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第79回 交野歴史健康ウォーク

《ふるさと交野を歩く「神の巻」(3)》
秋の文化祭のビデオ撮りも兼ねて探訪してきました
  

2006年9月9日(土) 午前9時   星田・妙見口バス停前 集合・出発

   妙見口バス停前→光明寺・真言墓寺→小松寺→妙見河原→鎌倉墓→
妙見東・星の池→妙見山古墳跡(妙見中央公園)→妙見東2丁目(11時30分解散)

第77回 交野歴史健康ウォークMAP

 9月9日(土)午前9時、妙見口バス停前に集合。第79回の参加者は22名、元気に集合。天候:晴れ。 前回に引き続き、今回は「ふるさと交野を歩く」(神の巻)(シリーズ3)。昭和43年12月に発掘調査された「妙見山古墳跡」を訪ねて、妙見口から妙見川沿いを遡り、光明寺真言墓→小松寺→妙見河原→鎌倉墓→妙見東・星の池→妙見山古墳跡(妙見中央公園)を散策し、11時30分ごろ妙見東2丁目付近で解散した。
中会長の出発の挨拶 本日の講師、和久田さんの挨拶
  
 三々五々、妙見口の交差点に集まり、先ず和久田さんより、「昔の妙見口交差点付近の妙見川は天井川で私市と星田を行き来する住民は、川を越すために上り下りしていたこと、また昭和の40年ごろまで通行に便利なように天井川の下がトンネルになっていた」ことなどをお聞きする。
 かってこの交差点に私市から星田へ抜けるトンネルがあったことを知る人は少ないようだ。天井川であった妙見川とトンネル風景(昭和30年代?)

 昔、このあたりは星田の禿げ山から流れ出た沢山の土砂で一面妙見川原となり、流れる妙見川も大雨のたびに土砂で川底が埋まり、雨が止むと村人は総出で川底をさらえて、その土砂で両側の堤を一層高く、厚く盛り上げた。それを繰り返していると妙見川は高い堤の天井川となり、その下を通行に便利なようにトンネルが掘られた。トンネルの上にあった、地蔵さんは今は、妙見口の交差点の東南角に祀られている。

 昭和41年の妙見川改修大工事でトンネルはなくなり、旧川の跡は道路と住宅になり、妙見川原からこのトンネル跡までの350mは桜並木が延長され、下流の藤が尾地区には、府営と供給公社の団地が建ち、現在は一大住宅街となっている。
妙見口交差点(=左)とトンネルの上にあった、地蔵さんは、
今は妙見口の交差点の東南角に祀られている。
道行く人には、背を向けているため、案外と知られていない。
光明寺の真言墓の阿弥陀さん 光明寺の墓地
妙見川原の桜並木
交野八景の一つで有名な妙見川原の桜並木
(戦前の桜は明治42年に400本の吉野桜が植樹され、年々有名になり
花見時には片町線に臨時列車が出て、大変賑わったそうである。
昭和20年の敗戦後、その桜も切られ、間もなく現在の桜が植えられた。)
最近、交野市の市指定文化財として指定された「江戸時代末期の絵地図」には
見事な桜並木が描かれており、既に江戸時代から桜の名所として知られていた。

三宅山・小松寺(しょうしょうじ) 
 次に案内頂いたのは、桜並木を西へ折れ、直ぐの小松寺(しょうしょうじ)であった。
妙見の桜並木の西側の小丘が、法華宗尼崎本興寺の末寺三宅山・小松寺(しょうしょうじ)である。かっては、「新宮山の椎の実、法華の山桃」と、村童の楽しみの遊びの森であったが、山桃の巨木や常緑のモッコクの林は伐採されて、今はその面影がない。創建されたのは、宝永元年(1704)の300年前である。
小松寺の阿弥陀如来立像
小松寺秘蔵の「五輪塔の台」と「宝瓶三茎蓮=右」
宝瓶三茎蓮を発見  
   (石鏃NO131号を参照)

 2002年の交野市内石仏調査の際、宝瓶三茎蓮を7体確認し、今年再度の調査で6体を発見した。
 この日も、天王墓地内で石造龕(石屋形)の内壁に刻まれているのを発見。花瓶を刻んだ石造物は数量的に多くはない。 宝瓶三茎蓮発見に一同、大いに感動した一日でした。

宝瓶三経蓮
石造龕(石屋形)の内壁に
刻まれているのを発見
宝瓶三茎蓮

妙見山南の墓地・鎌倉墓
 妙見さん裏参道へと通じる、妙見川を更に溯ると、左手に「鎌倉墓」がある。明治時代にこの地を入手した人が開墾して果樹園にしようとしたところ、約200基の墓石類が出土して現在、「延命地蔵尊」として祀られている。石造物は鎌倉中期が一番古く、室町時代に及んでいるが、江戸時代の新しいものは見当たらない。
 この墓地からも、宝瓶三茎蓮が7体確認されている。また、来迎印阿弥陀石仏や松香石の古式地蔵など珍しい石仏がある。この墓地は、一般庶民の墓でなく、小松山(山中)にあった小松寺の上級の僧のものであろうと考えられている。(故西井長和氏)
妙見さん南麓にある鎌倉墓で、元気に揃って記念撮影

妙見東住宅地内の妙見山古墳
妙見東住宅地の入り口付近で、和久田さんより
「古墳の発掘当時の様子」など詳しく説明を受けた。
星田駅行きのバスが団地内を通り過ぎて行った
昭和43年12月、妙見山古墳が発見され、発掘調査された当時の写真である。
左端が妙見宮の森、妙見山(162m)の峰続きに古墳が発見された。

  妙見山古墳 
 4世紀中期頃の古墳で、天野川と磐船街道を支配する交野物部氏の一族の首長を葬ったとものと考えられている。発掘当時の妙見古墳
 妙見宮の東方尾根標高162mの妙見山に所在した古墳で、東に天野川と磐船街道を眼下に見下ろし北は交野が原を一望に収め、遠く淀川、北摂の山々を眺める展望抜群の地である。
 西に巨石を祀る妙見宮の森が20m程の下に見えていた。近くには北北東2kmに森古墳群、北北東2.5kmに車塚古墳群、藤田山古墳は北北西4.3kmに、南南西4kmに忍ヶ丘古墳があり、前期・中期古墳がとりまいている。
 昭和43年四条畷高校生が発見、宅地造成などで消滅寸前の古墳を発掘調査した結果、粘土槨を備えた前期の古墳であることが判明した。


妙見山古墳の位置図
妙見山古墳が発見され発掘調査された地点と思われる
妙見東住宅の中央公園を背景に記念写真を撮る
 妙見東住宅の中央公園
円墳かと見間違うほど良く出来た高台が造られていた

昭和43年12月、妙見山古墳が発見され、発掘調査された当時の写真である。
左端が妙見宮の森、妙見山(162m)の峰続きに古墳が発見された。
上記の発掘当時の写真と現在の写真を見比べてください。
妙見宮の森は以前のままであるが、妙見山、古墳付近の山は取り除かれ住宅地となっている。

妙見口から光明寺の真言墓、小松寺、鎌倉墓、妙見山古墳跡などを訪ね、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
  次回の歴史健康ウォークは、10月28日(土)の予定です。江戸時代の星田村の絵地図に沿って星田の町並みを散策いたします。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

  ※和久田薫氏著の「星田風土記」を参照させていただきました。

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