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日時:平成28年9月10日(土) 午前9時 集合場所 京阪交野市駅 22名(会員20名)参加 |
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京阪交野市駅に午前9時、元気なメンバー22名が揃った。早朝は寒さを感じるようになりましたが、日中は太陽の日差しもきつくこのところ残暑が厳しい。9時8分に乗車、枚方市で乗り換え大和田駅下車。 昭和38年(1963)大和田駅構内の工事中に地下2mの砂層から銅鐸が同時に3個見つかり、当時の地名から「門真野口銅鐸」とよばれていることなどの説明を受けて、早速、堤根神社に向けてスタートしました。 堤根神社の由来、伝茨田堤についてゆっくり説明を受けながらぐるりと一回りして見学しました。次いで、古川筋を通って、義氏弥治右衛門碑、願得寺とめぐり、最後は、門真市立歴史資料館に立ち寄り、DVD「門真が輩出した偉人総理・幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)物語」を鑑賞、「常設展の幣原家の足跡を訪ねて」と民俗資料展などを見学。12時30分過ぎ古川橋駅にて解散しました。 なお、北河内の地域文化誌「まんだ」7号と9号に、「門真一番地村が生んだ元首相 幣原喜重郎四兄弟」と題して詳しく掲載されていますので、参考にしてください。 ※ HPの掲載に当たり、講師のご厚意で当日配布されたレジメとその他、諸々の資料を参考にさせて頂きましたこと、記して感謝申し上げます。 |
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「願得寺」にて記念撮影 |
淀川大洪水跡・門真地区を巡る レジメ | |||||||||
大和田遺跡の銅鐸 (京阪大和田駅構内に掲示) 昭和38年(1963)大和田駅構内の工事中に地下2mの砂層から同時に3個見つかり、 当時の地名から「門真野口銅鐸」とよばれています。共に弥生時代中期のものと考えられております。 それぞれの大きさは高さ26.6cm、20.7cm、20.6cmとなっています。 現在これらの銅鐸は千葉県佐倉市にある国立歴史民俗博物館に保管されております。 |
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大和田遺跡 〜 銅鐸と弥生時代の門真 宇治原 靖泰 (市史編さん課) 昭和38年に京阪大和田駅の工事中に銅鐸が3個出土し、出土地は、大和田遺跡に指定されています。 銅鐸は弥生時代に造られ、まつりに使ったと考えられていますが、古いものは鳴らして音色を聞き、新しいものは金色に輝く姿を見たのだと説明されています。 大和田の銅鐸は今から約2000年前に造られた音色を聞く銅鐸で、高さは20cm余りの小型のものです(大きいものは1.5mくらいあります)が、保存状態がよく貴重なものです。 当時の門真は現在の京阪線付近が細長い陸地で、南側には広大な河内湾があり、銅鐸の出土した場所は、河内潟の岸にあたると考えられます。 大阪市の森小路遺跡から守口市の長池町遺跡・橋波西之町遺跡、門真市の普賢寺遺跡・古川遺跡・大和田遺跡・と弥生時代の遺跡をつないでいくと、河内潟に面した当時の陸地がみえてきます。 |
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堤根神社 延喜式に記載されている由緒ある神社であります。 祭神は第二代綏靖天皇の兄「神八井耳命」と菅原道真であります。約1600年前河内湖周辺を水害から守る為、仁徳天皇の命により茨田宿祢が旧淀川(古川)に日本最古の堤防「茨田堤」を築きました。この堤を守る為茨田氏の先祖彦矢井耳命を守護神として奉祀したのが神社の起源である。又江戸時代初期、淀藩主永井信濃守尚昌により菅原道真公を合祀させています。 |
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神社の前の道はその昔、河内と大和を結ぶ「行基道」といわれ、 幹線道路であったが今はその面影もない。 |
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延喜式内社 堤根神社 御祭神 彦八井耳命(ひこやいみみのみこと) 菅原道真公 約1600年前、河内湖周辺を水害から守るため、仁徳天皇の命により茨田宿祢が旧淀川(古川)に日本最古の堤防、茨田堤を築く。 この堤を守るため、茨田氏の先祖彦八井耳命(神武天皇の皇子)を守護神として奉祈したのが神社の起源である。 平安時代の延喜式神名帳にも記され、鳥居前には河内と大和を結ぶ行基道通じており、北河内随一の古社として厚い信仰を集めている。 また江戸時代初期、淀藩主、永井信濃守尚政により菅原道真公を合祀させている。 |
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伝茨田堤 「茨田堤」は記紀に記述がある記録に残る日本最古の堤防といわれる。仁徳天皇の時代{5世紀}に淀川の洪水を防ぐために治水工事が行われ、当時の最先端技術であつた渡来人の土木技術を用い、難工事の末、堤防を完成させたと伝えています。 茨田堤の完成により田地は一挙に拡がり農地は安定し、茨田の屯倉が設置されました。門真地域では5世紀後半には集落が形成されたといわれます。 |
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本殿の横に1973年(昭和48年)の史跡認定を記念し、安岡正篤氏の揮毫による『史跡茨田堤 顕彰』碑が建っていた。その裏側、直木孝次郎博士が賛を書いている。 | |||||||||
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藤田村(守口市)庄屋小泉弥治右衛門は慶安元年(1648)7月、停滞する悪水を古川筋に落とすため樋門を幕府の許可を得ず、大蔵樋の側に設けました。それには下流の門真庄の村だけでなく上流の九個庄(くかしょう)の村々も反対し、翌2年3月に幕府の裁決により樋門のところで妻子とともに処刑されました。 村民達は村のため犠牲になった弥治右衛門を後世に伝えるべく、俗名を刻んだ道標を作り慕碑がわりとし、また昭和7年にこの記念碑をも建設しました。 |
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弥治右衛門記念碑 旧大窪地区一帯は低地で、特に藤田村は水はけが悪く、少しの雨でも池のように水がたまり、農作物に大きな被害を毎年のようにもたらしていました。 慶安元年(1648)7月藤田村の小泉弥治右衛門は、村民の苦しみを取り除こうと、幕府の許可なしに古川筋に排水樋を設け水はけを良くしました。 しかし上下流地域から苦情が起こり、また幕府の命令を無視したとして、翌年3月22日樋の存続と引き換えに弥治右衛門一家は処刑され、家財・田畑も没収されました。 村民たちは、村のため犠牲になった弥治右衛門を後世に伝えるべく、俗名を刻んだ道標を作り、慕碑がわりとし、また昭和7年には、この記念碑をも建立しました。 平成2年3月 守口市教育委員会 |
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道標 すぐ奈良伊勢道 |
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すぐ徳あん大坂道 |
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願得寺 門真市御堂町 東本願寺末 平成17年玄関、書院、客問、太鼓楼が国の登録文化財に登録される。昭和18年に本堂、鐘楼、山門が大阪府指定有形文化財に指定される。蓮如が普賢寺古跡を道場とし、蓮如の子実梧が願得寺の寺号を移したとされる。桃山期には寺内町の中心寺院として伽藍がととのったとされるが、大坂の陣で焼失したようです。 本堂は寛文5年(1691)に再建され、その後諸堂が整備され江戸時代の遺構が残る貴重なものです。その他、墓地には第44代内閣総理大臣の幣原喜重郎との縁が深い人々の墓があります。 |
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由来には開基となる実悟のことが記されている。また、永禄年間に証如上人より古橋御坊を譲られてこの地に「光明山願得寺」を開基したこと、古橋御坊そのものは文明10年(1478)に蓮如上人がこの地に真宗道場を建てたのが始まりで、明応元年(1492)に再建されたとのこと。また、天正4年(1576)に正親町天皇の時に、勅許院家に列せられ以来一家衆として明治初年まで中本山格を維持し、五箇寺として当地方の東本願寺教団の中心的存在となったことなどが記されている。 また、建物については、本堂、鐘楼、正面四脚門は大阪府指定有形文化財、玄関、書院、客間、太鼓楼は国登録有形文化財とのこと。寛文5年(1665)に再建された本堂をはじめ、その多くが江戸時代に改修された建造物だということのようだ。 |
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登録有形文化財のプレート |
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昭和63年6月、市立門真幼稚園を改修して開館しました。 鉄筋2階建の展示棟と平成4年に建築の段蔵を模した収蔵庫棟があり、展示棟では門真の歴史に関る企画展と常設展をおこなっております。 収蔵庫棟には市内の遺跡から出土した埴輪や土器のはか古文書類、民具・農具などを収蔵、展示しております。収蔵品には茨田家の古文書類や民具、幣原家の古文書類の外、普賢寺遺跡出土品、埴輪,橋波口遺跡出土品などがあります。 |
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平成4年に建築の段蔵を模した収蔵庫棟 |
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民俗資料展 | |||||||||
残暑厳しい中、参加の皆様、お疲れさまでした! |
今回も新発見の歴史に出会うことが出来ました。案内役の高尾さん有難う御座いました。 次回は、9月21日(水)、「平田政信さんの案内で、妙見山麓の仏たちを巡って歩きます。 集合は、午前10時、京阪河内森駅前です。 |