[ホームページ] へ戻る

 交野歴史健康ウォーク
2003.7.26  第51回
 アニメ『千と千尋の神隠し』?
星田の地獄谷・なすび石の滝を訪ねる

(とき)平成15年7月26日(土)曇り後晴(気象庁が梅雨明け宣言)
(コース)交野ドーム→車→星田会館→星田大池(交野三中)→旭縄文遺跡→
星田新池→地獄谷・なすび谷→なすび石の滝→星田新池→星田会館→車→交野ドーム


星田新池
星田新池
星田新池
左の谷が地獄谷・なすび谷
右の谷がぼって谷


 星田新池は交野市内で4番目の大きな池である。面積は2ヘクタールで、つくられたのは明治末から大正にかけて下の方の田んぼの用水として大切な役目を果たしている。
 堤防の老朽化とともに大阪府が中心となって改修工事がなされ、昭和60年3月に完成した。
今、新池公園となりその広場に改修記念碑がたてられている。
 この堰止めに使われた土砂が傍示川との間にあった「旭の山」である。この山をそっくりとって、巨大な高い堤防になっており山の跡地には老人ホームが建てられている。取り去られた「旭の山」は縄文遺跡でもあった。また地獄谷とぼって谷との合う所では土器に入った和同開珎が発掘されている。
 このようにこの旭の山地区は古代縄文時代から弥生、古墳、奈良時代を星田に住んだ先住民の生活の場であった

傍示川の源流
 星田新池の上流の谷は(地獄谷・なすび谷)(ぼって谷)という。
その谷川が一つに集まるところに星田新池があり、そこに交野最古の人が住んでいた。(旭縄文遺跡) 
新池から流れた川は、特養老人ホームのところで傍示川に合流する。
傍示川の源流は星田南星台の住宅地を抜け、地獄谷へと遡る。
地獄谷の水路と思われる石組みの一部
なすび谷に石組み、一部セメントで築かれている用水路は星田新池がつくられた明治から昭和のはじめ頃に作られたもの思われる。
いずれにしても最近のアニメ映画「千と千尋の神隠し」を思わず連想するような谷筋だ
なすび谷の滝の下に、家ぐらいの大きな「なすび石」があった。
江戸時代の絵図に真っ黒な大きな
「なすび石」が描かれているが、今は無い。30個ばかりに砕かれて各家の庭石と化したらしい?

地獄谷とは
この世の世界ではない、あの世の世界、草木が一本とてない荒涼たる様は三途の川の光景が想像される場所を地獄と呼ばれる。
ここ星田の地獄谷は、この谷を歩いた人は、谷が深くて狭く、その深い谷を歩いていると一種異様な雰囲気になり、一刻も早く抜け出たい衝動に駆られる。
なにか陰気な、居てもたってもいられない気分になります。はじめて一人で歩いていたら、途中で引き返すでしょう。なにかゾクゾクする感じがする谷筋だった。だから人のあまり立ち寄らない、村人の恐れられた場所として忌み嫌うので、昔から死牛馬等の捨て場所ともなっていたようだ。
そのような地域であるので「地獄」という地名が生まれたものと思われる。
なすび石の滝(別名・聖の滝)の前で記念撮影
なすび石の滝(別名・聖の滝とも言う)
10mを超す素晴らしい滝、涼風が吹き疲れた身体を癒してくれる
 
本日の案内をお願いした
大屋さんと和久田先生
用水路?の跡、立派な石組みが
5段、6段と築かれている
大きな石がごろごろと転がっている 墓石?とも見られる石が右手に見える
感触の良い緑色に苔むした堤跡? 星田新池の周りを下る

星田の中心部と枚方市
手前の大きな池が星田大池面積が3.9ヘクタールと交野市で一番大きい池
池の1/3が埋め立てられ交野3中のグランドになっている
(滝の直ぐ上に案内して頂き、展望の良い所から撮影した)

 2003.7.26(土)天候、曇りのち晴。梅雨明け?の中、沢山の方々が参加された。参加者22人。交野ドームを9時過ぎ車に分乗して出発、星田会館で和久田先生と落ち合い、星田の「なすび石の滝」をご案内頂いた。

 星田会館は、妙音池のうえに建てられており、池の築造年代は不明であるが、星田の池の中では最も古く、新宮山の放生池としてつくられたと伝えられている。また、池の中に島があって、弁財天を祀っている。

 同じ交野市内の方でも、「星田地区はあまり知りませんなぁ」と言われる。今日は、星田の古い歴史と滝を案内頂けると皆さん元気に出発した。

 会館を出て、真っ直ぐ南へ少しずつ上りの道を行くと右手に第三中学があり、ここで交野で一番大きな池・星田池の由来などご説明を頂く。
 暫く進むと、妙見口から星田山手へと出る、新しく開通した道路に交わり、田んぼを隔てた直ぐ右手の下がった所には旧の傍示川が流れていた川跡がある。
さらに南に下ると、傍示川に出会い、川の南にきんもくせい老人ホームが建っている。川の傍に、「旭縄文遺跡」の石碑が立っており、この付近に縄文時代の中期、今から4千数百年前から人が住んでいたということだ。

 老人ホームから星田新池へと登りかけた所で、なすび谷の滝をご案内頂くことになっている、大屋さんと落合った。時間があれば、四條畷カントリー近くまでご案内しますよと、気さくに挨拶され、星田新池の堤防の上でいろいろとご説明を受けた。この池を背景に女優の若尾文子さんのロケ?があったことなども。
 池の東側を縫うように狭い道を登ると、砂に埋まってしまった砂防ダムに出会い、さらにゆっくりと登って行くと、案外しっかりとしたいろんな形をした石組みが見え、その石組みは滝の直ぐ下まで続いていた。一部セメントで築かれている石組みは滝からの用水路として、星田新池がつくられた明治から昭和のはじめ頃に作られたものらしい。

 なすび石の滝は、前日の雨のためか勢いよく水しぶきをあげながら流れ下っていた。滝の下に立っていると汗を掻いた身体には程好い涼風となり、気分爽快になった。この滝は修行者の滝として利用されたことがあり、小さな小屋があったようだ。
 全員で記念撮影の後、見晴らしの良い所があると言われるので急な坂道を登ると、星田の町から枚方方面が一望できる絶好の場所だった。眼前に広がる素晴らしい風景に暫し見惚れる。
 帰りは、登ってきた道をごろごろした岩などに充分に気をつけながら下り、皆さん元気に踏破された。
星田新池の堤防の上で、「こんな所に人が住んでいましたんか?」と言われた一言が妙に今でも耳に残っている。
 和久田先生、大屋さんに案内頂き、星田の古い歴史と変わり行く里の姿を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。
 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!


《ミニガイド》

星田大池星田遺跡と地名MAP
面積が3.9ヘクタールと交野市で一番大きい池である。池の1/3が埋め立てられ交野3中の敷地になっている。
元の面積は6ヘクタールほどあった。星田大池は高岡と楯石・梶ヶ坂の丘陵に挟まれた広い谷地を高い堤防を築いて堰止めして造られた人工の池である。いつ頃築造されたかは不明であるが、古記録によると、元禄11年(1698)に堤防の改修を行っているので、相当古くから出来ていたことになる。

源氏屋敷
 源氏の一統星田氏が地下下に住んでいた所を、源氏屋敷という
「源姓、星田次郎右衛門正種は、河内国星田庄から起こる。家紋丸に三星、水車。千姫取次役、後江戸に帰る」
 千姫の取次役として大阪城に出仕し、元和元年(1615)大阪落城のとき、城を脱出して江戸に帰った千姫に随行した武士の中に、星田次郎右衛門正種がいた。
現在は星田山手線が新しく開通して、傍示川の手前の信号付近である。

星田旭遺跡
 大谷橋から傍示川を上流へ1キロばかり行くと、茄子石(なすびいし)の谷と沸底(ぼって)の谷から落ちる谷川と、地獄谷の谷川とが一つに集まるところ、小字旭といって両方の谷川に挟まれた麓の小さな台地に、縄文時代の中期、今から4千数百年前から人が住んでいた
 大正の初め、星田新池が築造されたとき、川に近い山麓で十数個の竪穴式住居跡が発見された。この住居跡からは、貝殻に入れた約2000年前の中国の新の時代の青銅貨が発掘されている。また、新池の中に沈んでいる山の崎あたりから和同開珎入りの壺が出土した。
現在は老人ホームが建っている。

《ミニガイド》

星田地区・地名の由来 そのほかの小字名についてはこちらを参照ください。
(あさひ)  
交野第三中学校の敷地
は、その西北に広がる星田大池の半分を埋め立てられた星田旭縄文時代住居遺跡石碑ものである。「旭」の地域は、星田大池がほとんどを占めている。

ただ、傍示川の南側に星田新池という大きな池がある。この池の東南部に「旭」という地名があって、飛び地のようになっている。
 飛び地の方の旭や傍示川の流域に「旭縄文遺跡」があり、縄文時代の遺物を出土している。縄文時代の人々は、この傍示川の辺りに集落を営み、狩猟、採集生活を送っていた。星田地区での最初の住人ではなかったろうか。

 星田大池の堤防に立つと朝日がキラキラと水面に照り輝いている。確かに朝日の方向になる。堤防の下は御農、布懸と農耕地がある。朝日を拝んで農作業に出る。この情景を地名に表わしたものであろう。
「拂底」(ぼって)  
池之内の標高278mの三角点の西側
に伸びる南北の細長い谷を指している。この付近の谷は、地獄谷、拂底谷、西谷と三つの深い谷がある。中でも拂底谷は南北に長く、谷自身も深くて狭い。拂底川が流れ、その先は星田新池に流れ込んでいる。「拂底」とは珍しい地名であるが、谷の深い細長い谷、あるいは谷川がはっきりしている谷筋を指していう言葉のようである。


戻る