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交野歴史健康ウォーク 第184回

中近世の自治都市平野郷を訪ねる

2019.6.8(土) JR河内磐船駅 午前9時集合

行程 : JR平野駅→杭全神社→大念仏寺→ 末吉家の邸宅→長寶寺→小林新聞舗
→全興寺→平野公園(昼食)→ 赤留比売命神社→平野の黄金水→鞍作村→
奥田邸→がんこ平野郷屋敷→くらし博物館→ JR新加美駅(おおさか東線)  約 5km徒歩


案内:高尾 秀司氏(交野古文化同好会)
     
参加者 16名(会員16名)

 東海・関東・東北が梅雨入りする中、前日は久しぶりの大雨でしたが、6月8日(土)歴史ウォーク当日は、雨も上がり曇りがちで暑さもほどほど、16名の元気な仲間がJR河内磐船駅に集合。9時4分発に乗車、京橋・天王寺で乗り換え、10時頃JR平野駅に到着。
 今回は案内の高尾秀司さんが2回も下見に出掛けられて周到な準備をされた「中近世の自治都市平野郷」を隈なくゆっくりと案内頂きました。初めて平野郷へ足を踏み入れられる方が多く行く先々で感動の声が上がりました。

 先ず、元は熊野権現と称され平安時代初期に創建された歴史のある杭全神社へ。赤い社殿に参拝後、境内の樹齢1000年の大楠をバックに記念撮影。また境内には、戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割をもってつくられたものと考えられる自治都市を護った「平野郷環濠」の名残りがあり見学。国道25号線を渡り、大念仏寺へと歩を進めると、最初の辻に平野郷十三口の一つ、馬場口地蔵尊に出会いました。ここで、平田会長より「平野郷十三口」の謂れや歴史をご教授頂きました。
 
 大念仏寺では、高尾さんが事前にお願いされていた住職様が納骨法要のお勤めがあり、代わりに教学部長様より御高話を頂戴しました。融通念仏宗と交野とは深い縁に結ばれていることもあり、御高話は、開祖の良忍上人が比叡山で修行を終えられ京都大原に住まわれ来迎院を創建されたことから始まり、念仏信仰の先駆けとなる融通念仏を広めるため諸国を行脚さえたこと、一時廃れたけれども、元亨元年(1321)中興の祖と言われる法明上人が交野地方の上の山で男山八幡宮の霊宝を授かり念仏踊りの始まりとして栄えたこと、最後に大念仏寺に伝わる「亡女のかたそで」のゆうれいのお話など興味深い講話を伺いました。

 「おもろいてら」全興寺(せんこうじ)では、24のお楽しみスポットが用意されており、西国三十三ヶ所石仏、一願不動尊、小さなお菓子屋さん博物館、地獄堂、本堂の首の地蔵尊など面白く工夫された展示物で一杯。昼食はもと環濠の一部であった松山池の跡地につくられた広大な平野公園の藤棚の下でゆっくりと美味しく頂戴しました。

 午後は、赤留比売命神社、平野の黄金水、加美の鞍作寺、国の重文に登録されている広大な奥田住宅を廻り、がんこ平野郷屋敷で暮らしの博物館を見学。最後に、菅原神社にお参りしJR新加美駅で3時前解散しました。

 ※レジメの作成や現地の案内など高尾秀司氏に大変お世話になりました。
  HPやWEB記事などを参考に掲載いたしました。記して感謝申し上げます。
 中近世の自治都市平野郷を訪ねる
 大阪市の南東部にある平野郷は歴史が古く、弥生時代の墳丘墓で知られる「加美遺跡」、新羅から来た天之日矛(あめのひぼこ)の妻・赤留比売命(あかるひめのみこと)の社、鞍作(くらつくり)氏三代が居住したとされるかつての鞍作村、平安時代には征夷大将軍坂上田村麻呂の子、広野麿がこの地に居を構え、この地を治めていたので、平野は広野が転訛したものと伝えられている。
 戦国時代、大阪冬、夏の陣では戦場となり、江戸時代には濠に囲まれた自治都市として、河内木綿の集散で栄えた町として知られています。
 また「平野の町ぐるみ博物館」など自治の伝統を受け継いだ住民主体の取り組みが行われています。今回は、そうした平野郷と周辺にある史跡を訪ねます。


杭全神社 大楠(樹齢1000年)前で記念撮影
古文化同好会ウォーク・平野郷を訪ねるレジメ
 
 
 
 
平野郷を訪ねるMAP

 
 杭 全 神 社
くまたじんじゃ)
 広野麿(坂上田村麿の第2子)の子当道が平安時代初期、素戔嗚尊を勧請し創建したのが当神社の始まりです(第一殿)。その後イザナギの尊(第3殿、イザナミ・早玉男尊(第2殿)を祀る。元は熊野権現と呼ばれていたが明治になり杭全神社となつた。
 第1殿は元禄時代、2、3殿は室町時代中期の永正10年(1513)の建造で国の重要文化財に指定されている。境内には大樹が多く入口の樟は樹齢1000年といわれ天然記念物に指定されている。
杭全の地名の由来?
杭全の名の由来は諸説あるが、主に以下の3説が有名である。

@ 坂上田村麻呂は朝鮮半島南部に存在した「百済」から渡来した人物という説があり、坂上氏らが住んでいたこの地が「百済」とも呼ばれていたことから、クダラが訛ってクマタになった説。
※杭全の近くには、JR貨物の「百済貨物ターミナル駅」があり、旧地名の百済がそのまま残っている。

A 古事記に登場する倭健命(ヤマトタケルノミコト)の子の「息長田別王」(オキナガタワケノミコ)の更にその子の「杙俣長日子王」(クイマタナガヒコ)が訛ってクマタとなった説。

B 現在の淀川水系のひとつにあたる河川「今川」の氾濫を防ぐために川に杭を大量に打ち込み、「杭を全部打ち込んだ」が変化してクマタとなった説。
 

高尾秀司先生のご案内で杭全神社からスタートしました!
 
 平野郷の大阪市編入について

大正14年、東成区と西成区が大阪市に編入されたことで、
平野郷町は大阪市住吉区となり、昭和49年、現在の平野区となりました。
 杭全神社の夏祭り 
令和元年 7/11  7/12  7/13 7/14
 街中にだんじり囃子響く
杭全神社・平野郷夏まつり  youtube
 
 
平野郷 環濠跡
 平野区平野宮町二丁目1 杭全神社境内      JR「平野」下車 東南約100m

 平野の環濠は、いつ頃掘られたものか不明であるが、戦国時代の動乱の時代に自衛と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割をもってつくられたものと考えられる。町の周囲には堤を築きその外に濠を、さらに堤と濠というように二重に築かれていたところもあり、濠が平野川ともつながっていたので舟運もひらけ、繁栄の基礎ともなった。
 また、町の出入口13の門(平野郷樋尻口門跡の項参照)から街道が各地に通じ、平野は水陸両方の交通の要衝でもあった。なお河骨池(ここのいけ)口付近には船溜りがあり、平野川を上下する柏原船の発着で賑わった。
平野郷 十三口
 戦国時代平野郷は、自衛のため周囲に堀をめぐらし、環濠集落を形つくっていた。そして、出入口にはそれぞれ門と門番屋敷や地蔵堂を設け警備に当った。濠の間には、大小十三の木戸口があり、摂河泉各方面へ道路が放射状に延びていました。
馬場口地蔵尊
 この地蔵堂は馬場口門の傍らになったもので、大門の木戸口は泥堂口とともに奈良街道の大阪、
天王寺方面に接続していて、大阪方面から大念仏寺への参詣口でもあった。
融通念仏宗総本山 大念仏寺
 融通念仏宗の総本山。鳥羽上皇の勅願に良忍上人が平野に根本道場として創建したのが始まり。平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、日本最初の念仏道場と言われる。
 その後廃れるが、元亨元年(1321)中興の祖と言われる法明上人が交野地方の上の山で男山八幡宮の霊宝を授かり、念仏踊りの始まりして栄えました。その後火災などで荒廃するが元禄期(1700)に本山としての体裁が整い現在に至る。
 

本堂 総檜造り銅板葺き。東西約50m、南北約40m。
昭和13年再建の大阪府下最大の木造建築。平成15年に国の登録有形文化財指定
もと古河笵陣屋跡
末吉家の邸宅
 末吉家は平安時代の始め頃から平野郷を治める坂上氏の子孫、平野七名家の一家。
邸宅は創建が1707年と伝えられ、築後300年を超す屋敷。国の登録文化財に登録されている。
長寶寺 本尊 十一面観世音菩薩
 桓武天皇の妃であつた坂上春子姫(坂上田村麿の子女)(慈心大姉)が平安時代始めの大同年間(806〜 809)出家して開いた真言宗の寺院であり、坂上家の氏寺でもある。鎌倉時代の名品で建久3年(1192)の銘がある「銅鐘」、釈迦入寂の様子を描いた「釈迦涅槃図」が国の重要文化財に指定され、市立美術館に寄託されています。
 閣魔大王が自ら刻んだという「閣魔像」、「宝印」が寺に伝わつております。
 
小林新聞舗
 国の登録文化財に登録されている。大阪市内で最も古い朝日新聞の販売所で
明治22年創業、石造り風の洋館の外観が特徴である。
 
 
 
 
  一願不動 薬師堂   全興寺(せんこうじ)
  平野の広い野に薬師堂が建てられ、その周囲に人々が住み始め、野堂町の地名ができた。本尊は薬師如来で聖徳太子の作と伝えられている。また湛慶作と伝えられる「太子の像」がある。
 境内には真田幸村が樋之口の地蔵堂に仕掛けた地雷により飛来したという伝説をもつ「首の地蔵尊」、一願不動尊、「地獄堂の閣魔さん」や「駄菓子屋さん博物館」(平日は閉館)、など見所がたくさんあります。
     
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平野公園にて昼食
 平野公園は環濠の一部であつた松山池の跡地につくられました。
公園内には環濠の痕跡がわずかに往時の名残をとどめております。
 
 
環濠の跡
 
 赤留比売命神社(あかひるめのみことじんじゃ)
 当社の祭神、赤留比売命は新羅から来た女神で天之日矛(あめのひばこ)の妻と伝える。又当社は三十歩社と呼ばれるのは、古来から祈雨の神とされ、室町時代の応永年間に早魃があり、僧の覚証が雨乞いの為、法華三十部を読経し霊験を得た故事によるとか、当時の境内地の広さが三十歩であつたのによると伝えています。(神社由緒書による)
 
 
 
 樋之尻口地蔵尊
 
 
 
 
 
 
 大坂夏の陣   安藤正次の墓 
大阪府大阪市平野区平野東1-7   樋尻口地蔵の向かいにあります。

徳川秀忠の旗本で旗奉行を務め、大坂夏の陣の時前田利常・本多康紀に敵勢に迫るよう伝令に行った際大坂方と遭遇し敵勢の首級を挙げるも自身も深手を負い願生寺で養療するも回復不能と悟り自刃。
 
 
 
 平野の黄金水
 平野は良質の水に恵まれず、飲料に適しない井戸が多いのですが、その中でこの井戸だけは良質の水が湧出していました。そのため各戸には車などで運び込まれ飲用に供されました。
上水道が普及するまで、酒造用にも利用するなど平野の命の水でした。
 
 
 
鞍作寺( くらつくり) (平野区加美鞍作2丁目7-21)
 鞍作りの地は、古代の豪族・鞍作氏が居住していた地域といわれている。古瓦の出土から、この地に飛鳥時代に建立された鞍作氏の氏寺(鞍作廃寺)があったと考えられている。
 現在の鞍作寺の境内には礎石ものこっている。(大阪市教育委員会) 
 
平野川
 
加美西2丁目の交差点
 
加美西2丁目付近の貨物線の廃墟架線橋
 
 
鞍作寺
 
 
 
 奥田住宅
 奥田家は代々鞍作の庄屋を勤めた家柄で、この地方の豪農でした。屋敷が造られたのは、はつきりはしないが、建築の手法から江戸時代の始めころと考えられています。大阪市内に残る数少ない民家建築で、主屋・座敷・長屋門・蔵・納屋などが残つており、国の重文に指定されています。
 
 
 奥田家住宅奥田邸について

JR関西本線加美駅を下車し、南へ約100m。河内国の鞍作村と呼ばれていたこの地域で、代々鞍作(くらつくり)の庄屋を務めていた奥田家は、付近10ヶ村の庄屋総代として苗字帯刀が許された豪農だったと考えられている。現在も残る屋敷は、江戸時代初期に建てられたもので国指定重要文化財。約3300平方メートルもの広大な敷地に、主屋、表門、乾蔵、旧綿蔵、納屋、米蔵2棟などが並ぶ。中でも、かやぶき屋根の主屋はもっとも古い建物で、風格を漂わす美しい建築。奥田邸保存会の奥田順一理事によると、家康の軍勢が大坂城を攻める際、ここで食事を摂ったという逸話も残っているという。民家ならではのくらしぶりや素朴な歴史物語が興味深い。
 
 
 
 
 
 がんこ平野郷屋敷
 がんこ平野郷屋敷
 代々豪農として栄えた当屋敷の辻元家は、江戸時代より、庄屋、村長など村の要職を勤め、当地にて重んじられた家柄でありました。また当屋敷は江戸時代初期の建築とされており、重厚な門構えや広々とした奥座敷、土蔵などそこかしこに往時をしのばせています。 (当家の由緒書より)
 
 
 
 
 がんこは寿司レストランとして有名。中でも「がんこ平野郷屋敷」は江戸時代なたね油売りで富をなした商人の屋敷で、400年の歴史がある日本家屋が特徴的なお店である。レストラン内にある「暮らしの博物館」には伝統のある着物や、陶器、掛け軸などが展示されている。 
 
  くらし博物館と庭園
 博物館は元、辻元家の屋敷を利用して営業している「がんこ平野郷屋敷」内の蔵にあります。展示室には辻本家が往時に使用していた昔の道具や什器など、河内の文化を偲ばせる生活用品を見ることができます。無料。今回は自由見学いたします。庭園もご覧いただけます。
 
 
 
 
 菅原神社と三鞍作用水樋門記念之碑
 もと天児屋根尊を祀り橘宮と称したが、のちに天神社と称して、菅原道真公を祀る。創建の年月は明らかではないが、鬼門除けの神として信仰を集め、境内の砂を持ち帰る風習があった。明治5年村社となり、さらに40年10月南鞍作村の無格社天照皇大神社、41年10月鞍作、新家村の村社菅原神社を合祀した。しかし、新家村の天神社は近時旧地に戻って独立した。神社奥には、鞍作、南鞍作、新家の三ヶ村を潤した三鞍作用水樋門の記念碑がある。 
 

正一位・杉丸稲荷大明神 
 
 三鞍作用水樋門は江戸時代中期に設置され、その源流は大和川沿いの青地樋門より平野川に導いた用水をこの樋門で取入れ、下流において神武沢井路と小路沢井路に分岐し、鞍作・南鞍作・新家三ヶ村の田畑約120町歩を潤し、且つ、治水の役目を果たし、河内木綿の発展に大いに貢献してきたものである。
 尚、この樋門を長く管理してきた三鞍作樋組は、現在も続いている。   平成2年7月


最後までご覧いただき有難うございました

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