交野歴史健康ウォーク
2002.11.9 第40回
星降る里星田・新宮山遺跡から東高野街道を歩く
大谷北の大師堂 東高野街道沿いの大谷に祀られている 右面に寛政2年(1790)とある |
(とき)平成14年11月9日(土)曇り |
妙音池の上に建つ星田会館 妙音池は星田最古の池で 新宮山八幡宮の放生池として 作られたと伝えられている |
新宮山頂上にある八幡宮跡 星田の土地が石清水八幡宮の 荘園となって、八幡宮の分霊を 勧請(かんじょう)してお祀りした |
新宮山公園の大手門 落ち葉が舞い風情がある |
新宮山公園の芝生広場 コスモスが綺麗に咲いていた |
昔なつかしい大谷の町並み 今も、東高野街道が通る 左は寝屋川市、右は交野市 |
薬師寺の石仏群 向かって右から二つ目が 松香石の右手与願印、左手宝珠で 錫杖を持たない古式地蔵 |
2002.11.9(土)天候曇り。交野ドームを9時過ぎ車で出発、星田会館で和久田先生と落ち合い、星田・新宮山から東高野街道地区をご案内頂いた。 《ミニガイド》 新宮山 (標高65m) @星田最古の米作りの跡 星田神社と星田寺(しょうでんじ)のある台地と新宮山に挟まれた中川の水の豊富な谷筋に、星田では最も早い時期に稲作が行われた。平成4年、交野市が公園予定地の新宮山頂上付近を発掘調査した結果、弥生の石鏃2点と土器片1点の出土があり、2000年前、生活に安全な新宮山に居住して、直ぐ下の水田で稲作を作っていたことが分かった。 A古墳の石棺があった。現在、行方がわからない。 B八幡宮跡 新宮山の南の高いところに八幡宮跡がある。 明確な時期は不明であるが、星田の土地が石清水八幡宮の荘園となって、八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)=お迎えしてお祀りし、こちらが本宮、こちらが新宮というから、この山を新宮という。 宮跡に残る延慶2年銘(1309)の五輪塔の残欠と天文17年(1548)の宝篋印塔により、この宮の古さを偲ぶことができる。 仁安2年(1167)、後白河院の石清水御幸のとき、宝前内殿長日御供(ちょうじつごく)=(神を祀る奥野御殿で、日の出から日没までの長い一日お供えをする儀式)が謹行され、治承3年(1179)はじめてその御供を備進し、御供料所として河内国大交野庄が定められた。 C愛染律院跡 北の低いところにある。宗旨は真言律宗で八幡宮の社坊であった。宝暦4年(1754)の愛染律院梵鐘銘文から次のことが判明した。文安2年(1445)記録するところでは、新宮山に6支院(小松、塔頭)あり、それは阿弥陀院、弥勒院、宝珠院、宝蔵院、宝積院、愛染院で、現在(宝暦4年)あるのは唯愛染院1院であると書かれたいた。 この寺の地蔵菩薩立像が明治5年、岡山県井原市高山寺に移籍され、その像は国の重要文化財に指定されている。 大谷 大谷は、星田、寝屋両村の出戸で、東高野街道を挟んで東が交野市、西が寝屋川市になっている。集落はいつ頃できたか明らかでないが、弥生遺跡の星の森付近の人達が、上ん所と大谷とに分かれて移ったといわれている。 大谷北の大師祠は、石垣の上に石の祠で囲み、石造、一石半肉彫りで、右面に寛政2年(1790)とある。集落の中程に、格子戸の入った地蔵堂があり、立派な厨子に地蔵尊を祀り、釈迦涅槃図が掛けられている。堂の側に、延宝8年(1680)の愛宕灯篭が火の用心を呼びかけている。 六路の辻 「六路」は、文字どおりの辻の集合体であろう。星田の駅前辺りが星田への出入口となっている。東高野街道によって交野方面や打上、四条畷方面、また、北へは大谷から寝屋へ、高田へ、そして、山根街道に沿って星田から私市、森へと四方に道路が通じている。 この道路網と別に星田への出入口であったから、六道(ろくどう)の辻で、お地蔵さんを祭って悪霊の立ち入りを防いだり、旅の安全を祈願したといったことも行われた。六道とは仏教の世界説で、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの苦難に満ちた世界をいう。人間は仏菩薩を念ずることで、これらの世界に落ちるのを救われるという。平安時代中期以降、浄土教の発展とともに民衆の間にこの思想が広まったものである。 また、この六路の辻から星田への入口に「お野立所」の碑が石垣に囲まれて立っている。 これは大正3年11月16日、交野原ー帯に繰り広げられた陸軍特別大演習が行われた際、大演習御統裁であった大正天皇が行幸された時の記念碑である。 星田の道 星田の旧村の道は、いずれも曲がっていて見通しがきかず、いびつの三ツ辻または四辻として複雑に交差し、侵入者を迷わすべく、工夫して作られた道である。 幾星霜を経て、そこに居住する者は、馴れてしまって別になんとも思わないが、他所から来た人は閉口する。どうすることも出来ない困った道である。 明治2年、後の北河内の154ヶ町村のうち、星田村が377戸の第1番の大村であった。大村であるが星田一村としてまとまり、外敵を防いで、よく守ってきたのである。 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里平平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。 私も、何度となく星田の町中を歩くが、いまだに道筋がわからず難儀している。 |