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交野歴史健康ウォーク 2008.11.15 第92回
安土城跡を訪ねて

 行程; 京阪枚方市駅 午前9時→出町柳駅 乗り換え 
 叡電出町柳→一乗寺駅下車→一乗寺下がり松→金福寺→詩仙堂→
 八大神社(下がり松)→ 西浦畑公園(昼食)→曼殊院→鷺森神社→
 叡山電鉄修学院駅→京阪出町柳(解散)   
        午後2時頃解散  徒歩約 5km
 2008.11.15(土)午前9時、京阪枚方市駅にいつもの元気な仲間17名が集合。普通・特急と乗り継ぎながら出町柳駅に到着。10時6分発の叡山電鉄・八瀬大原行きに乗車、一乗寺駅で下車。京都在住のYさんと駅で出会いこれで18名勢揃い。天候、曇りのち晴れ。 

 本日の案内は、吉岡一秋さん。今回の歴史ウォークは、久しぶりに交野の地を離れて、洛東の紅葉を訪ねた。
 叡山電鉄一乗寺駅を下車、白川通りを越して、最初に案内いただいたのは、「一乗寺下がり松」、武蔵と吉岡一門の決闘の地。吉岡一門とは何の関係もないという案内役の吉岡さん、武蔵との決闘場面の話に及ぶと自然と熱を帯びて、身ぶり手ぶりよろしく声も大きくなった。
 「下がり松」からすぐに右に曲がり静かな住宅街を抜けて、自然石に刻まれた「佛日山 金福寺」の石段を上がると、真っ赤に紅葉したモミジが素晴らしい。次いで「芭蕉庵」の入口を入ると、枯山水の庭園と芭蕉庵、周りの紅葉とのコンストラクトに目を見張り、思わず皆さん、デジカメや携帯のカメラを向ける。金福寺は、与謝野蕪村のお墓や村山たか女の遺品を見学したり見るべきものが多く、地元の方でもなかなか足を向けない隠れた名所で、丁度紅葉も見頃で感激も一入だった。

 詩仙堂はパス。武蔵が悟りを開いたという「八大神社」を回り、少し下った所にある公園でゆっくりと昼食。午後は、門跡寺院の格式を誇る曼殊院への風情のある佇まいの道を15分ほど歩くと曼殊院門跡の参道。真っ赤に紅葉した風景に「素晴らしい!」と歓声が上がる。
 狩野探幽の障壁画で飾られた大書院、小書院、遠州好みの枯山水庭園などをじっくりと拝観。境内は、沢山の観光客で大変な賑わいであった。帰りは、紅葉の隠れ名所・鷺森神社へ。紅葉の時期には今少し早い参道を下って、叡山電鉄「修学院」から京阪「出町柳」へ。ここで解散、元気に交野へ帰った。

 前夜から心配した天候であったが、当日は絶好の行楽日となり歴史ウォークとしては申し分のない一日でした。今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。
 講師の吉岡一秋さん、案内有難う御座いました。

 次回は、来年平成21年1月2日(金)、恒例の新春初歩き、
  星田妙見宮の参拝と周辺史跡を訪ねます。
  集合は、午前10時、バス停:妙見口に集合下さい。


一乗寺界隈の散策MAP
「てくてく歩く京都」より




金福寺の芭蕉庵前で記念撮影

叡山電鉄一乗寺駅 一乗寺下がり松


撮影:黒田幸男さん

一乗寺は、近江の三井寺の別院・一乗寺の地名の由来。
寺は失われて今はない。


一乗寺駅から10分程度のところに「一乗寺下がり松」にあります。
宮本武蔵と吉岡一門の決闘の場所。


本日の案内、吉岡一秋さんの熱弁が続く。
白川通りから詩仙堂へと続く四つ角の土壇に小さな松が植えられている。
今の松は、昭和57年に植えられた4代目の松。



撮影:黒田幸男さん
 
 諸国を旅した武蔵は、生涯で六十余度の勝負に挑んだ。二十一歳のとき京にのぼった武蔵は、名門吉岡道場の門をたたく。門弟との試合では六人を倒し、二人が死んだ。その後、当主の清十郎、弟の伝七郎が相次いで武蔵に挑むが、あえなく倒される。面目をつぶされた吉岡一門は、清十郎の子、又七郎(小説では源次郎)を名目人に立て、弓、鉄砲も携えた七十人余人のも門弟たちで遺恨試合にのぞむことになる。慶長九年(1615)の京都一乗寺下り松の決闘である。

 武蔵は約束の「一乗寺址下り松」には背後から山道を駆け下り、一気に幼い名目人を斬った。矢を刀ではねのけ、向けられた刀に斬り込んでいく。「彼の剣法には形も約束も極意もない。想像力と実行力が結びあって生まれた無名無形の剣なのだ」

      
     吉川英治作  「宮本武蔵」




下がり松」の土壇の上に、ちから石が置かれたあった。
昔この辺りでも、力自慢をした名残りか?


金福寺(こんぷくじ)

洛北の金福寺は俳句の聖地といわれる。もとは貞観6年(864)、
安恵(あんね)僧都が慈覚大師、円仁の遺志により創建した
天台宗の寺であったが、元禄年間に鉄舟和尚が再興し、
臨済宗南禅寺派の寺となった。
当時、和尚を芭蕉が訪ね親交を深めた。
和尚はおもてなしをした庵を芭蕉庵と名づけ、
いつまでもその高風をしのんでいた。

和尚の死後、庵は荒廃したが、藁葺きの風雅なたたずまいをとどめている
現在の芭蕉庵は、その80年後に訪れた蕪村が再興したものである。
芭蕉の碑、芭蕉像、蕪村の遺愛品なども残されている。
また、小説『花の生涯』のヒロインである村山たか女が
波乱の生涯を終えた寺でもある。




撮影:黒田幸男さん


書院の前の白砂とサツキの緑と紅葉が素晴らしい!



撮影:黒田幸男さん


撮影:黒田幸男さん
少し登った所からは、市内が一望される

現在の芭蕉庵は、その80年後に訪れた蕪村が再興したものである。
芭蕉の碑、芭蕉像、蕪村の遺愛品なども残されている。
また、小説『花の生涯』のヒロインである村山たか女が
波乱の生涯を終えた寺でもある。


村山たか女の遺品が展示されている書院
八大神社

武蔵が「悟り」とも言える境地に達したのが、この地であり
「宮本武蔵・開悟の地」として知られる。
「初代下がり松」が奉じられている。


八大神社への上り口に往年の銀幕の名優錦之助主演の
「一乗寺の決闘」の名場面が掲示されていた。



八大神社前で記念撮影
宮本武蔵の境地に達したか、皆さん神妙な面持ちです。
曼殊院

最澄が比叡山に草創した東尾坊が明応4年(1495)に門跡寺院となり、
平安後期から曼殊院と称された。現在地に移ったのは江戸初期の
明暦2年(1656)で、桂離宮を造営した智仁親王の次男、
良尚法親王が住持となったとき。虎の間、大書院、小書院、庫裡は重文。
建築、庭園ともに創意に満ち、狩野永徳や探幽の襖絵があり
、欄間、釘隠し、襖の引手など細部の意匠にも美意識が宿っている。
「十雪の間」の違い棚は桂離宮と同じ様式で、同時に作られたものという
。本尊は阿弥陀如来。庭園は遠州好みの枯山水で鶴島と亀島がある。


曼殊院門跡オフィシャルサイトをご参照ください



撮影:黒田幸男さん

大銀杏の黄色が素晴らしい!


庫裡入口に架かる大妻屋根の額の
「竈媚(びそう)」
「その奥に媚(こ)びんよりは、むしろ竈(かまど)に媚びよ」

虎の間、大書院、小書院、庫裡は重文。
建築、庭園ともに創意に満ち、狩野永徳や探幽の襖絵があり
、欄間、釘隠し、襖の引手など細部の意匠にも美意識が宿っている。
「十雪の間」の違い棚は桂離宮と同じ様式で、同時に作られたものという。
本尊は阿弥陀如来。庭園は遠州好みの枯山水で鶴島と亀島がある。




庭園は遠州好みの枯山水で鶴島と亀島がある
撮影:黒田幸男さん

ふくろうの手水鉢


曼殊院門跡前で記念撮影
撮影:高尾秀司さん
鷺森神社
貞観年間(859〜877)創建といわれる神社。創建以降、各地に移り、
現在の地に遷座したのは元禄2年(1689)のこと。
社名の由来は、古来神の使いとされていた鷺の群れがこの地に
住みついていたためとか。秋の紅葉の美しさでも知られている。


隠れた紅葉の名所、鷺森神社の参道の紅葉は
今少し早く、月末頃が見頃となりそうであった。
皆さん、お疲れ様でした!


次回は、来年平成21年1月2日(金)、恒例の新春初歩き、
  星田妙見宮の参拝と周辺史跡を訪ねます。
  集合は、午前10時、バス停:妙見口に集合下さい。

最後までご覧いただき有難うございました!

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