[ホームページ] へ戻る

第165回 交野歴史健康ウォーク

2017.5.20(土) 24名(会員15名)参加

星田の史跡・水路と里道を歩く

案内人 : 大屋 喜代治氏 (交野古文化同好会)

行程:星田駅(午前9時)→ 六路川・地蔵 → ろくろの交差点→ 大分け → 
星田大池→ 高岡稲荷 → 布懸遺跡 → 星田池 → 寝屋長者屋敷跡 →
 水道道→里道を歩く→ 東高野街道→ 川尻池跡 → 釜田浦 →坊領遺跡
(11時40分頃解散)   徒歩 約4.5km
 5月20日(土)五月秋晴れの中、大屋喜代治氏の案内で、星田の史跡、変わりゆく北星田と水路と里道を歩いてきました。今回のウォークに先立ち、大屋さんには、3月30日に下見、星田村絵図(元禄10年及び天保14年)や星田村地詰帳、星田村庄屋文書など関係資料の解説など大変お世話になりました。
 また、歴史健康ウォーク当日は、連日の真夏日のような熱い天候にも拘わらず、予定ルートをすべて歩き、貴重な資料を基に詳しく解説頂きました。

 参加された方々から、「星田を今まで何度も歩いたが、今回初めて星田大池や高岡山に上り、江戸時代から米作りに大変ご苦労された先人の汗と知恵を知り感動しました。」「北星田の開発が云々されているが、歩いたこともない里道や灌漑用水路のことなどを実際に案内頂き、これまで余り関心が無かったけれど、これから北星田がどのように変わって行くのかじっくり見守って行きたい。」など感想を頂戴しました。

 ホームページに掲載するにあたり、講師の大屋さんより詳しく解説されたレジメを頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。

 ※参考資料 星田村庄屋文書、河内国交野郡星田村地詰帳、星田村絵図(元禄15年・天保14年)
  交野市史・交野町史など参考にさせていただきました。
星田の史跡・水路と里道を歩く 散策MAP
星田大池の隣の高岡山(高岡稲荷)76.6mで記念撮影
皆さん、登ったことのない高台から見える風景に暫し感動!
 

5月20日 歴史健康ウォーク レジメ







 






下記の地図は明治12年測量の地図に標高の高低図を高さ10m単位に色分けし、
小字(交野市史から転記)を書き入れたものである。
 傍示川
 「ほうじがわ」と読む。星田南星台の南側の谷を東南方向から西北方向に流れ、大谷橋を過ぎ学研都市線をくぐり寝屋谷へと通じ、そこから寝屋川となる。
 傍示川という名の由来は、国境を示した川でなく、平安時代に作られた荘園(天暦3年、石清水八幡宮の荘園が交野の山々一帯に設けられた)と国衙領の境を示すもので、この荘園の西南の端が星田の傍示川であった。
 傍示川は、地形的に、星田の山からの広範な山水を集中して集めていて、度々氾濫するなど治水が難しく、平安時代、星田の中川以西の地域は、牧場に使われていた(星田牧)。そのとき三島郡上牧の為彌牧(いねのまき)傘下の福牧に属していたが税の取立てが厳しいため、奈良興福寺別院円成院領に寄進し、その荘園となって庇護を受けることになった。

 傍示川の地名の由来は、その荘園の境界を示すのに普通立札などの目印が使われるが、ここでは川筋が使われ、それで傍示川と呼ばれるようになった。なお中川以東の地域は、中川やその上流の紐谷川は、湧水中心の川であり、一方で水量豊富で緩やかな流れの天野川の後背湿地に属し、古くから物部氏が稲作の指導を進めてきたと言われる地域であったが、奈良時代、大化の改新際に条里制の区画が行われた稲作適地であり、その後、公地公民制度が崩れてゆき、荘園制度が普及して私領化が進んでいくが、この付近は、石清水八幡宮の荘園になった。

 なお鎌倉時代中期には、荘園の鎮守のため、石清水八幡宮から分霊して新宮山八幡宮が造られた。

出発は星田駅 午前9時

JR星田駅に掲げられている案内板
立花会長の挨拶

熱中症に気を付けて
水分を適当にとりながら元気に歩きましょう!
星田駅 明治31年開業
平成14年3/23、JR西日本のダイヤ改正で
学研都市線・星田駅に快速が終日停車
するようになり、乗降客も大幅に増加!

案内人 : 大屋 喜代治氏 (交野古文化同好会)
星田の道星田の道・半尺口付近

 星田の旧村の道は、いずれも曲がっていて見通しがきかず、いびつの三ツ辻または四辻として複雑に交差し、侵入者を迷わすべく、工夫して作られた道である。
 幾星霜を経て、そこに居住する者は、馴れてしまって別になんとも思わないが、他所から来た人は閉口する。どうすることも出来ない困った道である。
 明治2年、後の北河内の154ヶ町村のうち、星田村が377戸の第1番の大村であった。大村であるが星田一村としてまとまり、外敵を防いで、よく守ってきたのである。

 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里正 平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
私も、何度となく星田の町中を歩くが、いまだに道筋がわからず難儀している。
北星田地区の里道、農業用水路について

 北星田地区では、府道枚方交野泉大津線や同交野線周辺は、工場など市街化が進んでいるが旧東高野街道を挟む周辺、星田共同墓地の北側、jR沿線天野川鉄橋以西の一角などでは、農地が残されている。、近年第2京阪道路の建設や、市道(水道道路)の建設やこれらの地域は従来から都市計画法上の市街化調整区域であることが農地存続に有効であったと思われるが、これを市街化区域に繰り入れる動きがあり、これからこの地帯は大きな変貌を遂げることが予想される。
 このため過去の歴史遺産である東高野街道(旧国道にあたる、)や里道および農業用水路について記録にとどめる。

※星田地区の地形と小字地図について
 別紙の地図は明治12年測量の地図に標高の高低図を高さ10m単位に色分けし、さらに同色の2m50cm単位で線幅を変えて、標高2m50cmの高さを表現した標高地図に小字(交野市史から転記)を書き入れたものである。
星田大池と星田の水田

 星田大池は正確な建設の時期はわからないが星田村の記録にでるのは寛永14年(1637年)でそれ以前とされている。元禄10年星田村絵図(1697年)では1町3反(1.3ha。最大時の交野3中が造られる前は6h)の池が描かれている。

 星田大池は、地図では堤防の高さは、標高60mぐらいで、星田の地盤は現在の星田駅周辺が最も高く45m近くでそこから北側には低くなっている。従ってこの星田駅の高さまで星田大池の水を自然の流路勾配を確保できるルート設計すれば北星田地区全域、特に地盤が高い西側の地域にも給水が可能になる。地図でみるとこれに届く水路は小字布懸の水路だけである。

 従来の星田村の水源の中川は、湧き水主体であったが、星田大池は、星田村天保絵図が描いているように村落の北側の星田山などの山水を降雨時は、傍示川に流し、通常の晴天時などは星田大池に貯水するという、積極的に星田の山水を利用していこうとするものであった。

 天保絵図では降雨時の傍示川への放流の桝が描かれているが、明治末期に星田新池が造られたが、この大きな役割は防災面で、天保絵図ではぼって川の川面の上には堤がなく、大雨時には防災の手当はないが、利水面ではぼって川の時代も、星田新池になってからも双方とも星田大池に貯水しており、その意味では異ならないと思うが、星田新池は、完全閉鎖型で防災面の徹底と星田大池の補助貯留層としての役割があったのであろう。
里道と水路について

 小字地図の境界の里道はすべてといっていいほど現存していて、里道にはほとんど水路が併設されている場合が多いので確認はしていないが、水路も現存しているといっていいだろう。

 里道と水路は、登記場などにおいて国有地扱いとされていて里道、水路は公道扱いされている。、他に利用者がある以上は、外に迂回路をつくるなど特別の措置をしないと払下げしてくれない。東高野街道は1か所だけ臨港製鉄(現新関西製鉄)が道路を塞いでいる個所があるがその場合、前にある府道が迂回路になっている。またそこに建っていた道しるべ地蔵は星田共同墓地の入口に移されて現存している。
水路と里道に沿って歩き、史跡を訪ねる
行程:星田駅(午前9時)→ 六路川・地蔵 → ろくろの交差点→ 
大分け → 星田大池→ 高岡稲荷 → 布懸遺跡 → 星田池 →
六路川の地蔵
歯痛の地蔵。廃仏毀釈によって捨てられていたのだろうか昭和53年発掘

六路川
 

六路(ろくろ)の辻
 六路の辻の交通信号は交野市内で最初に(昭和39年)設置されたそうだ。当時は交野市内でも有数の交通量があったところでもあり、また6つの辻が出会う難所でもあったようだ。

 「六路」は、文字どおりの辻の集合体であろう。星田の駅前辺りが星田への出入口となっている。東高野街道によって交野方面や打上、四条畷方面、また、北へは大谷から寝屋へ、高田へ、そして、山根街道に沿って星田から私市、森へと四方に道路が通じている。

 この道路網と別に星田への出入口であったから、六道(ろくどう)の辻で、お地蔵さんを祭って悪霊の立ち入りを防いだり、旅の安全を祈願したといったことも行われた。六道とは仏教の世界説で、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの苦難に満ちた世界をいう。人間は仏菩薩を念ずることで、これらの世界に落ちるのを救われるという。平安時代中期以降、浄土教の発展とともに民衆の間にこの思想が広まったものである。 
六路川
 星田大池を水源としてみどり池、「大分け」を経由して、星田小学校の裏手へと出て、「ろくろの辻」で土管の中に吸い込まれて住宅街の北へと流れ出て、JR線の下をくぐり、東高野街道沿いへと流れ、北星田の田圃を潤し、星田の惣墓から枚方市の茄子作へと流れている。
ろくろの辻で土管に吸い込まれて北へと流れでる
 大分け(おおわけ)
   星田大池から放出した用水をここで各方面に分けている場所
 池の水は下手の御農(みの)、高岡、布懸(のうかけ)、玉江(たまこ)、六路(ろくろ)、側田(かわた)等の土地に給水されている。 
星田大池
 星田大池は正確な建設の時期はわからないが星田村の記録にでるのは寛永14年(1637年)でそれ以前とされている。元禄10年星田村絵図(1697年)では1町3反(1.3ha。最大時の交野3中が造られる前は6h)の池が描かれている。
 星田大池は、地図では堤防の高さは、標高70mぐらいで、星田の地盤は現在の星田駅周辺が最も高く45m近くでそこから北側には低くなっている。従ってこの星田駅の高さまで星田大池の水を自然の流路勾配を確保できるルート設計すれば北星田地区全域、特に地盤が高い西側の地域にも給水が可能になる。地図でみるとこれに届く水路は小字布懸の東西の水路だけであろう。

 従来の星田村の水源の中川は、湧き水主体であったが、星田大池は、星田村天保絵図が描いているように村落の北側の星田山などの山水を降雨時は、傍示川に流し、通常の晴天時などは星田大池に貯水するという、積極的に星田の山水を利用していこうとするものである。

 天保絵図では降雨時のぼって川、地獄谷川の山水の傍示川への放流の桝が描かれているが、ぼって川は、明治末期に星田新池が造られ、地獄谷川とは、ぼって川(現在は星田新池からの放流水をいう。)が合流する上流の傍示川の正式な名前で源流は小松山の南斜面の山水である。
大池改修記念碑

昭和43年10月から46年3月にかけて、大改修工事が行われその時に碑が建てられた。
星田大池の堤の上で、大屋さんより、大池のこと、星田村の集落、傍示川、
相給村、地詰帳、星田村の絵図などについて、詳しく解説を受ける。
東高野街道沿いは、西の大谷地区に続き、布懸、玉江、六路と昔の星田の集落に接した小字が続いている。
星田村は市橋藩(1306石)と八幡藩(120石)、大久保藩(109.8石)の3藩の相給村であるが元禄10年星田村絵図では、八幡藩の領域として、星田駅周辺と中川道沿いの千原から釜田あたりを描いている。
交野郡星田村地詰帳では八幡藩の領地として、六路地区は耕地24筆中100%、玉江、神出来で60%をしめている。またとうのかいとは徳川家康が宿陣した御殿屋敷あとで75%を八幡藩が領土としている。
「八幡藩」の地詰帳の書式
地詰帳とは検知帳である。太閤検知にはじまり、通常は田畠の上中下のランクづけと耕地面積、生産できる石高、請受農家の氏名などが記載されているが、八幡藩は綿花栽培が盛んであったためか、生産石高だけの検知帳で年貢をとっていたことが考えられる。
<星田と綿花栽培>

 交野で一番綿花づくりが盛んなのは星田村であり、機織りも盛んで,次いで多かったのは郡津であるとしている。各地区では、綿花は星田村に出荷して機に織られたとしていて、また、明治の中頃の片町線以北は一面綿花で美しかったとか、あるいは納屋を改造して幾台もの機械を据え付け、製品は各方面に出荷が盛んであったとか、むしろこれを主業とした農家もあり、大変成功した例も数多かったとか。

 当時の社会情勢に応じて最も商品価値のあるものを栽培することは当然のことであるが、灌漑能力等その土地の実情に合った作物を選ばなければならないのも当然である。そして明治も後半を迎え,、都市には紡績工場の活動が始まると、もはや手工業経営の採算が難しく、この段階はすでに通りすぎた感がある。従って、綿花栽培は,次第に蔭をひそめ、明治末期には全く水田耕作に逆戻りした。明治末期に星田新池また、次いで大正に入って、大谷新池の築造が完成したが、当時の国鉄の星田駅周辺に残っていた綿花畑も大谷新池の完成によって消滅したという伝承が残っている。(交野市史)
<昔の傍示川と 西周りの(現在の)傍示川>

 昔の傍示川は高岡山の東側(現在の星田大池の西寄り)を流れていて、あまつげ川を通って現在の山根街道付近から大谷橋に流れていたという話がある。
 明治41年の地図では、等高線の地形の上から掘削工事あとやその前段で使われていたと思われる旧堤防の跡が残っている。
<星田大池の樋上げ>

 この日は、5月中のお不浄日で、最も悪い日である。この悪い日に樋を上げて水を出していたら、これより悪い日はないので、年中適当に雨が降って星田大池から水を出すことがなくなるという趣旨でその年の米の豊作を祈る日でもある。
 おまつりをする場所は、星田大池の西北、高岡大神(高岡稲荷)の前である。高岡大神の南の小径を登ると、高崎大神,吉高大神と彫った石があり、さらに登ると、東に面した石に高岡神社と彫ってある。
 その日の参加者は、水利組合の人13名が正面に鯛と野の幸をお供えしてお祈りをした。続いて、昔は、そのまま樋を上げたようであるが、今は、形ばかりの行事で、「樋守り」と水利係で運営が始まる。星田大池の碑が北側の堤に立っている。安政2年に一度決壊している。星田小学校の校庭の三本松を流出した災害などその後改修を重ねられたが、昭和43年10月から46年3月にかけて、大改修工事が行われその時に碑が建てられた。

<高岳稲荷(三太郎稲荷)>
 二月の初午の日、みどり池は、赤いのぼりが立ち上り、赤飯の「もっそ」をつくって草原を巡った。14〜5軒で講をつくり、講中の者は、味噌のお汁で会食する。講には講田もあって余得もある。当番の家が初午の準備、会食等に当たっている。
星田大池の隣の高岡山(高岡稲荷)76.6mで記念撮影
皆さん、登ったことのない高台から見える風景に暫し感動!
 

高岡稲荷

みどり池

星田大池からみどり池を経由して放流される用水路
   山根の道  布懸遺跡
 昭和54年に旭小学校西隣の電電公社社宅建設予定地より
旧石器時代の石器(約1万5000年前)が発掘された。
旧石器128点と石鏃1点が出土した。直径数メートルの範囲に、約10cmほどの
深さの中に、ナイフ形石器を作りだすまでの剥片、砕片などが集中していたことから
この場所が、ナイフ形石器の制作場所であった可能性が高い。
旧石器のほとんどはサヌカイトで、二上山からの搬入と考えられている。
 東高野街道の道標  大谷付近

 
大井川万吉・道標
「すぐ京、八はた道」と台石に「門弟中」と刻む 安政3年(1856)の道標
里道と水路

 里道や水路は、大規模開発が行われた藤が尾団地や、関西製鉄(旧臨港製鉄)などの企業団地地区をのぞいて、国有地であり、道路扱いされているので、残っている場合が多い。水路は、周辺に田畠が残っている場合はつぶせないので道がなくなってものこっている場合がある。
 東高野街道では1か所だけ臨港製鉄(現新関西製鉄)が道路を塞いでいる個所があるがその場合、前にある府道が迂回路になっている。またそこに建っていた道しるべ地蔵は星田共同墓地の入口に移されて現存している。

星田池

 星田池は、敷地は寝屋村にあるが、星田村の飛び地になっていて従って、村の境界は、星田池だけが池の中央になっている。昔星田大池は、星田村が10日使用すれば、寝屋村が1日水を採取する寝屋村が10分の1の水利権を持っていたことがある。これは、星田大池ができたため、降雨時は傍示川に流すが晴天時などは星田大池で貯留するシステムになったため、下流の川には水がながれないことになるため、寝屋村の水利権が発生し、その行使のため星田池が使われていたと考えるのが自然と思える。
<堀之内、金門(かなかど)、車司(くるもうじ)>    

 いずれも御伽草子の鉢かづき姫にでてくる長者屋敷にかかわる地名である。堀之内は、隣接する寝屋村も堀の内となっていてここに堀に囲まれた長者の屋敷があったとされている。金門は、金で装飾したような立派な門があったとされている。車司は、長者の乗る牛車をひく人々やその牛を飼育する人が住んでいたところであるとされている。
 鉢かづきちゃんは、現在寝屋川市のマスコットキャラクターになっているが、寝屋川市にはこの原本の1つである「河内国交野郡寝屋長者鉢記(寝屋川市役所蔵本)」(1巻〜7巻)が図書館で閲覧させている。この物語の長者は備中守藤原実高といって屋敷は、東西12町(1300m)、南北4町(440m)の広さがあり、幾百坪の建物や10数坪の土蔵が立ち並び近畿でも長者の頭と呼ばれていて、西側にたち川が流れていることを考えるとその規模からして長者屋敷はかなりの部分が北星田地区にあったと考えられる。なお、松会堂蔵版写本「寝屋長者鉢かづき」(万治2年―1698年)は、その頃は、屋敷の形は残っていたとされている。
伝 寝屋長者屋敷跡
 金門(かなかど)
 国鉄星田駅の東側、ガードをくぐると東北に伸びる昔の道がある。東高野街道である。この道と戦時中に香里の火薬庫があったときに星田駅から引込線が敷かれていたレール跡が道路になっている道との交差点まで、南側が金門、北側が車司である。
 堀之内辺りに寝屋の長者屋敷があって、東高野街道に面して出入口の門が建っていた。その門は木の門ではなく金(かね)の門であった。だぶん金箔(きんぱく)を張った(江戸時代の城門のような)りっぱな門であったろう。朝日、夕日が当たると照り輝いており、それはみごとな門であったろう。街道を往来する旅人を驚かしたに違いない。

 車司(くるもうじ)
 「くるもうじ」と読み、漢字の方は「車牛」と書くこともある。金門の北側でやはり東高野街道に面している。
 寝屋の長者が外に出るときは必ず車に乗って出かけられた。車といっても当時は牛車である。馬の場合もあったかもしれない。そうすると牛馬を飼育しておかなければならないし、牛舎も必要である。また、牛馬を飼育したり、引いて行く人も必要である。こういった牛馬やこれを管理したり飼育したりする人々が生活していた場所が、大門のすぐそばであった。金門に続いて車司が付けられるのもそういった意味があったのである。

 四馬塚(しばづか)
 金門の東側で、東高野街道に面している。「芝塚」のことだろう。一里塚のことである。街道を往来する旅人の道しるべと距離を示すために、街道の両側に5間四方の広さを盛土して、その上に松や雑木を植え、遠くからでも一里塚であることが分かるようにしていた。交野地方では星田の東高野街道沿いの「四馬塚」に松を植えた一里塚があったことを言い伝えている。

水道道

水道道から見た第二京阪国道

里道を東高野街道に向かって歩く
 
「四馬塚」付近の田園風景

東高野街道から東を見れば、交野連山が望める 
<上下平池と大久保藩の敷地>

 上平池と下平池は池がついているので昔は池が多かったのであろう。しかし現状は灌漑用水で、北星田地域は南高北低で川田の下流の水田となっている。
 元禄10年星田村絵図にはこの地域に大久保藩の領土が表示されている。星田村は、大久保藩は徳川5代将軍綱吉の時代の貞享4年(1687年)に永井藩に新しく知行されたもので、後に大久保藩に移されたものであるが、星田村では寛永14年頃村中総掛かり新田開発を行っており、これには星田大池の築造による利水地域の拡大が当然含まれていたと思われるが、その結果として、新たな耕作地が広がって、新な知行が行われたのであろう。108石は、当時検知帳である地詰帳で中ランクの田は、1反あたり1.3石で推計するとその面積は8.3町で8haあまりの広さがあったであろう。


東高野街道から北星田地区をバックに記念撮影  
背後には第二京阪国道が見える
<可所、江尻>
 可所は河床。江尻は川尻であろうとされていて北星田地区は西高東低、南高東低になっているがこの付近は若干地盤が低く周辺から水を集めやすい形をしており、最終は茄子作の谷に流れている。星田牧という干田といはれる北星田地区のなかにあってこの付近は比較的古くから水田耕作が行われていたことが推測される。

<神出来>
 かんでらは干田で周辺に比べて地盤が高い形のところで、水田化が困難なところであったであろう。このあたりはため池が多かったようであるが、降雨時あるいはその後の水量の多いときに釜田浦あたりから西の村への給水を受け、貯水していたのであろう。

<市の西>
 星田牧の牧場市があったとされる。

<尾道>
 4世紀末から5世紀はじめにかけての仁徳天皇は、茨田の屯倉を作ったとされる(日本書紀)。吉田東伍(1864〜1918)の大日本地名辞書に三宅山は、星田村にあり、「茨田三宅の遺構なるべし」、とあり当時茨田郡の中に交野郡が含まれていたため、星田にあったとすると、尾道は、大蔵ともいい、この地が候補地にあげられている。交野屯倉は、6世紀の敏達天皇の頃、蘇我と物部の対立時代に後の推古天皇(女帝)が皇后時代に交野一帯の土地1488町歩の土地を皇后に寄贈していわゆる私部(きさいべ)とよばれた土地は、皇后から天皇になったため屯倉とよばれたが、それ以前の仁徳時代にヤマト政権の拡充は屯倉を広めて地方支配を進めていったとされているが別の屯倉であろう。
 第2京阪と星田北線の交差点付近が尾道である。尾道は、今回第二京阪道路建設で平池遺跡が発掘され、古墳時代の遺構が見つかっているがその数百メートル南よりの東である。

東高野街道の一里塚
 京都の教王護国寺(東寺)と高野山金剛峰寺を結ぶ参詣の道を高野街道といいます。
 その中で、河内国の東部を通る街道を東高野街道といいます。
 平安貴族が高野山へ詣でるときは、南都(奈良)の諸大寺を巡ってから行くか、難波(大阪)の四天王寺や住吉大社に詣でてから高野山へ赴くことが多く、東高野街道を通ることはあまりなかったようですが、この街道は高野詣の始まる前から河内国では唯一の南北道で、通行や物資の輸送のために重要な道でした。
 河内の荘園と京都を結ぶ道として、南北朝時代には南朝・北朝両勢力の軍事道路として使用されました。
 江戸時代にできた地誌『河内志』では、東海道から続いて大阪まで下る京街道を「京道」として、東高野街道を「古道」といっており、古くからの道であったことを示しています。
 
 一里塚とは、大きな道路のそばに、通行者の目印となるように、一里ごとに設置した土盛りの塚のことです。
 元禄10年(1697年)の星田村絵図(市指定文化財)には高野街道沿いに「一里塚」があり、下の絵図のように、道の両側の盛り土の上に大きな松が1本ずつ描かれています。
 現在は、星田駅から枚方市の高田に向かう道の途中に、一里塚跡の石碑が残されています。
 
 
   
交野郷土史かるたに「路傍には 東高野の一里塚」と詠まれています。
 一里塚は街道の一里(4`)ごとに土を盛り、上に木を植えて里程のしるしとした塚。道を挟んで向かい合わせに二つ、木はエノキや松が多い。一里塚の起こりは織田、豊臣の時代からつくられはじめたが、全国的には、徳川家康が秀忠(2代・1605−1623)に命じ、お江戸日本橋を起点とした主要街道に築かせてから広がった。JR星田駅から高架沿いを東に向い四辻を北に少し行くと小字名を街道の東を四馬塚(しばつか)、西を金門(かなかど)という所がある。その田の中にあった。

 江戸中期ならびに元禄10年(1697)の星田絵図にはそれぞれ「一里塚」と書き、道の両側の盛土のうえに大きな松が一本ずつ画かれている。当時を偲べば、街道には里程の目標と旅人に木陰を与え、休憩するために一里ごとに土を盛って松などを植え、一里塚とか一里松といった。  今は舗装道路となり、毎朝の車通勤ラッシュの迂回道路として賑わっている。現在は古川柳にある「くたびれたやつが見つける 一里塚」となりつつある。

 平安時代、信仰のため旅をする人の通った東高野街道は京都鳥羽から河内に入り郡津、星田を経て高野山まで続いていた。そして一里ごとに目印として、木を植えて、お大師さんを祀ったのが一里塚です。一里塚にあった太子堂、今は星田村中の半尺口に移転されています。 
釜田浦
<釜田浦>
 中川の水をスイッチバックする樋堤を作り(天保14年星田村絵図に記載。)東の部落と西の部落にスイッチし、降雨時やその後の中川上流の妙音池など池が貯留量を上回るときに釜田浦で流れの方向を変え、下流側の田やため池に通水した。
坊領遺跡
 坊領遺跡は大阪府営交野藤が尾住宅付近から北に伸びる台地の上に広がる遺跡です。
本遺跡は今から61年前の昭和31(1956)年に地元の中学生によつて土器や石器が採集されたことにより広く知られるようになりました。
 翌昭和32(1957)年に交野考古学会の皆さんによつて、現在調査を行っている場所の近辺で遺跡確認のための調査(試掘)が実施されました。その時の成果は平成4(1992)年に発刊され『交野市史 考古編』によりますと、土器類(弥生土器・土師器、須恵器・陶器)や、石器(サヌカイト片)が出土し、「コ」の字状に屈曲する溝・炭化物が集中する部分がみつかつたと記されています。そして、特に弥生土器や石器がたくさん出土したこともあり、この時代の遺跡として認識されるようになりました。
 今回の調査地は遺跡が広がる台地の先端部分にあたります。調査では南東側(JR学研都市線側)から北西側に向かつてゆるやかにくだる地形(南側の標高30.5m〜 北側の標高29.5m)が姿をみせ、調査地の北西端には南北方向に流れる流路の痕跡がみつかつたことから、調査地は流路を望む小高い場所であることがわかりました。

 標高が高い部分では古墳時代中期(今から約1600年前頃:5世紀代)の竪穴建物2棟や掘立柱建物2棟(現在は時期が不明)を中心にして多くの柱穴等の遺構がみつかっています。竪穴建物の一つには煮炊きを行うためのカマドが作られています。標高が低くなる部分では流路に向かって流れる古墳時代の中頃の溝や弥生時代後期(今から約1900年前頃)の井戸、多くの柱穴等がみつかりました。また流路のすぐそばで竪穴建物が1棟見つかりましたが、その中に遺物がほとんどないことから、いつの建物かは判明していません。さらに、「口」の字状に溝が巡る方形周溝墓が1基確認できました。残念ながら墳丘は削られており、主体部(遺体を葬つた場所)の痕跡は残っていませんでしたが、周溝から弥生時代中期(今から1200年前頃)の土器がまとまって見つかっています。

 現在までの調査で、調査地は古墳時代中頃の集落と弥生時代中頃のお墓が形成されていた場所であることが明らかとなりました。

 なお、遺物包含層からは古代の土器、古墳時代の須恵器や土師器、弥生土器や石器がみつかっています。弥生土器の数はそれほど多くありませんが、不思議なことにサヌカイト製の石器や石器を作るときに出る石の屑がたくさんみつかつています。この状況を考えると調査地の近辺に弥生時代の集落も営まれていたことは間違いないものと言えます。古墳時代以降、長年にわたる土地の利用によつて弥生時代のムラの姿がわかりにくくなってしまったものと思われます。
 これからの調査やその後の整理作業で、より具体的に坊領遺跡の様子を明らかにしていきたいと思います。


埋め戻された坊領遺跡風景
坊領遺跡 現地説明会資料
 標高が高い部分では古墳時代中期(今から約1600年前頃:5世紀代)の竪穴建物2棟や掘立柱建物2棟(現在は時期が不明)を中心にして多くの柱穴等の遺構がみつかっています。竪穴建物の一つには煮炊きを行うためのカマドが作られています。

掘立柱建物  柱穴は一辺0.5m前後

竪穴建物  
北東側(手前)の建物は一辺4m弱で東側にカマドを持ちます
南西側(奥側)の建物は一辺5m前後
 標高が低くなる部分では流路に向かって流れる古墳時代の中頃の溝や弥生時代後期(今から約1900年前頃)の井戸、多くの柱穴等がみつかりました。また流路のすぐそばで竪穴建物が1棟見つかりましたが、その中に遺物がほとんどないことから、いつの建物かは判明していません。さらに、「口」の字状に溝が巡る方形周溝墓が1基確認できました。

古墳時代中期の溝
坊領遺跡の北側にある茄子作遺跡で見つかった須恵器に
よく似た初期須恵器がみつかりました。

弥生時代中期の方形周溝墓 1辺11m前後(溝を含めて)

竪穴建物(1辺3.5m)と流路
<鎌田水論> 一ツ松樋  市民講座第2部資料参照
 鎌田水論一件は、星田中川筋の下流「落野辺(おつのべ又はおちのべ)」付近の用水・悪水をめぐって争われた。
    (寛政8年・1796年)

 中川とぼうりょう川に挟まれた土地「星田領 落野辺」は低地となっており、大雨などの際には水浸しになった。この悪水をはけさせるため、元禄15年、星田村は、私部村との取り決めの上、「落のべ樋」から天の川へと堤を築いた。しかし、しだいに落のべ樋から天野川にかけて土砂が堆積し、悪水が吐けず雨天には悪水が逆流するようになった。そこで、星田村が「一つ松樋」から「きたいで」へ悪水を吐くことにしたが、この悪水が私部村鎌田以北の川下村々一帯に及び、これに困った私部村は鎌田に悪水を防ぐ堤と水路を築いた。だが、この堤で悪水がせき止められ、星田村「きたいで」の田地が水浸しになったため、星田村としても困った。
 一件の発端は、一つ松樋の伏せ替えに際して、両村百姓間でいさかいが生じ、けが人がでたことによる。けが人は回復するも、水論については両者譲れないため、星田村は私部村を相手取り、また、私部村ほか川下七か村(茄子作村・山之上村・村野村・禁野村・田宮村・岡村・岡新町村)は星田村を相手取り訴訟を起こす。

<星田村の主張>
・星田村は、悪水を一つ松樋より抜いているが、私部村は鎌田に新たな水路、堤を築きたてた。星田の「御田地」が水浸しになるので、取りはらってほしい。
・一つ松樋は往古より悪水樋であり、そうであるからお互い安永年間に取りきめをした。
・安永の取り決めには私部村が勝手に詰めてもよいという証拠はない。
・落延樋から天野川にかけて土砂がたまり、悪水が吐けず、雨天には逆流する。

<私部村はじめ川下七か村の主張>
・元禄年間に星田村落延の悪水を落とすため、その堤が必要となり、私部村は年米四石受け取っている。
・落延樋から悪水を抜けばよく、一つ松樋からは悪水を抜く必要なし。
・星田村は往古より一つ松樋を干ばつの際の用水路として使ってきたはずだが、安永の際、紛争となり、以後、雨天の際には一つ松樋をふさぐようにし、私部村が勝手に詰めてもよいとしたはず。
・一つ松樋からの悪水が私部村はおろか、川下の七か村まで水浸しになる。
取り決め内容の概略
一、一つ松樋は、用水以外には用いない。
一、星田村悪水抜きの落延樋尻以北の堤より川下へ五二間半の土俵を置き、一年に一度、土俵の交換をすること。星田村が同所の川ざらえをし、その土は天の川西堤の上へあげること。
一、一つ松樋より北手の中川堤の樋を、星田村内野の用悪水樋とし、以来破損した場合、この樋を星田村より広げてはいけない。もっとも、星田村領落延内野の悪水抜きは、この樋と落延樋の二か所に限る。
一、私部村新規の水路・堤は取り払って従来の通りにし、争論中に星田村より浚った一つ松筋も従来の通りにすること。

 六路川、星田大池、高岡山、星田池、北星田の里道と水路などを訪ねて交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。

 次回の歴史健康ウォークは、6月10日(土)、土生川と獅子窟寺の三十三観音巡りなど散策します。健脚コースの設定になっていますが、是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

[ホームページ] へ戻る