ 厳島神社(重要文化財拝観)→ 尊延寺(重要文化財特別拝観)と古い時代の史跡と重要文化財の仏像などを訪ねる良い機会となりました。
 
 伊東さんと高尾さんが事前に下見などされて、万全なコースを組んでいただきました。
 お陰様で、皆さんと一緒に春先のウォークを楽しむことができ本当に有難うございました。

 また、ホームページの記載に当たり、講師の伊東さんより詳しいレジメを頂きましたこと重ねて御礼申し上げます。

 次回の歴史健康ウォークは、4月7日(土)午前9時、京阪・私市駅集合、月輪の滝入口より沢登りと尾根歩きの修験道を獅子窟寺までゆっくりと歩き、私市駅12時に解散予定です。尺治川の支流を登りロープを伝って尾根へ出たりしますので健脚コースと選定。なお、雨天は中止とします。

 皆さんと一緒に歩きたいと願い、探索・探訪した「月輪の滝から獅子窟寺までの修験道」ルートの探訪は、次の予定で歩きます。足に自信のある方は是非とも参加ください。

 「月輪の滝から獅子窟寺までのルート」は、昔、ハイキングコースになっていて何度か歩いた記憶があり、昨年歩いてみましたがルートが分からず、西野さんのホームページと助言を頂き、会員の川田さんと二人でコースの一部修復・選定をしました。

 ※ 西野さんのホームページ「獅子窟寺の谷と山を歩くシリーズ」を参照させて頂きました。
    記して感謝申し上げます。

厳島神社で記念撮影

3月10日、氷室路周辺ウォークMAP
穂谷の里  日本の里100選
 旧集落の風情が残り、里山の風景が残る穂谷地区。
平成21年「にほんの里100選」に選ばれています。かつては大和棟の民家が点在していました。
 にほんの里100選とは
 人の営みが育んだすこやかで美しい里を全国から100カ所選んだ。対象とした里は、集落とその周辺の田畑や草地、海辺や水辺、里山などの自然からなる地域。広さにかかわらず、人の営みがつくった景観がひとまとまりになった地域を一つの里ととらえた。08年1?3月に候補地を募集。4,474件の応募があり、候補地は2,000地点以上に達した。

<穂谷の里> 都市のはざまの雑木林
枚方市の南東部にあり、棚田やため池、雑木林などの里山景観が残る。大阪の市街地近郊ながら、生物多様性も豊かな里である。

 ※交通:第二京阪道枚方東ICから車で10分/近鉄京都線新田辺駅からバス15分/JR片町線津田駅からバス20分/京阪枚方市駅からバス35分、穂谷下車
 
 
 
 
 
穂谷のバス停前で 伊東さんより説明を受ける
 
穂谷の集落地図
 
 
穂谷の新池風景
 
 
 
 
 
 三之宮神社
 祭神素蓋雄大神、御食津大神、大国主大神、天津神、住吉大神、仁徳天皇
 鎌倉時代には、穂谷、津田、尊延寺、杉、藤阪の氏神で、社殿背後にご神体である切妻屋根の形をした2個の巨石が並んでいることから屋形大明神と呼ばれていました。
 雨乞いの神社として崇敬が厚く境内には千燈を揚げ、大般若経を転読して祈願するのが常で降雨があれば住吉踊りを奉納し、お礼の燈籠を寄進しました。
 境内には多くの燈籠が今も残っています。また、湯立神事に使用した永禄元年(1558)の銘を持つ三脚付き湯釜は市の指定文化財。また、付近一帯は縄文時代草・前期の穂谷遺跡が広がっています。 
 
 
 
案内人  伊東征八郎氏
 
 
 
 社伝によると仁徳天皇29年(341年)の創建とされ、古くは穂谷、津田、尊延寺、藤阪5カ郷の鎮守社でした。
地元の言い伝えでは、慶長年間に豊臣秀頼が大坂城鬼門鎮護のため交野郡の一之宮(片埜神社)、二之宮(二之宮神社/枚方市舟橋)、三之宮を修復したことにより、当社に三之宮の社名が定着したとされています。
三之宮神社は、中世から「雨乞い」の神社として崇敬されてきました。
 雨乞いでは、境内に千燈を掲げて大般若経を読みます。いくら祈願しても雨が降らないとなると、村民は鐘や太鼓を打ち鳴らしながら境内に入り、水神様といわれている「立石」を神社の西側を流れている穂谷川の源流に突き落としました。すると、神様が怒って雨を降らせるのだそつです。
 願いが叶うと、村民は「立石」を引き揚げました。境内にある石灯籠も多くは雨乞いのお礼に奉納されたものです。「立石」は高さ1mほどですが、社殿の裏にはさらに大きな石が2個あります。断面が三角形をしており、屋根形しているところから屋形石と呼ばれ、三之宮神社が別名「三之宮屋形大明神」の呼ばれている由縁です。玉垣で囲まれており、立石と同様、神社の御神体となっています。
 
 関西外大穂谷キャンパス
 
 尊延寺周辺散策
 
 
集落の中を流れる穂谷川
 大阪府枚方市を流れる、淀川の一次支流。 枚方市東南部生駒山地北端部(枚方市穂谷)に発し北西流、枚方市中央部を貫流し、下島と阪の境で淀川左岸に注ぐ。 一級河川の起点は枚方市杉。 穂谷 地区南部の丁割なし区域. 源流は穂谷越え道を南にそれた谷から来る。 山道脇に流れ下る渓流は谷を深く刻み、夏場は繁る緑に覆われて水面を覗きにくい。  
 棚 田 風 景
 集落の奥に綺麗な棚田風景が広がります!
 
 
 
 
 
 
 
 氷室小学校
 
 
 氷室の由来
 
現地案内板より

 穂谷・尊延寺・杉の三集落は、明治22年(1889)に合併し、昭和15年(1940)、津田町となるまで、半世紀にわたって「氷室村」として行政を行ってきました。現在、かっての村名は、住宅地の氷室台や氷室小学校などいくつかの施設に残っています。

 氷室の名は、『日本紀略』淳和(ジュンナ)天皇天長(テンチョウ)8年(831)の条に「山城・河内両国に各氷室三宇を加え置く」とあり、河内国では、現在の枚方市尊延寺と杉あたりにあったと考えられています。

 氷室とは、冬に池から切り取った天然の氷に藁(ワラ)などをかぶせて貯えておく施設で、夏に宮中で飲食等に供されました。冬の冷え込みが厳しく、しかも交通の便のよい場所が選ばれたと思われます。どこの場所に設けられ、どの程度の規模であったかは不明です。   2004年10月 枚方市教育委員会
 
 

田辺街道筋風景
 
尊延寺公民館
 
 落ち着いた集落風景
 
 
 
 
 
 
 
 厳 島 神 社
 厳島神社本殿は一間社春日造で、文久3年(1863)に移築した「春日移し」。末社春日神社本殿は一間社流造、檜皮葺で厳島神社旧本殿と伝えられている。建築年代は明らかではないが、交野天神社本殿と共通する様式も見られることから室町時代中期に遡る遺構と考えられる。国指定重要文化財。 
 
 
 
 
 
 
  海上を守護する厳島神社は全国に約500社あるといわれ、総本社は宮島の厳島神社です。尊延寺にある厳島神社の創建は、平安時代の末期または鎌倉時代の創建といわれています。
 現在の本殿は、文久3年(1863年)に奈良の春日大社から旧社殿を譲り受けたもので、従来の社殿は本殿の右側にある末社の春日神社本殿として移築されました。春日神社の本殿となった厳島神社の旧社殿は、室町時代の建立と推定されています。
 京都府との境に近いため、大阪南部とは異なる手法があり、地域的特色を持つ中世の遺構として昭和53年に国の重要文化財に指定されています。文化財的にはこちらが主役になった感があります。
 
 
 
 
 来 雲 寺
 来雲寺(らいうんじ/尊延寺5丁目)。ご本尊を阿弥陀如来とする浄土宗のお寺です。宣教大師が創建した尊延寺46院の一つとして創基した寺で、その後、守口市佐太中町にある来迎寺(融通念仏宗佐太派、現在は浄土宗)の末寺となり、さらに現在の浄土宗に改宗しています。
 来雲寺には、大塩事件に係わる治兵衛・才次郎兄弟と母のぶの位牌や関与した村民14人の過去帳が残されています。
 
 
 
 
 尊 延 寺
 真言宗。開基は明らかでないが古刹であることは間違いなく多くの仏像が現存する。
 四大明王像のうち降三世(こうさんせい)明王立像・軍荼利(ぐんだり)明王立像は平安時代後期(11世紀前半)の中央の仏師の手になる等身大の明王像で国の重要文化財。

 両者の作風は異なるが、大きさや細部の特徴的な形式が一致することから、五大明王像の2体が残ったものとみられる。特に軍荼利明王立像は、この時代の作例として極めて優れたもので、左足を蹴上げる姿が特徴的です。
 不動明王立像、四大明王のうち大威徳明王坐像、金剛夜叉明王立像、地蔵菩薩立像は市指定有形文化財。
 不 動 堂
 
 
住職様より不動堂の仏像についてご案内頂きました。
 四大明王像のうち降三世(こうさんせい)明王立像・軍荼利(ぐんだり)明王立像は平安時代後期(11世紀前半)の中央の仏師の手になる等身大の明王像で国の重要文化財。

 両者の作風は異なるが、大きさや細部の特徴的な形式が一致することから、五大明王像の2体が残ったものとみられる。特に軍荼利明王立像は、この時代の作例として極めて優れたもので、左足を蹴上げる姿が特徴的です。
 不動明王立像、四大明王のうち大威徳明王坐像、金剛夜叉明王立像、地蔵菩薩立像は市指定有形文化財。
 
 
 
中央は不動明王、向かって左に軍荼利(ぐんだり)明王立像、
右に降三世(こうさんせい)明王立像
 
 
 
 大塩中斎碑(深尾才次郎顕彰碑)
 深尾才次郎は大塩平八郎に師事し、大塩平八郎の乱に加勢すべく自家に村人らを集め大塩先生に加勢して勝利しよう檄文を読みあげた。
「尊延寺村」と書かれた幟をたてて出発したが、途中大塩の敗走を知り、自らも逃亡したがやがて自害。この碑は深尾才次郎の顕彰碑で深尾家の子孫の方が建立した。
 
 大塩事件は、天保8年(1837年)に元大坂東町奉行所の与力であり、陽明学者であった大塩平八郎が飢饉に苦しむ民衆の救済などを訴え決起した事件です。大塩の門弟だった尊延寺(河内国交野郡尊延寺村)の深尾才次郎は、大塩に加勢するため、鉄砲などの武器を携え、村民数十人を率いて大坂に向いました。しかし、守口宿に到着すると、大塩が幕府方に敗れたと知り、村民に帰村するよう伝えた後、逃亡しました。
 結果的に才次郎は加賀国で自決しています。才次郎の兄、治兵衛は大坂で大塩とともに挙兵しましたが、事件後に帰村してから大坂町奉行所に自訴し、獄死しています。
 
大塩の乱に参加した深尾治兵衛・才治郎の家のあった通称
「正太郎屋敷」跡に建てられている石碑。
表には「大塩中斎遺跡 俗称大塩屋敷」とあり、裏面には
「昭和47年6月21日(1972年) 深尾家建立」とあった。
大塩平八郎がしばしば当家を訪れているところから「大塩屋敷」と呼ばれたらしい。

次回の歴史健康ウォークは、4月7日(土)午前9時〜12時、京阪・私市駅前集合。
月の輪滝〜獅子窟寺へ、沢登りと尾根歩きで修験道を探索します。
足に自信のある方の参加をお待ちしております。

最後までご覧いただき有難うございました!

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