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交野歴史健康ウォーク
2004.2.28  第59回
 星降る里・星田のお大師さん巡りその2

東高野街道から山根街道を辿る

(とき)平成16年2月28日(土)午前9時、晴 
交野ドーム→車→星田会館→西の村の本通り→@半尺口大師堂→
東高野街道→一里塚→星田駅→M大谷北大師祠→N大谷南大師祠
→山根街道→強地の湧水→傍示川→布懸遺跡→鍛治ケ坂→
星田公園→旗掛け松→愛染律院→
星田会館→交野ドーム

 2004.2.28(土)快晴、2月としては申し分のない最高の天候であった。交野ドームで4台の車に分乗、星田会館駐車場で集合。参加者は総勢20名、いつもの元気な顔が揃った。
 和久田さんと平田さんから、前回(2/14)は11ヶ所の星田のお大師さんめぐりを楽しみ、本日は星田の古道を辿り、東高野街道から山根街道へと歩き、残りの3ケ所のお大師さん巡りをする行程等のお話を伺ったあと、星田会館を出発した。
 星田会館を取り囲むように大相撲の幟(栃乃洋、栃栄、春日錦関)がはためいていた。星田会館は、3月14日(日)〜28日(日)、大阪府立体育館で開催される、大相撲3月場所(大阪場所)の春日野部屋の宿舎と決まり、場所中大勢の力士が出入りし賑わうことになるようだ。この3月場所、郷土力士・古市、朝三好の活躍を大いに期待したい。
星田の道
 星田の旧村の道は、いずれも曲がっていて見通しがきかず、いびつの三ツ辻または四辻として複雑に交差し、侵入者を迷わすべく、工夫して作られた道である。
 幾星霜を経て、そこに居住する者は、馴れてしまって別になんとも思わないが、他所から来た人は閉口する。どうすることも出来ない困った道である。
 明治2年、後の北河内の154ヶ町村のうち、星田村が377戸の第1番の大村であった。大村であるが星田一村としてまとまり、外敵を防いで、よく守ってきたのである。
 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里正・平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
私も、何度となく星田の町中を歩くが、いまだに道筋がわからず難儀している。
お大師さんの場所
      @半尺口大師堂    木造   元一里塚にあり
     M大谷北大師堂     石造 一石半肉彫り
     N大谷南大師堂     石造 台石別丸彫り  
 当日歩いた道順 星田会館→西の村の本通り→@半尺口大師堂→
東高野街道→一里塚→星田駅→M大谷北大師祠→N大谷南大師祠
→山根街道→強地の湧水→傍示川→布懸遺跡→鍛治ケ坂→
星田公園→旗掛け松→愛染律院→
星田会館
 
 星田会館を出発して間もなく、西の村の本通りに通じる土塀道は、郷愁を覚える場所だ。むきだしの土塀と2m足らずの露地にさらさらと小川が流れ、大きな門構えの屋敷が並ぶ。昭和53年の下水道工事中に、この小川付近の地下1.3mに頭を北にしたうつ伏せの石仏が発見され、掘り出された町名にちなんで「鍋賀地蔵」と名付けて、現在慈光寺に祀られている。和久田先生から発見された当時の写真など見せていただきながら説明を受けた。
 西の村の本通りに出て、西に100mも歩くと半尺口(文禄3年-1594年の検地帳に半尺口の地名あり)と言われる四辻に出合う。ここは、本町3丁目である。この半尺口の道を左手に進み右に曲がると、半尺口大師堂に出る。地元の方のご好意で、扉を開けていただき有難く参拝させていただいた。
 半尺口のお大師さん
が東高野街道の一里塚にあった時、寝屋の人が盲目となり、夜静かになって夜参りに杖を頼りに3年間祈願し続けたご利益があり、ある夜お大師さんの「私の片目をお前にあげる」とのお告げがあって、その日から片目が見え出し、代わりにお大師さんの右の片目に傷が出来て、その傷は今ものこっている。
星田会館の妙音池の前
和久田先生からウォークの日程など
お聞きして元気に出発
大相撲の栃栄関の幟が揚がっている
星田会館の直ぐ北の土塀道
左の小川付近から
鍋賀地蔵が発見された
現在、慈光寺に祀られている
星田の古道
西の村の本通り、本町1丁目
半尺口の四辻(本町3丁目)
手前の道が西の村の本通り
半尺口お大師堂
東高野街道の一里塚より
明治41年に移転された
半尺口お大師堂
お堂の宝珠
 
 星田小学校の前を通り、六路の辻に。この六路の辻の交通信号は交野市内で最初に(昭和39年)設置されたそうだ。当時は交野市内でも有数の交通量があったところでもあり、また6つの辻が出会う難所でもあったようだ。
 「六路」は、文字どおりの辻の集合体であり、星田の駅前辺りが星田への出入口となっている。東高野街道によって交野方面や打上、四条畷方面、また、北へは大谷から寝屋から高田へ、そして、山根街道に沿って星田から私市、森へと四方に道路が通じている場所である。
 六路の辻を真っ直ぐ北に進み、JR学研都市線をくぐり旧道に出る、東高野街道である。100mばかり、北に行ったところに、一里塚跡の記念碑が建てられている。天保8年(1837)の星田村絵図には「一里塚」と書き、道の両側の盛り土の上に大きな松が1本ずつ描かれているそうだが、今はその面影もなく残念なことである。また、この街道の西に祀られていた一里塚の大師堂は、明治41年半尺口へ移転された

 星田駅前にも大相撲の数本の幟がはためき、大阪場所の前景気を煽っているようだ。東高野街道を南に進み、傍示川を渡った東側に、大谷北大師祠は祀られている。石垣の上に石の祠で囲み、石造、一石半肉彫りで、右面に寛政2年(1790)とある。
 大谷の集落は、星田、寝屋両村の出戸で、東高野街道を挟んで東が交野市、西が寝屋川市になっている。集落の中程に、格子戸の入った地蔵堂があり、立派な厨子に地蔵尊を祀り、釈迦涅槃図が掛けられいるそうで、堂の側に、延宝8年(1680)の愛宕灯篭が建っている。また、明治9年に星田郵便局が大谷の南氏宅で開設された。(交野郵便局は明治41年開設)

六路の辻の信号、交野で最初の信号
昭和39年12月についた
東高野街道の一里塚跡
東高野街道 一里塚周辺
舗装されているのが残念!
現在の道幅は2.5m、江戸時代は1.8m
大谷北大師祠
傍示川の南東側に祀られている
右面に寛政2年(1790)とある
東高野街道 大谷の集落
東高野街道を挟んで東が交野市、
西が寝屋川市になっている
集落の中程に、地蔵堂があり
立派な厨子に地蔵尊を祀り
釈迦涅槃図が掛けられいる 

 東高野街道は、大谷の集落を南に出て府道枚方・富田林・泉佐野線を渡り、関西電力の変電所の前辺りへと続いていたが、現在はガラス会社の敷地で途切れている。府道沿いを回り道して田の畦道を南に行くと、山根街道との合流点に、大谷南大師祠が祀られている。
 ここから、山根街道を星田の村に向かって東北方向に歩いて行く。普段は余り人も行き来することもない田圃の畦道をすすむ。振り返ると、昔の旅人の姿が目に浮かぶような長閑な野道である。途中、強地の涌き水でのどを潤し、夫々が持参したペットボトルに水を汲む。右手の山側には海成粘土層が見えた。
 傍示川を渡り、山根街道を高岡山の方面に進み、現在のNTTの社宅の辺りが布懸遺跡(のうかけいせき)である。昭和54年に旭小学校西隣のNTT社宅建設予定地より旧石器時代の石器(約1万5000年前)が発掘された
 鍛治が坂(65m)を上り、頂上付近で山根街道ともお別れして星田公園へと下り、公園頂上の旗掛け松の記念碑や愛染律院跡の土塀を見学した後、午前12時頃星田会館前で解散した。
 和久田先生にはご高齢にも拘らず元気にご案内して頂き誠にありがとう御座いました。
歴史ガイド
 新宮山は標高65メートルで、麓には弥生時代の星田最古の米作りの跡が見つかっている。古墳の石棺があったらしいが、現在は不明である。今から約700年前に八幡宮の分霊を勧請し、八幡宮跡がありここを新宮山といった。八幡宮跡の宝篋印塔、五輪塔、愛染律院跡の墓などがある。
 また、元和元年(1615)、徳川家康が大阪城攻めの時、星田の平井家に宿陣した。東軍16万人のうち、家康手兵15000人は星田から打上に野営して家康宿舎の周辺を護った。家康の旗印の白旗が、新宮山山頂の八幡宮社前の松の大木に高く掲げられた。平井家の文書に寄れば、この松は太さ五尺余(1.5m)と記録されている。残念なことに明治の初年に枯れてしまい、その跡に記念の石碑「旗掛け松跡地」が立っている。 
 愛染律院跡は、新宮山の北の低いところにある。宗旨は真言律宗で八幡宮の社坊であった。宝暦4年(1754)の愛染律院梵鐘銘文から次のことが判明した。文安2年(1445)記録するところでは、新宮山に6支院(小松、塔頭)あり、それは阿弥陀院、弥勒院、宝珠院、宝蔵院、宝積院、愛染院で、現在(宝暦4年)あるのは唯愛染院1院であると書かれたいた。
 この寺の地蔵菩薩立像が明治5年、岡山県井原市高山寺に移籍され、その像は国の重要文化財に指定されている。
 現在、新宮山一帯は、星田公園として新しく生まれ変わった。平成9年5月20日オープンした。面積1.6ha(約4800坪)。5つの広場(水の広場、芝生広場、野外学習広場、多目的広場、林間広場)に分けられ、市民の広場として利用されている。 
 
 参考資料
  星田歴史風土記:和久田薫・札埜耕三著(交野市教育委員会、交野市文化財事業団発行)
大谷南大師祠
東高野街道と山根街道の合流点に
山根街道
星田の村から打上へと続く
右手の細い畦道が山根街道
星田から打上へと続いている
強地の湧水
右手に海生粘土層が見えた
強地の湧水
地下水が噴出している?
NTTの社宅・布懸遺跡
石器時代の遺跡
鍛治ケ坂(65m)の急坂である 星田公園前で
家康本陣の旗掛け松跡
新宮山山頂付近
現在、2代目の松が植えられている
星田公園の北の端
愛染律院跡の土塀
覆屋などで保存すべきでは?

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