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日時 : 2012年3月10日(土) 午前10時 いきいきランド集合 参加者 29名 行程 : いきいきランド〜交野車塚古墳群〜大畑古墳〜塚穴古墳〜住吉神社〜須弥寺 12時解散 |
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2012年3/10(土)、天候晴れ。いきいきランドに集合、午前10時出発。 黒田事業部長の司会で始まり、中会長の挨拶の後、本日の案内人平田副会長の元気な声を合図に、いきいきランドを出発して交野車塚古墳群〜大畑古墳〜塚穴古墳〜住吉神社〜須弥寺まで、周辺の史跡・遺跡の解説を聞きながらゆっくりと歩いてきました。当日の参加者は広報かたのやふるさとウォークなどで案内を事前に聞かれた方を含めて、総勢29名(会員16名)の元気な皆さんでした。 前日は一日中雨で当日の空模様が気がかりでしたが、朝から天候が回復してまずまずのウォーク日和となりました。寺の古墳群の一つ、塚穴古墳に上る小川沿いは足元が少し悪かったが、皆さん元気に歩かれました。今回初めて参加された方も多く、「市内のこんな処に見学できる古墳があることを知り感動しました。大変良い経験ができ嬉しく思います」と言われたことが、印象に残りました。 当日の配布資料と須弥寺の参拝のしおりを掲載いたしました。 記して、感謝申し上げます。 |
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交野三山を背景に元気に集合写真 |
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須弥寺で頂いた「参拝のしおり」 | |
中会長の挨拶 |
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平田副会長の元気な挨拶に皆さんの笑顔が・・・ |
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交野三山を眺めて、交野山は344メートルで・・・と説明される平田さん |
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久御山線を渡り南川へと続く田んぼ道を進むと、「辻あい」にでる。 今池(近年埋め立てられてゴミの廃棄場となった)付近から西に流れる今井川が、南川から下りて来た農道と合うところを「辻あい」と言い、寺から流れる南川と北川に挟まれたこの水田地帯を「今井」と呼ばれている。 「今井」は、新しい水路、あるいは堰(せき)のことで、開墾地に水を導く場合の用水路のことをいい、そこから発展して新しく生まれた村落を指す。江戸時代に灌漑用の今池が造られ、水田に水を引いた。今井から巽(東南)の方向に、巽山と呼ばれた丘陵地があった。竜王山が正面に見え、朝日を仰ぐ格好の地であった。今は開発され住宅地と変わってしまった。 寺の古い集落「てるは村」は、この「今井」にあったと推察されている。竜王山付近は、花崗岩の風化が激しく大雨などの土石流により今井は大きな被害を受け、比較的被害の少ない尾根筋の小高い場所に移り住み、今は今井の集落は消えたが、地名だけが残った。 また、今井の隣の小字名が「古宮ノ上」といい、「てるは村」の神社があった。 「昔、寺村は「いまい」にあってな、水が出て困り抜いたすえ、こんなところには、いまい、いまいといって、今の竜王山の麓の寺村に移ったんや」と、村の古老の話を紹介された。 |
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今井川と農道の「辻あい」 |
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足元は、今井川 |
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交野高校の下に、交野車塚古墳群が発掘・保存されている |
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交野車塚古墳群 車塚古墳群は交野市南野10番地にある。 |
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振り返ると交野ドームと第二京阪国道が間近かに見える |
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JR学研都市線のガードをくぐり、寺村方向へと進むと南川橋の交差点に出る。この交差点の北一帯は一段高い岡状となっており、水田にはなりえず、畑作と利用するのが精々であったため、大畑と地名が付いた。 大畑古墳は、交野で一番新しい前方後円墳で5世紀頃の築造とみられているが、今は住宅の下である。しかしながら、後円部を取り囲むようにして道が巡っており、前方部突端の「落ち」もハッキリ残っている。弥生時代の遺跡検出に伴って発見された。 弥生時代後期の遺物が出土した住宅地の上が最近の調査で、前方後円墳で、墳長90〜95m、後円径50m高さ3m、前方部約50m高さ4mが確認された。 現在では、交野車塚古墳群に属していると分類されている。 平田さんに附いて古墳の後円部を周り、道路により分断された古墳の前方部へとぐるりと案内されました。 |
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大畑古墳は後円部(向かって左側)と前方部(右側)が道路で分断されている |
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この付近周辺は、3月20日には交野で初めて「チャリティマラソン」が実施されます。 |
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灯篭(伏し拝み)の辻 |
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灯篭の辻で、二月堂、愛宕山、柳谷観音の伏拝を眺めながら 当時の村人たちの生活に思いを廻らした。 |
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寺村から少し上ると、こんな綺麗な風景が楽しめます! |
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塚穴古墳 寺古墳群に属し、交野で現存する古墳の一つ。横穴式古墳。寺古墳群は寺(てら)の集落の東南、竜王山の山麓に群集する後期 古墳群(六世紀から七世紀初頭、飛鳥時代)である。14基の古墳からなり、いくつかの尾根に2〜3基づつ点在し、広い範囲 をこえて寺古墳群と呼ばれている。 | |||||
創価学園の小公園脇の道を登り、竹薮と雑木の平地をしばらく行くと古墳が口を開けている。塚穴古墳である。 これは横穴式石 室を完全に残す、交野では稀な古墳である。東西12m、南北11mの方墳で、入り口は西を向いている。周りは竹薮と雑木で 鬱蒼としているがそんなに薄暗くはない。 大人一人がやっと這って入れる程の入り口から、懐中電灯を片手にしておそるおそる入る。羨道は短く片袖式となっている。入るのは腰をかがめて難儀するが、中は天井が高く人一人十分立てる。195cmある という。石組はしっかりしており大きい岩石と隙間に入れる小さい石が左右にバランス良く組まれている。天井の岩石はさほど 大きくはない。 |
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住吉神社の神域は、全体にどこか厳かな感じがし、ここは古墳ですよとも言われた。特に本殿の奥に、一人で上ると気持ちのいいものではない。周りには池があり、古墳を造る為に掘ったものではないか。それが、今では灌漑用に利用されていると。境内からは子供たちが遊んだという、「くぼみ石」がある。 右手に綺麗な棚田が見えた。ここには、的場という地名が残っていて、毎年正月8日に「お弓」という収穫を占う行事があったそうだ。その的をこの田に立て、住吉神社の所から矢を射て、的に矢が何本突き刺さるかで、その年の収穫の豊凶を占ったという。 |
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昔の子供たちが遊んだという「くぼみ石」 |
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こんな綺麗な棚田の風景に心が癒されます |
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南川橋から南に行くと、須弥寺に着きます。市道から境内に登る石段の傍らに「石清水八幡宮警固観音菩薩」と刻まれた石碑と「古代人陽石崇拝遺跡」と刻まれた石碑が前後に立っています。 本堂の東の石段を上がった所に観音堂があり、中には貞観元年(859年)奈良大安寺の僧、行教が京の都を鎮護するため宇佐から八幡神を分霊したときに、警護して来られたとされる観音様が祀られています。 そこから、もう一つ上がったところには、鐘楼が建っていて、その側には大きな石があります。 この石は、自然石ですが、その形が男根を連想させるため、当時の人々は石神と崇めました。子孫繁栄を祈る古代人の間で信仰対象となったもので、後世これを陽石と称しています。 こういった石を祭る場所はたいてい村の最上位で、村中の聖地とされていました。ここは古代の森村を見下ろす丘陵の先端で、森村発祥の地というべき場所です。 |
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石清水八幡宮 警固十一面観世音菩薩像がまつられている観音堂 当日、住職さんにより特別に扉を開けて頂き、ゆっくりと拝観することができました。 |
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この石は、自然石ですが、その形が男根を連想させるため、当時の人々は石神と崇めました。 子孫繁栄を祈る古代人の間で信仰対象となったもので、後世これを陽石と称しています |
次回の歴史健康ウォークは、6月9日(土)ふるさとウォーク パートU「倉治の迷路と資料館」、集合はいきいきランド噴水広場、午前10時です。皆さん、奮って参加下さい。 | |
最後までご覧いただき有難うございました |