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第168回 交野歴史健康ウォーク

2017.9.9(土) 20名(会員15名)参加

星田の史跡・古絵地図から
水田水路の源流を考える


案内人 : 大屋 喜代治氏 (交野古文化同好会)

行程 :星田駅(午前9時)→ 東高野街道 → 旭尋常高等小学校→ 大井川道標 → 
大谷北大師祠→ 地蔵堂 → 大谷南大師祠 → 山根街道大坂道 → 傍示川 →
→星田旭縄文遺跡→ 細川と傍示川分流樋→ 細川 → 第3中学校(星田大池)
(11時40分頃解散)   徒歩 約4km
 9月9日(土)残暑厳しい中、大屋喜代治氏の案内で、星田の史跡・古絵地図から水田水路の源流を考える、傍示川から細川へと水路と里道を歩いてきました。今回のウォークに先立ち、8月17日に大屋さんと下見に同行、大谷新池から山根の道、大谷南大師祠など歩き、東高野街道の大谷町の地蔵堂見学を地元の方にお願いをして頂きました。また、星田村絵図(元禄10年及び天保14年)と明治18年・41年の地図などから見た傍示川の変遷などを解説頂き、大変お世話になりました。
 
 ウォーク当日、大谷にお住いの河尻様には、東高野街道の歴史や史跡、地蔵堂の文化財、大谷町の歴史と屋号など大変わかりやすく解説し案内頂き誠に有難うございました。記して御礼申し上げます。

 参加された方々から、「大谷町の歴史や屋号が分かってとても楽しかった。」「これまで星田を何度も案内頂き歩きましたが、昔の絵地図と現在の地図とを比較しながら川の変遷や水路の取口、分流樋など詳しく説明を受けて、昔の人々の苦労が良く分かりました。」「実際に田んぼの畔を歩き、水路を見たり、源流を教えて貰ったり、大変良い勉強になりました。」「これからも灌漑水路など関心を持って見守りたい」など感想を頂戴しました。

 ホームページに掲載するにあたり、講師の大屋さんより詳しく解説されたレジメを頂戴しましたこと、記して感謝申し上げます。

 ※参考資料 星田村絵図(元禄15年・天保14年)、明治18年・41年星田の地図、星田風土記、
  交野市史・交野町史など参考にさせていただきました。
星田の史跡・古地図から水田水路の源流を考える 散策MAP
交野第3中学校(グランドの向こうに星田大池)で記念撮影
皆さん、星田駅から東高野街道、山根街道、傍示川沿いを歩き、暫し感動!
 

5月20日 歴史健康ウォーク レジメ








 






下記の地図は明治12年測量の地図に標高の高低図を高さ10m単位に色分けし、
小字(交野市史から転記)を書き入れたものである。
 傍示川
 「ほうじがわ」と読む。星田南星台の南側の谷を東南方向から西北方向に流れ、大谷橋を過ぎ学研都市線をくぐり寝屋谷へと通じ、そこから寝屋川となる。
 傍示川という名の由来は、国境を示した川でなく、平安時代に作られた荘園(天暦3年、石清水八幡宮の荘園が交野の山々一帯に設けられた)と国衙領の境を示すもので、この荘園の西南の端が星田の傍示川であった。
 傍示川は、地形的に、星田の山からの広範な山水を集中して集めていて、度々氾濫するなど治水が難しく、平安時代、星田の中川以西の地域は、牧場に使われていた(星田牧)。そのとき三島郡上牧の為彌牧(いねのまき)傘下の福牧に属していたが税の取立てが厳しいため、奈良興福寺別院円成院領に寄進し、その荘園となって庇護を受けることになった。

 傍示川の地名の由来は、その荘園の境界を示すのに普通立札などの目印が使われるが、ここでは川筋が使われ、それで傍示川と呼ばれるようになった。なお中川以東の地域は、中川やその上流の紐谷川は、湧水中心の川であり、一方で水量豊富で緩やかな流れの天野川の後背湿地に属し、古くから物部氏が稲作の指導を進めてきたと言われる地域であったが、奈良時代、大化の改新際に条里制の区画が行われた稲作適地であり、その後、公地公民制度が崩れてゆき、荘園制度が普及して私領化が進んでいくが、この付近は、石清水八幡宮の荘園になった。

 なお鎌倉時代中期には、荘園の鎮守のため、石清水八幡宮から分霊して新宮山八幡宮が造られた。

星田の道星田の道・半尺口付近

 星田の旧村の道は、いずれも曲がっていて見通しがきかず、いびつの三ツ辻または四辻として複雑に交差し、侵入者を迷わすべく、工夫して作られた道である。
 幾星霜を経て、そこに居住する者は、馴れてしまって別になんとも思わないが、他所から来た人は閉口する。どうすることも出来ない困った道である。
 明治2年、後の北河内の154ヶ町村のうち、星田村が377戸の第1番の大村であった。大村であるが星田一村としてまとまり、外敵を防いで、よく守ってきたのである。

 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里正 平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
私も、何度となく星田の町中を歩くが、いまだに道筋がわからず難儀している。
東高野街道の史跡と傍示川を歩き
古地図から水田水路の源流を考える
星田駅(午前9時)→ 東高野街道 → 旭尋常高等小学校→ 大井川道標 → 
大谷北大師祠→ 地蔵堂 → 大谷南大師祠 → 山根街道大坂道 → 傍示川 →
 →星田旭縄文遺跡→ 細川と傍示川分流樋→ 細川 → 第3中学校(星田大池)
(11時40分頃解散)   徒歩 約4km
出発は星田駅 午前9時

JR星田駅に掲げられている案内板
立花会長の挨拶

熱中症に気を付けて
水分を適当にとりながら元気に歩きましょう!
星田駅 明治31年開業
平成14年3/23、JR西日本のダイヤ改正で
学研都市線・星田駅に快速が終日停車
するようになり、乗降客も大幅に増加!

案内人:大屋 喜代治氏(交野古文化同好会) 高尾事業部長より紹介
東高野街道を歩く
東高野街道
 東高野街道が南北に、市内の東西を結んだ旧道が走る、昔の交通の要衝。高野山詣での旅人で賑わったという。
 交野市と境を接する寝屋川市大谷町と交野市星田5丁目の境界から打ち上げにかけて、寝屋川市東部の丘陵地帯を通っているのが東高野街道である。この街道はその名の通り、紀伊の国にある高野山金剛峰寺に通じる古道で、河内の西部を通る西高野街道とともに古くから重要な交通路であった。
 江戸時代の元禄2年(1689)に儒者貝原益軒が京都から河内、和泉、紀伊を巡り「南遊紀行」を残しているが、それによると、この街道は「河内の山の根街道」「山根の大道」などと表現されている。
 地蔵堂の灯篭が1680年の建立であることを思えば、益軒先生もこの地蔵堂の灯篭を横目に見られて通り過ぎられたのではと想像するのも楽しいことである。また大谷墓地の西尾墓には元禄の頃(1700年頃)の墓碑(西尾晴雄家)や元禄11年(1698年)の墓碑(西尾和三家)もあることから大谷の村の始まりもこの頃かも?


旭尋常高等小学校



関西鉄道の開通星田駅の開業(明治31年)に前後して東高野街道沿いにあった旭尋常高等小学校(明治26年〜40年)。左は、星田駅から大谷橋に向かう東行き一方交通路の南側に立っていた標識であるが現在所在不明である。

東高野街道の大谷町の手前で、大屋さんより地蔵堂の案内をお願いしていた、河尻さんと出会い、
大谷町の歴史や苗字と屋号の由来など、分かりやすく解説して案内下さいました。

河尻さんは、長年教職に就かれており、元寝屋川高校や大学の先生をされてきました。
現在は、寝屋川市の老人クラブの副会長をされ、お忙しい中ご案内頂きました。


大井川万吉・道標
「すぐ京、八はた道」と台石に「門弟中」と刻む 安政3年(1856)の道標

星田駅から西へ行くと傍示川にかかる橋の手前に、大井川万吉とすぐ(真っすぐの意。)
京、八はた(八幡のこと。)道、台石に門弟中と刻まれている。安政3年(1856年)と刻まれている。
大谷出身の河内相撲から江戸相撲に出世した人の道標を兼ねた碑である。
 寝屋川市域の東高野街道は大谷町と交野市星田の境を南北に通っており、その北端にタチ川が東西に流れている。タチ川と東高野街道の交差する西北角に「大井川万吉」の碑がある。大きな花崗岩の自然石を台座にし、その上にもう一つこれも花崗岩の自然石をのせている。総高182cmである。正面に「大井川万吉」と大きく刻んでいる。彼は当地出身(大谷町河流明夫家先祖)の力士で、これはその顕彰碑である。大井川万吉と刻まれている碑の左側には、すぐ八はた道、安政3年(1856年)と刻まれ、道標を兼ねている。


 星田には町内で大師講をつくり管理している大師堂が15あり、各人が祀っているのを加えると28ぐらいあるとされている。このうち大谷には、大谷北(しもんちょ)と大谷南(かみんちょ)に大師堂があり双方とも石祠でかこまれていて、昔は、ほとんどの人が分かれて大師講に加入し、4月21日には1日中お祀りをしていた。北の大師堂の石祠の右側に寛政2年(1790年)と刻まれている。
大谷地蔵堂
 東高野街道の大谷の中央に、約25uの地蔵堂があります。旅人の安全を祈る地蔵菩薩とともに、大谷の子供の神として子供の病気や安産の守護神として信じられ、地蔵が童形として現れ、農耕の手伝いをしてくれた子供を神様とした地蔵信仰が定着した。
 大谷地蔵内には、今より330年以上前の地蔵菩薩立像や、僧形立像、弘法大師像等の文化財11点も継承保存されている。
 9年前一部修理後、防虫・防腐のため樟脳やナフタリン・除湿剤を入れて文化財を守られてきています。

文化財の一部、眼の観音様・柳谷観音菩薩の掛軸を拝見させていただきました。

大谷地蔵堂喚鐘(かんしょう)
 大谷町16番に所在する大谷地蔵堂の南側、妻の上部に吊るされている。総高57.8cmで4区の池ノ間、4本の縦帯の前面にわたって、ぎっしり人名が刻まれている。これは本鐘が作られた弘化3年(1849年)当時の、大谷村の主要な家の名簿であろうと思われる。縦帯1には年紀の「弘化3年」と「河州交野郡大谷村地蔵堂什物」と刻まれている。

大谷地蔵堂の南端の石灯籠
 延宝8年(1680年)江戸時代前期のころの造立である。寝屋神社境内の石造遺物の中で最も古いとされている拝殿前の灯篭(天和2年 1682年)とほぼ同じころに建てられている。
 愛宕大権現は京都の西北、山城と丹波の国境にそびえる標高924mの愛宕山頂に祭られている愛宕神社のことで、火の神、火除けの神として信仰された。
 この石灯籠はおそらく大谷地蔵堂の前を通っていた東高野街道を夜になって道行く人々の往来安全のために、灯明が点じられたのであろうが、同時に、防火の願いも込められていたのであろうと考えられる。

この通りには、元油屋さんや醤油屋さんなどの由緒ある家屋が整然と並んでいます。

油屋さんの油絞め石と言われています。

地元では人気の喫茶店

<交野で最初の郵便局開業>
明治9年星田郵便局が東高野街道沿いの屋敷の門長屋で開業し、
郵便取扱業務を開始した。交野郵便局の開設は、明治41年。
<大谷南のお大師さん>
強地といって星田と打上の境になる場所で石祠の裏に「大谷中」とかいてある。この大師さんの東から来る道が山の辺の道(山根街道)でありここで合流して打上へ向う。府道の開通によって大谷の村落と分断され、現在では田圃の中でぽつんと建っている。

<星田名所記の大谷南の大師堂>
ここは、開拓した人の名前をつけて「治右衛門広(じえもんびろ)」という地名がついていて、山の根の道と東高野街道が合流し西の打上方向に向かう地点である。現在熊取町にある京大の原子力研究施設の建設の際、その建設予定地の候補になったこともあり(昭和34年)、また避病舎(伝染病舎)(明治29年〜昭和26年)が建っていたこともある。

山根の道を歩く

<山根の道に立つ大阪道、妙見道の碑>
山根道はけもの道から始まる古い道であるが、サヌカイトの生産地である二上山に結ぶ交易路であったともされる。


<ほろ山(交野山)自噴水>

交野山は高岡山の西の傍示川に沿った小字地名であるが,片の山が語源とされ、日高山の頂上から山並みが下っているが、傍示川がその西側を切っていて、片方だけの山ということである。
この比較的南北に長い小山をほろ山ともいい、そこに少量の湧水がでていて、この湧水を地元の人々は、このようにいっていたが、今日では水脈が破壊されたのか水の流れが止まっている。

星田の大師堂と大師講、お大師さん
星田では昔から24町あるがこの町内で管理している大師堂は、15の祠がある。それぞれに大師講がある。ほかにもお寺や個人の家でもまつられるお大師さまを加えると、28ある。
星田の大師堂  (町内で管理されているもの)1 野辺町 2 東辻屋町 3 西堂坂町、東堂坂町   4 上口町 5 札の町  6 東小北町 7 東畑所  8 西乾町、東乾町  9 半尺口上町、半尺口下町 10 西中小路町 11 大谷の入口 12 大谷の出口 13 慈光寺 14 光明寺 15 星田寺 
 年中行事の中で、四月二十一日の大師講が13の祠で務められる。この日は、町内各家から2〜3合の米を集めて「つくたん(大きな握り飯を黄な粉の上に転がす)」を作る。祠のお大師さんをお参りした者はもらえた。ほかにも信仰者から色々なものが供えられた。南無大師遍照金剛とお祈りする。小学生は、昼に食事に家に帰らずにつくたんを食べて学校に戻った。明治から大正にかけて特に戦前は、行事が盛んで、下(寝屋川市付近)の大師講の人達が薬師寺などで、ご詠歌を上げて、その帰りに信玄袋につくたんやお土産が入っていたという。帰りがけ妙見川原の葉桜をみるのが,年中行事になっていた。
 このお世話は、4ヶ月位に廻ってくる年行事(3〜4名)で世話をした。町内の人は、年行事の家でお酒や会食をよばれた。
 小松寺(廃寺)の堂跡は,4軒でもっていった。正月の朝堂跡で金の鶏が啼くといわれている。(この鶏を「たいこ」という。このたいこの分も含まれていた。 また、たいこに正月堂跡にもちを供える習慣があった。また、四月以外の各月の21日のお花替えが行われた。
 星田にお大師さんの祠が多いのは、星の聖地が3箇所もあり、村が大きいことなどもその一因であるが。星田には力の強い家が多かったので、誰かが始めると、対抗して追随者が出てくるといった風に増えたことも考えられる。
 また、「お大師さまのお堂を建てますので私にお金をためさして下さい。」というお願いをすると金ができて家が建つという信仰があったともいう。
絵地図から水田水路の源流を考える

大屋さんから詳しく説明を受ける。
<明治41年星田の地形図から見た星田の水系>

 星田の地形は南側に山地を抱えており、全般的に見ると南高北低で、南の小松山、星田山、日高山の3山の高さは、標高で260〜280mで、麓の星田新池や久保池で約100m位であることから、標高差で160〜180mで、3山の間を流れる妙見川(東川)、地獄谷川、ぼって川、西谷の流域の長さは700m〜1000mで、流域の勾配が高く加えて山は花崗岩が多く土砂の流出が激しいため、河川の氾濫や天井川になるなど広い山間をかかえ雨水を多く抱える構造ながら古くは、星田は干田が語源とされ多くの地域は星田牧の牧場に使われてきた歴史がある。

 唯一古くから水田が開けてきたのは。中川以東と天の川の間の地域であり、6世紀の推古天皇の時代の私部(きさいべ)や大化の改新の条里田にも包含される古い水田であったが、中川の源流は、直接山水を受け入れるのではなくその湧き水主体の川であった。
星田の集落は低いところで40m、さらに下って川尻の池あたりで35mであり、中川を水源とするだけでは、物理的には限界があり桃色の太点線付近を流れるろくろ川(可所川))が西の限界であり、それも降雨時などの水位の高い時にため池で貯水していたのか、昔はため池が多かったとされる。
 現在の星田駅周辺は43m〜45mと標高が高く、この地域に送水するためには7〜80mの高さから自然流下によって送水する星田大池が必要であったのだろう。また水量の関係から湧き水ではなく山水を直接受け入れるためには、降雨時に大量発生する山水を放流するためのバイパス河川が必要であり、そのための傍示川の大改修が行われたのであろう。
なお星田大池の築造の時期は、寛永14年(1637年)に星田村の記録がありそれ以前とされるが詳細はわからない。
<中川の源流>
 交野市史では、中川の上流の紐谷川の源流の開発にからんで、上流下流農民間の水争いについて記述している。これは、米将軍と言われた8代将軍の徳川吉宗が御触れを出して農業と開墾を奨励したが、これを受けて紐谷の上流、傍示川原、楯石等の開墾が進んだ。これらの地域は中川の源流にあたり、旧来からの中川の下流側の農民との間の紛争になり、当時の市橋、八幡、大久保各藩3庄屋が混乱放置の責任をとって辞任表明などの騒動を起こしたが、双方が開発や水利についてそれぞれ自粛するということで決着したというものである。(享保7年、1722年)  

 中川はその上流は紐谷川というが、紐谷川の源流は妙見川と傍示川の間の地下下、紐谷、楯石、平野、初項、石橋などの小字の湧水、伏流水が集まって、紐谷川となって、中川を流れていたが、今日市道交野南線の開通をはじめ住宅開発が進み、周辺に下水道(あめ用)が整備されて湧き水、伏流水などが事実上皆無になり、現在の中川に流れている水は、唯一かって妙見川の石橋(=十方橋=数年前の水害で、川幅ごと被害を受け消滅)付近で妙見川の水を紐谷川に流していたが、この後継として作成された妙見川の谷水がその本流となっている。
明治18年および明治41年の地図から見た傍示川
 地図の等高線は山や尾根筋の場合はU字型で川や谷筋の場合は逆U字あるいは逆V字の形で描かれるとされている。山や尾根筋の場合は周辺より高度が高く、川や谷筋の場合は周辺より低い高度のため地図では必ずこのような形になるというのはルールのようなものである。

 下段の上段の地図は明治18年測量。同20年製版の地図(以下「明治18年地図」という。)、および下段は明治41年の地図の土手で描かれた傍示川とその周辺の等高図を描いたものであるが、等高図は地形を表すものであるが、赤い線は逆U字の地形の最低点を結んだものであるが、両地図とも傍示川の位置が西側にずれていて、傍示川は自然の川でなく人工的に掘削し、築堤して造られたものであるということが判る。

 また築堤は明治18年の地図の場合は2重になっていて、2段階で後に増強して造られた可能性がある。なお、赤い線で書かれた川筋は自然の川筋で、天保絵図にも傍示川にそって書かれている川筋にあたるのであろう。なお、この明治の地図の地形の上から存在したと想定され、天保絵図には描かれている川を「旧堤防の川」と定義しておく。

  乱れた等高線の形から見た
    人工掘削河川である傍示川


 河川周辺の等高線の形は、日頃の水の流れや時には洪水、氾濫などの繰り返しなど、長年の水力によって河川の両岸の高低差は均一あるいは対称的など均衡で、つり合いがとれている場合が多い。

 傍示川の場合は、左右不均衡で中には左岸と右岸があたかも斜め斜面に造られたような裨っこ形の等高図になっているところもあり、明らかに人工的に掘削によって造られていることが読み取れる。
元禄10年星田村絵図が描く傍示川
 元禄10年星田村絵図に描かれている不おじ川(傍示川)は、赤い線は山根道であるが、山根道から南側に267間と描いていて、メートル換算すると480mであって、傍示川は寝屋村に入ると名称がタチ川に変わるが、この長さは山根道からタチ川に変わるまでの長さにほぼ一致し、川の上流は傍示川になっていない。

 他方、絵図では、大池一町四反と最大六反になったがその4分の1近くできあがった星田大池が描かれていて、その南側に不おじ川あれ(傍示川の洪水被害地)が描かれている。従って傍示川の上流はこの川にあたるのであろう。(川というより一部は池になっている。)また北河内の歴史雑誌「まんだ72号」で和久田薫氏が傍示川は高岡山の東を流れていて、現在の傍示川を西周りの傍示川とされているのはこのことであろう。

 傍示川の名の由来は、星田牧の時代に三島郡上牧の為弥牧傘下の福牧の税の取立てが厳しいため、奈良興福寺別院円成院領に寄進し荘園として庇護を受けたが、その時の荘園境界の目印としたため傍示川と名がついていたということである。

 当時星田では、石清水八幡宮の荘園でもあったが、両荘園の境界とした場合高岡山をはじめ、楯石、梶が坂の高原地帯を流れている川を境界にしたことは地形的にふさわしく。その川の東側は中川水系になり、西側が星田牧とすると、地形的にわかりやすく、現在新規築造されたと考えられる傍示川を境界と見るよりも適切である。

 従って昔は地獄谷川とぼって川が合流し、高岡山の東側を流れていたのを(きつね川という川があったともされる。)そこに星田大池をつくり、また、その両川の合流地点の南から降雨時のバイパス河川(西周りの傍示川)を新しく築造し、絵図の下流川と結んだのが、傍示川の名前が星田大池の築造で細川だけになり、また西周りの傍示川が代替機能をはたしていることからこの川を傍示川と呼ぶようになったのであろう。

 なお、元禄絵図の時代は西周りの傍示川ができていないと考えられる。絵図の傍示川あれは現在の細川の位置にできているが、もし天保絵図に描かれているような傍示川ができていたとすれば、傍示川あれの位置は分散され、西周り傍示川周辺で氾濫をおこしているだろう。
天保14年星田村絵図の傍示川
 天保14年絵図ではへびが口を開けたような形の傍示川が描かれているが上あごはぼって川で下あごの部分は地獄谷川であり。胴体部分は西周りの傍示川で新規に築造された川であり、ぼって川の水門樋、なるとび、ろうけ水門樋から降雨時の大量水量の時には傍示川に流し、晴天時などの水量が少ない時は細川に流し星田大池で畜量するという原形が出来上がっている。

 絵図に描かれている傍示川の上流部分(山根道から南の河川部分)は明治41年地図の自然堤の川かあるいは西周りの傍示川が建設中で上流部でつながっていなかったのであろう。
<星田旭縄文時代住居遺跡>

 星田新池は、明治42年から2年の歳月をかけて造られた。明治初期の地図記載の2つの旭の山を崩し、その土を上流に運び、土手を作ったが、その旭の山取り崩し中に10数個の縄文住宅遺跡が見つかった。大きなもので八畳ぐらいで、人の体の3分の1位の穴を堀り、6m位の丈の竹や材木を刺して先を蔦で結び、葦や萱の茎を並べて造っていた。壁にあたる部分は粘土ではりつけてあった。
 部屋の中央に火を使った炉の跡があり、灰に混じって小鳥や小動物の骨などが出てきた。そのとき中国の2000年前の通貨である「貨泉」が貝殻に入って見つかった。
 星田新池周辺ではほかに次の埋蔵金の発掘がある。
  星田新池の南側の早刈の半島から土器に入った数十枚の和同開珎が発見 土手と隣接する山との取り付け部分の大正期の工事中に4枚の和同開珎と平安以前の中国の貨幣64枚発見
細川を第3中学校(星田大池)に向かって歩く
 第3中学校前にて水路(細川)は西へ左折して、星田大池に注ぐ

第3中学校のグランド

グランドの向こう側が星田新池
大屋さんより、最後に、妙見山古墳の説明を受けて本日のウォークはここで解散しました。
妙見山古墳
 妙見山から東に延びていた峯続きの最高地点(標高162m)で宅地開発中に発見された。(昭和43年) 東に天野川と磐船街道、北に交野が原、西に20m低いところに小松神社(妙見さん)をそれぞれ見下ろし、遠くに淀川や北摂の山々が眺められる眺望抜群の地にあった。既に半分は破壊や発掘が行われていたが、勾玉、ヒスイなどの玉類や鉄鏃や刀などの鉄器と遺物に付着した朱などが発見された。幅は、4m程度、残存長も4mぐらいで、破壊されている分も含めて7mぐらいではなかろうか、正式な長さは判らない。古墳は、4世紀中頃の造営と認められ、天野川、磐船街道を支配していた交野物部氏の首長を葬ったものであろうか。


皆さん、暑い中最後まで歩かれて大変お疲れさまでした!
星田大池
 星田大池は正確な建設の時期はわからないが星田村の記録にでるのは寛永14年(1637年)でそれ以前とされている。元禄10年星田村絵図(1697年)では1町3反(1.3ha。最大時の交野3中が造られる前は6h)の池が描かれている。
 星田大池は、地図では堤防の高さは、標高70mぐらいで、星田の地盤は現在の星田駅周辺が最も高く45m近くでそこから北側には低くなっている。従ってこの星田駅の高さまで星田大池の水を自然の流路勾配を確保できるルート設計すれば北星田地区全域、特に地盤が高い西側の地域にも給水が可能になる。地図でみるとこれに届く水路は小字布懸の東西の水路だけであろう。

 従来の星田村の水源の中川は、湧き水主体であったが、星田大池は、星田村天保絵図が描いているように村落の北側の星田山などの山水を降雨時は、傍示川に流し、通常の晴天時などは星田大池に貯水するという、積極的に星田の山水を利用していこうとするものである。

 天保絵図では降雨時のぼって川、地獄谷川の山水の傍示川への放流の桝が描かれているが、ぼって川は、明治末期に星田新池が造られ、地獄谷川とは、ぼって川(現在は星田新池からの放流水をいう。)が合流する上流の傍示川の正式な名前で源流は小松山の南斜面の山水である。
大池改修記念碑

昭和43年10月から46年3月にかけて、大改修工事が行われその時に碑が建てられた。
番外編
妙見口の用水路、妙見川への注ぎ口と用水樋

解散した後、全現堂池付近で中川から分流された水路を確認しました。

 星田駅から東高野街道を歩き、山根街道から古絵地図から水路の源流を考えながら傍示川などを訪ねて交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。

 次回の歴史健康ウォークは、10月14(土)、世界遺産・宇治周辺を巡り散策します。是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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