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第149回 交野歴史健康ウォーク

大東市再発見(U)古堤街道を歩く
2015.9.12(土) 20名(会員16名)参加

行程 JR住道駅 → 住道浜 → 赤井北野神社 → 大神社 → 聖徳太子堂
→ 善根寺旧跡 → 諸福天満宮 → 歯神社 → 勝福寺 →
勿入淵跡 → 鴻池新田会所 → JR鴻池新田駅 (12時頃 解散) 徒歩 約4km

第149回交野歴史健康ウォークは秋晴れの土曜日、高尾秀司氏の案内で
「大東市の古堤街道」を歩いてきました。JR住道駅前に20名が集合、駅前広場で
立花会長の挨拶の後、高尾さんより古堤街道と行程など説明を受けて元気に出発しました。

駅前広場から先ず住道の名前の由来となった角堂浜の住吉さんに案内された。
昔、この付近は水上と陸上の要所で船着き場として大いに賑わったそうだ。
大正時代の浜の風景写真と現在の恩地川と寝屋川の見上げるように高い
コンクリートの堤に囲まれた風景とのギャップは余りにも大きく想像すら出来ないが、
昔から水害と治水の歴史が重ねられてきた地域としては致し方の無いことなのだ。

昔の面影を残した古堤街道沿いの史跡を次々とめぐり、最後は鴻池新田会所で
学芸員さんより詳しく説明を受けて館内を隈なくゆっくりと見学後12時頃解散した。

交野からはごく近くの大東市から東大阪市近辺の地域でも初めて訪れる所もあり、
特に、鴻池新田会所は見るべきものも多く初めて聞くことなど沢山あり
大変有意義な歴史ウォークとなり参加された皆さんも満足されたことと思いす。

古堤街道(ふるづつみかいどう)
 古堤街道は、大阪の京橋から旧大和川や寝屋川の堤防上を東へ進み、河内平野を横断して奈良へ向かう街道です。享保21年(1736)刊行の「五畿内志」には「中垣内越(なかがいとごえ)」や「古堤路(ふるづつみじ)」と記され、明治以降に「古堤街道」と呼ばれるようになりました。

 宝永元年(1704)の大和川が付け替えられる以前は新開池(しんかいいけ)の堤防上を進み、現在地付近からは船で深野池(ふこのいけ)を中垣内まで渡っていました。付け替え後は、寝屋川の堤防上を進んだ後、寝屋川、恩地川を横切り、河内街道(かわちかいどう)が交差している商店街の方へと向かいます。

 また、寝屋川と恩地川が合流するこの地は、近世から近代にかけて角堂浜(すみのどうはま)と呼ばれる船着き場があり、古堤街道と共に水上・陸上交通の要所でした。

 沿道には、角堂浜の水運の発展と安全を願った住吉神社や、河内街道と交差する地に「古堤街道」と刻まれた明治25年(1902)の道標など多くの文化財が残されています。
 古堤街道は、寝屋川の水運と共に大東市の発展にはかかせない主要な街道でした。
                平成22年2月             大東市教育委員会
 




諸福天満宮で記念撮影



大東市再発見(U) 古堤街道を歩く  レジメ
 行  程
JR住道駅(9時集合)→住道浜→赤井北野神社→大神社→聖徳太子堂→
善根寺旧跡→諸福天満宮(市指定)→歯神社→勝福寺
→勿入渕跡→鴻池新田会所→JR鴻池新田駅解散(12時頃)
 角堂浜(すみのどうはま)と住吉神社

 舟運が盛んであった頃、寝屋川と恩智川が合流するこの地は角堂浜と呼ばれ、大阪と北河内、大和の荷物が一手に集まり、野崎参りや生駒宝山寺への社寺参詣にも舟が利用されたので、大いに賑わっていた。「住吉さん」と親しくよばれている当社はこのような舟運との関係で航海守護の神である住吉大社から勧請されたものであろう。

 元は寝屋川岸に建てられていた当社であるが、昭和47年の水害後、川岸の様子はすっかり変わってしまい、社殿も三方をコンクリートの壁で囲む現在のような形となった。

 今はひっそりと建つ住吉神社であるが、社殿のあるこの地,角堂浜が「すみのどう」の地名の由来地であり現在の住道の繁栄はここから始まったといえよう。
   北野神社 大東市赤井2丁目13
  祭神  菅原道真
 


 赤井の氏神である当社の由来は不詳であるが明治以降氷野地区の北野神社から分祀したと伝えられる。

 しかし氷野の北野神社へは文政5年(1822)赤井地区から狛犬を奉納したと伝えられ、この頃は赤井,氷野の両地区の氏神であったことがわかります。
   大(だい)神社  太子田2丁目
 祭神 天照皇大神


 当社の由緒は不詳であるが文久3年(1863)9月に奉納された燈籠が一対あることから可なり古いことが分かる。

 
またすぐ北の新田にも同名の神社があり比叡の山王神社を勧請したとある。新田は近江から移って来た人たちが新田開発を手掛けたと伝えられなんらかの関連も考えられる。

   聖徳太子堂 太子田(たしでん)2丁目

 この地は太子田と呼ばれており聖徳太子とはなんらかの関わりが考えられる。ここには太子16歳の孝養像が安置されている。

 また言い伝えによるとこの附近に善根寺という大きなお寺があったが何時のころか廃絶してしまって太子堂のみが残っている。近くに「善根寺舊跡」の石碑がある。
   諸福天満宮 諸福一丁目
 祭 神  菅原道真

 当社は創建年代が市唯一明白な神社である
寛永20年(1643)9月にこの地に勧請され社殿が建立されたとの記録が本殿に納められた木札に記されている。

 本殿は江戸初期の権現造りで円柱・破風などに見られる彫刻は桃山建築の様式を残しており、色彩も鮮やかである。

 もと菅原神社と呼ばれていたが平成の修理の折、神社の額の板をめぐると天満宮の文字が現れ平成11年から天満宮と改称した。現在大東市指定文化財になっている。
   歯 神社

境内に歯 神社という小さい祠があります。
歯痛によく効くといわれております。
   勝福寺 諸福一丁目

 曹洞宗の寺で創建は慶長元年(1596)といわれています。向拝は軒唐破風で以前には羅漢堂があり五百羅漢木造が並べられていたそうです。
 明治18年の淀川大洪水でお堂と共に多くの五百羅漢が流され、現在では135体を残すのみで、本堂の鴨居に安置されています。
   勿入渕跡(ないりそのふちあと)

 清少納言の「枕の草紙」にこの渕のことが触れられており、平安時代の中頃にはこの一帯に大きな池があったことを伝えています。

 古代における河内湖のなごりの池で、近世の深野池、新開池の前身です。又貝原益軒「南遊紀行」や「河内名所図絵」などの文献にもしるされております。
   鴻池新田会所

 鴻池新田会所は江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営を行った施設である。江戸時代中期、宝永元年(1704)の大和川付け替えの後流れがとだえた旧大和川の川筋、玉串川、久宝寺川(長瀬川)の河床や堤防を中心に新田が造成されました。 
 現在会所内の建物のうち本屋・屋敷蔵・米蔵・道具蔵の五棟と本屋から発見された嘉永6年(1853)の棟札2枚・宝暦9年(1759)の棟札など計6枚が重要文化財に指定されている。
 
 参考文献 大東市文化財マップ・鴻池新田会所解説書より 
JR住道駅
 住道駅(すみのどうえき)は 西日本旅客鉄道(JR西日本)の片町線(学研都市線)の駅です、この住道駅は大阪府大東市住道にある駅。住道駅の1日の平均乗車人員は、約33,000人で、これは片町線の駅のなかで2番目に多い(1位は京橋駅)。住道駅は1895年(明治28年)に開業しました。
 開業当時は浪速鉄道の駅で、その後、関西鉄道に譲渡、さらに1907年(明治40年)には関西鉄道は国有化され、住道駅も国鉄の駅となる。

 住道駅周辺には、大東市役所、大東市立図書館、大東市立市民館など、大東市関連の公共施設が多い。また、京阪百貨店やダイエーグルメシティの入ったポップタウン住道や、イズミヤ、住道駅前大橋などがある。

 住道駅の駅名の由来となった地名「住道」は、寝屋川と恩知川が合流する場所、つまり「角(すみ)」にあり、そこに祠や船着場があったことから「角堂浜」と呼ばれていた。そのあと、船着場がなくなったこともあり「浜」がとれて「すみのどう」になりました。
 
 
 

本日の案内人 高尾秀司氏

寝屋川の源流は、交野の星田を流れる傍示川だと説明された。
傍示川からタチ川を経て寝屋川に合流。

 
恩地川の向こうに生駒連山が見える
 
こちらは、寝屋川   
川鵜は一列に並んで、カモが泳いでいた

 角堂浜  住吉神社
すみのどうはま        すみよしじんじゃ
 河内平野を南流する寝屋川と北流する恩智川が合流するJR住道駅の北側には、かつて角堂浜(すみのどうはま)といわれる船着き場がありました。江戸時代中期(18世紀ごろ)から、角堂浜には貨物船や野崎まいりの屋形船などが集まるようになり、運送業者や料理屋などが軒を並べ、とてもにぎわったそうです。現在寝屋川の護岸堤防沿いにひっそりと立つ住吉神社は、水上交通の無事を願って、角堂浜に建てられたものと考えられています。
 
 明治22年(1889)、町村制の施行にあたり、角堂浜を中心として栄えた三箇・御供田・灰塚・尼ケ崎・横山・川中新田の各村が集まり、住道村となりました。「角堂(すみのどう)」の字を改めた「住道(すみのどう)」の地名はこの時にできたものです。明治28年(1895)には、浪速鉄道(現在のJR学研都市線)の開通により住道駅ができ、次第に陸上交通が発達していきますが、自動車が普及し始める昭和の初めごろまで、寝屋川の舟運は大阪と北河内を結ぶ重要な交通・輸送手段でした。
 
 ところで、角堂浜のすぐ西にはかつて中の島といわれる東西に細長い砂州があり、明治29年(1896)、この地で河州煉瓦株式会社の工場が操業を開始しました。翌年の打うちあ げ上トンネル(現在のJR東寝屋川駅付近)建設の際に百万個のレンガを納入していることから、かなりの生産力を持つ工場だったと考えられます。河州煉瓦は短期間で撤退しますが、その後も一時期、土管製造工場などが操業していました。中の島は、昭和50年代の寝屋川護岸工事で取り除かれ、現在は往時の面影は残っていません。
 年月がたち住道駅前の風景は様変わりしましたが、大東市の玄関口として現在もにぎわっています。
 
 
 
 住吉神社  「住道」地名の由来
 船運送が盛んであった頃、寝屋川と恩地川が合流するこの地点は、角堂浜と呼ばれ、大阪と北河内・大和の荷物が一手に集まり、野ア参りや生駒宝山寺への社寺参詣にも船が利用されたので、大いに賑わっていた。
 船運には、長さ十一軒三尺(約21m)幅12寸(約2.2m)、深さ1尺4寸(約0.4m)の剣先船が使用され、運航する区域により、古剣先船・新剣先船・在郷剣先船と呼んでいた。
 「住吉さん」と親しく呼ばれている当社は、このような船運との関係で、航海守護の神である住吉大社から勧請されたものであろう。祭日は本社と同じ7月31日、8月1日で夏の夕涼みを兼ねた縁日は大変な賑わいであった。
 寝屋川岸に建てられていた当社であるが、昭和47年の水害後、川岸の様子はすっかり変わってしまい、社殿も三方をコンクリートの壁で囲む現在のような形となった。
 今はひっそりと建つ住吉神社であるが、社殿のあるこの地、角堂浜が「すみのどう」地名の由来地であり、現在の住道の繁栄はここから始まったといえよう。
         平成22年 3月 大東市教育委員会
 
住吉神社付近の様子   恩地川の高い堤に囲まれている


昭和47年の大水害以後、駅を含めて市街地再開発された時の略図
 寝屋川の水位テレメーター
寝屋川の水位は常時、ホームページで確認出来る。
http://www.river.go.jp/nrpc0305gDisp.do?mode=&officeCode=6913&obsrvtnPointCode=65&timeAxis=60
下の画面は、9月13日、14日の水位で、
 ウォーク当日の12日の午前9時の水位は1.96mでした。
 
 駅前広場から古堤街道へと階段を下ります
 
 
 少し進むと行者堂がありました
 大峯堂
 役行者(えんのぎょうじゃ)を祀る。民間信仰として伊勢講などと共に古くは行者講があり、市内では戦後まで「男は一生に一度は大峯山にまいらなければいけない」とし、適齢期の子どもの大人入りの行事を行っていた。それは村の先達を中心に山上ヶ岳の行場で行をつみ、村に帰って来ると護摩をたき、般若心経を唱え行の無事に感謝し、同時に豊作をも祈願した。
 
 
 
右 大峰山三十三度道
 
北野神社
 北野神社 大東市赤井2丁目13
  祭神  菅原道真
 


 赤井の氏神である当社の由来は不詳であるが明治以降氷野地区の北野神社から分祀したと伝えられる。

 しかし氷野の北野神社へは文政5年(1822)赤井地区から狛犬を奉納したと伝えられ、この頃は赤井,氷野の両地区の氏神であったことがわかります。
 
 
 樋門建設記念碑
太子田(たしでん)一丁目八番地
 街道を少し進むと、住宅の横に樋門碑を見つけることができます。この樋門碑からは、弘化2年(1845)よりここに樋門があったこと、安政、明治の改修を経たことがわかります。江戸時代には、古堤街道より北の地域は水がたまりやすかったため、寝屋川に排水するための樋門として使用されていました。
 
弘化二年一二月乙巳(1845年)樋門
 
 
 大神社(だいじんじゃ)
  祭神は天照大神。 本殿は神明造りで本殿前左右狛犬の台座から文政十年(1827)新造と判明。
  拝殿は文久三年(1863)に建立。
 
 
 
 
境内の神木 大イチョウ
 
 
 大神社の祭神は天照大神で、毎年10月20日を祭礼日としています。拝殿の中には、彩色された神明造り・桧皮葺きの本殿と木製狛犬が安置されています。木製の狛犬の台座には 「文政十亥九月吉日(1827年9月)」の年号が刻まれており、本殿もこの時に造られたものと考えられます。拝殿は、棟札から 「文久三亥菊月」(1863年9月)の建立で、拝殿前の燈籠一対もこの時に奉納されたものです。

 神社の西側の聖徳太子堂には、父用明天皇の病気平癒を祈願する太子16歳の孝養像が安置されています。伝承によると、この付近には七堂伽藍の建ち並ぶ善根寺という大きな寺があり、太子像はそこに安置されていました。善根寺の創建年代は不明ですが、太子信仰が古くからさかんであったことが、ここ太子田の地名の由来となっています。善根寺は明治6年(1873)に廃寺となり、敷地内に建つ石碑と西側の土地に小字名として残るのみです。
 現在の太子堂は、大正10年(1921)太子入滅1300年を記念して建てられたもので、毎年4月に法会が営まれ、太子信仰は今も継承されています。
             平成26年3月 
                         大東市教育委員会

 太子堂
 聖徳太子堂 太子田(たしでん)2丁目

 この地は太子田と呼ばれており聖徳太子とはなんらかの関わりが考えられる。ここには太子16歳の孝養像が安置されている。
 また言い伝えによるとこの附近に善根寺という大きなお寺があったが何時のころか廃絶してしまって太子堂のみが残っている。近くに「善根寺舊跡」の石碑がある。
 
 

聖徳太子堂 善根寺舊跡
古堤街道の上下水の蓋 
   
途中、東諸福公園で休憩
 
 諸福天満宮
 当社は寛永二十年(1643)にこの地に勧請され、本殿も同時に造られ江戸初期の流造りの様式ながら桃山建築の雰囲気を残している。隣の勝福寺は当社の宮寺でもあった。
 諸福天満宮本殿
 寺社の創建年代は、何れも年代不詳往古より、と記されるのを通例とする。こうした中で当社は、創建年代が明白な市唯一の神社である。記録には「寛永廿暦勧請当社天神安全地下繁盛 九月吉祥日」とある。文意は、寛永二十年(1644)九月この地に天満宮を勧請し奉る。神徳により村安全五穀豊饒、生業は日々繁盛するであろうとと解される。この時に本殿がつくられたものであろう。
 当殿は、江戸初期の桧皮葺の流造りであるが、保存状態も良く、色彩も華麗である。円柱・破風・斗 拱木鼻等にみられる彫刻は、江戸初期の様式のおもかげを残している。
         昭和五十八年七月(平成十二年度改)
                    大東市教育委員会
 
 
 
 諸福天満宮は、1644年(寛永20年)にこの地に勧請され、菅原道真を祭神としている。
 平成の修復で、神額の菅原神社と書かれていた板をめくると、天満宮の字が現れた。1752年(宝暦2年)の作成になる菅原道真画像の掛軸を入れた箱の表にも「天満宮」の銘があることなどから、修復を機に本来の天満宮を名乗るほうがよいのではという氏子の方々の意見で、1999年(平成11年)1月1日をもって、諸福天満宮に改称した。

 大東市の文化財に指定されている本殿内の社は、円柱・破風・木鼻等に見られる彫刻は、江戸初期(檜皮葺一間社流造り)の桃山建築様式を残す。平成の修復で元の鮮やかな色彩が蘇った。

 1年のうち最も賑やかなのが10月の秋の大祭。村をあげての祭りで、露店が並び、大小の地車(だんじり)が曳かれる。また、境内には歯痛によく効くといわれる歯神さんが祀られている。  
 
境内には東諸福地車庫があり秋祭りで賑わう。
 
 
 歯神社
 境内に歯 神社という小さい祠があります。
歯痛によく効くといわれております。
余話>  梅田の歯神社は、洪水の歯止めになった岩が祀られていて、歯止めの歯から歯神社になったとか言う話があって、その歯の字から、歯痛に効くとか言われてるらしい。 
 
 
 
 勝福寺 諸福一丁目
 曹洞宗で創建は慶長元年(1596)という。向拝は軒唐破風で本堂の鴨居に五百羅漢木像が並べられているが、元は羅漢堂があった。明治18 年の淀川の大洪水でお堂と共に多く流失し、現在では135 体を残すのみである。
 
 
 勝福寺は、慶長元年(1596年)に、当地の有力農民・東治左右衛門により、東氏の持仏堂として創建されたと伝えられており、曹洞宗に属し、十一面千手観世音菩薩を本尊としています。本堂に沢山の羅漢像が祀られていることから、羅漢寺とも呼ばれているとのことです。

 明治18年(1885年)の淀川左岸決壊により大洪水で多くの木像が流された様です。

 本堂には高60cm前後の座像が135体と、16体の立像が安置されているそうです。羅漢は、阿羅漢の略で尊敬供養を受けるに価するという意味で、仏教修行の最高段階に達した人をいうのだ(後に仏の尊称「菩薩」として崇拝された)そうですが、羅漢像はいずれも先祖を供養するため、江戸時代中期につくられ、個人が各々寄進したものだということで、木札に羅漢名とその寄進者名が記されている(大阪、京都、小田原藩等からの施主がみられる)。

 現在ある建物は、山門・本堂・庫裏・鐘楼・不動明王からなっており、本堂向拝の軒唐破風が、寺容に光彩を添えている。この寺は、かつては諸福天満宮の宮寺であったとも伝えられています。
おかげ燈籠と道標
諸福2丁目2番地
 
 

道路側、南面
南 右 京 やはた 
    星田妙見山

 

東  直ぐ大坂住吉堺 
   左り八尾久宝寺


昔の風情の残る古堤街道 
 
 勿入渕跡(ないりそのふちあと)
  古代に本市西部から守口・門真市にかけて、「八ヶ(はっか)の湖」があり、後にナイスケの渕と呼ぶようになったが、この辺りでは「勿入の渕」と呼んだ。
この渕については清少納言の枕草子や貝原益軒の南遊紀行の中にも出てくる。
 
 
 平安時代になると清少納言が「枕草子」のなかで勿入渕(ないりそのふち)と呼称しているように、湖は大きな池となっていました。このころ整備された東高野街道沿いには集落が出来、特に奈良へ向かう中垣内越の道と交差する寺川や中垣内辺りは交通の要衝として重要な地となり、「延喜式」には須波麻神社のことが記されています

 水とのかかわりでは古代より度々の水害に見舞われたことが文献に記されており、この地での生活が大変なものであったことがうかがい知ることが出来ます。しかし、ここには豊富な魚介や特産物の蓮など多くの自然の恵みがあり、今の赤井付近には当時の皇室の食料を調達するための供御領が置かれていました。また、平安時代の終わりごろまでには三箇、灰塚、氷野の集落が成立し、鎌倉時代になると北新町や御領、諸福などにも集落が形成され、低地への開発が進んだことを物語っています。
 
 寝屋川を渡り、JR鴻池新田駅を右に見て、鴻池新田会所へと進む
 
 
鴻池新田会所 
 鴻池新田会所は江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営を行った施設である。江戸時代中期、宝永元年(1704)の大和川付け替えの後流れがとだえた旧大和川の川筋、玉串川、久宝寺川(長瀬川)の河床や堤防を中心に新田が造成されました。 
 現在会所内の建物のうち本屋・屋敷蔵・米蔵・道具蔵の五棟と本屋から発見された嘉永6年(1853)の棟札2枚・宝暦9年(1759)の棟札など計6枚が重要文化財に指定されている。
 
 
 
表長屋門
 
 
本屋
 
 
 

本屋内で、学芸員さんより詳しくご説明頂きました。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 井路川船(いじがわふね)
 江戸時代以来、新田のいたるところで水利や運搬のための井路川という水路が掘られ、農具や刈り取った作物を積んで、家と田の間を、また市場へ野菜を売りに行ったり、肥料である肥えの収集などに利用されてきた。
 その際には、「三枚板(さんまいた)」と言われる幅三尺、長さ三間の舟(船底が三枚板になった小舟)が使われていた。この井路川は、新田の動脈でもあり、また象徴でもあって、近世の大阪発展に大きな役割を果たしてきた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
手前は文書庫、奥は米倉など
 
竹を細かく割り広げて壁に貼り付けられている。
 
 
 
 鴻池新田会所は、江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営をおこなった施設です。江戸時代初期の幕府による検地の後に開墾された農地は、水田・畑地をとわず、「新田」と呼ばれ、日本各地にあります。

 大阪府河内平野南部では、江戸時代中期、宝永元年(1704)の大和川付替の後、流れがとだえた旧大和川の川筋、玉串川、久宝寺川(長瀬川)の河床や堤防を中心に新田が造成されました。

 平野の中央部にあり、旧大和川と寝屋川の水を集めた新開池も、宝永2〜 4年(1705〜 7)に、鴻池善右衛門宗利とその子善次郎による干拓事業で埋め立てられ、約158haの新田が造成されました。鴻池新田会所は、新田とともに竣工し、240年あまりにわたって使われました。

 会所では、鴻池家から派遣された支配人の管理下で、小作農民からの小作料、肥料代の徴収、幕府への年貢上納、耕地、家屋の管理・補修、宗門改帳の作成・整理、老人への米の配給、幕府や鴻池家からの指示伝達、新田内での争いの裁定をおこないました。新田では、小作農民がおもに米と綿を栽培しました。江戸時代には、綿とその製品はこの地方の主要な産物でした。

 10,662m2の敷地には、本屋、蔵のほか、長屋門、居宅、朝日社などの伝統的な建物群と庭園が残されています。敷地は1976年に国の史跡に指定され、1980年には本屋、屋敷蔵、文書蔵、米蔵、道具蔵と本屋座敷の宝暦9年(1759)棟札と米蔵の享和2年(1802)御札が重要文化財になりました。

 
 

立花会長の締めの挨拶

  次回の歴史健康ウォークは、10月10日(土)、交野市私部の寺と城跡探訪です。
 是非とも、皆さん誘い合って参加しましょう!!!

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