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第80回 交野歴史健康ウォーク

第80回  2006.10.28(土)
「星田村の絵図に沿って歩く」

行程:星田駅(午前9時)→半尺口の薬師堂→新宮山公園
(愛染律院・石清水八幡宮)→慈光寺→薬師寺→家康宿陣の碑
→光明寺→星田寺→円通院跡→山根道→星田駅(12時解散)

秋晴れの中、和久田先生の案内で、星田の絵図に沿って楽しく歩いてきました。
午前9時JR星田駅前に古文化同好会と交野観光会議の方々の総勢34名が集合。
このたび「星田村絵図』元禄十年(1697)・天保十四年(1843)・星田村大絵図
(江戸時代末期)と「星田村地詰帳』の4点が市指定文化財に登録されました。
これを機に、絵図に沿って星田・今昔の景観を楽しみたいと計画いたしました。
江戸時代に描かれた星田の絵地図に沿って、現在の星田を実際に歩いて
町の歴史、道路の変遷、町の景観、お寺の石仏、制札場などを訪ねて来ました。

新宮山公園で記念写真
和久田先生の案内で、星田の絵図に沿って楽しく歩きました。


JR星田駅に掲げられている案内板
軽妙な語り口で挨拶される平田さん
右は、にこやかな中会長
星田駅
平成14年3/23、JR西日本のダイヤ改正で
学研都市線・星田駅に快速が終日停車
するようになり、乗降客も大幅に増加!
本日の講師・和久田先生より、まず星田の歴史について、星田の人口の推移、道路の変遷、
郵便局の開設、慈光寺などで寺子屋が開かれたこと、小学校の開設など詳しく紹介があった。

民営関西鉄道の星田駅(現在の学研都市線)は、明治31年(1898年)7月に1日に開設された。
明治2年、後の北河内の154ヶ町村のうち、星田村が377戸の第1番の大村であった。
星田駅から六路の辻へでる手前に、「大正天皇のお野立所」の碑が石垣に囲まれて立っている。
 これは大正3年11月16日、交野原ー帯に繰り広げられた陸軍特別大演習が行われた際、大演習御統裁であった大正天皇が行幸された時の記念碑である。

六路(ろくろ)の辻
 六路の辻の交通信号は交野市内で最初に(昭和39年)設置されたそうだ。当時は交野市内でも有数の交通量があったところでもあり、また6つの辻が出会う難所でもあったようだ。

 「六路」は、文字どおりの辻の集合体であろう。星田の駅前辺りが星田への出入口となっている。東高野街道によって交野方面や打上、四条畷方面、また、北へは大谷から寝屋へ、高田へ、そして、山根街道に沿って星田から私市、森へと四方に道路が通じている。

 この道路網と別に星田への出入口であったから、六道(ろくどう)の辻で、お地蔵さんを祭って悪霊の立ち入りを防いだり、旅の安全を祈願したといったことも行われた。六道とは仏教の世界説で、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの苦難に満ちた世界をいう。人間は仏菩薩を念ずることで、これらの世界に落ちるのを救われるという。平安時代中期以降、浄土教の発展とともに民衆の間にこの思想が広まったものである。 
 六路の辻から西の村の本通りへと入り、星田小学校の正門前を通り、直ぐに右手に曲がり半尺口のお大師堂を訪ねた。
 半尺口(はんじゃく口)お大師堂  東高野街道の一里塚より明治41年に移転された。
 半尺口のお大師さん
が一里塚にあった時、寝屋の人が盲目となり、夜静かになって夜参りに杖を頼りに3年間祈願し続けたご利益があり、ある夜お大師さんの「私の片目をお前にあげる」とのお告げがあって、その日から片目が見え出し、代わりにお大師さんの右の片目に傷が出来て、その傷は今ものこっているのだそうだ。

 六路の辻を真っ直ぐ北に進み、JR学研都市線をくぐり旧道に出ると東高野街道である。100mばかり、北に行ったところに、一里塚跡の記念碑が建てられている。天保8年(1837)の星田村絵図には「一里塚」と書き、道の両側の盛り土の上に大きな松が1本ずつ描かれているが、今はその面影もなく残念なことである。
半尺口(文禄3年-1594年の検地帳に半尺口の地名あり)
と言われる四辻が西の村本通りにある。
 半尺口のお大師堂から南に下り、星田南線にでて新宮山に向かう。この星田南線は新宮山か山根道の鍛治ケ坂まで尾根続きで粘土層の高い崖をなしていたが、昭和19年崖を取り崩して開通した。
新宮山公園の大手門(左)から迂回道路を公園へと進む
新宮山頂上にある八幡宮跡(右)、星田の土地が石清水八幡宮の荘園となって、
八幡宮の分霊を勧請(かんじょう)してお祀りした。宮跡に残る延慶2年銘(1309)の
五輪塔の残欠と天文17年(1548)の宝篋印塔により、この宮の古さを偲ぶことができます。
 現在、新宮山一帯は、星田公園として新しく生まれ変わった。平成9年5月20日オープンした。面積1.6ha(約4800坪)。5つの広場(水の広場、芝生広場、野外学習広場、多目的広場、林間広場)に分けられ、市民の広場として利用されている。新宮山頂上付近に「家康の旗掛け松」があった

 新宮山
は標高65メートルで、麓には弥生時代の星田最古の米作りの跡が見つかっている。
古墳の石棺があったらしいが、現在は不明である。今から約700年前に八幡宮の分霊を勧請し、八幡宮跡がありここを新宮山といった。

 元和元年(1615)、徳川家康が大阪城攻めの時、星田の平井家に宿陣した。東軍16万人のうち、家康手兵15000人は星田から打上に野営して家康宿舎の周辺を護った。家康の旗印の白旗が、新宮山山頂の八幡宮社前の松の大木に高く掲げられた。平井家の文書に寄れば、この松は太さ五尺余(1.5m)と記録されている。残念なことに明治の初年にかれてしまい、その跡に記念の石碑「旗掛け松跡地」⇒が立っている。
愛染律院跡、墓地
 愛染律院跡 
新宮山の北の低いところにある。宗旨は真言律宗で八幡宮の社坊であった。宝暦4年(1754)の愛染律院梵鐘銘文から次のことが判明した。文安2年(1445)記録するところでは、新宮山に6支院(小松、塔頭)あり、それは阿弥陀院、弥勒院、宝珠院、宝蔵院、宝積院、愛染院で、現在(宝暦4年)あるのは唯愛染院1院であると書かれたいた。
 この寺の地蔵菩薩立像が明治5年、岡山県井原市高山寺に移籍され、その像は国の重要文化財に指定されている。
 新宮山から階段道を下り、星田会館裏手にでて薬師寺へと向かうが道路工事中で、東へ迂回して中川通りに出て慈光寺へと進む。
和久田家の環金具
江戸時代の門長屋に来客用の
馬をつなぐ「駒繋ぎ金具」
星田の電話番号の一番のお宅
慈光寺本堂  境内の右は大師堂
慈光寺には、寺子屋時代の先生と生徒の机が保存されている。
明治5年、星田郷学校が慈光寺に創設され、明治14年善林寺に移転、
18年までの4年間善林寺が学校になった。

慈光寺 交野に唯一の十三仏が安置されている
慶長12年(1607)地上総高 145センチ

 十三仏というのは、「死者の追善を行う忌日の思想が一般化」した南北朝時代に成立したとされており、「死後の仏事をあらかじめ自分で営む逆修仏事のため」に信仰されてきたものであると言われる。
そうして、十三の仏にそれぞれに忌日、年忌が決まっている。配列のしかたは種々あるが、慈光寺のものはつぎのようである。
 上から一段目は、虚空蔵菩薩(33年)、2段目右から大日如来(13年)、阿悶如来(7年)、阿弥陀如来(3年)、3段目右から薬師如来(七七日)、観音菩薩(百か日)、勢至菩薩(1年)、4段目右から弥勒菩薩(六七日)、地蔵菩薩(五七7日)、普賢菩薩(四七日)、5段目右から不動明王(初七日)、釈迦如来(二七日)、文殊菩薩(三七日)。

星田会館の直ぐ北の土塀道左の小川付近から
鍋賀地蔵(右)(室町初期)が発見された。 現在、慈光寺に祀られている。
法瓶三経蓮 右は、頭部が欠けた唐臼地蔵
星田の道 (土塀の辻) 西の村の本通から新宮山へと通じる道-心なごむ道
 星田の旧村の道は、いずれも曲がっていて見通しがきかず、いびつの三ツ辻または四辻として複雑に交差し、侵入者を迷わすべく、工夫して作られた道である。
 幾星霜を経て、そこに居住する者は、馴れてしまって別になんとも思わないが、他所から来た人は閉口する。どうすることも出来ない困った道である。

 慈光寺の東北角の元制札場のあったところの中川に、二本の石橋が斜めに架けられていたので、「すじかい橋」とも「はすかい橋」とも言った。
 慈光寺から西の村の本通りを通って、薬師寺へ。
瑠璃光山・薬師寺本堂  本尊は薬師如来
薬師寺の石仏群
向かって左から二つ目が松香石の右手与願印、左手宝珠で
錫杖を持たない古式地蔵(室町初期)、じっくりとご覧下さい!
 また、西の村の本通りへ出て中川通りを北へ、善林寺前を通り過ぎ、東へ進み平井家の裏手へ。
 元和元年(1615)5月5日、大坂夏の陣、徳川家康が星田の里平平井清貞宅に宿陣の記念碑の中に、「村落をもって城となし」という一節がある。家康の宿陣する星田村は、城の如く固い守りであることを物語っている。
 江戸時代後期の星田村大絵図には、平井家の西側あたりに、教学院と岩清水八幡宮の制札場が描かれており、はじめてその位置が確認されました。

徳川家康の星田陣営のお話

 元和元年(1615)5月3日、将軍秀忠は大阪城攻めのために伏見を立ち、洞が峠を越えて河内に入り、砂(四条畷)に陣した。
 父の家康は、同5日辰の下刻(午前9時)京都二条城を出て、未の下刻(午後3時)星田の陣に着いた。家康の陣所は、その頃星田の里正(りせい)・(村の長)平井三郎右衛門清貞宅を使った。清貞方ではあらかじめ知らせを受け、宅から10間ばかり北の方で、5間四方ばかりを高く上げた一室を修繕して、待っていたのである。
 家康は京都出発の時、家来の松平常慶にいいつけ、台所賄いの長持ちに、自分が戦国時代から野陣用の食糧としていつも使ったとおりの、米5升、干鯛一枚、糒(ほしい)・煮た米を干したもの、塩、味噌、鰹節、香の物を入れて来させて、それを用いたが、平井家では、家康の宿舎の付近にあった濠の鯉を料理して差し出した。
 家康に従って来た者は、おおかた野陣してその周辺を護ったが、折り悪くその夜は大雨だったので、もしや大坂かたの夜襲でもあろうかと、かがり火を方々に焚いて警戒した。
また、家康の旗印は、平井家が代々その別当職をつとめる、新宮山八幡宮の庭の松に高くかかげられた。(後、これを旗掛け松という)。
 そして、一隊は新宮山に陣した。ここは60メートルばかりの小丘で、星田の南に突き出て、はるか京都方面から交野地方の一帯を、手に取るように見渡すことが出来た所から、監視をした。
 
 家康は、雨がはげしいものだから、その翌日もここにとどまろうと言ったが四つ時(午後10時)雨が止んで星が見えた。それでもまだ、ここを動こうとはしなかったが、砂に陣とって居る先発隊の秀忠から、馬をとばせて急使がきた。その言葉では「大坂勢が遠く城を出て、八尾、久宝寺へ向ったから、こちらは藤堂和泉守や井伊掃部守が、合戦を始めようとしている」と。
 それを聞いた家康は「城兵が城を出て戦おうとするか、それではこちらの勝ち戦に決まった」と言った。こうして家康は、星田でゆっくり一夜を過ごし、翌6日河内中部へ馬を進めたのである。

1万年前から通じていた山根の道
足元の小さい川は上垣内川だそうでこんな小川にも名前が付いている!
 山根の道を南へ、光明寺、星田寺を訪ねて、再び山根道を進んだ。
光明寺の珍しい石仏 
左は逆修塔(天文18年=1549)結衆等82人  右は蓮華
星田神社  七五三詣りで賑わう
星田寺(しょうでんじ) 左が本堂、右に見えるお堂には、
交野市指定文化財に登録されている「十一面観音立像」(平安後期)が安置されている。
星田寺の石仏群(室町時代)
新しく見つかった道標「左 妙見道 すぐ大阪道」
参加者が手に触って確認 (星田9丁目2)付近
新しく見つかった道標「左 妙見道 すぐ大阪道」(星田9丁目2)付近


山根道 (星田9丁目2付近) 
右手からぐるりと西へ曲がり、中川通りへ出ます。
星田会館前の中川通りには、三つの水車が昭和10年頃まで回っていた。
また、この付近に鎌倉時代の円通院があり、小田原藩大久保領の制札場があった。
江戸時代後期の星田村大絵図に描かれており、位置が確認できた
山根道の急坂・鍛治ケ坂(65m)↑ を上り、天理教前を通り、
星田小学校の裏手に出て星田駅へと帰った。(12時10分解散)

 新宮山から慈光寺、薬師寺、家康宿陣の跡、星田寺、山根道などを訪ね、交野の古い歴史を肌で感じた、楽しい歴史ウォークでした。 次回が楽しみである。一人でも多くの市民の方々にこの喜びを味わっていただきたいと思います。
 次回の歴史健康ウォークは、2007年1月2日(火)の新春初歩きの予定です。郡津から東高野街道を南へ散策いたします。詳しくは、石鏃にて連絡いたします。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

  ※和久田薫氏著の「星田風土記」を参照させていただきました。

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