交野歴史健康ウォーク 第131回 枚方公園駅西広場9:00集合→明治18年洪水碑→郵便屋の渡し跡→市立枚方宿鍵屋資料館→ 木南邸(屋号・田葉粉屋)→船番所跡→浄念寺と枡形道路→臺鏡寺→願生寺→ 万年寺山・意賀美神社・梅林→御茶屋御殿→本陣跡→文禄堤→宗佐の辻 12時解散 約3.5㎞徒歩 |
2013.7.13(土)午前9時、京阪・枚方公園駅西広場集合。天候曇り。連日の猛暑日が続く中、やっと曇りがちの天候となったが相変わらず蒸し熱い一日でした。時間通り元気な26名(会員外7名)の顔が揃った。 |
当日の枚方宿散策マップ (歩いてみよう枚方マップ NPO法人 枚方文化観光協会パンフ参照) |
京街道(枚方宿)を歩く レジメ (PDF文書) |
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市立枚方宿鍵屋資料館玄関にて記念撮影 |
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京街道・枚方宿は、岡新町、岡、三矢、泥町の4ヶ村によつて構成されていました。宿場は東西13町17間(1447m)、道幅平均2間半の1本往還筋を中心に出来ていました。枚方宿からは京都へ六里、江戸へ百二十八里、大坂へ五里の位置にある。文禄3年(1594年)に発せられた豊臣秀吉の命により、淀川左岸の堤防として築かれた文禄堤が文禄5年大坂京橋から京都伏見へ向かう京街道(大坂街道)として用いられるようになった。 「宿人馬継合で困窮いたし、人馬役のもの多分に宿方退散し、継合に差支、比段、寺沢藤右衛門へ申出、追つて退散のもの帰住致す」(天正年間(1573年~1591年頃)という記録により、この頃にはすでに宿場としての起源があつた。 慶長6年(1601年)徳川家康がこの京街道を東海道の延伸部とし整備した。元和2年(1616)守口宿の存在が古文書で見受けられる事から同じ頃枚方宿が成立したのではないかと考えられる。 東海道は品川宿~大津宿までの53次と呼ばれてきましたが「東海道は品川宿より守口宿」(幕府道中奉行所御勘定 谷金十郎、宝暦8年(1758年)や「東海道と申すは、熱田より上方は、伊勢路、近江路を通り伏見、淀、牧方、守口迄外はこれ無き」(土佐藩から問いに対する幕府大目付勘定奉行からの回答、寛政元年(1789年)という記録により、この頃には枚方宿が東海道の一部であつた事がうかがえる。 大津宿(53次)・伏見宿(54次)・淀宿(65次)・枚方宿(56次) ・守口宿(57次) 享保3年(1803)枚方宿明細帳によると、宿高642石3斗9合 人口1664人(男743人、女921人)本陣1軒、脇本陣2軒、家老専用本陣1軒、人馬継立問屋場2ヶ所、旅籠屋55軒(大17・中180・小20)その他高札場3ヵ所、郷蔵4ヵ所、船番所2ヶ所、7里飛脚小屋、町飛脚などがありました。また、間屋場では人足100人、馬100頭が常備され、民家は378軒ありました。 |
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枚方公園駅西広場の枚方宿の案内看板前で、枚方宿の概要などを詳しく説明を受けた。 |
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明治18年6月は梅雨の長雨が続き15日の朝~17日夜まで降り続いた豪雨のため18日午前3時三矢村・伊加賀村の堤防が決壊(伊加賀切れ)し、その切れ口は180mに達し洪水はたちまち淀川左岸一帯を水没させました。さらに、7月にも豪雨に見舞われ復旧中の堤防が再び決壊し、濁流は寝屋川流域にも広がり大阪府下で7万戸余が浸水するという未曾有の大洪水となりました。 (洪水碑は明治19年に建立) |
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明治4年に枚方郵便取扱所が開設されました。明治10年に大阪・京都間(東海道線)が対岸に開通すると「郵便屋の渡しが新しく設けられ、郵便物を高槻に運ばれるようになりました。 ー参考ー *枚方大橋・昭和5年10月開通 *京阪電車・明治43年4月開業 *片町線(学研都線) ・明治28年8月に浪速鉄道により片町駅一四条畷駅間が開業 全線単線。片町駅・放出駅・徳庵駅・住道駅・四条畷駅が開業:その後関西鉄道となり、明治31年4月:四条畷駅―長尾駅間が延伸開業。 津田駅・長尾駅が開業。同年7月星田駅開業。昭和10年12月河内磐船駅が開業。 |
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見附 : 宿場の出入り口 街道の分岐点など交通の要所におかれた見張り所(見附) |
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江戸時代、枚方は劇毎道の宿場町として、また淀川を行き来する三十石船の中継港としてにぎわいました。当時、三十石船の乗客を相手に「餅くらわんか、酒くらわんか」と乱暴な口調で食べ物を売る煮売茶舟「くらわんか舟」が枚方の名物で、その様子は十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」や、浮世絵師・安藤広重の「京都名所之内
淀川」にも描かれています。 「ここはどこじゃと船頭衆に問えば ここは枚方鍵屋浦…鍵屋浦には碇が要らぬ 三味や太鼓で船止める」―。この「渕||三十石船唄」も登場する鍵屋はかつての船宿で、現在は枚方宿鍵屋資料館として枚方宿の町家や船宿の様子を当時の雰囲気のまま伝えています。館内には枚方宿に関係する古文書や出土遺物、絵画、映像などを展示しています。 |
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江戸時代、東海道の宿場町枚方の旅籠だった鍵屋のこと、 淀川を行き来する三十石船や街道を歩く人々で賑わったことなど、 館長さんより往時を彷彿とするお話を伺った。 |
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枚方の辺りで物売りのくらわんか船が寄って、餅・牛蒡汁・酒など売りつけている。 |
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江戸時代初期よりの豪農。庄屋と問屋役人を兼ねる。現在の建物は幕末期か明治初期のもの。★問屋場。輸送、宿泊に関する業務を行う。人足の継立と馬の継立。庄屋が交代で問屋役人を兼ねる。 |
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★ 「虫籠窓」(むしこまど)は、かたちが虫かごに似ているので名づけられたといわれています。もとは、町屋の中二階、通りに面した部分に取り付けられました。 | |||||||||||
淀川を上り下りする船を監視する役所 |
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★過書船・大坂と京・伏見の間の貨客を運んだ特権川船。過書(通行手形)を所持するす船。 豊臣秀吉から1598年(慶弔3)河村与三右衛門、木村惣右衛門が朱印状をうけ、徳川家康も1603年これを再認しました。 株数が決められていて、運上金を上納。過書奉行管轄。元禄13年頃には、621艘(250石船1艘、200石船37艘、50石船99艘、40石船99艘)。 ★伏見船 江戸時代、伏見を本拠として淀川を上下し貨客輸送にあたつた船。 1698年15石積み200艘が許可され、伏見奉行の管理下におかれて営業しました。 ★三十石船(過書船) 乗客定員28名、船頭4人。上りは船頭3人で岸から綱を引いて上った。米三十石を積める船の総称。上りは1日または1晩、下りは半日または半夜。 ★ くらわんね船 (茶舟) 大坂の陣のおり、徳|1方に兵糧を運んだ功労で許可。高槻の柱本が発祥。枚方で停船しようとする三十石船に鍵爪をかけて近づき、飯や汁物、酒などの飲食物を販売していた小舟(店主2名乗船程度)が「くらわんか舟」と呼ばれていた。汁椀など食後の食器は要返却となる。 「くらわんか」とは、この地方の方言で「喰わないのか」「喰うことも出来ないくらいの銭も持つていないのか」と乱暴に、また挑発気味に言った言葉です。 夜と昼とを問わず三十石船に近づき、乗客たちに「くらわんか」と声を掛け販売していたことから「くらわんか船」 という名がついた。東海道中膝栗毛などさまざまな紀行文学で、くらわんか舟の船頭たちが「飯くらわんか\ 酒くらわんか\ 銭がないからようくらわんか」と大声でがなりたてながら寝ている客を乱暴に起こして回り食事を売るさまが描かれている。 |
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浄念寺は、浄土真宗本願寺派。1500年頃に岩見入道浄念が開創。西本願寺の門跡御坊。明治の初年、廃寺となった万年寺から移設された木造不動明王立像は平成9年に市の有形文化財に指定された。 浄念寺前の道路は京街道で枡形道路になっています。本陣が近いことから外部から敵が攻めてきても、直進できないようにするための工夫と言われる。 |
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夜な夜な修行に出られるという |
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夜に修行に出られるので、足元が少し汚れているのだという話。 |
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願生坊 浄土真宗の中興の祖、蓮如上人(1415-1499年)の5男・実如が願生坊の前進である順興寺を建立しました。枚方の宿場町は、順興寺の寺内町として栄えましたが、その後、天正年間に織田信長に焼かれたので、慶長年間に東本願寺の教如が順興寺を再建しましたが京都に同名のお寺があったので願生坊と改称しました。なおこの地の人々は、願生坊を東御坊、浄念寺を西御坊と呼びどちらも尊崇していたようです。 |
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急坂と石の階段を登って |
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万年寺山・意賀美神社・梅林 淀川沿いに細長くのびる旧枚方宿の町並みを眼下に見おろし、こんもりと突き出た丘が万年寺山です。摂津・丹波の山々や、豊かな淀川を一望に見渡せる風光明媚なこの丘は、京阪二都のちょうど中間にあり、数々の歴史の舞台となってきました。この丘の上にある意賀美(おかみ)神社の境内には、古墳時代前期の万年寺山古墳があり、青銅鏡が八面出土しました。言い伝えによると、推古天皇(592~628)の時代、高麗(高句麗)の僧・恵灌(けいかん)が、この地の風景を愛で、眺めが唐の林岸江(りんがんこう)に似ているとして、草庵を営んだのが万年寺のはじまりです。 一千年余の法灯を伝え、夕暮れを告げる晩鐘は人々に親しまれてきましたが、明治の神仏分離令により廃寺となり、仏像等は三矢(みつや)の浄念寺に移されました。参道の石段横には、今も「長松山萬年寺」と刻んだ石柱や十三重の石塔が苔むしており、往時をしのばせてくれます。近年、境内に植えられた多くの紅白梅が大きくなり、観梅の名所になっています。梅林の西にある豊臣秀吉の御茶屋御殿跡は、展望広場として整備された眺望の素晴らしいところです。 |
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意賀美神社 高龗神神を主祭神とし、素蓋鳴尊・大山咋神・大国主神を配祀する。素蓋鳴尊は須加神社の大山咋神・大国主神は日吉神社の祭神で、明治時代に合祀されたものである。 |
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京・大坂間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿(おちゃやごてん)を建てたのは文禄4年(1595)のことです。伝承では、秀吉の家臣である枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。京都伏見と大坂に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。 文禄五年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌で眺めたとの話も残つています。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永3年(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。延宝7年(1679)7月1日に起こった枚方宿の火事によって全焼し、以後再建されることはありませんでした。 |
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御茶屋御殿跡は展望広場として整備され眺望が素晴らしい |
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右手道路の左に見える三矢公園は、本陣跡 |
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万年寺山の麓 | |||||||||||
大名や公家など身分の高い人が泊まったり、休んだりした所。枚方宿を通行した大名は23家(天保11年)があつた。西国の大名は西国街道や淀川舟運を利用するものが多く枚方で休泊する大名は少なかった。それでも親藩では紀州藩が代表的で他には松江藩、高松藩、柳川藩、岸和田藩、中津藩、延岡藩等が常連化した大名であった。大名は、参勤交代などに必要な物を全て運んでくる。荷物が多いので人足や馬を問屋役人から助郷村に応援を命じました。枚方では紀州侯の参勤交代が特に大行列であつた。 本陣は江戸初期の頃は宇野新右衛門、徳川吉宗以降は、池尻善兵衛(世襲)であつた。 また、慶応4年3月(閏4月7日)明治天皇が行幸の途中枚方宿本陣で小休止しました。 本陣は明治3年に取り壊され、その跡地に北河内郡役所が置かれ、現在は公園(三矢公園)になっています。 |
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北河内郡役所 明治30年代 |
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慶応4年3月(閏4月7日)明治天皇が行幸の途中、枚方宿本陣で小休止しました。 |
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現在の大阪府枚方市から大阪市長柄まで全長約27km続くとされる堤防で、文禄3年(1594年)に豊臣秀吉が毛利輝元、小早川隆景、吉川広家に淀川のの改修工事を命じて建設。慶長元年(1596年)に完成した。河内平野に淀川が氾濫するのを防止するのに役立った。 また堤防の上は大阪と京都を結ぶ最短路である京街道(または大坂街道)として安定した交通路となった。 |
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枚方ビオルネ前の道路は文禄堤 |
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東海道と磐船街道の追分(分岐点)。油屋の角野宗左の前に有った事から宗左の辻と呼ばれました。文政9年(1826年)建立と印される道標が残つています。 「送りましょうか、送られましょうか、せめて宗左の辻まで」と歌われていました。 |
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宗佐の辻にて解散。皆さん、お疲れさまでした! | |||||||||||
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次回の歴史ウォークは、9月14日(土)午前9時、いきいきランド広場に集合 八葉蓮華寺の阿弥陀如来と獅子窟寺の薬師如来を訪ねます。 皆さん、お誘い合わせの上参加ください! |
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最後までご覧いただき有難うございました! |